オーディオの「介在」こそ(その8)
私は、音楽と聴き手の間にオーディオをおいたわけだが、
だからといって音楽と聴き手のあいだの距離をオーディオが絶対的に支配していると考えているわけではなく、
この距離は、ほとんど聴き手の音楽に対する姿勢によって決ってくる。
そうやって決った距離を、途中に介在するオーディオがより引きつける(惹きつける)方向に作用するのか、
それとも文字通り介在することで距離が開いていくのか──、
実はこれも聴き手次第である。
私は音楽と聴き手を結ぶ線上にオーディオを置くから、
介在ということをことさら意識するのかもしれないし、
知人のように三角形の位置関係に配置するのであれば、オーディオは介在とは意識しないのかもしれない。
この話を知人としたときには、そこまで突っ込んだところまで話が発展しなかったから、
彼がどうオーディオの存在を捉えているのかははっきりしないが、
少なくとも「介在」というふうには捉えていない、とはいえるだろう。
それが知人のオーディオへの取組みであって、
介在とすることが私のオーディオへの取組みであるだけの話で、
それは、知人と私が、あるオーディオ機器を高く評価していた場合にも、
同じ価値観からの評価の一致とはいえないことにも連なっていく。
共通して、高く評価するオーディオ機器の数がどれだけ多かろうと、
その良さをふたりで話し合って共通するところがいくつあろうと、
それはオーディオ機器としての能力の高さ──、
つまりアンプならばアンプとしての、スピーカーならばスピーカーとしての能力、
性能の高さを確認しただけのことかもしれないし、これが客観的評価なのかもと思う。
その一方で、なぜ、このオーディオ機器を高く評価するのだろうか、とお互いに思っているところは、
知人にもきっとあるはず。
つきあいが長ければ、なんとなくその理由は頭では理解できたとしても、
あくまでもそれは頭での理解でしかなく、心からの共感ではない。
心からの共感なくして、どんなにつきあいが長かろうと、
結局どこかはかない、もろいだけのつきあいだったのかもしれない。