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Date: 8月 10th, 2017
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background…(ポール・モーリアとDitton 66・その6)

スピーカーの前面に扉があり、
そのスピーカーで音楽を聴くには、扉をきちんとあける必要がある。
そういうスピーカーシステムであるセレッションのDEDHAMは、
ベースとなったDitton 66に、
古風な外観のキャビネットというデコレーションを施したスピーカーといえる。

けれど(その4)でも書いているように、
それはデコレーションのためだけではなくて、はっきりとデザインといえる要素でもある。

扉を開けなければ、DEDHAMではまともな音は聴けない。
では開けっ放しにしておくのか。
几帳面な人ならば、聴き終れば扉を閉める。

ずぼらな人ならば、どうだろうか。
少なくともDEDHAMを買った人、つまりはDEDHAMを選択した人ならば、
多少性格にずぼらなところがあったとしても、音楽を聴くごとに扉を開け閉めするのではないだろうか。

DEDHAMのところまで行って、扉を開ける。
当り前のことだが、左右のDEDHAMの扉を開ける。
聴き終れば、ふたたびDEDHAMのところに行き、扉を閉める。

その5)で書いたように、DEDHAMは聴き手にある種の儀式を求める。
このことが、私がデザインといえる要素と考えるところである。

DEDHAMのアピアランスは、確かにデコレーションといえる。
けれど、そのままの状態(扉を閉じたまま)で聴けるスピーカーではないところに、
意図されたデザインを感じる。

ただそれは聴き手が扉をつねに開けっ放しにしてしまったら、
あっけなく消えてしまうはかなさももちあわせている。

Date: 4月 27th, 2016
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background…(その8)

安部公房の「他人の顔」の主人公〈ぼく〉は、
《ぼくは決して、音楽のよき鑑賞者ではないが、たぶんよき利用者ではあるだろう》と独白している。

音楽のよき利用者。
われわれオーディオマニアは、
オーディオ機器の試聴のためのディスクのことを試聴用ディスクと呼ぶ。

好んで聴くレコード(録音物)はすべて試聴用ディスクでもある、とはいえることだが、
それでも試聴用ディスクに向いているといえるディスクがあることは事実である。

ここで考えたいのは、試聴用ディスクの選び方のうまい人がいる。
このうまい人というのは、音楽のよき利用者なのかということだ。

「他人の顔」の主人公〈ぼく〉と同じ意味での「音楽のよき利用者」とはいえないところもあるが、
よき利用者であることに違いはない。

「他人の顔」の主人公〈ぼく〉は、「音楽のよき鑑賞者ではない」が、
試聴用ディスクを選ぶのがうまい人は、
「音楽のよき利用者」であるとともに「音楽のよき鑑賞者」でもあるといえるのだろうか。

Date: 12月 7th, 2015
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background…(ポール・モーリアとDitton 66・その5)

CDが登場したばかりのころ、CDにはものたりなさを感じるという声が少なからずあった。
アナログディスクでは、ジャケットからディスクを取り出し、さらに内袋からもていねいに、
ディスクの両面に指紋をつけないように縁とレーベルに指をあてながら取り出す。

ターンテーブルにセットするさいにも、スピンドルでレーベルにヒゲを描かないように、
すっと一発で決める。

それからディスクのクリーニング、人によってはカートリッジの針先のクリーニング、
スタビライザーをディスクにのせる人もいるだろう。

ここまでやって、やっとディスクにカートリッジを降ろすわけだ。

こういった一連の儀式が、CDにはない。
ケースからディスクを取り出すにしても、アナログディスクほど神経を使うわけでもないし、
片手でディスクをもてる。

アナログディスクのクリーニングに神経質であった人もCDに対してはそうではない。
トレイにディスクをセットして、プレイボタンを押せば、音は出てくる。

しかもCDはアナログディスク特有のノイズがないため、
いきなり音が鳴ってくる感じも、とっつきにくいという意見もあった。

DEDHAMで音楽を聴くためには、他のスピーカーにはない儀式がある。
DEDHAMのところまで行き、扉を開けなければならない。
あたりまえすぎることだが、左右二本のDEDHAMの扉を開けなければならない。

ただ開けておけばいいものではない。
扉は開いた状態でサブバッフルとなっているわけだから、
いいかげんな開き方ではいいかげんな音になってしまう。
きちんと開き、音を聴く──、
これはアナログディスクにおける儀式と同じ、もしくは近いものである。

CDを聴くにしてもDEDHAMであれば、扉を開ける(それも二本分)という儀式をやらなければならない。
ましてDEDHAMが登場したころはCDはなかった。

つまりDEDHAMで音楽を聴くことは、アナログディスクを再生することである。
アナログディスクの儀式も加わるわけだ。

そういえばアナログプレーヤーにはダストカバーがついている。
これを開けなければディスクはかけられない。

普及型アナログプレーヤーではアクリル製の軽いダストカバーも、
例えばパイオニアのExclusive P3のダストカバーとなると、重くしっかりした造りで、
これもある種の扉をあける感覚に近い。

そうやって聴く音楽が、イージーリスニングであるのだろうか、BGMであるのだろうか。

Date: 10月 21st, 2015
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background…(ポール・モーリアとDitton 66・その4)

セレッションのDEDHAMが日本で発売されるようになったのは1978年。
その六年後のステレオサウンド 72号の巻頭対談で、山中先生が発言されていることが、
DEDHAMにも関係してくる。
     *
山中 オーディオの機械の中で一番の困りものは、スピーカーなんですよ。
 ほかのものは、極端なことを言えば、よく向こうの人がやっているけど、アンプとかそういうものを家具の中に入れちゃう。部屋のコーナーをうまくつかって、自分の気に入らないものは見せないようにすることもできるけれども、スピーカーはそれができない。
 イギリスでは18世紀ぐらいの古い建物をきれいに直して住むというのが、最近の中流以上の人たちのひとつの流行みたいになっている。その場合にどうしてもその部屋の中にオーディオ装置は欲しい。そこで一番困るのはスピーカーなんだそうですよ。
 いま出ているスピーカーでそこの部屋に置いてマッチするものがない。
菅野 ないでしょうな。
山中 そのために、スピーカーの外側に家具調というか、その部屋に合わせたデコレーションする業者があって、それが結構いい商売になる。
菅野 むずかしいことですね、音響的に言ってもね。
山中 性能的には必ず落ちますよ。
     *
この対談のテーマは「日本のオーディオのアンバランスさと日本人の子供っぽさについて考える」だった。
この対談を読んでいて、DEDHAMが誕生してきた背景には、こういうことがあったのかと思った。

DEDHAMの試作品は1977年のオーディオフェアに参考出品されていた。
そのころから、18世紀の古い建物に住むということが流行し出していたのか、
それともすでにそういう建物に住んでいる人たちから、こういう外観のスピーカーが欲しいという、
要求に応えてのDEDHAMだったのだろうか。

そうとも考えられるし、違うとも考えられる。
少なくともメーカーが、そう多くはない数とはいえ量産するわけだから、
既存のスピーカーにデコレーションする業者とは違うところにたってのDEDHAMであったといえよう。

それに、そういう業者によるスピーカーは、山中先生の発言にあるようにデコレーションが施される。
DEDHAMはどうだろうか。
デコレーションといえる要素は確かにある。
けれど、デザインといえる要素もはっきりとある。

Date: 9月 25th, 2015
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background…(ポール・モーリアとDitton 66・その3)

ステレオサウンド 48号の新製品紹介のページに、
ひときわユニークなスピーカーシステムが登場している。
セレッションのDEDHAM(デッドハム)だ。

48号当時のステレオサウンドでは、
個々の新製品の紹介とともに、井上先生、山中先生による「新製品の話題」という対談があった。
そこには「最新スピーカーシステムの話題を追って」というタイトルがついている。

DEDHAMは新製品ではあっても、最新スピーカーシステムとは呼びにくい性格の代物である。
(ここではあえて代物という言葉を使う)

DEDHAMはDitton 66をベースにしたスピーカーシステムなのだが、
外観はまったく異る、別物といえるシステムである。

DEDHAMの外装は、イギリスのコンスターブル社の熟練工によって、
イギリスのクラシック家具調に仕上げられている。
その外観はアンティーク家具そのものである。

どこから見てもスピーカーには見えない。
DEDHAMには両開きの扉がついている。
扉には熟練工による装飾が彫られている。

この扉は全開することでフロントバッフルを左右に拡張することにもなる。

DEDHAMは登場時は80万円(一本)していた。
その後98万円になっていた。
Ditton 66は178000円(一本)だった。

DEDHAMの存在を知っている人でも、
Ditton 66のフロントバッフルを、
アンティーク家具調のエンクロージュア(キャビネット)に取りつけたモノと思っているようだが、
実際はDitton 66そのものを家具調のキャビネットに収納している。
Ditton 66をエンクロージュアごと収めているわけで、
その意味ではDEDHAMの外装は、まさしく家具である。

Date: 9月 22nd, 2015
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background…(ポール・モーリアとDitton 66・その2)

岡先生のDitton 66の評価は、かなり厳しいものと読めなくもない。
     *
 このモデルも37号のテストに登場している。そのときもハイエンドが目立つというような書いたのだが、今回もそういう印象は、オーケストラ曲における弦楽器の目立つこと、声にかなり一種のつややかさがあること、とかくバックにある高音楽器をうまくひきだしてくれる一種のおもしろ味をもっているという店では、印象はあまりかわらなかった。倍音の出方がなかなかおもしろいのである。16Hzまでの再現性があるのかどうかはちょっとわからないが、低域の量感もかなりある。しかし、その低音の量感のわりに抑えが利かないところが出てくる。ABRの反応がおそくそのダンピングがあまいせいではないかと思われた。前回のテストでヴォーカルがよいというようなことを書いたが、このジャンルの音楽のききやすさというようなものはたしかにあるのだけれど、いまひとつ切れがあまくなるようで、一体にどの音にも余韻みたいなものがつきまとう。イギリスのスピーカーのなかでは、ほかにあまりきかれない一種の華やかさといったものもあるようだ。定位感がぴしっと出てこないところがあるが、ごく上等なイージーリスニング・システムといった感じである。
     *
瀬川先生が「テストの結果から私の推すスピーカー」の筆頭にDitton 66を挙げられているのと対照的に、
岡先生、黒田先生はDitton 66については、そこではまったくふれられていない。

瀬川先生と岡先生の評価がここまで違うのは、
どちらかの耳が信用できないから、ということではまったくない。

短絡的な読み手は、ここで「だからオーディオ評論家なんて信用できない」と口にしてしまうだろう。
けれど、ここでの例はそんな低いレベルのことではない。

ふたりの聴き方の違いが、そのまま試聴記に顕れているだけである。
Ditton 66は瀬川先生が書かれているように「永く聴いていても少しも人を疲れさせない」。
けれど、その性質が、
岡先生にとっては「ごく上等なイージーリスニング・システムといった感じ」になってしまうのだろう。

岡先生にとってはイージーリスニング・システムであるDitton 66が、
瀬川先生にとっては「本ものの音楽のエッセンスをたっぷりと響かせる」スピーカーである。

Date: 9月 22nd, 2015
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background…(ポール・モーリアとDitton 66・その1)

ポール・モーリアの音楽はイージーリスニングとして捉えられることがもっぱらだ。
だからといってポール・モーリアの音楽が、
常に、誰にとってもイージーリスニングな音楽であるわけではない。

たとえばセレッションのDitton 66というスピーカーシステムがある。
トールボーイのフロアー型で、30cm口径のウーファーに同口径のABR(パッシヴラジエーター)、
スコーカーは5cm口径、トゥイーターは2.5cm口径のドーム型の3ウェイである。

瀬川先生は、このスピーカーシステムを高く評価されていた。
ステレオサウンド 43号(ベストバイ)では、こう書かれている。
     *
 仕事先に常備してあるので聴く機会が多いが、聴けば聴くほど惚れ込んでいる。はじめのうちはオペラやシンフォニーのスケール感や響きの自然さに最も長所を発揮すると感じていたが、最近ではポピュラーやロックまでも含めて、本来の性格である穏やかで素直な響きが好みに合いさえすれば、音楽の種類を限定する必要なく、くつろいだ気分で楽しませてくれる優秀なスピーカーだという実感を次第に強めている。
     *
Ditton 66は44号の「フロアー型中心の最新スピーカーシステム」にも登場している。
ここでも瀬川先生の評価はそうとうに高い。
     *
 柔らかく暖かい、適度に重厚で渋い気品のある上質の肌ざわりが素晴らしい。今回用意したレコードの中でも再生の難しいブラームス(P協)でも、いかにも良いホールでよく響き溶け合う斉奏(トゥッティ)の音のバランスも厚みも雰囲気も、これほどみごとに聴かせたスピーカーは今回の30機種中の第一位(ベストワン)だ。ベートーヴェンのセプテットでは、たとえばクラリネットに明らかに生きた人間の暖かく湿った息が吹き込まれるのが聴きとれる、というよりは演奏者たちの弾みのついた気持までがこちらに伝わってくるようだ。F=ディスカウのシューマンでも、声の裏にかすかに尾を引いてゆくホールトーンの微妙な色あいさえ聴きとれ、歌い手のエクスプレッション、というよりもエモーションが伝わってくる。バルバラのシャンソンでも、このレコードのしっとりした雰囲気(プレゼンス)をここまで聴かせたスピーカーはほかにない。こうした柔らかさを持ちながら〝SIDE BY SIDE〟でのベーゼンドルファーの重厚な艶や高域のタッチも、決してふやけずに出てくるし、何よりも奏者のスウィンギングな心持ちが再現されて聴き手を楽しい気持に誘う。シェフィールドのパーカッションも、カートリッジを4000DIIIにすると、鮮烈さこそないが決して力の弱くない、しかしメカニックでない人間の作り出す音楽がきこえてくる。床にじかに、背面を壁に近づけ気味に、左右に広く拡げる置き方がよかった。
     *
Ditton 66は1977年当時、一本178000円のスピーカーシステムであり、
瀬川先生の評価はある程度価格を考慮してのものであるにしても、
非常に好ましいスピーカーであることが読みとれる。

43号、44号の瀬川先生の文章を読んで数年後、Ditton 66の音を聴いた。
たしかに、そのとおりの音だった。
私はいいスピーカーだと思う。
いまも程度のいいモノがあれば、それに置き場所が確保できれば手もとにおきたいスピーカーである。

けれどDitton 66は聴き手側の聴き方が変れば、その評価もかなり変ってくる。
44号では岡先生も試聴に参加されている。

Date: 8月 22nd, 2015
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background…(その7)

大辞林には、鑑賞のところに、こうも書いてある。
     *
同音語の「観照」は冷静な心で対象に向かいその本質をとらえようとすること、「観賞」は植物・魚など美しいものを見て心を楽しませることであるが、それに対して「鑑賞」は芸術作品の良さを味わうことをいう
     *
安部公房の「他人の顔」の主人公〈ぼく〉は、音楽のよき鑑賞者ではないかもしれないが、
少なくとも音楽の観照者として優れている、とはいえる。

冷静な心で対象(音楽)に向かいその本質をとらえようとしているからこそ、
音楽のよき利用者たりえている、といえるのではないか。

さまざまな音楽の本質を見誤っていたら、
音楽のよき利用者とはいえない。

思考を一時中断させようと思うときに思弁的なバルトークを聴いてしまうかもしれないし、
跳躍のバネを与えたいときには、バッハを聴いてしまっては、到底、音楽のよき利用者とはいえない。

「趣味はオンガクカンショウです」と答えていても、
音楽鑑賞のつもりで当人は口にしていても、
彼自身が音楽鑑賞をしているのか、音楽観照なのか、それとも音楽観賞でしかないのか、
「趣味はオンガクカンショウです」といわれた側にはどれなのかわからないし、
「趣味はオンガクカンショウです」と口にした本人でさえ、音楽鑑賞なのか音楽観照か音楽観賞なのかは、
はっきりとはわかっていない可能性だって否定できない。

こう書いている私も、ときには音楽観賞だったりすることがないとはいえない。

Date: 8月 21st, 2015
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background…(その6)

安部公房の「他人の顔」の主人公〈ぼく〉は、音楽の利用法について語っている。
     *
その夜、家に戻ったぼくは、珍しくバッハを聴いてみようという気をおこしていた。べつに、バッハでなければならないというわけではなかったが、この振幅の短くなった、ささくれだった気分には、ジャズでもないし、モーツァルトでもなく、やはりバッハがいちばん適しているように思われたのだ。ぼくは決して、音楽のよき鑑賞者ではないが、たぶんよき利用者ではあるだろう。仕事がうまくはかどってくれないようなとき、そのはかどらなさに応じて、必要な音楽を選びだすのだ。思考を一時中断させようと思うときには、刺戟的なジャズ、跳躍のバネを与えたいときには、思弁的なバルトーク、自在感を得たいときには、ベートーベンの弦楽四重奏曲、一点に集中させたいときには、螺旋運動的なモーツァルト、そしてバッハは、なによりも精神の均衡を必要とするときである。
     *
〈ぼく〉は音楽のよき鑑賞者ではないことを自覚している。
だからこそ、音楽のよき利用者なのかもしれない。

趣味はなにか? と問われ、音楽鑑賞と答える人は少なくない。
音楽鑑賞と答えているわけだから、当人の意識としては、音楽を聴くという行為は、鑑賞であるわけだ。

鑑賞とは、大辞林には、芸術のよさを味わい楽しみ理解すること、とある。
つまり音楽鑑賞とは、音楽のよさを味わい楽しみ理解すること、である。

趣味として、だから音楽鑑賞は、どことなく高尚なところがある。

利用とは、物の機能・利点を生かして用いること、
自分の利益になるようにうまく使うこと、とある。

つまり音楽利用とは、音楽の機能・利点を生かして用いること、
自分の利益になるようにうまく使うこと、となる。

音楽のよき利用者であるためには、音楽のよき理解者でなければならない。
好き勝手な聴き方をしていては、《はかどらなさに応じて、必要な音楽を選びだす》ことはできない。

音楽の聴き手として、音楽のよき鑑賞者はやや受動的といえるのかもしれないし、
音楽のよき利用者は能動的ともいえよう。

Date: 5月 29th, 2015
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background…(その5)

別項で書いた映画「セッション」。
映画本篇が始まる前に、これから公開される映画の予告編がスクリーンに映し出される。

無駄な時間だ、これが嫌で映画館に行きたくない、という人がいるらしい。
予告編を見るのを楽しみにしている私は、予告編の本数が少なかったり、
本篇を観たくなるような予告編がないと物足りなさをおぼえながら、本篇を観ることになる。

映画「セッション」では、6月20日公開の「マッドマックス 怒りのデス・ロード」の予告編があった。

この予告編で使われていたのが、ヴェルディのレクイエムだった。
ヴェルディがもしタイムマシンで現代にいきなり連れてこられて、
「マッドマックス 怒りのデス・ロード」の予告編を見せられたら、
なんというのだろうか、と想像しながら予告編を見ていた。

映画本篇でも使われているのかはわからないが、
予告編ではヴェルディのレクイエムは、なかなか効果的であった。

映画「セッション」を観終って、しばらくして考えていた。
ここでも書いているが、「ヴェルディのレクイエムが使われている」と思っていることについて考えていた。

この項の(その4)でも、
「ポール・モーリアのLPを試聴用ディスクとして使っていた」と書いた。

ヴェルディのレクイエムもポール・モーリアの「恋はみず色」も音楽である。
その音楽に対して「使う」という表現をするということは、
そこではヴェルディの音楽もポール・モーリアの音楽も、いわば道具になってしまっている。
そういえるのではないか。

だから「マッドマックス 怒りのデス・ロード」の予告編を見て、
ヴェルディのレクイエムが効果的と感じたのではないのか。

Date: 10月 11th, 2014
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background…(その4)

ポール・モーリアのLPは一時期試聴用ディスクとして使われていた、ときいたことがある。
日本での発売元であった日本フォノグラムは、いくつかのポール・モーリアのLPも、
フランスからの直輸入盤で売っていた。

どうしてそういうことをしていたのかはっきりとしないが、
ひとつは音の良さを、日本のポール・モーリアの聴き手に届けるためだったのかもしれない。

ポール・モーリアのLPを、だから試聴用に使っていた人は、
その場合は、真剣にポール・モーリアのLP(どの曲なのかはわからないが)を聴いていたことになる。

ただその真剣さは、カルロス・クライバーの「トリスタンとイゾルデ」を聴くときのそれと、
まったく同じとは言い切れないところが残る。

クライバーの「トリスタンとイゾルデ」を聴くとき、試聴ディスクとして聴いていることはない。
私の場合、クライバーの「トリスタンとイゾルデ」をオーディオのチューニングのために使ったことはない。

クライバーの「トリスタンとイゾルデ」を聴く時は、
クライバーによる「トリスタンとイゾルデ」を聴きたいから、ということになる。

試聴用ディスク、オーディオのチューニングのためのディスクとなると、
特に、そのディスクに収められている音楽を聴きたい、と思っていなくとも、聴くことがある。

ポール・モーリアのLPを試聴用ディスクとして使っていた(聴いていた)人たちは、
どうだったのだろうか。
ポール・モーリアの音楽を聴きたい気持はあったのだろうか、どれだけあったのだろうか。

そんな気持はなくとも、音がいいから、試聴に都合がいいから、という理由でだったのだろうか。
だとしたら、そこで鳴っていたポール・モーリアの音楽は、BGMということになるのか、
BGMとまでいえないまでも、そこに近いところにある、といえるのではないか。

Date: 1月 11th, 2014
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background…(その3)

ポール・モーリアの「恋はみず色」を初めて聴いているのだとしたら、
聴いている途中で電話がかかってきたり、宅急便が届いたりすることは、いわば邪魔といえる。

「恋はみず色」を、その時初めて聴いている聴き手は、
邪魔がはいればそこで、いま鳴っている「恋はみず色」を止め、用事をすませた後で、
スピーカーの前に座り直して、聴きつづけることだろう。

その際に、中断したところから聴きはじめるのか、それとも頭から聴き直すのか。

ポール・モーリアの「恋はみず色」を家庭で聴くときは、
レコードに頼るかラジオから流れてくるのかのどちらかである。

ラジオの場合、自分の好きな時に聴けるわけではないし、
次にいつ放送されるのかもわからないから、
「恋はみず色」をすでに聴いたことのある聴き手であっても、
ラジオからの「恋はみず色」に、いいメロディだな、と思っていた時に、
電話、宅急便がそこに割りこんできたら、邪魔だと感じるのか。

レコード(アナログディスク、CD、カセットテープなど)で聴いていれば、
電話、宅急便が割りこんできても、もう一度、というより何度でも、
「恋はみず色」のレコードを手放さないかぎり、いつでも聴くことができるわけで、
だからこそ、電話、宅急便などの割り込みがあったとしても、
その間、「恋はみず色」を流しぱなしにするとはいえないだろうか。

レコードで「恋はみず色」を聴く場合でも、
初めて聴くときと、二度目以降に聴くときとでは、
電話、宅急便などの割り込みに対する感情も変っていくのだろうか。

Date: 10月 24th, 2012
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background…(その2)

ポール・モーリアのレコードをかけていたとしよう。
ポール・モーリアの音楽の聴き手は、
左右ふたつのスピーカーと聴き手との3点によってつくり出される三角形の頂点において、
微動だにせず、そこで鳴っているポール・モーリアの音楽に向い合うのだろうか。

そういうポール・モーリアの聴き方もあるけれど、
ポール・モーリアの音楽はそうした聴き方を前提としているのか、
そういう聴き方を、そこで鳴っている音楽は聴き手に求めているのだろうか。

もっと気楽に聴くことを望んでいる音楽ではないのだろうか。

ポール・モーリアの音楽をかけている(聴いている)途中で、
誰かからの電話がかかってきた、もしくは宅急便で荷物が届いたら、
電話の場合には会話の邪魔にならないようにアンプのボリュウムに手を伸ばし音量を下げるだろうし、
荷物を受けとるのであれば、そのまま椅子から立ち上り受け取ってくるだろう。

電話も大した用件でなければそれほど時間はかからない。
荷物を受けとるのは、もっと短い時間だ。

電話を切ったり、荷物を受けとったあとに、またポール・モーリアの音楽を聴くわけだが、
このとき音楽がかかってきたとき、荷物が届いたこと知らせる玄関のチャイムが鳴ったとき、
そのときまで再生した曲の途中までもどって聴き直すだろうか。

流しぱなしにしていて、
電話で話していたり荷物を受け取ってしまうのに必要な時間の分だけポール・モーリアの音楽は先に進んでいても、
その先に進んだところからまた聴く人の方が多いように思う。

私なら、たぶんそうするだろう。

カルロス・クライバーのトリスタンとイゾルデのCDが発売になったころだから、もう20年以上もことだが、
不思議なことにこのディスクを聴いていると、必ず同じ人から電話がかかってくる。

まさか、今日はかけてこないだろうな、と思って、クライバーのトリスタンとイゾルデを、
今日こそは最後まで聴き通そうとしよとうしても、やはり電話がかかってくる。

そういうとき、電話に邪魔される、という感じるわけだが、
これがクライバーのトリスタンとイゾルデではなく、ポール・モーリアの「恋はみず色」だとしたら、
邪魔された、とは感じないのではなかろうか。

Date: 3月 1st, 2012
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background…(その1)

BGMがある。
あらためていうまでもなくBGMは、バックグラウンドミュージック(Background Music)の略であり、
バックグラウンドミュージックは直訳すれば、環境音楽、背景音楽ということになっている。

これからさき、ぽつぽつとBGMについて書いていこうと思っている。
オーディオとBGMは、──なんといったらいいだろうか、
真剣にオーディオに取り組んでいる人からは、
「BGMのためにオーディオをやっているわけではない」といわれるそうだ。

BGMという言葉には、音楽を軽く扱ってしまっている、そんな印象があるためなのだろうが、
BGMと似た印象を持っている言葉としてイージーリスニング(easy listening)がある。
イージーリスニングは、日本では、軽音楽を指している。

軽音楽という言葉自体、いまではあまりお目にかからなくなってしまったが、
1970年代にはポール・モーリアが流行っていた。
軽音楽といえば、私にとってはポール・モーリアが、まず頭に浮ぶ。

日本フォノグラムが、ポール・モーリアのレコードを出していた。
数年前、友人を通じて届いたレコードの中に、ポール・モーリアのLPが数枚含まれていて、
日本盤ではあるものの、中のディスクはフランスからの直輸入盤だった。

このポール・モーリアの音楽は、BGMとなり得るのだろうか……、という疑問がわいてくる。