Date: 8月 21st, 2015
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background…(その6)

安部公房の「他人の顔」の主人公〈ぼく〉は、音楽の利用法について語っている。
     *
その夜、家に戻ったぼくは、珍しくバッハを聴いてみようという気をおこしていた。べつに、バッハでなければならないというわけではなかったが、この振幅の短くなった、ささくれだった気分には、ジャズでもないし、モーツァルトでもなく、やはりバッハがいちばん適しているように思われたのだ。ぼくは決して、音楽のよき鑑賞者ではないが、たぶんよき利用者ではあるだろう。仕事がうまくはかどってくれないようなとき、そのはかどらなさに応じて、必要な音楽を選びだすのだ。思考を一時中断させようと思うときには、刺戟的なジャズ、跳躍のバネを与えたいときには、思弁的なバルトーク、自在感を得たいときには、ベートーベンの弦楽四重奏曲、一点に集中させたいときには、螺旋運動的なモーツァルト、そしてバッハは、なによりも精神の均衡を必要とするときである。
     *
〈ぼく〉は音楽のよき鑑賞者ではないことを自覚している。
だからこそ、音楽のよき利用者なのかもしれない。

趣味はなにか? と問われ、音楽鑑賞と答える人は少なくない。
音楽鑑賞と答えているわけだから、当人の意識としては、音楽を聴くという行為は、鑑賞であるわけだ。

鑑賞とは、大辞林には、芸術のよさを味わい楽しみ理解すること、とある。
つまり音楽鑑賞とは、音楽のよさを味わい楽しみ理解すること、である。

趣味として、だから音楽鑑賞は、どことなく高尚なところがある。

利用とは、物の機能・利点を生かして用いること、
自分の利益になるようにうまく使うこと、とある。

つまり音楽利用とは、音楽の機能・利点を生かして用いること、
自分の利益になるようにうまく使うこと、となる。

音楽のよき利用者であるためには、音楽のよき理解者でなければならない。
好き勝手な聴き方をしていては、《はかどらなさに応じて、必要な音楽を選びだす》ことはできない。

音楽の聴き手として、音楽のよき鑑賞者はやや受動的といえるのかもしれないし、
音楽のよき利用者は能動的ともいえよう。

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