Archive for category Edward Benjamin Britten

Date: 8月 2nd, 2013
Cate: Edward Benjamin Britten

BRITTEN THE PERFORMER(その4)

“BRITTEN THE PERFORMER”のCD BOXを購入し聴いた人のすべてが、
「美しい演奏」と感じるかどうかは、なんともいえない。

どこが美しいのか、どこがいいのか、さっぱりわからない、と感じてしまう人もいよう。

反感をもたれることはわかっているけれど、
ベンジャミン・ブリテンのモーツァルトを「美しい演奏」と感じさせない音は、
どこかが間違っている。

音楽として正しい音で鳴っていれば、
オーディオ機器のグレードにはさほど関係なく(まったく関係ない、とはいえないけれど)、
「美しい演奏」と感じることができる。

どんなに高価で、世評の高いオーディオ機器を揃え、
セッティング、チューニングに手抜きすることなく、
オーディオ仲間に聴いてもらっても、皆が素晴らしい音だといってくれる音であっても、
ブリテンのモーツァルトを「美しい演奏」ではなく、美演にしてしまったり、
「美しい演奏」とせは感じさせないのであれば、
そのシステムから鳴っている音は、「美しい音」ではない。

川崎先生が数日前、facebookに書かれていた。
《「正しいかどうかは、美しいかどうか」の自問自答で判断が可能だと、プラトンは言っていた。》

「正しいかどうかは、美しいかどうか」の自問自答で判断が可能であっても、
美しいかどうかは、どうやって判断するのか、と問う人はいる。

結局「美しいかどうかは、正しいかどうか」の自問自答で判断するしかない、
と私はおもっている。

答になっていないじゃないか──、
そういわれようが、「正しいかどうかは、美しいかどうか」の自問自答で、
「美しいかどうかは、正しいかどうか」の自問自答で判断していくものだ。

ベンジャミン・ブリテンの演奏は、だから正しい。

Date: 8月 2nd, 2013
Cate: Edward Benjamin Britten

BRITTEN THE PERFORMER(その3)

ベンジャミン・ブリテンによるバッハもシューベルトも美しい。
とりわけモーツァルトは美しい演奏だ。

美音という表現がある。
音の前に「美」がついているわけだから、美しい音の略語ということになるのかもしれないが、
私にとっては美しい音と美音は、べつものである。

美音派といわれている人の音が、これまで美しかったためしがない。
こういう音は、美音と表現されるよな、といった印象の音が鳴っていた。

美しい音と美音がどう違うのか、というよりもどう異るのかについて、
うまく説明できないもどかしさがずっと私の中にあるのだが、
あえて書けば、美音は、ただそれだけ、とでもいおうか、
そしてどこかに澱のようなものがあるような気もしている。

美音と同じ意味で、美演というのがあるとしよう。
ブリテンの演奏は、美演では決してない、はっきりと美しい演奏である。
美しい演奏とは、美しい音と同じ意味での「美しい演奏」である。

今年はベンジャミン・ブリテンの生誕100周年にあたる。
昨年末には、ブリテンのCD BOCの発売がアナウンスされていた。

作曲家ブリテンのCD BOXばかりだった。
演奏家(指揮者とピアニスト)としてのベンジャミン・ブリテンのCD BOXがいつ発売になるのか、
それをずっと楽しみにしていた。

年が明けて2013年になっても、DECCAからのアナウンスはない。
2月、3月とすぎ、半年がすぎてもなんのアナウンスもなかった。

もしかすると、出ないのか、とあきらめ始めていた。
7月も最後の一日になったところで、HMVのサイトを見ていた。
そこに”BRITTEN THE PERFORMER“の文字があった。

よかった、やっぱり出るんだ、と安堵した。

27枚組で出ることで、しかも他のCD BOX同様、”BRITTEN THE PERFORMER”も安い。
まとめ買いをすれば7000円を切る。

これならば、いままでブリテンに関心のあまりなかった人も、手を出しやすい。
もちろんモーツァルトの交響曲もはいっている。
カーゾンとのピアノ協奏曲もはいっている。
その他にピアニストとしてのブリテンも聴くことができる。

とにかく聴いてみてほしい、とおもっている。

Date: 8月 1st, 2013
Cate: Edward Benjamin Britten

BRITTEN THE PERFORMER(その2)

クラシックのレコードを語る際に、
誰々のモーツァルトのピアノ協奏曲という言い方をする。

ここでも誰々とは、多くの場合、ピアニストの名前がはいる。
ピアノ協奏曲だから、ピアニストと指揮者、それにオーケストラがいるわけだが、
それでも語られるのはピアニストであることがほとんどといっていい。

モーツァルトのピアノ協奏曲であれば、古くはハスキル盤がよく知られていた。
マルケヴィチ指揮によるコンセール・ラムルー管弦楽団とによる協演の録音であるわけだが、
ハスキルとマルケヴィチのモーツァルトの協奏曲ということはあまりなく、
あくまでもハスキルのピアノ協奏曲であり、
暗黙のうちに「ハスキルのピアノ協奏曲」の中に、マルケヴィチとコンセール・ラムルー管弦楽団も含まれている。

カーゾンとブリテン指揮によるイギリス室内管弦楽団によるモーツァルトのピアノ協奏曲のレコードも、
カーゾンのモーツァルトのピアノ協奏曲として語られていることがほとんどであろう。

そうであっても、モーツァルトのピアノ協奏曲第20番二短調と第27番変ロ長調がカップリングされたレコードは、
あくまでも私にとっては、ブリテンのモーツァルトのピアノ協奏曲という言い方になる。

話の流れで、モーツァルトを省いてしまいブリテンのピアノ協奏曲といってしまうと、
ブリテンには作曲家としての顔もあるために、ブリテン作曲のピアノ協奏曲と混同されてしまうため、
カーゾンの名前も口にしなければならなくなる。
それでもカーゾンのモーツァルトのピアノ協奏曲とはいわない、
あくまでもブリテンとカーゾンのモーツァルトのピアノ協奏曲であり、
カーゾンとブリテンのモーツァルトのピアノ協奏曲ともいわない。

このレコードがこれだけ高い評価を得ているのは、カーゾンが優れているというよりも、
ブリテンが素晴らしいからにほかならない。

五味先生のように「カーゾンごときはピアニストとしてしょせんは二流」とまではいわないけれど、
カーゾンがほかの指揮者とだったら、はたして、ここまで高い評価は得ていたとは思えない。

Date: 7月 31st, 2013
Cate: Edward Benjamin Britten

BRITTEN THE PERFORMER(その1)

五味先生の「わがタンノイの歴史」にこうある。
     *
この応接間で聴いた Decola の、カーゾンの弾く『皇帝』のピアノの音の美しさを忘れないだろう。カーゾンごときはピアニストとしてしょせんは二流とわたくしは思っていたが、この音色できけるなら演奏なぞどうでもいいと思ったくらいである。
     *
この一節の影響が強くあって、カーゾンのピアノによるモーツァルトのピアノ協奏曲が、
名盤の誉れ高いことは知ってはいても、手を出すことはなかった。

このピア協奏曲でオーケストラを指揮しているのが、あのブリテンだということも知ってはいた。
作曲家であって、指揮者でもあるのか、その程度の認識だった。

CDが登場し、数年後、廉価盤も登場するようになった。
アナログ録音の名盤も、いきなり廉価盤として初CD化されていった。

オイゲン・ヨッフムのマタイ受難曲も廉価盤扱いだった。

ブリテン指揮によるモーツァルトの交響曲が、そうやって廉価盤でレコード店の棚に並んだ。
ブリテンのモーツァルトか、という軽い気持で、廉価盤ということもあいまって、手を伸ばした。
ジャケットのデザインも、いかにも廉価盤的だった。

期待もせずに聴こうとしていた。
こういうときに限って、素晴らしい音楽がスピーカーから鳴り響くことがある。
ブリテンのモーツァルトは素晴らしかった。

ブリテンという作曲家については、一通りの知識と、代表的な曲を少し聴いていただけで、
さほど高い関心を抱いていなかった。
けれど指揮者ブリテンに対しては、違った。

カーゾンとのピアノ協奏曲を聴いておけば良かった、
そうすれば、もっと早くブリテンの指揮者としての素晴らしさに気がついたのに……、とも思ったし、
でも、いまだからブリテンの良さに気づいたのかもしれない、とも思っていた。