Archive for 4月, 2021

Date: 4月 30th, 2021
Cate: ディスク/ブック

エッシェンバッハのブラームス 交響曲第四番(その3)

エッシェンバッハのブラームスの四番を聴いて、驚いていた。
聴き終ってから、その驚きは何を孕んだ驚きなのか、ということを思っていた。

つい最近聴いたエッシェンバッハの演奏は、
一ヵ月ほど前の「バイエル」、「ブルグミュラー」、「ツェルニー」などである。
TIDALで、エッシェンバッハのこのシリーズ(Piano Lessons)である。

つまりピアニスト・エッシェンバッハである。
今回は指揮者・エッシェンバッハである。

ずいぶん違う、というよりも、まったく違う。
同じ人とは、まずおもえない。

“Piano Lessons”での演奏は、
ピアノを練習している子供たちの手本となるものだから、
そこで個性の発揮となっては、手本として役に立たない。

ブラームスの四番は、手本とかそういところから離れての演奏である。
比較するのがもともと間違っているわけなのはわかっていても、
聴いてそれほど経っていないのだから、どうしても記憶として強く残ったままでの、
今回のブラームスの四番であり、
それも“Piano Lessons”はスタジオ録音、ブラームスの四番はライヴ録音である。

エッシェンバッハのブラームスの四番は、
ミュンシュ/パリ管弦楽団のブラームス 交響曲第一番に近い、というか、
そこを連想されるものがある。

宇野功芳氏は、このミュンシュ/パリ管弦楽団の一番を、
フルトヴェングラー以上にフルトヴェングラーと、高く評価されていた。

宇野功芳氏ばかりでなく、福永陽一郎氏も、最上のフルトヴェングラーという、
最大級の評価をされていた、と記憶している。

フルトヴェングラーの録音にステレオはない、すべてモノーラルだけである。
ミュンシュ/パリ管弦楽団は、ステレオである。

エッシェンバッハ/シュレスヴィヒ・ホルシュタイン祝祭管弦楽団の四番も、
あたりまえだがステレオだ。

ミュンシュの一番は、たしかにすごい。
完全燃焼という表現は、この演奏にこそぴったりであり、
特に最終楽章の燃焼は圧巻でもある。

エッシェンバッハの四番は、そこまでとは感じなかったけれど、
フルトヴェングラー的なのだ。

Date: 4月 30th, 2021
Cate: ディスク/ブック

Vocalise(その2)

オーマンディ/フィラデルフィア管弦楽団によるラフマニノフの交響曲第二番が、
一週間前に、moraとe-onkyoで配信が始まった。

そろそろ交響曲第三番と“Vocalise”のカップリングが出るころかな、と思っていたら、
今日、やはり配信が始まった。

ソニー・クラシカルだから、MQAは期待できない。
flac(96kHz、24ビット)である。

それでもいい。
さっそく“Vocalise”だけを購入した。
交響曲第三番を聴きたいとは思わないからで、
どうしても聴きたければTIDALで聴ける。

TIDALで、ラフマニノフの“Vocalise”を検索すると、意外とあった。
ラフマニノフ自演の“Vocalise”もあった。
アンドレ・プレヴィンによる“Vocalise”もあった。
こちらはMQA Studio(96kHz、24ビット)である。

五味先生の文章と一切関係ないところで“Vocalise”のことを知って聴いたのであれば、
プレヴィンをとったかもしれないが、
管弦楽曲版“Vocalise”のことは五味先生の文章で、なのだから、
もうどうしてもオーマンディの“Vocalise”のほうを、私はとる。

とる──、そう書いているけれど、
どちらが名演といったことではない。

Date: 4月 29th, 2021
Cate: 真空管アンプ

BOSE 901と真空管OTLアンプ(その5)

BOSE 901を真空管OTLアンプで鳴らす、ということを考える(妄想する)ようになったことに、
別項で書いているCR方法がけっこう関係している。

CR方法を、いくつかのところで実践してきて、
ぜひ試してみたいことのひとつが、BOSEの901である。

スピーカーユニット九本直列接続されている。
直列接続されたユニットにCR方法は、まだ試していない。

一本だけのときと同じ効果はあるはずだが、
ユニットが直列になっていることで、その効果は変らないのか、
それとも大きくなるのか、反対に小さくなるのか。

予想では大きくなるような気がしているが、こればかりは試してみないとなんともいえない。

901に使われているスピーカーユニットのインピーダンスは、0.9Ω。
ということはボイスコイルの直流抵抗は、0.9Ωよりも低い。
そうなると、CR方法の抵抗とコンデンサーの値をそこまで低くするのは難しい。

私が使うDALEの無誘導巻線抵抗に関しては、
1Ωよりも小さな値があるけれど、ディップマイカコンデンサーは1pFが最小だ。

なのでネットワークのコイルには、1Ωと1pFを使っている。
901の場合も、もしやれるとなったら、1Ωと1pFの組合せを使うことになる。

それで十分とは思いながらも、真空管OTLアンプとの組合せを前提とするならば、
(その1)で書いているように、8Ωのスピーカーユニットを九本直列接続すれば72Ωに、
16Ωならば144Ωになり、このくらいのインピーダンスになれば、
大がかりなOTLアンプでなくとも実用になるだけではなく、
CR方法に関しても、抵抗とコンデンサーの値を、
ボイスコイルの直流抵抗値により合せられるからだ。

Date: 4月 29th, 2021
Cate: ショウ雑感

2021年ショウ雑感(その14)

最近、頭に浮んでくる五味先生の文章は、
「フランク《オルガン六曲集》」のなかの一節だ。
     *
 私に限らぬだろうと思う。他家で聴かせてもらい、いい音だとおもい、自分も余裕ができたら購入したいとおもう、そんな憧憬の念のうちに、実は少しずつ音は美化され理想化されているらしい。したがって、念願かない自分のものとした時には、こんなはずではないと耳を疑うほど、先ず期待通りには鳴らぬものだ。ハイ・ファイに血道をあげて三十年、幾度、この失望とかなしみを私は味わって来たろう。アンプもカートリッジも同じ、もちろんスピーカーも同じで同一のレコードをかけて、他家の音(実は記憶)に鳴っていた美しさを聴かせてくれない時の心理状態は、大げさに言えば美神を呪いたい程で、まさしく、『疑心暗鬼を生ず』である。さては毀れているから特別安くしてくれたのか、と思う。譲ってくれた(もしくは売ってくれた)相手の人格まで疑う。疑うことで──そう自分が不愉快になる。冷静に考えれば、そういうことがあるべきはずもなく、その証拠に次々他のレコードを掛けるうちに他家とは違った音の良さを必ず見出してゆく。そこで半信半疑のうちにひと先ず安堵し、翌日また同じレコードをかけ直して、結局のところ、悪くないと胸を撫でおろすのだが、こうした試行錯誤でついやされる時間は考えれば大変なものである。深夜の二時三時に及ぶこんな経験を持たぬオーディオ・マニアは、恐らくいないだろう。したがって、オーディオ・マニアというのは実に自己との闘い──疑心や不安を克服すべく己れとの闘いを体験している人なので、大変な精神修養、試煉を経た人である。だから人間がねれている。音楽を聴くことで優れた芸術家の魂に触れ、啓発され、あるいは浄化され感化される一方で、精神修養の場を持つのだから、オーディオ愛好家に私の知る限り悪人はいない。おしなべて謙虚で、ひかえ目で、他人をおしのけて自説を主張するような我欲の人は少ないように思われる。これは知られざるオーディオ愛好家の美点ではないかと思う。
     *
五年半ほど前、別項でも引用した。
そこでは、SNSで見受けられる、
ここに書かれているオーディオマニアとは真逆の人たちのことをとりあげた。

インターネットの普及が、
自説を主張するだけの我欲のかたまりのような人たちの存在を顕にしただけなのか。
それともインターネットがおよぼす悪影響によって、こういう人たちが生れてきたのか。

さいわいなことに、私の周りにいるオーディオマニアに、そんな我欲のかたまりの人たちはいない。
けれど、インターネットには、そういう人たちをすぐに見つけることができる。

オーディオ雑誌の売買欄をなくせ、と出版社に難癖をつけた販売店も、
こういう人たちと同じであろう。
我欲のかたまりの人たちだと、私は思っている。

《知られざるオーディオ愛好家の美点》は、いまでは珍しくなってしまったのか。
ただ単に、我欲のかたまりの人たちが目立っているだけのことと思いたいのだが、
結局、我欲のかたまりの人たちは、オーディオにどれだけお金と時間を注ぎ込んでいたところで、
音楽を聴いていないのではないだろうか。

《音楽を聴くことで優れた芸術家の魂に触れ、啓発され、あるいは浄化され感化される》ことが、
これまでまったくなかったのか、
それともいつのまにか失ってしまったのか。

Date: 4月 29th, 2021
Cate: High Fidelity

手本のような音を目指すのか(その8)

空冷ファンをもつパワーアンプがある。
よほど広い空間をもてないかぎり、空冷ファンはないほうがいいし、
単に空冷ファンが発するノイズだけでなく、
仮にそういったノイズが発生しなかったとしても、
ファンが廻るだけで音は影響を受けてしまう。

ファンはないほうがいいわけだが、
A級パワーアンプだと、ファンがついてたりする。
このファンの音も、時計の秒針のようにひじょうに気になる場合と、そうでない場合とがある。

常に気になるという人もいるだろうし、
まったく気にならないという人もいるだろう。
なので、気になる場合とそうでない場合とがあるというのは、
私の場合ということでもある。

なぜ、そうなのだろうか。
私は20代のころ、SUMOのThe Goldを使っていた。
A級動作、125W+125Wのパワーアンプで、
ファンはフロントパネルのすぐ後に二基あった。

しかもフロントパネルには空気を取り込むための四角い開口部が二つあったため、
ファンの音はけっこう大きかった。

AB級、400W+400WのThe Powerには、フロントパネルの開口部はなかったため、
ファンの音の聞こえ方はけっこう違う。

音を鳴らしていないと、The Goldのファンの音は、けっこう大きなと感じていた。
けれど音を鳴らし始めると、まったくとはいわないまでも、さほど気にならない。

一方で、パイオニアのExclusive M4は、A級50W+50Wで、
やはり空冷ファンを一基備えている。

音を鳴らしていないときのファン・ノイズは明らかにExclusive M4のほうが小さい。
国産アンプらしい、といえば、そうである。

なのに音を聴いていると、意外にもExclusive M4のほうが、
ファン・ノイズが気になったりしていた。

同じ場所での比較ではないから、厳密な比較なわけではないが、
それでも、この二つのA級パワーアンプのファン・ノイズに気になり方の違いは、
私にとっては時計の秒針の音と同じ存在のように感じられる。

Date: 4月 28th, 2021
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(ふたつの絵から考える・その11)

ルチア・アルベルティのCDを初めて手にしたのは、
オルフェオ・レーベルから出ていたオペラ・アリア集だった。

ベルリーニやドニゼッティを歌っている、このCDはなかなか素敵な一枚なのだが、
ルチア・アルベルティのCDは、そう多くない(むしろ少ない、といったほうがいいくらいだ)。

ルチア・アルベルティは、「カラスの再来」といわれていた。
クラシックの世界で、「カラスの再来」は、よく使われる。
多くの場合、そんなふうにいわれていたなぁ……留まりでしかない。

黒田先生は、《ルチア・アルベルティの明日にカラスを夢みたくなる》と書かれていた。
けれど、くり返すがルチア・アルベルティの録音は少ない。

それだけの歌手にすぎなかったのであれば、納得できることなのだが、
ルチア・アルベルティはそうではなく、このことも黒田先生が書かれているのだが、
ルチア・アルベルティは大手音楽マネージメントと契約を結んでいない。

そのためルチア・アルベルティはマネージャーもつけずに仕事をしている、
と黒田先生の「ぼくだけの音楽」に書いてあった。

そして、黒田先生の「あなたは結婚しないんですか?」というぶしつけな質問に、
ルチア・アルベルティは、「だって、わたしはベルリーニと結婚しているから」と答えている。

なのにルチア・アルベルティの「清らかな女神よ」を、これまで聴いたことがなかった。
それこそ大手音楽マネージメントと契約していれば、
大手のレコード会社から、間違いなく出ていたはずだ。

でも出てこなかった(はずだ)。
いつしかルチア・アルベルティの新録音を待つことをやめてしまっていた。

そんなこともあって、私の手元にはオルフェオ盤だけだった。
いまもそのことに変りはないが、TIDALには、オルフェオ盤以外に三枚ある。
“A Portrait”のなかに、「清らかな女神よ」がある。

オルフェオ盤を聴いてから、三十年以上経って,
ようやくルチア・アルベルティの「清らかな女神よ」を聴いている。

Date: 4月 27th, 2021
Cate: ディスク/ブック

ズザナ・ルージィチコヴァ(その3)

そういえば、あの、ちょっと憶えるのが難しい名前の人──、
そんなふうに思い出した。

Zuzana(ズザナ)だけは憶えていた。
これだけで、検索は可能だった。
けっこうな数のアルバムが表示される。

バッハがやはり多い。
黒田先生の文章の冒頭にも、
ズザナ・ルージィチコヴァのバッハのチェンバロの全集のことがある。

ほかにもいくつかあった。
そのなかで、なんとなくモーツァルトのヴァイオリン・ソナタ集を選んだ。
ヨセフ・スークとの協演である。

きいた瞬間に、ぐいぐいひきこまれる演奏ではない。
黒田先生は《誠実なルージィチコヴァ》と書かれている。

モーツァルトのヴァイオリン・ソナタを聴いていると、
黒田先生の文章をもういちど読みたくなって、だから、今回書いている。

黒田先生のズザナ・ルージィチコヴァの文章を読んでなかったら、
ズザナ・ルージィチコヴァを聴くことはなかったかもしれない。

思い出すこともなかっただろうし、TIDALがなければ、また聴きのがしていただろう。

ならば、もっと早く聴いておけば、と後悔しているかというと、
そうでもない。
三十年前は、いまほどズザナ・ルージィチコヴァのよさがわからなかったかもしれない。
出逢うべき演奏とは、いつかきっとそうなるようになっている──、
私はそう思っている、というより信じている。

黒田先生は、ズザナ・ルージィチコヴァと表記されているが、
いま日本ではズザナ・ルージチコヴァが一般的なようである。

そしてe-onkyoに、バッハ全集(Bach: The Complete Keyboard Works)がある。
MQA Studio(96kHz、24ビット)である。

Date: 4月 27th, 2021
Cate: ディスク/ブック

ズザナ・ルージィチコヴァ(その2)

ズザナ・ルージィチコヴァの答は、次のようなものだった。
     *
「わたしも、子供の頃にはピアノをひいていました」は、淡々とはなしはじめ、さらに、こうつづけた。「でも、戦争中、私は強制収容所にいれられていたので、食事も満足にあたえられず、わたしの手はこんなに小さいんです。このように小さな手ではピアノをひくのはとても無理ですが、チェンバロならひけますから」
 そのようにいいながら、ルージィチコヴァは両手をひろげてみせた。考えてもみなかったルージィチコヴァのことばに、ぼくはひどくうろたえた。尋ねてはいけないことを尋ねてしまったのではないか、と思い、心ない質問をしたことを反省しないではいられなかった。しかし、いいわけになるが、ぼくは、それまでに、ルージィチコヴァについて書かれた文章で、彼女が幼児期を強制収容所ですごしたことについてふれたものを読んだことがなかった。それで、不覚にも、彼女の心の傷にふれるようなことを尋ねてしまった。
 ぼくは、はなしの接穂をうしなって、おそらく、茫然としていたにちがいなかった。ルージィチコヴァは、(当時はまだ若かった)インタビュアの狼狽を救おうとしたのであろう、にっこりと笑って、「いいんですよ」といいながら、ブラウスの袖をめくりはじめた。ルージィチコヴァは、いったい、なにをするつもりか、ぼくは目をみはらないではいられなかった。
 これが、そのときの認識番号です。ルージィチコヴァの細い腕には強制収容所で記されたにちがいない刺青の文字があった。
     *

黒田先生のルージィチコヴァへのインタヴューは、おそらく1970年代の終りごろのようだ。
その時のインタヴューの記事が、どの雑誌に載っているのか知らないし、
なので読んではいない。

ルージィチコヴァが強制収容所にいたことは、その記事にあったのだろうか。

1988年の音楽之友社のムックのルージィチコヴァのページには、
そのことは載ってない。

黒田先生の文章を読んで、ズザナ・ルージィチコヴァの演奏を聴いてみたい、と初めて思った。
おもったけれど、当時は、ルージィチコヴァのCDがどれだけ出ていただろうか。

私の探し方が足りなかっただけなのかもしれないが、
ルージィチコヴァのCDを見つけることはできなかった。

それに、この時期、無職でもあったため、どうしても──、という気にはなれなかった。
そうやって三十年が過ぎた。

TIDALを使っていなければ、またそのまま聴かずに過ぎ去ってしまったであろう。
TIDALで、いろんな演奏家を検索するのは楽しい。
検索しながら、そういえば、あのピアニストは、とか、ヴァオリニストとは、と、
演奏家の名前を思い出しては検索する。

ズザナ・ルージィチコヴァも思い出した一人だった。

Date: 4月 26th, 2021
Cate: ディスク/ブック

ズザナ・ルージィチコヴァ(その1)

ズザナ・ルージィチコヴァという、チェコ出身のピアニストのことを知ったのは、
1988年、音楽之友社から出たムックだった。

そのムックは、器楽奏者を特集していた。
そのなかで、ズザナ・ルージィチコヴァだけは知らなかった。

初めて目にする名前ということに加えて、
一度では正確に憶えられそうにない名前、
これだけが印象に残っていた。

ズザナ・ルージィチコヴァに書かれていたのが、誰なのかはもう憶えていない。
手元に、そのムックもない。

グレン・グールドが、黒田先生が担当で六ページの扱いだったのに対し、
ズザナ・ルージィチコヴァは二ページと少なかったことは憶えている。

通り一遍のズザナ・ルージィチコヴァについてのことを読んでも、
聴いてみたい、という気はほとんど起きなかった。

その数年後、黒田先生の「ぼくだけの音楽」で、
二度目のズザナ・ルージィチコヴァについての文章を読む。

この時、ズザナ・ルージィチコヴァを聴きたい、とおもった。

黒田先生は、握手について書かれていた。
《ルージィチコヴァの手は、まるで赤ん坊のように小さくて、しかも、力を入れて握ったらこわれてしまいそうに柔らかかった》
そう書かれていた。

黒田先生は、ズザナ・ルージィチコヴァにインタヴューされている。
黒田先生の、ズザナ・ルージィチコヴァへの最初の質問は、
「なぜ、あなたは、ピアニストではなく、チェンバリストになられたのですか?」だった。

《ごく平凡な、しかし、ぼくがもっとも知りたかった質問》とも書かれていた。

Date: 4月 25th, 2021
Cate: Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(その19)

facebookでの(その17)へのコメントに、こうあった。

「骨格のある音」と「それ以外の音」、
「EMTの鳴らす音」と「それ以外のプレーヤーの音」とあった。

トーレンスの101 Limitedを使われている方からのコメントである。
いうまでもなく101 LimitedはEMTの930stと同じである。

私も20代のころ、101 Limitedを使っていたから、よくわかる。
別項「EMT 930stのこと(ガラード301との比較)」で、音の構図について触れた。

このことも、骨格のある音と密接に関係している。

そして音の構図の確かさがあってこその、ステージの再現である。

アナログディスク全盛時代には、骨格のある音、音の構図の確かなプレーヤーがあった。
数はそう多くはなかった、というよりも、少なかったけれど、確実に存在していた。

そういう音と接してきた耳とそうでない耳とでは、求める音が違って当然である。
直観的に捉えられる音に違いも生じてくる。

私より若い世代となると、アナログディスクではなく、
CDで音楽を聴き始めたという人が多いであろう。

CDプレーヤーで、骨格のある音、音の構図の確かなモデルもあったけれど、
それはアナログプレーヤーにおける割合よりもさらに小さかった。

ディスクに刻まれている音をあますところなく再現したからといって、
骨格のある音になるとはかぎらないし、
音の構図が確かなものになるともかぎらない。

Date: 4月 24th, 2021
Cate: ショウ雑感

2021年ショウ雑感(その13)

オーディオ雑誌の広告は、メーカー、輸入元によるもののほかに、
販売店の広告もある。

販売店の広告も、大きく二つに分けられる。
新品を主に扱う販売店と中古オーディオを主に扱う販売店である。

販売店の広告は、いまもステレオサウンドに掲載されているが、
ある時期からすればずいぶん減ってきている。

ある時期、販売店の広告の割合はかなり高かったことがある。
そのころだったはずだ、
ステレオサウンドから売買欄(used component market)が無くなったのは。

あくまでも私がきいたウワサである。
中古を主に扱っている販売店が、ステレオサウンドに苦情を入れたそうだ。
売買欄が、彼らの商売の邪魔をしている、とのことだ。

売上げが低迷していたのだろうか。
売買欄を止めろ、といってきたところがある、ときいている。

それがきっかけとなって、ステレオサウンドから売買欄は無くなった、とのこと。
くり返すが、あくまでもウワサでしかないが、
その話を、そんなことがあったとしても不思議ではないな、と思いながらきいていた。

売買欄は、広告に結びつくわけではない。
いわば読者サービスのページである。
しかも、売りたい人、買いたい人の住所、氏名、電話番号を載せる。

この校正がけっこう手間がかかる。
私がいた時に、電話番号を載せないようにした。
間違いを少しでも減らしたいからだった。

そういうページに、販売店からの苦情というより、いわばいいがかり。
終りにするきっかけになったはずだ。

自分のところの商売が苦しくなると、
そんなところにまで難癖をつけてくる。

コロナ禍はまだまだ続く。
そうなると、売買欄を止めろ、と同じような難癖をつけるところが出てこないとはかぎらない。

Date: 4月 23rd, 2021
Cate: 提言

いま、そしてこれから語るべきこと(その15)

昨年1月の(その14)で、
実在の写真家、ユージン・スミスをジョニー・デップが演じる「Minamata」が、
今秋公開される、と書いた。

2020年秋には公開されなかった。
ようやく、今年9月に公開が決った。

けれど流動的とも思っている。
公開は延期される可能性もあるだろうし、ごく短い上映期間になってしまうかもしれない。

水俣市出身なわけではないが、同じ熊本県の生れである私にとって、
小学生のころ、
テレビから流れてくる水俣病(以前も書いたが病気ではなく水俣事件である)のことは、
身近な、それでいて大きな恐怖だった。

絶対に忘れられない、忘れてはいけない(忘れたくない)事件である。

Date: 4月 23rd, 2021
Cate: ショウ雑感

2021年ショウ雑感(その12)

三度目の緊急事態宣言が発出される。

真空管オーディオフェアの中止が先日発表になった。
オーディオではないけれど、東京モーターショーも中止が発表された。

規模が違うのだから──、という希望的観測はできなくなりつつある状況だ。
11月開催予定のインターナショナルオーディオショウも、
今年も中止の可能性が高くなってきた、といえる。

今年は日本インターナショナルオーディオ協議会のメンバーがいくつか入れ代った。
新しいメンバーにとっては初のインターナショナルオーディオショウ参加のはずが、
来年になりそうである。

2020年のコロナ禍は、オーディオにどうだったのか。
家にいる時間が増えたことによって、オーディオ熱が高まった人もいて、
意外にも好調だった、という話をきく一方で、反対のことも耳に入ってきている。

ほんとうのところはどうだったのだろうか。

好調だったのは、中古オーディオの売買だった、ともきいている。
メインテナンスを専門としている業者(会社であったり、個人だったり)は、
かなり忙しかったらしい。

昔のオーディオ雑誌には、読者の売買欄があった。
ステレオサウンドにもあった。
いまもあるのは無線と実験ぐらいになってしまった。

いまはヤフオク!を始めとするインターネットでの売買が盛んだから、
オーディオ雑誌の売買欄は必要とされていないのかしもしれない。

けれどステレオサウンドの売買欄は、かなり以前になくなっている。
そのころ、私はステレオサウンドを離れていたので、どういう理由だったのかは、
ほんとうのところは知らない。

それでもウワサはきこえてきていた。

Date: 4月 23rd, 2021
Cate: Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(その18)

「骨格のある音」、「骨格のしっかりした音」、
こういうことを考えるようになったのは、これもまた「五味オーディオ教室」からである。

「五味オーディオ教室」は、肉体のない音ということから始まっていた。
肉体のある音とは、どういう音なのか。

「五味オーディオ教室」を手に取ったばかりの13歳の私には、よくわからなかった。
ただ、世の中に肉体のある音(肉体の復活を感じさせる音)とそうでない音とがある、
その事実だけである。

肉体の復活は、音像定位がしっかりと再現されていれば、
それがそうなわけではない。

よくいわれる音のボディを感じさせるのも、
必ずしも肉体の復活を感じさせる音ではないはず、と私は受けとっている。

正直なところ、五味先生に訊きたかったことのひとつである。
けれど、五味先生は1980年に亡くなられている。
あえなかった。

だから、考え続けていくしかないわけで、例えば人物画。
ここにも骨格のある人物画と、骨格を感じさせない人物画とがあるように感じている。

どんなに写実性の高い人物画であっても、
その絵が必ずしも骨格のある(感じさせる)とはかぎらない。

ここでの人物画は服を着た人の場合である。

それでいても、骨格の感じられる人物画があるし、そうでないものもある。

Date: 4月 23rd, 2021
Cate: ディスク/ブック

Vocalise(補足)

ソニー・クラシカルは、オーマンディのハイレゾリューション配信を始めている。
少し前からのmoraとe-onkyoでの配信を楽しみにしている。

今日、やっとラフマニノフの交響曲第二番が公開された。
96kHz、24ビットのflacである。
一番、三番、それから〝声〟Vocaliseも、近々配信されるようになるのでは、と期待している。

聴きたいのは、私の場合、〝声〟Vocaliseだけなので、
一曲のみを購入することになるだろう。

音楽を聴く、ということに関しては、いい時代になった。
そうではない、という人もいるだろうし、いていいのだけれど、
音楽を聴く、ということをどう捉えているのか、
音楽を聴く、ということが、私にとってどういうことなのか、
そういうことをふくめて、いい時代になった、と実感している。