Archive for 9月, 2021

Date: 9月 30th, 2021
Cate: サイズ

サイズ考(SAE Mark 2500を眺めていると)

SAEのMark 2500が届いて三ヵ月ちょっとが経った。
コーネッタから音を出さない日も、毎日眺めているのだが、
こんなに小さかったっけ、と思う。

アメリカのアンプだから、19インチ・ラックマウントのフロントパネルをもつ。
それに300W+300Wの出力だから、決して小さいアンプなわけはない。

Mark 2500をステレオサウンドで知ったとき、
大きいアンプだな、と思っていたし、
実物を見ても、やはりそう感じていた。

なにをもってフルサイズというのか、
それを語るところから始めなくては──、と思いつつも、
Mark 2500は、当時のアンプとしてフルサイズといえる一台だった。

つまり大きなアンプだったのだ。

なのにMark 2500の登場から四十年以上が経ち、
Mark 2500はむしろ小さく感じられるようになっている。

金属ブロックを削り出してシャーシーを作っているアンプ、
大きく重く見せようとしているアンプを見慣れてしまうと、
Mark 2500のサイズはコンパクトだな、ということになる。

自然空冷でなく強制空冷ということでヒートシンクの造りが、
簡単なモノですんでしまっていることも、そう感じてしまえることに関係している。

おもしろいもので、Mark 2500のサイズとプロポーションが、
自分のモノとして毎日眺めていると、発売から四十年以上経っているのに、
やたら新鮮に思える。

中学生のころ、Mark 2500を小さく感じられるようになるなんて、
そして新鮮に感じられるようになるなんて、想像できなかった。

Date: 9月 29th, 2021
Cate: High Resolution, 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これから(MQAのこと・その2)

オンキヨーがe-onkyo music事業を、
Qobuzを運営しているフランスの会社、Xandrieへ譲渡している。

8月に、e-onkyoがどこかに売却されるというウワサを聞いていた。
なので、今回のニュースにそんなに驚かなかった。

ただQobuz(Xandrie)だったのは、ちょっと意外だった。

e-onkyoがこれからどうなるのかはわからない。
しばらくはe-onkyoのままだろうが、Qobuzに取り込まれていくかたちになって、
Qobuz日本への上陸の足がかりとなるのか。

そんな気がするのだが、そうなったとしてMQAをQobuzはどうするのだろうか。
私が気がかりなのは、ここだけといっていい。

TIDALで多くのアルバムがMQAで聴けるようになっている。
e-onkyoにはないタイトルがかなりある。

一方で、TIDALにないMQAのアルバムもけっこう多いし、
サンプリング周波数に違いもあって、いまのところどちらもないと困る。

単なる予感でしかないのだが、TIDALのニュースも近々出てきそう。

不遜な人たちがいる(その3の前に)

その2)には、facebookでのコメントが数人の方からあった。
そして、昨日(9月27日)に、こちらにもコメントがあった。

Tadanoさんという方からのコメントである。
ひじょうに興味深いコメントをいただいた。

(その2)にコメントがあったことは、私以外の人は気づきにくい。
なので、ここで取り上げている。

これから書く予定の(その3)以降の内容にも関ってくるので、
この項のテーマに関心のある方だけでなく、一人でも多くの人に、
Tadanoさんのコメントを読んでもらいたい。

Date: 9月 28th, 2021
Cate: 菅野沖彦

9月27日(ひっかかっていること)

菅野先生の誕生日に関することで、ひっかかっていることが一つある。
ステレオサウンド 206号(2018年春号)の特集。
97ページに、こうある。
     *
たとえば『ザ・ダイアローグ』。猪俣猛(ドラムス)が、荒川康男(ベース)や増田一郎(ヴィブラフォン)、西条考之介(テナーサックス)など、7人のミュージシャンと楽器で対話する楽しいアルバムで、77年11月、菅野沖彦先生46歳のとき、イイノホールでの収録だ。
     *
菅野先生は、何度も書いているように1932年9月27日生れだ。
1977年11月の時点では、1977-1932で45歳である。

黛 健司氏の文章だ。

黛氏のミスなのか。
多くの人はそう捉えるだろう。

それにしても編集部は、誰一人として、菅野先生の誕生日を知らなかったのか。
文章校正で誰も気づかなかったのは、そのためなのか。

でも、ほんとうにそうなのだろうか、と私は思う。
黛氏は原稿で45歳と、間違わずに書かれていたのかもしれない。
それを編集部が勘違いで46歳としてしまった──。

そんなことまずありえないだろう、と多くの人はいうだろうが、
私は後者の可能性を捨て切れずにいるのは、
黛 健司氏の誕生日も9月27日だからである。

それに1932年9月は、長島先生、山中先生の誕生月でもある。

私には、黛氏が1932年と1931年を取り違えていたとはどうしても思えないのだ。

Date: 9月 27th, 2021
Cate: 菅野沖彦

9月27日

1932年9月27日は、菅野先生の誕生日である。

菅野先生の80代の音、90代の音というのを想像してしまう。
どんな音を出されたのだろうか。

2008年だったか。
菅野先生が「痴呆症になった時の音に興味がある」といわれた。
老人性痴呆症になったときに、自分はどういう音を出すのか。
それにいちばん興味がある、ということだった。

それは空(カラ)になった音なのだろうか、といまは思う。
オーディオの勉強をして、いろんな音を聴いて、
いろんな工夫をして音を出していく。

そういう行為を、何十年も重ねていけば、
経験が、知識が、ノウハウが、その人のなかに積み上っていく。

だから「音は人なり」なのか、というと、
実のところ、そういったものすべてを捨て去って、
つまり空っぽになって出てくる音こそが、ほんとうの「音は人なり」なのではないか。

ここ数年、そう考えるようになってきたし、
菅野先生がいわれたことを思い出している。

Date: 9月 26th, 2021
Cate: Digital Integration

Digital Integration(Mojoを聴いてひろがっていくこと・続々購入)

昨晩、今晩とMojoで聴いていた。
いろんな音楽を、TIDALで聴いていた。

聴いていて、三年ほど前に別項「A CAPELLA(とMojo)」を書いていたことを思いだし、
シンガーズ・アンリミテッドの「A CAPELLA」を聴いてみた。

いい感じで鳴ってくれる。
かなりいいといってもいいぐらいに鳴ってくれる。

そしてふと音触について考える。
「A CAPELLA」の音触とMojoの音触の相性はいいのではないだろうか。
そんなことを、ふと感じていただけでなく、
Mojoは、多重録音の音触との相性がいいのではないか、
そんなふうに思うようになってきた。

「A CAPELLA(とMojo)」を書いていたころは、そこまで感じていたわけではなかった。
まだ数時間とはいえ、自分のモノとして聴いていると、
シンガーズ・アンリミテッドの「A CAPELLA」を、
写真家の野上さんのところで聴いたのは、偶然とはいえ、
Mojoの特質をもっとも活かす曲を聴いたことになる──、
そんなことを思っていた。

「A CAPELLA(とMojo)」では、スクリーンとビューアーについて簡単に触れた。
今日も、そのことを思っていた。

Date: 9月 26th, 2021
Cate: Digital Integration

Digital Integration(Mojoを聴いてひろがっていくこと・続購入)

ZEN DACは、以前はMQA対応ではあったが、フルデコード対応ではなかった。
それが2021年4月ごろから輸入されるようになったver.2からは、フルデコードになった。

価格は22,000円(税込み)。
DSD再生も、もちろんできる。

メリディアンの218を気に入って愛用しているが、DSD再生はできない。
DSDのネイティヴ再生に深いこだわりをもっているわけではないが、
それでもいくつかのアルバムで、
11.2MHzのネイティブ再生の音を聴いてみたいのがある。

DAM45(DSD 11.2MHz)」で書いているグラシェラ・スサーナのアルバムも、
そんな一枚である。

安価なD/Aコンバーターではなく、
もっときちんとした本格的なD/Aコンバーターを購入して、という気持はもちろんあるが、
いまはとにかく聴いてみたい、という気持の方が強い。
それにヘッドフォンアンプの、少しいいのが欲しかった。

だから試しに買ってみようかな、と思ったわけである。

ZEN DACは、そんな目的にはぴったりの機種だ。
電源は別に用意する必要はあるが、電源による音の変化もあれこれ試せる。
実験をかねて遊ぶには好適な製品だと思っている。

買う一歩手前だった。
音は聴いたことがないが、もし期待外れだとして、
いじって遊べれば、私はそれでよし、と考える。

買ったのか、といえば、買わなかった。
買ったのはMojoの中古である。

MojoがZEN DACよりも少し安い価格で出ていた。
選択肢が二機種。
どちらも同じような出費となる。

どちらにするか。ちょっと迷った。
遊べるのはZEN DACである。
でも、ZEN DACの筐体の形状が、どうしても気に食わなかった。

それだけの理由で、Mojoを買った。

Date: 9月 26th, 2021
Cate: Digital Integration

Digital Integration(Mojoを聴いてひろがっていくこと・購入)

2019年12月ごろのChordのMojoの実売価格は、四万円を切っていた。
並行輸入品ではなく、正規輸入品で、この値段だった。

このころがいちばん安く買えたようだった。
買おうかな、と考えていた。

でもMQAに対応しないのだろうか、
もしかするとMojo 2になってMQA対応になるかもしれない。

Mojoは2015年ごろに登場していたから、
そろそろ改良モデルが発表になるかもしれない。

そんなことを妄想していたから、もう少し待ってみることにした。
2020年、Mojo 2は出なかった。

メリディアンの218があるから、どうしてもMojoが欲しい、というわけでもなかったから、
Mojo 2(MQA対応)を、あと少し待ってみよう、と思うようになった。

そうするとMojoの実売価格が上ってきた。
2019年12月の価格が安すぎただけなのだ。

そうなるとよけいにMojo 2の発表を待ちたくなる。
2021年も半分を過ぎて、残り三ヵ月と少し。

Mojo 2は出るのだろうか──。
今度は、そんなふうに思うように変ってきた。

出ないのか、
それとも何かの理由(たとえば半導体不足)で発表が延期になっているだけなのか。
どちらなのかははっきりとしない。

それにMojo 2でMQAに対応するのかどうかもわからない。
Mojo 2が2022年1月のCESあたりで発表になったとしても、
MQA対応になっていたとしても、おそらく価格は十万円近くなるのではないだろうか。

オーディオ機器も値上りが続いている。
10月になると、いくつかのブランドが値上げをする。
そんな状況なのだから、Mojo 2は、そう安くはないはずだ。

ならば中古か手頃な値段だったら買おうかな、
それともiFi AudioのZEN DACを試しに買ってみようかな、
そんなことを考えていた。

Date: 9月 25th, 2021
Cate: 提言

いま、そしてこれから語るべきこと(その16)

映画「Minamata」が、二日前にようやく公開になった。
2020年秋公開の予定が延びた。

4月に9月公開が発表になった。
それでも、もしかするとまた延期になるかもしれない、と思っていた。

いつまでの公開なのかは、いまのところはわからない。
そんなに長くはないであろう。

来週に観に行くつもりでいる。
まだ観ていないけれど、多くの人に観てもらい。

Date: 9月 25th, 2021
Cate: Glenn Gould

9月25日(その2)

1932年9月25日が、グレン・グールドの誕生日である。

グレン・グールドがもし生きていれば、89歳。
八年前にも、グールドの81歳の姿は想像できない、と書いているのだから、
89歳、そして来年の90歳の姿は、やはり想像できない。

それでも生きていてくれていれば──、と、
グレン・グールドの演奏を聴いてきた者ならば思うだろう。

私はベートーヴェンのピアノ・ソナタの最後の三曲を録音しなおしてほしかった。
ゴールドベルグ変奏曲の旧録と新録を聴いているわけだから、
再録音してくれていたら──、と。

他にもグールドの解釈で聴きたかった作曲家、曲はある。
それでもベートーヴェンの三曲だけは、再録音で残してほしかった。

グールドが亡くなった1982年にも、そう思った。
このおもいは、強くなっていくばかりだ。

Date: 9月 24th, 2021
Cate: ベートーヴェン

シフのベートーヴェン(その10)

アニー・フィッシャーを聴いたのはハタチの時だった。
来日したアニー・フィッシャーのコンサートに行ったのが最初だった。

それまでアニー・フィッシャーというピアニストを知らなかった。
コンサートに行けば、入口のところで、コンサートのチラシの束を配っている。

その一枚がアニー・フィッシャーのコンサートのもので、
それで、こういうピアニストがいるのか、と知った。

それでも大きな期待を持っていたわけではなく、
とにかくハタチのころ、ベートーヴェンの後期のピアノ・ソナタを、
コンサートで聴きたかった。

それでたまたまアニー・フィッシャーのコンサートが、
料金も高くなくて、私にとってぴったりだった、というのが、
聴きに行った理由ともいえる。

チラシには、どのコンサートのものでもそうなのだが、
悪いことは一切書いてない。
いいことしか書いてない。

それを鵜呑みにして勝手に期待をふくらませて行けば、
がっかりすることもあろう。

アニー・フィッシャーのチラシになんて書いてあったのか、
まったくいっていいほど憶えていない。

音楽の感動は、意外と不意打ちでやってくるものだ。
アニー・フィッシャーの演奏がそうだった。

ハタチの私に、ベートーヴェンの後期のピアノ・ソナタの真髄がわかっていたわけではない。
それでもアニー・フィッシャーのベートーヴェンは凄い、と感じていた。

そんな私の凄いはあてにならない、といわれれば、反論はしない。
アニー・フィッシャーのコンサートの前に、ベートーヴェンの後期のピアノ・ソナタを、
じっくりと何度も聴いていたかというと、それほどではなかった。

それでもアニー・フィッシャーのベートーヴェンは、何か違う、とも感じていた。
初めてのコンサートでのベートーヴェンのピアノ・ソナタだから、そう感じたのかもしれない。

そう自問自答することが、何度かあった。
でもここ最近、TIDALでアニー・フィッシャーをよく聴いている。

ベートーヴェンだけでなく、
ほとんど聴かないシューマンのピアノ協奏曲なども聴いている。

アニー・フィッシャーを初めて聴いたときからほぼ四十年。
ハタチの私の耳は、けっこう確かだった、と自信をもって、いまはいえる。

Date: 9月 24th, 2021
Cate: ショウ雑感

2021年ショウ雑感(その28)

インターナショナルオーディオショウでは、
新製品が中心になるわけだから、
去年、あのブースで聴いた音をもう一度と思っていたところで、
聴ける可能性はかなり低い。

それでもアクシスでの、ファインオーディオのスピーカーシステムを、
FMアコースティックスで鳴らした音は、今年も聴ける可能性はけっこうあったはずだ。

アクシスのブースにいけば、いつも聴けるわけではないが、
時間をうまく合せれば、毎年聴ける音といっていい。

そして毎年聴きたくなる音でもある。

タイムロードがジャーマン・フィジックスを取り扱っていたころは、
Unicornの音は、そんなふうに楽しめた。

いま、そういう音を出しているところは、
私にとってはアクシスのブースのみになってしまった。
それも、どのシステムでもいいわけではない。

くり返すが、ファインオーディオをFMアコースティックスで鳴らした音を聴くと、
また来年も聴きたい(おそらく聴けるであろう)と思う。

今年は私は行かないと決めていたし、
アクシスも出展しない。

Date: 9月 23rd, 2021
Cate: ショウ雑感

2021年ショウ雑感(その27)

(その26)で、今回の出展を辞退する会社がある、ようだと書いた。

今月13日から事前予約が始まったインターナショナルオーディオショウ。
その会場案内を見ると、いままでアクシスが出展していたブースに、
今年から復帰したハーマンインターナショナルが出展することがわかる。

このブースは、これまでずっとアクシスが出展していた。
では、今回アクシスは、どのブースを使うのかと案内図を見ても、
アクシスの名前はどこにもない。

今回出展しない会社はアクシスのことだったのか。
日本インターナショナルオーディオ協議会のメンバーは変更があって、
今年から出展する会社もあれば、常連だった会社がメンバーでなくなったりしている。

テクニクス(パナソニック)も、メンバーではないようだ。
前回(2019年)までテクニクスが使っていたブースが空いている。
でも、ここにはハーマンインターナショナルもしくはアクシスが、というわけではない。

ブースはあるのにアクシスは出展しない。
日本インターナショナルオーディオ協議会のサイトをみると、
アクシスはいまもメンバーである。

アクシスが今回は出展しない理由は知らない。
コロナ禍だからなのだろうか。

コロナ禍がおさまれば、来年以降、また出展するのだろうか。

不遜な人たちがいる(その2)

その1)を書いた時は、今日(その2)を書くことになるとは思っていなかった。

四年前よりも、オーディオ関係者が、
ソーシャルメディアを利用することは増えているように感じている。
そのこと自体は、けっこうなことだ。

けれど、(その1)で書いた人たちが、やはり他にもいたんだな、と思うことがある。
タイトルに「人たち」とつけた。
ほんとうに人たちだな、と思っている。

技術者が自信をもつのはいい。
けれど、なぜかソーシャルメディアを積極的に使っている技術者ほど、
自信が自慢に、いつしか変っているようだ。

(その1)でも書いたことを、またここでくり返すことになる。

オーディオの技術者ではない私だって知っていること(技術、方式)を、
「最初に発見した」、「私が最初だ」と主張する人がいる。

技術者だったら、知っていて当然と思えることを、なぜだか、知らない。
私よりもずっと若い世代の技術者ならば、少しは仕方ないかも、と思いながらも、
それでは技術者とはして未熟だろう、といいたくもなる。

けれど、今回は私と同世代か上の世代である。
なのに、あることについて「私が最初だ」と主張する。

同じことをやっているオーディオ機器は、けっこう前に登場していた。
その後にも、いくつか登場している。
マイナーなガレージメーカーの製品ではない。

ブランドと型番をいえば、誰もが知っているオーディオ機器である。
つまり、少し調べればわかることなのに、それをやらない。

なんと不誠実なのだろうか。

しかも、そういう人たちに限って、指摘されると、知らなかった、という。
確かに知らなかったのだろう。
ならば、「私が最初だ」といわなければいいことだ。

なのに自慢という主張だけはしっかりとする。

Date: 9月 22nd, 2021
Cate: ディスク/ブック

Falstaff(その2)

ステレオサウンド 47号は、1978年夏に出ている。
私は高校一年だった。

クラシックは聴いていたけれど、主に聴いていたのは交響曲とピアノ曲であって、
オペラに関しては、小遣いではオペラのレコードは高くて買えなかった。
つまり、高校時代、まともにオペラ全曲を聴いてはいなかった。

そんな時期に、47号掲載の「イタリア音楽の魅力」を読んでいる。
キングレコードのプロデューサーの河合秀明氏、
黒田恭一氏、坂 清也氏による座談会である。

黒田先生が語られている。
     *
 さっき坂さんが、物語は荒唐無稽でバカバカしいといわれたけれど、まさにそのとおりで、たとえばぼくの大好きなオペラの一つにヴェルディの『トロヴァトーレ』があるんです。このオペラなんかは、荒唐無稽さではかなり上位にくるもので、しかも作品としてよく書けているかというと、かならずしもそうではない。ところがこのオペラが、一流の歌い手、一流のオーケストラ、一流の合唱団、一流の指揮者によって演奏されたときのすばらしさは、ほかにちょっと類がないと思えるほどなんですね。
 べつなことばでいうと、もともと芸術でもないでもないんだけれど、すばらしく見事に演奏され、そしてその演奏を夢中になって聴くひとがいるときに、そこにえもいわれぬ芸術的な香気とかぐわしさが生まれるわけですよね。もともと徹底的にエンターテイメントであっても、結果として、第一級の芸術になりうるんだ、ということでしょう。
     *
黒田先生が語っておられることは、とても大事なことだ。
イタリアオペラに関してだけのことではない。

《その演奏を夢中になって聴くひと》の存在があってこそ、である。
高校生の私は、まともにイタリアオペラを聴いていたわけではなかった。
夢中になる、ずっと手前で踏み止まっていた。