Archive for 9月, 2010

Date: 9月 30th, 2010
Cate: 真空管アンプ

真空管アンプの存在(その64)

真空管アンプは、ソリッドステート(半導体)アンプにくらべて、真空管そのものの構造から、
どうしても物理的なノイズに関しては不利な面がいくつかある。

その代表的なひとつが、ヒーターおよびフィラメントの存在であり、その点火方法であろう。

ときどき、こんな記述をみかける。
「EL34のフィラメントが赤く灯り……」
書いているご本人は、ヒーターと表記せずに、あえてフィラメントとすることで、
言葉の雰囲気に酔われているのかもしれないが、真空管においてヒーターとフィラメントは異る。

フィラメントとは熱電子源である。つまり直熱管においてのみ、フィラメントは存在する。
ヒーターは熱源ではあるが、熱電子源ではない。ヒーターで熱せられたカソードから熱電子が放出されるからだ。

EL34やKT88などは、傍熱管だからヒーターであって、フィラメントは持たない。
ECC82、ECC83といった電圧増幅管も傍熱管だから、フィラメントはない。

これもチョークコイルを、わざわざチョークトランスと呼ぶ人がいるのと同じことなのかもしれない。
トランスは “transformer” であり、”transformer” の意味を調べれば、
チョークはコイルであってトランスではないことはすぐにわかる。

ヒーターよりもフィラメントと、コイルよりもトランスと、とあえて誤記することが、
字面のうえでかっこいい、と思っているのだろうか。

意味さえ通じれば、そんなこまかなことはいいじゃないか、という反論もあろうが、
そういうこまかなことをきちんとせずに、おろそかに取り扱っていたら、それはその人の音に出てしまう。

Date: 9月 29th, 2010
Cate: 表現する

音を表現するということ(続・聴いてもらうということ)

よけいなお世話なんだということはわかっているけれど、それでもいいたいのは、
なにかいそすぎている人がふえている、
もうすこし腰をすえてゆっくりオーディオととり組んだらどうだろう、ということ。

いまのオーディオのことに関しても、情報の伝達がはやいし、信用できるできないかは措いとくとしても、
情報(情報まがいもふくめて)の量は、ネットにアクセスすれば、
いったいどれだけあるのか想像もつかないほど増えている。

オーディオブームだった頃にくらべるとオーディオ雑誌の数は少なくなってきているけど、
得ようと思えば、情報はピンからキリまである厖大なその量は、ブーム時よりも圧倒的に多い。

そして人と人との結びつきも変ってきて、いわゆる「オフ会」が開かれることも、
昔とは比較にならないほど増えているんだろうと思う。

情報が増え、人に聴かせる機会も増え、誰かの音を聴く機会も増えたことの弊害が、
自分のペースを見失い、いつしかまわりの、そんなペースに流されてしまっていることにすら気がついていない、
そんな人も出てきているような気がする。

オーディオはどこまでいっても、その人個人のもの。
個人のものに締切はない。いついつまでにいい音に仕上げなければならない、そういうものじゃない。
じっくり自分のペースで、ゆっくりいい音に仕上げていくだけなのに、と思う。

人に聴かせようと思ったら、その日までにいい音にしたい、と思うのは誰しも同じ。
でも、そのことの弊害(といってはすこし言いすぎか)がどこかしらに出てくる、そんな気は以前から感じていた。

新しいモノを買ったら、心情として、仲の良いオーディオの仲間には、つい言いたくなる。
言ってしまったら、聞いた相手は、とうぜん「聴かせてほしい」といってくるだろう。
自ら言った手前、ことわりにくかろう。そうやって誰かに聴いてもらうこともある。

まだダメだ、ときっぱりことわれる人はいい。
でもそうでない人は、自分の音を大切にするためにも、黙っておいた方がいいのかもしれない。

そして短くても半年、できれば1年、じっくり自分のペースでとり組んで、納得したときに聴いてもらう、
それが、いわば本来の在りかたではないだろうか。

どんなに世の中の流れがはやくなろうと、
1枚のディスクにおさめられた音楽を聴くために必要は時間は、変らない。短くなんてならない。
1時間の音楽を聴くためには、1時間の時間がいる。これからかも、ずっとそうだ、変らない。
急ぐ必要は、どこにもない。

Date: 9月 28th, 2010
Cate: 使いこなし

使いこなしのこと(使いこなしとは)

なにかオーディオ機器を購入する。届く。
すぐに結線をして電源をいれて音を聴きはじめる人もいれば、
電源をいれてもすぐには聴かずに、電解コンデンサーへのチャージが十分にすすみ、
ウォームアップが終るまで聴かないという人もいるだろう。

さらには、CDプレーヤーならディスクを入れて再生状態・リピート状態にして、
1日か2日そのままにして、から、という人もいる。
アンプでも、発熱の多いものでなければ数時間のウォームアップではなく、
1日とか2日とか電源を入れっぱなしにしておいてから、
とにかく本調子が出てからの音を聴く、という人がいる。

人それぞれだから、どれがよくどれがだめなわけではない。
それでも……、とひとついいたいことはある。

「使いこなし」で大事なことは、とにかく「知る」こと。
そして「知る」ためには、「聴く」こと。

買うまでには時間がかかったり苦労したりがあったら、そうやって手にいれたオーディオは、最初の音出しから、
万全の調子にして、できるだけいい音ができる状況をつくったうえで聴きたい、その気持はわかる。

けれど届いたばかりのまっさらの新品の、まだウォームアップもチャージも十分に行われていない、
そのときの音も聴いて、知っておいた方がいい。

まだ冷えた状態の音から聴きはじめる。
そして徐々に暖まってくるとともに、チャージも進んでいく。そのときの音の変化も聴いていく。
そして1日目の音、2日目の音、3日目の音、さらに1週間後の音、1カ月後の音……。
その変化も聴いていくことの積重ねが、そのオーディオ機器を「知る」ことになっていく。

オーディオ機器は、違う製品であれば、ウォームアップによる音の変化、チャージによる音の変化、
エージングによる音の変化───これらは似たところもあれば、製品によってすこしずつ違う。

長時間のウォームアップによって、逆に音がダレてくるものもある。
ウォームアップした音だけを聴いていては、その判断はつきにくい。

ひとつのオーディオ機器で、アクセサリーの類をいっさい変えなくても、
つまり何もいじらなくても音は変化していく。使っていくうちに、そして季節の変化によっても。
音の変化はいくつもあり、それらをきちんと聴いて把握していくことが、
そのオーディオ機器を知ることになっていく。

とにかくあらゆる音の変化を貪欲に聴いていくことが、使っているオーディオ機器を「知る」ことである。
知らなければ、使いこなしは、ただやみくもに音の変化に惑わされることに陥りやすくなる。

音(そのさまざまな変化)を聴いて「知る」こと。
インターネットや雑誌によってのそれと、自分の耳で聴いて「知る」こととは、意味が異る。

音を聴いて「知る」ことが、オーディオの「基本」であり、
「使いこなし」はそこからはじまる、ともいえる。

Date: 9月 27th, 2010
Cate: 「本」

オーディオの「本」(その8)

「展」という漢字には、おしのばす、平らにひろげる、という意味がある。
この「展」こそ、電子書籍を考えるうえでの重要な言葉となっていくように思う。

「展」のつくことばに、展開、展覧、展望がある。
そして開展、進展、発展がある。

いまiPadをプラットホームにした電子書籍(もちろんのオーディオの「本」)にとりかかっている。

Twitterで、さきごろ「展(ひら)く」と書かれている人がいた。
なるほど、と思った。

この「展く」によって、電子書籍の「かたち」がみえはじめてきている。

紙の本では、ページを開く、だった。
電子書籍では、ページを展く、になっていくはずだ。

そして、個人的には「展く」に、もうひとつの意味をこめたい。

Date: 9月 26th, 2010
Cate: コントロールアンプ像

私がコントロールアンプに求めるもの(その6)

回路設計ができるレベルまで到達していなかったからこそ、
ブロックダイアグラムづくりは制限を受けずに考えることができたようにも思う。

なにせアンプ部の記号は三角マークでいいのだから、
その三角マークの中味のことはとりあえず考えなくて、とにかく自由にあれこれ三角マークをつないでいく。

ヤマハのCIやテクニクスのSU-A2のブロックダイアグラムも見た。
SU-A2の技術的な内容については、当時の電波科学に詳細な記事が載っていた。
SU-A2のブロックダイアグラムを諳記しようとは思わなかった。
それでも描き写すことはやっていた。といっても、いまとなってはなにひとつ憶えていないけど。

そうやっていくうちに、ブロックダイアグラムに信号系だけでなく、電源関係も含めて描くようになっていった。
そしてツマミのレイアウトも並行して考えていく。
デザインとはいえないレベルの手前で、とにかくツマミをどう配置すれば、内部配線との絡みを考えて、
うまく(スマートに)つくりあげることができるか。
まだ当時は、いまのように信号系の切替えにリレーを使うことはあまりなかった。
LNP2にしてもロータリ・スイッチを採用している。だから内部配線はフロントパネルまで引き廻される。

たとえばトーンコントロールのBASSとTREBLEのツマミの配置にしても、
マランツのModel 7とマッキントッシュのC22とでは、まるっきり違う。

いまの信号処理に関する技術をつかえば、C22のようなレイアウトでも技術的な無理は生じないだろうが、
あの時代としては、そうとうに大胆なレイアウトである。

まあ、とにかく学生時代は、そういうことにずいぶん時間を費やしてきた。
だからといって、答えを見つけ出せたかというはそうでもない。
そうたやすく見つけ出せる(考え出せる)ものではなかった。
だから、瀬川先生も、あれこれコントロールアンプの記事を書かれていたわけだ。

Date: 9月 26th, 2010
Cate: コントロールアンプ像

私がコントロールアンプに求めるもの(その5)

ここに書いたことをずっと以前やっていた。
これだけでなくブロックダイアグラムも、あれこれ検討していた。
いきなり回路の設計は無理でも、ある程度の知識がついてくれば、
ブロックダイアグラムはとっつきやすいだけでなく、
ゲイン配分をふくめると、なかなか考えるところがあってあきることはない。

それに、私がこんなことをやっていたは、CD登場の数年前だから、
フォノイコライザーを、NF型にするのか、CR型なのか、それともCR-NF型、さらにはLCR型か。
方式の違いによりブロックダイアグラムも変ってくるし、
ライン入力を無視すれば、というすこし極端なゲイン配分も考えたりしていた。

ブロックダイアグラムで、まず参考にしたのは、やはりマークレビンソンのLNP2のそれである。
カタログに載っていたLNP2のブロックダイアグラムをそっくりそのまま描き写していた。

瀬川先生は、ラジオ技術を中心に、真空管アンプの製作記事をいくつか発表されている。
若い友人のOさんから、国会図書館でそれら記事をコピーしたものをいくつかもらっている。

ご自身、パワーアンプよりもコントロールアンプのほうに「多くの興味を抱くタイプ」と、
ステレオサウンド 52号にも書かれているように、瀬川先生の製作記事で中心となっていたのは、
コントロールアンプへの考察でもある。
そのくらい、コントロールアンプを自作しようすると、あれこれ考える楽しみが次々と出てくる。

回路の設計にはたどりつけなくても、ブロックダイアグラムと並行してできる作業に、
ファクション類をどうするのか、マークレビンソンのML6のような極端な形態にしてしまうのか、
LNP2のようなひと通り機能を備えたモノにするのか、
当時フル機能を装備したヤマハのCIやテクニクスのSU-A2を目ざすのか。
そして、フロントパネルのツマミの配置をどうするのか。

難しいところであり、楽しいところでもある。

Date: 9月 25th, 2010
Cate: コントロールアンプ像

私がコントロールアンプに求めるもの(その4)

あり余るお金があり、それらを置いておけるだけの広い空間があれば、
回路図を見つけ出してきて、それらのコピーをつくろうなんてことを考えずに、
それらのプロ用機器の程度のよいモノを、それこそ金にあかせて集めてきて、その機能だけを使う……。
そういう人もいるかしれないが、私にそれだけのお金とスペースがあったとしても、
おそらく、そういったことはやらないと思う。

なんらかの「かたち」にまとめたいと考える。
こんなことを、どこかに、どうやってまとめるか、となると、
やはりコンロトールアンプとしてまとめるのが現実的な「かたち」である。

ここで断わっておくが、この項は、コントロールアンプとはどうあるべきか、とか、
現状のコントロールアンプの形態についての考察などについて、書いていくわけではない。

タイトルに「私」とつけたように、あくまでも個人的な、どこまで実現できるのかもはっきりしない、
けれども、こういったコントロールアンプがあれば、私のオーディオはずいぶん楽しくなるだろう的なことである。

とにかく、ここに書き留めていくことで、
私以外、誰も欲しがる人はきっといないであろうコントロールアンプの「かたち」をはっきりとさせていきたい。
(こういう、他の人にとってはどうでもいいことをあれこれ細かいところまで考えていくのは、かなり楽しいこと)

Date: 9月 25th, 2010
Cate: コントロールアンプ像

私がコントロールアンプに求めるもの(その3)

アナログディスクの全盛時代に、名盤とよばれるレコードの製作過程において使われてきた機器、
それらの一部を再現することを思いついたのには、回路図を入手できるようになったことのほかに、
LPからCDへと移り変り、これからさきCDから配信へと移り変っていくことで、希薄になっていくもの、
それについて考えてたことも関係している。

パッケージメディアとしての特色、その色の濃さに関しては、LPからCDに移った時点で、かなり薄れた。
これについては、別項、ショルティの「指環」のところで書いていく。

これから先、アナログディスクの名盤もハイビット、ハイサンプリングでリマスターされて配信されてくるであろう。
そうなることを望んではいる反面、「色」はある意味失われていく。
もちろん違う意味で鮮明にもなっていくであろうが、その失われていく「色」に、
いさぎよく別れを告げることはできるかといえば、正直いって難しい。
再生側のどこかで、その「色」をなんとかとり戻すことはできないだろうか、
そのための手法として、LPの名盤に刻まれた音が通ってきた「モノ」を、
再生側にも用意して、そこをもういちど通らせる。
そうすることで、「色」が復活してきはしないだろうか、
そんな妄想アクセラレーターをONにしてしまったようなことを思いついたわけだ。

だから最新録音やこれから登場する録音に対しては、こんなことをやろうとは思っていない。
あくまでも、まだレコード会社による、レーベルによる、
録音年代・手法による音の違いの特色がよりはっきりしていた時代の録音を、
アナログディスクではなく、これから先のフォーマットで聴いていくために思いついたことである。

Date: 9月 25th, 2010
Cate: コントロールアンプ像

私がコントロールアンプに求めるもの(その2)

これまで使ってきたオーディオ機器のなかでも、とくに気に入っていたものについては、
できるだけ回路図を、どこからか入手してきていた。
もちろんどうやっても手に入らないものあったし、
まだ手にいれていなくても、いつかは……と思っているモノに関しても、事前に手に入れるようにしていた。

回路図を見たからといって、音を良くすることにつながっていくことは、ほとんどない、といってもいい。
アンプやスピーカーのネットワークを改造しようと考えている人ならば、
回路図の入手は、音を良くする行為──ただ必ずしも改良につながるわけでもないが──につながっていく。

私の場合、知的欲求として、なにか特別なものを感じさせてくれるオーディオ機器が目の前に現れると、
とにかく回路図がどうしても見たくなる。

素子数が少なければ、実物をみて回路図をおこす、ということも、
以前ヴェンデッタリサーチのヘッドアンプ、SCP1でやったことがある。
やればわかるが、SCP1程度の素子数でも、けっこうな時間がかかる。
これがもうすこし規模の大きいコントロールアンプやパワーアンプになれば、
やってやれないことはないだろうが、まず無理といえる。

いまあらゆる企業がウェブサイトを公開しているし、
個人のサイトも、いったいどれだけの数があるのは想像もつかないほどある。
そういったサイトの中には、以前に手にいれたかった回路図を公開しているところが、さがせばある。

単にGoogleで検索をかけても、すぐには、というか、ほとんど見つからないにちかいといってもいいが、
あるサイトのリンクのページを見て、リンク先のサイトをひとつひとつ見ていく。
さらにそこから、またリンク先を、ということをやっていくと、
思わぬところで、欲しかった回路図が公開されている。

そうやっていくつかの回路図をダウンロードしていくうちに、ふと思いついたのは、
ラインアンプとして、スチューダーのA80、C37、テレフンケンのM10、
これらに匹敵する他のオープンリールデッキ、
それらの再生アンプのコピーをつくってみる、ということ。

Date: 9月 24th, 2010
Cate: コントロールアンプ像

私がコントロールアンプに求めるもの(その1)

感覚的には、今日のような日に真空管アンプの音、
それも一般に云われているような真空管アンプのあたたかみの音を、一年のうちでもっとも聴きたくなる。

真冬になればもっと気温はさがる。けれど、今日のような感じだと、まだなんらか暖房をいれるには、
まだちょっと早い気がする、という気持があって、とくに部屋を暖めるようなことはしていない。
もっと寒くなれば、部屋を暖める。だからなのだろうが、ほんのりあたたかい音が欲しているのかもしれない。

真空管アンプの音といっても、じつにさまざまで、思い浮べる音のイメージも人によってさまざまのはず。
私が聴きたいと欲しているのは、ウェスターン・エレクトリックの真空管を使った、良質のアンプの音。

こんな説明をされても、具体的な音のイメージは、
読まれるかたの頭に中には浮かんでこないことはわかったうえで、こんな表現をあえてしている。

それではそんな真空管アンプをどこにもってくるかといえば、
私の場合、コントロールアンプのところにもってきたい。
そうたとえば、以前ラジオ技術誌に、
新氏が発表されていたウェスターン・エレクトリックの101系列の直熱三極管の単段アンプ。
それほど大がかりでないアンプを、いま使っているコントロールアンプと交換するのもいいけれど、
CDプレーヤーとコントロールアンプのあいだ、
もしくはコントロールアンプとパワーアンプのあいだ、のどちらかに挿入するのがいい。

ここ数年、こんな日には「いつか作ろう」と思っている。思っているだけに、まだとどまっている。
そんなことを思っている一方で、この夏にはいくつかの回路図をインターネットで見つけてダウンロードしていた。
おもに探していたのは、スチューダーのC37、A80、クワドエイトのLM6200、
その他、アナログ全盛時代の録音用機材の回路図である。

テレフンケンのマグネトフォンM10の再生用アンプの回路図はもっている(実物ももっている)。
ノイマンの回路図もいくつか以前からもっている。

それらの回路図を眺めているときに、ふと思いついたことがあって、回路図あれこれ探し廻った。

Date: 9月 24th, 2010
Cate: 基本

「基本」(その8)

「発端への旅」(基本へ立ち返ること)と前に進むことは、メビウスの環における表と裏のようにも思えてくる。
どちらが表(陽の当るほう)で、どちらが裏(陰になるほう)とつねにはっきりとしているのではなく、
メビウスの環のとおり、いつのまにか表立ったのが裏になり、裏にいたものが表になる、というぐあいに。

Date: 9月 23rd, 2010
Cate: 基本

「基本」(その7)

オーディオの世界に入ってくるきっかけは、人それぞれだから、
必ずしも「基本」から入ってくるわけではないないだろう。
オーディオに対する関心が強まってきてから、そして向上のために基本・基礎をしっかりさせておくべき必要性から、
「基本」をきちんと学ぶ人も少なくないはずだ。

「基本」をしっかりと身につければ、あとはもう前に進んでいくだけ、であろうか。
前に進んでいくことで、新しい発見があろう。

けれど新しい発見は前に進むことだけにあるものではない。
オーディオとながいことつきあってきた人ほど、身につけたものが多い人ほど、
いまいちど「基本」に立ち返ってみると、以前に学んだときには見つけ出すことのできなかった発見が、
いくつも見つけ出すことができるはずだ。

「基本」はすべての人に共通しているものはあるし、人それぞれの「基本」ある。
私にとっての、人それぞれの「基本」になるのは、やはり五味先生と瀬川先生の文章ということになる。

だからこれまでにも幾度となく、その「基本」に戻る。
そのたびに、かならずなにか新しい発見がある。だから戻っていくのだが。

コリン・ウィルソンの著書に「発端への旅」(原題:VOYAGER TO A BEGINNING)がある。
「発端への旅」、いいタイトルだと、いまごろ思っている。
この本を手にいれたのは20年近く前のことなのに。

「発端への旅」だけがすべてではないし、前に進んでいくことも大事だ。
それに「基本」も、こういった性質のものだけではなく、オーディオを構成する技術の「基本」──、
つまりすべての人に共通する「基本」にも立ち返ってみることも、
新しい発見、あえていえば、新しい再発見のためにも必要なことだと認識しておきたい。

Date: 9月 22nd, 2010
Cate: 欲する

何を欲しているのか(その7)

ブレーキは、スピードをつねに抑えるためにあるものではないはずだ
(車は運転しないので想像が多分に含まれている)。
すくなくともオーディオにおいて菅野先生の言われていた「感覚の逸脱のブレーキ」は、
つねにブレーキを効かせながら安全に、という意味ではない。

オーディオは己の装置で、変化をとことん味わう必要が、必ずある。
なにも常に変化させる必要があるというわけではなく、ある一時期であったり、周期的にでもあったり、
とにかくありとあらゆる変化を経験しておくことは、絶対に無駄にはならない。

だが少しずつの変化なら、元に戻そうと思えばすぐにもどせるだろう、という意識から、
大胆になれない人もいるだろう。いい音を求めたい……、けれど大きく変化させてしまって、
それにより音が以前より悪くなったら、せっかくうまいとこ鳴っていたのに、もう元には戻せそうにない……。
つい臆病になることは、誰にでもあることだろう。

そういう意識が、行動にブレーキをかけてしまっている。
行動だけではなく、考えにもブレーキをかけているかもしれない。

けれどヘッドフォンという「感覚の逸脱のブレーキ」があれば、ときに大きく逸脱してしまったとしても、
修整はそう困難なことではなくなる。
ヘッドフォンは行動のブレーキではない、あくまでも「感覚の逸脱のブレーキ」である。
そのちがいをはっきりと認識したときに、
オーディオへのとりくみは、しずかではあろうが確実に変っていくはずだ。

Date: 9月 21st, 2010
Cate: 欲する
2 msgs

何を欲しているのか(その6)

全体的にインフレ傾向にあるといえる、いまのこのオーディオの状況の中で、
しかもながくオーディオをやってこられて、こつこつシステムを改良・構築してこられた人にとって、
10万円では、直接、そのシステムの音を良くするものを、何かひとつでもいいから購入しようとしても、

いったい何があるんだろうと、考え込んでしまう。

でも自作や録音であれば前述したように、10万円あれば本人にやる気さえあればかなり楽しめる。
その経験は、直接的にはないが間接的には、
いま鳴らしているシステムの音を確実に次の段階にすすめる何かへと、
その人の中で変化して実を結んでいく、と信じている。

10万円では、いまの、このような状況下では、新品で、キャリアの長いオーディオマニアを満足させるものが、
はたしていくつあるのだろうか。

ひとつある。ヘッドフォンがあった。
10万円の予算があれば、最高価格のものはヘッドフォンといえど無理だが、
そうとうにいいモノを手にいれられる。
ヘッドフォン端子のないアンプを使われている方も、いまや少なくないだろう。
でも、ヘッドフォン、イヤフォンがブームになっているおかげで、
ヘッドフォン用アンプというジャンルが確立されてきている。

量販店のオーディオのコーナーに行くと、人が少ない。
けれど隣にあるヘッドフォン、イヤフォンのコーナーは人があふれている。
いろんな人が来ている。

スピーカーの鳴らすステレオフォニックなイメージと、
ヘッドフォンのバイノーラルなイメージはいっしょくたにできるのではないが、
スピーカーの調整、とくに帯域バランス調整の確認には、いいヘッドフォンは役に立つ。

部屋の音響特性の影響を受けないヘッドフォンが、音の理想再生とは私はいわないが、
部屋の影響を受けずに聴くことが可能なヘッドフォンの音は、参考になる。

ずっと以前に菅野先生は、ヘッドフォン(そのときはスタックスの製品をとりあげられていたはず)を、
「感覚の逸脱のブレーキ」と表現されていた。

ブレーキがあれば、思い切ったことに挑める。ここが最も肝要なことではないだろうか。

Date: 9月 20th, 2010
Cate: 表現する

音を表現するということ(聴いてもらうということ)

自分の体臭はわからない。それと同じで自分の音の色もわからない。
だからこそ、信頼できるひとに聴いてもらい指摘してもらうことで、自分の音の色・クセを知ることができる。
そう、ずっと以前から語られている。

たしかに自分の体臭はわからないものなのだろう。
これについては、とくに反論するつもりはない。

だが、音に関しては、そう安易にとらえてどうするんだ、と反論したい。
ほんとうに自分の音の色は、誰かに聴いてもらい指摘されなければわからないものなのか。

音は体臭と違い、正面から向ってくる。
自分の音といっても、あくまでも自分が鳴らしこんだスピーカーシステムから鳴ってくる音。
体臭といっしょくたにとらえることはできないだろう。

それに「音楽」を聴く。
さまざまな音楽──それは音楽のジャンルだけにとどまらず、いろんな年代の、いろんな国の、
いろんなレーベルの、じつに多彩なレコードをわれわれは聴いている。
演奏のスタイルも違えば、おさめられた音も、一枚として同じレコードは存在しない。
すべてが異っている。このことが、自分の音の色・クセを教えてくれることになる。

理想は、かけるレコードがかわればがらりと、そこに再現される世界がかわる。
ただ、どんなレコードをもってきても、頑固に変らないところがある、
多少はかわっても大すじでは同じところもある。

四六時中、数少ないレコード、それも、そこにおさめられている音楽も音も似通っているものばかりかけていては、
そういうレコードによる違いには気づきにくくなるけれど、
そうじゃなく好きなレコードを鳴らしていると、自然に録音の年代の違いもどんどんひろがっていく。

それこそSPの復刻ものから最新の録音まで、そのあいだには真空管式の機器全盛の時代のものもしれば、
初期のトランジスターの、いわゆる「石くさい」音のものもあるし、
モノーラル、ステレオの違いは当然とし、マイクロフォン・セッティングも時代によって、国によって、
レーベルによって、そして録音エンジニアによって、
そういう「違い」のコレクションが、知らず知らずのうちに充実してくる。

それらのコレクションを鳴らしていれば、そしてオーディオのチューニングをしていけば、
どうしても拭いとれない何かがあることに、いつかは気がつく。

それが、いわゆるその人の音の色だ。

自分自身でそこに気がつくよりも誰かに聴いてもらった方が早いだろう。それが楽だ。
だからといって、聴いてもらうことに頼っていては、自分の音の色を知ったつもりになるだけで、
なにも表現できていない、いつまでたっても表現できずじまいに陥るかもしれない。
楽な(安易な)道を選ぶのはその人の勝手だが、それで「オーディオ」と呼べるだろうか。