Archive for category 欲する

Date: 6月 14th, 2017
Cate: 欲する

資本主義という背景(その6)

欲(よく)には、慾もある。
心があるかないかの違いであり、
なぜふたつの(よく)があるのか。

資本主義における(よく)とは、欲なのか慾なのか。

さまざまな(よく)がある。
食欲、色欲、物欲、性欲などがある。

(よく)に、純粋な、というのはおかしいことかもしれないが、
それでも、その(よく)は、本当に欲している(よく)なのか、と思う。

デコレートされた(よく)なのかもしれない、と思うからだ。

Date: 4月 9th, 2017
Cate: 欲する

何を欲しているのか(その23)

その22)で終りのつもりだった。
なので、この(その23)は蛇足のようなもの。

「グレン・グールドのピアノしか聴かない」、
そう言葉にしてしまう人は、
グレン・グールドによって演奏されたバッハ、ベートーヴェン、モーツァルト、ブラームスなど、
つまりは音楽を欲しているのではなく、
グレン・グールドによってなされた演奏を、
知的アクセサリーのようなものとして欲しているだけなのかもしれない。

私に似合うのは、グレン・グールドだけ──、
いいかえると、そういうことのような気もする。
「グレン・グールド」のところを、他の固有名詞に置き換えてみる。

有名ブランドに置き換える。
「聴かない」を「身につける」に置き換える。
はっきりとしてくる。

ただ、特定の音楽を知的アクセサリーとして扱うことは、
己をデコレーションしていくだけでしかない。
デザインしていくことではなく、そこから離れていくだけだ。

Date: 3月 19th, 2017
Cate: 欲する

iPhoneの十年とJBLの十年

昨年12月に書いているように、
2016年、JBL創立70周年記念モデルとして、
JBL PROFESSIONALのM2をベースに、コンシューマー仕様に仕上げたものだと予想していた。

結果は大外れだった。
登場したのは4312SEだった。

それでも、こんなことを考えていた。
JBLはM2のコンシューマー版を開発していた。
けれどうまくいかなかったから、急遽4312SEを仕上げてきた、と。

M2は専用のエレクトリッククロスオーバーによるバイアンプ駆動で、
そのままコンシューマー用とするわけはなく、
内蔵LCネットワークでM2に匹敵するパフォーマンスを目指したけれど、
70周年記念モデルとしては間に合わなかった……。

もしかすると75周年記念モデルとして発表するかもしれない、とまで思っている。
たぶん外れるだろう。

今年はiPhone誕生10周年である。
JBL創立60周年(2006年)の時点では、iPhoneはなかった。

つまりJBL創立60周年から70周年の十年間は、iPhoneとともにあった、といえる。
事実、JBLの製品ラインナップも、この十年でかなり変化したところがある。

このことに気づけば、JBLが70周年記念モデルに4312SEをもってきたのは、
70周年記念モデルということよりも、
60周年からの十年間を象徴するモデルなのか、と納得できるところもある。

Date: 2月 17th, 2017
Cate: 欲する

資本主義という背景(その1のその後)

その1)で、サムスンによるハーマンインターナショナルの買収のニュースについて触れた。

この時点では買収で合意した、とあり、買収が完了していたわけではない。
その後、どうなったのか検索してみると、1月の時点ではまだ完了していなかった。
これだけの大型買収だと、両社が合意していても、すんなりとはいかないようだ。

そして今日(2月17日)、サムスンの事実上のトップが退歩された、というニュース。
ハーマンインターナショナルの買収は完了していたのか、
そうでなければどうなるのだろうか、と、また検索してみると、
中央日報の2月14日の記事『サムスン電子「80億ドルでハーマン買収」17日に決着』があった。

2月17日は、今日である。
アメリカ時間の2月17日だろうから、まだ決着はついていないのだろうか。

この日にはあわせての逮捕というわけではないと思うが、
すんなり決着とはいかないような気もする……。

Date: 11月 19th, 2016
Cate: 欲する

資本主義という背景(その5)

丸山健二氏の「新・作庭記」(文藝春秋刊)からの一節を引用するのは、これで三回目だ。
     *
ひとたび真の文化や芸術から離れてしまった心は、虚栄の空間を果てしなくさまようことになり、結実の方向へ突き進むことはけっしてなく、常にそれらしい雰囲気のみで集結し、作品に接する者たちの汚れきった魂を優しさを装って肯定してくれるという、その場限りの癒しの効果はあっても、明日を力強く、前向きに、おのれの力を頼みにして生きようと決意させてくれるために腐った性根をきれいに浄化し、本物のエネルギーを注入してくれるということは絶対にないのだ。
     *
現代の資本主義についての文章に思えてならない。
《真の文化や芸術から離れてしまった心》、《虚栄の空間を果てしなくさまよう》、
《結実の方向へ突き進むことはけっしてなく》、《それらしい雰囲気のみで集結》、
これらは現代の資本主義のもつ側面を表現していると思えるのだ。

Date: 11月 16th, 2016
Cate: 欲する

資本主義という背景(その4)

ハーマン・インターナショナルのサイトにも、
JBLの70周年記念モデル4312SEのページが公開されている。

そこには大きく「JBL 70周年記念モデル 4312SE シリアルナンバー限定予約」と表示されている。
日本だけのキャンペーンのようだ。

シリアルナンバーの証明書もついていくる、とある。
なんだろう、有難みをまったくといっていいほど感じない。
4312SEというスピーカーが、
JBLの70周年記念モデルとしてふさわしいかどうかなんて、これを見て、どうでもよくなってきた。

これはマーケティングなのだろうか。
そうなのだろう。

私は資本主義について、専門的な知識は持ち合わせていない。
「資本主義という背景」という標題をつけておきながら、である。

理想の資本主義について語れるわけでもない。
そんな私が、現代の資本主義について感じているのは、
「資本主義とは広告である」だ。

本来の資本主義からは離れてしまっている捉え方だろうが、そう思えてしまう。

Date: 11月 15th, 2016
Cate: 欲する

資本主義という背景(その3)

サムスンのハーマン・インターナショナルの買収のニュースの数日前、
大阪ハイエンドオーディオショウで、JBL創立70周年記念モデルが参考出品されている。

私は70周年記念モデルは、JBL PROFESSIONALのM2をベースに、
コンシューマー仕様に仕上げたものだと予想していた。

M2は内蔵ネットワーク仕様ではなく、
専用のプロセッサー兼デヴァイダーによるバイアンプ駆動。
M2をコンシューマー用に仕上げるには、内蔵ネットワークになるだろうから、
ここをどう処理するのか、そこに興味もあった。

そしてデザインも、である。
M2は、目の前に置きたいスピーカーとはいえない。
音を聴けば、そんなことはわすれてしまうかもしれないにしても、だ。

秋には発表されると思っていた70周年記念モデルは、なかなか出てこなかった。
上記の点で苦労しているのかな、などと勝手に思っていたところに、
4312SEが、70周年記念モデルという発表である。

型番からすぐにわかるように、4312のspecial editionである。
もしかすると……、というおもいがなかったわけではない。

JBLは40周年記念モデルとしてS101を、50周年記念モデルとしてCentury Goldを出している。
そんな前例があるから、70周年記念モデルが4312であっても、そうなのか、と納得できないわけでもない。

でも60周年記念モデルとしてDD66000を出したJBLに、勝手に期待していた。
それがはずれた(裏切られた)からといって、特に何かを書こうとは思っていなかった。

でも今回の買収のニュースである。
どうしても、あれこれおもってしまう。

Date: 11月 15th, 2016
Cate: 欲する

資本主義という背景(その2)

CDプレーヤーが1982年に登場してから、そんなに経っていないころから、
CDプレーヤーの市場への投入は早すぎた、という意見が出てきはじめた。

初期のCDプレーヤーの音は、良さもあったけれど、
そういわれてもしかたない面も多分に含んでいた。

早すぎた、という人たちは、
もっとメーカー内で研究を重ねて、その上で出すべきで、
そうすればネガティヴな意見はあまりでなかったであろう、と。

頷きそうになるが、果してそうだろうか。
市場に出たからこそ、CDプレーヤーの急速な進歩があった、と考えるからだ。

メーカーの研究室・試聴室という閉じられた空間(環境)では競争がない。
市場に製品を投入するからこそ、そして資本主義の市場だからこそ競争があり、進歩がある。

市場に投入すれば、さまざまなフィードバックも得られるし、普及もする。
普及することでの恩恵も、メーカーにはある。

だから、私は早すぎた、とはまったく思っていない。
いい時期に登場した、とさえ思っている。

1982年10月だったからこそ、グレン・グールドのゴールドベルグ変奏曲を、
われわれはCDで聴くことができた。

Date: 11月 14th, 2016
Cate: 欲する

資本主義という背景(その1)

世の中は動いている。
資本主義の世界は、つねに動いている。
こんな当り前のことをすごく実感したのが、今日のニュースである。

サムスンがハーマン・インターナショナルを買収することで合意した、というニュースには、
ほんとうに驚いた。

ハーマン・インターナショナルが買収されることに驚いたわけではない。
ご記憶の方も多いと思うが、十年ほど前にも、ハーマン・インターナショナルの買収はニュースになっている。
その時は流れてしまった。

今回のサムスンによる買収は80億ドル。
流れてしまった買収騒ぎのときも、確か80億ドルと発表されていた。
同じ金額なのか、と思いながら、買収するのがサムスンであることに驚いた。

このニュースは、いろんなことを考えさせる。

2010年8月13日に、twitterに下記のことを投稿した。
     *
オーディオ業界もマネーゲームに翻弄されている、ときく。それによって復活するブランドもあれば、没落していくブランドもある。なのに、オーディオ誌は、そのことに無関心を装っているのか、関係記事が出ることもない。オーディオは文化だ、というのであれば、きちんと取材し報道すべきだろう。
     *
これに対して、あるオーディオ評論家から反論があった。
そんなことに読者は関心をもっていない、有意義な記事にはならない、と。

ほんとうにそうだろうか。
アルテックが没落していった最大の理由もそこだ。
アルテックもハーマン・インターナショナルに買収されて傘下に入っていれば、
ずいぶん違っていたはずだ。

アルテックのようなメーカーもあれば、
買収先の会社によって、製造上の無駄が省かれ、
買収前と同じ製品でありながら、価格が安くなった、という例もある。
あるブランドが買収され輸入元がかわり、修理体制がひどくなったこともある。

ハーマン・インターナショナルも、これまでにさまざまなブランドを傘下におさめ、
ブランドのいくつかは離れてもいっている。
そのことについて思うところはある。

私に反論されたオーディオ評論家は、
「オーディオは文化だ」とは一度もいっていない、とのことだった。
それはそれでいい。人それぞれである。

人それぞれであるのだから、そのオーディオ評論家が有意義な記事にはならないと考えても、
すべての読者がそうなのではないはずだ。

Date: 2月 2nd, 2016
Cate: 所有と存在, 欲する

「芋粥」再読(その1)

別冊 暮しの設計 No.20「オーディオ〜ヴィジュアルへの誘い」には、
安岡章太郎氏の「ビデオの時代」が載っている。

そこに、こう書かれている。
     *
 七十歳をこえた小生ぐらいの年になると、中学生の頃から見てきた数かずの映画の大部分を忘れてしまっているので、これをビデオで繰り返し見ているだけでも、余生を娯しむには十二分のものがある。いや、昔見たものだけではない、見落したものや、全く知らなかったものまでがビデオになっているので、こういうものを全部入れると、もう残り少ない自分の人生を総てビデオ鑑賞のために費やしても、足りないことになるかもしれない。
 先日、岡俊雄氏からキング・ヴィドゥアの名作『ザ・ビッグ・パレード』のビデオを拝借したとき、岡さんは現在、エア・チェックその他の方法で見たい映画、気になる映画のビデオを殆ど蒐集してしまったが、そうなると却って、もうビデオを見る気がせず、録画ずみのカセットの山をときどき呆然となって眺めておられる由、伺った。
「われながら奇現象ですな、これは」
 と、岡さんは苦笑されるのだが、私は芥川龍之介の『芋粥』の主人公を思い出した。実際、充足ゆえの満腹感が一種の無常観をさそうことは、現代日本の何処にでも見られることだろう。
 考えてみれば、庶民に夢をあたえてくれるものが映画であり、だからこそ映画撮影所は「夢の工場」などと呼ばれたわけだろう。そして庶民の夢は、つねに多分に物質的なものであるから、一旦夢がかなえられると直ちに飽和点に達して、夢見る能力自体が消えてしまうわけだ。
     *
芥川龍之介の短篇「芋粥」は、学生のときに読んでいる。
いまでは青空文庫で、インターネットにつながるのであれば、すぐに読める。

手元に「芋粥」がおさめられている文庫本がないから、
青空文庫からダウンロードしてiPhoneで読みなおした。

長くはないから、すぐに読み終えるし、
インターネットで検索すればあらすじもすぐに読める。
それに、昔読んでいる、という人のほうが多数だろう。

主人公である五位にとっての芋粥は、現代の私たちオーディオマニアにとっては、何にあたるのだろうか。
レコードがまず浮ぶ。

LP、CD、その他の方法で入手できる録音の数々。
ずっとずっと昔にくらべれば、レコードの価格は相対的に低くなっている。
それだけでなく、ここ十年以上、各レコード会社から発売されるCDボックスの枚数と、その安さ。
同時に、購入もインターネットを通じて簡単にできるし、すぐに配達される。

このブログを読まれている方のなかには、
リスニングルームに未開封のCDボックスがあるという人もいると思う。
それもひとつやふたつではないかもしれない。

2ちゃんねるのクラシック板には、
《未聴のCDの山を見て人生の残りを考える》というスレッドがあり、かなり続いている。

Date: 12月 29th, 2015
Cate: 欲する

何を欲しているのか(続・兵士の物語)

ストラヴィンスキーの「兵士の物語」に出てくる──、
 一つ幸せなことがあればぜんぶ幸せ
 二つの幸せは無かったのと同じ
──だと。

一つの幸せ、二つの幸せということは、
つまりは幸せを欲している、ということではないのか。

幸せになりたい、と思う(願う)。
そして、ある幸せを手に入れる。
そこで感謝する。

けれどしばらくすると、もうちょっとだけ幸せになれたら、と思う(願う)のが、
欲するということなのだろうか。

ここで、本当に欲しているのはなんなのだろうか。

ロマン・ロランがベートーヴェンをモデルとしたといわれている「ジャン・クリストフ」、
その中でもっとも有名なのに、
《人は幸せになるために生まれてきたのではない。自らの運命を成就するために生まれてきたのだ》がある。

ロマン・ロランらしい、とも思えるし、ベートーヴェンらしいとも思える。
ここには一つの幸せも二つの幸せもない(のか)。
ここでは、何ものも欲していないのか。

Date: 11月 20th, 2014
Cate: 欲する

何を欲しているのか(兵士の物語)

ストラヴィンスキーの作品に「兵士の物語」があり、
ジャン・コクトーの語り、マルケヴィチ指揮によるフィリップス盤は録音の良さでも知られていた。
私が買ったのは再発盤。21ぐらいのときに買っている。

そのころは短かったけれど、頻繁に聴いていた時期でもあった。
コクトーの声が生々しかったのも、理由のひとつだった。

コクトーが最後の方で語る。

いま持っているものに、昔持っていたものを足し合わそうとしてはいけない。
今の自分と昔の自分、両方もつ権利はないのだ。
すべて持つことはできない。
禁じられている。
選ぶことを学べ。
一つ幸せなことがあればぜんぶ幸せ。
二つの幸せは無かったのと同じ。

このセリフだけがコクトーの声とともに印象に残っている。

幸せはひとつだから幸せなのかもしれない。
ふたつ以上の幸せを求めようとするから、幸せになれないのかもしれない。
そうなんだろうなぁ……、と思いながらも、実感はなかった。

いまも正直なところ、よくわからない、というか、実感していないような気がする。

でもほんとうに大切なレコードは一枚あればいいのかもしれない、とは最近思うようになってきている。
愛聴盤といってしまうレコード(LP、CD)は、決して一枚だけではない。
かなり厳選したとしてもそこそこの数にはなる。

その中に、一枚の大切な愛聴盤はすでにある。
私だけの話ではなく、ながくレコード(オーディオ)によって音楽を聴いてきた人ならば、
かならず、そういう一枚はある。

その存在にいつ気づくか、である。

Date: 7月 20th, 2012
Cate: 欲する

何を欲しているのか(その22)

グレン・グールドのピアノしか聴かない人がいる、という話は、
黒田先生の著書「音楽への礼状」のグールドの章のところに出てくる。

この、グールドについて書かれた章で、黒田先生は”A Glenn Gould Fantasy”について、ふれられている。
     *
戯れということになると、ぼくは、どうしても、『ザ・グレン・グールド・シルバー・ジュビリー・アルバム』の二枚目におさめられていた、あの「グレン・グールド・ファンタジー」のことを考えてしまいます。あの奇妙奇天烈(失礼!)なひとり芝居を録音しているときのあなたは、きっと、バッハの大作「ゴルドベルク変奏曲」をレコーディングしたときと同じように、真剣であったし、同時に、楽しんでおいでだったのではなかったでしょうか。もしかすると、あなたは、さまざまな人物を声で演じわけようと、声色をつかうことによって、子供っぽく、むきになっていたのかもしれません。
「グレン・グールド・ファンタジー」は、悪戯っ子グレンならではの作品です。ほんものの悪戯っ子は、「グレン・グールド・ファンタジー」のために変装して写真をとったときのあなたのように、真剣に戯れることができ、おまけに、自分で自分を茶化すことさえやってのけます。あなたには、遊ぶときの真剣さでピアノをひき、ピアノをひくときの戯れ心でひとり芝居を録音する余裕があった、と思います。そこがグレン・グールドならではのところといえるでしょうし、グールドさん、ぼくがあなたを好きなのも、あなたにそうそうところがあるからです。
     *
グレン・グールドのピアノしか聴かない人は、”A Glenn Gould Fantasy”は聴かない。
そうだとしたら、グールドしか聴かないグールドの聴き手には、真剣に戯れる余裕がないのかもしれない。

グレン・グールドのピアノしか聴かない──、
そう口にした人は、なぜわざわざ、こんなことをいってしまうのか。

グレン・グールドのピアノしか聴かない、ということで、
なにかをアピールしたいのだろうが、そのアピールしたいことは、
別の、グレン・グールドのピアノしか聴かない人にとって、
アピールしたいことはそのまま伝わり同意を得られるだろうが、
“A Glenn Gould Fantasy”を聴いて楽しみ、グルダのピアノも聴き、もちろんそれだけではない、
他のピアニストの演奏も聴いてきている人にとっては、
「グレン・グールドのピアノしか聴かない」によって、このことばを発した本人がアピールしたいことには、
同意はできないし、窮屈なものを感じてしまうのではないだろうか。

グレン・グールドのピアノしか聴かないことの窮屈さから、
「感情の自由」は追い出してしまうし、押し殺してしまうことにもなるのではないか。
そうやって、本人だけが気づかぬうちに、音楽の聴き手としての「感情の自由」をなくしてしまう。

Date: 10月 24th, 2011
Cate: 欲する

何を欲しているのか(その21)

グレン・グールドのピアノしか聴かない──、
こんなことを口にする音楽の聴き手がいるのは、日本だけなのだろうか。

グレン・グールドは、コンサートをドロップアウトしている。
だから、いうまでもないことだけど、
グールドの音楽の聴き手は、グールドのレコード(録音)の聴き手である。

グールドは19801年に、録音25周年を記念して “The Glenn Gould Silver Jubilee” を出している。
この2枚組のアルバムは、日本では1枚ものとして発売されている。
なにも2枚分の録音を1枚にまとめた、というわけではなく、
2枚目をまるごとないことにしての発売であった。

“The Glenn Gould Silver Jubilee” の2枚目におさめられていたのは “A Glenn Gould Fantasy” だった。
1980年当時、日本では発売されなかった、
つまりCBSソニーの人たちが、オリジナル通りの2枚組で出すよりも、
なかったことのようにして1枚の音楽のLPとして出した方が売れるはず、
という判断したであろう “A Glenn Gould Fantasy” はグールドによる、
いわゆるひとり芝居(セルフ・インタヴューでもある)をおさめたものである。

セルフ・インタヴューといっても、”A Glenn Gould Fantasy” は奇妙奇天烈な作品といってもいいだろう。
ピアノをひくグールドからはなかなか想像できないグールドがそこにはいて、
でもピアノをひくグールドも、”A Glenn Gould Fantasy” でひとり芝居をやっているグールドも、
同じひとりのグレン・グールドであり、たったひとりのグレン・グールドである。

グレン・グールドのピアノしか聴かない人は、”A Glenn Gould Fantasy” も聴かないことだろう。

Date: 10月 24th, 2011
Cate: 欲する

何を欲しているのか(その20)

グレン・グールドのピアノしか聴かない──、
そんな音楽の聴き手が実際に、この日本にいるということを、
これも黒田先生が書かれていたことだと記憶しているが、いまから10年以上前に読んだ記憶がある。
また、ある人は、日本でグールド協会をつくったとしたら協会が教会になってしまう、といっていた。
これも10数年以上前のことだった。

グレン・グールドのピアノしか聴かない。
これを口にした人は、きっと誇らしげにいったのだろうと想像がつく。
グールドのピアノは、そしてグールドの存在そのものが知的好奇心を多いに刺戟することはたしかだ。
だからといってグールドのピアノしか聴かない、とそんなことを一度でもことばにしてしまうのは、どうかと思う。
もうそれだけでグールドの音楽から遠ざかってしまうことになってしまうかもしれない。

私もひところグールドを熱心に聴いていた時期があった。
そのころはグールドのレコードを聴いていた時間が、
ほかの、どの演奏家のレコードを聴いている時間よりも長かった。
それでもグールドだけを聴いていたわけではないし、
傍からみればグールドしか聴いていないように見えたとしても、
グールドのピアノしか聴かない、とはいわなかった。

グレン・グールドのピアノしか聴かない、
熱心なグールドの聴き手にそういわせてしまうようなところが、
グールドの演奏にも、グールド自身にもある。

いってしまうご本人は、かっこいいことを口にした、と誇らしげなんだろうが、
グレン・グールドのピアノしか聴かない、というフレーズには、
口にした本人の音楽の聴き方の窮屈さのようなものを嗅ぎ取れるところがある。

それにグールドは、グールドしか聴かない聴き手を望んではいなかったはず。