Archive for category 欲する

Date: 3月 11th, 2021
Cate: 欲する

新月に出逢う(その5)

新月だった2月12日に出逢ったEleanorという人形は、
その展示会のなかでは大きなほうだった。

人形の世界にはまったくうとい。
この世界の人形の平均的な大きさというのが、どのくらいなのかよくわからない。

どのくらいから小さな人形ということになるのか、
大きな人形はどのくらいから上なのか、そんな基準をもっていない私からみて、
Eleanorは大きな人形だった。

とはいっても等身大というわけではない。
立った状態で展示されていたわけではないので、どのくらいの大きさなのかははっきりとはいえない。
それでも等身大ではないことだけはいえる。

等身大でないからこそ、人形だと認識できているとおもえる要素が、
Eleanorに感じている。

これが人間の女性と変らぬ大きさだったら、
惚れ込む前にこわさを感じていたかもしれない──、
そんなふうにおもえてならない。

それでも一目惚れしたであろう。
けれど、そこまでの大きな人形であったなら、
自分のモノとしたときに、果たして毎日目が合うところに飾っておくだろうか。

買えもしないのに、そんなことを考えてしまう。

Date: 2月 22nd, 2021
Cate: 欲する

新月に出逢う(その4)

人形には、目がある。
その人形に惚れ込むということは、その人形の目に惚れ込むことなのかもしれない。

以前、別項で引用したことをもうい地と、ここでも書いておく。

辻村寿三郎氏が、ある対談でこんなことを語られている。
     *
部屋に「目があるものがない」恐ろしさっていうのが、わからない方が多いですね。ものを創る人間というのは、できるだけ自己顕示欲を消す作業をするから、部屋に「目がない」方が怖かったりするんだけど。
(吉野朔実「いたいけな瞳」文庫版より)
     *
辻村氏がいわれる「目があるもの」とは、ここでは人形のことである。
つづけて、こういわれている。
     *
辻村 本当は自己顕示欲が無くなるなんてことはありえないんだけど、それが無くなったら死んでしまうようなものなんだけど。
吉野 でも、消したいという欲求が、生きるということでもある。
辻村 そうそう、消したいっていう欲求があってこそもの創りだし、創造の仕事でしょう。どうしても自分をあまやかすことが嫌なんですよね。だから厳しいものが部屋にないと落ち着かない。お人形の目が「見ているぞ」っていう感じであると安心する。
     *
人形作家の辻村氏が人形をつくる部屋に、「目があるもの」として人形をおき、
人形の目が「見ているぞ」という感じで安心される。

部屋に「見ているぞ」という目がある。
いまのところ、そういう生活を送ったことはないから、
真夜中に人形と目が合ったりしたら、恐怖するような気もする。

このことを思い出したからこそ、人形の大きさが気になってくる。

Date: 2月 22nd, 2021
Cate: 欲する

新月に出逢う(その3)

新月だった2月12日に出逢った人形。
衝動買いしたかったけれど、手が出せなかった。

出せなかったからこそ、あれこれ妄想している。

これまで人形のある生活をしたことはない。
人形を趣味としている人が周りにいるわけでもない。

もし衝動買いしていたら、この人形、どう扱っているだろうか。
まずケースに収めて飾るのだろうか。

ホコリがつかないようにするにはガラスケースにしまうのでいいのだけれど、
なんとなくそうしたくない気持が強い。

人形を趣味としている人は、この点、どうしているのだろうか。
ケースに収めないのであれば、日頃の手入れはどうしているのか。

服についた汚れはときどき洗濯するのか。
もしくは新しい服を用意するのか。

髪は梳くのか。これも知りたいことの一つである。
人形本体についた汚れはどう落とすのか。

そういった日頃の手入れについて、あれこれ妄想していたし、
人形のある生活をおくるようになったら、
ほぼ間違いなく人形相手に、毎日挨拶するようになるだろう。

起きたら、おはよう、
寝る前に、おやすみ、
出掛ける際には、いってきます、
帰宅したら、ただいま──、
少なくとも挨拶をするようになるはずだ。

人形に向って、話しかける。
その日あったできごとを人形に話す──、
これはどうだろうか。

買えないからこそ、、そんなことを妄想しているのだが、
もう一つ考えていることは、
今回私が惚れ込んだ人形が、人間と同じ大きさだったら……、である。

Date: 2月 19th, 2021
Cate: 所有と存在, 欲する

「芋粥」再読(その10)

別項「background…」で書いている安部公房の「他人の顔」の主人公〈ぼく〉。

「他人の顔」の主人公〈ぼく〉の時代には、
CDもなかったし、TIDAL(ストリーミング)もない。

〈ぼく〉が聴くことができる音楽の量は、いまよりもずっと少なかった。
音楽のジャンルに関してだけでなく、演奏の数も少なかった。

その〈ぼく〉が、いまの時代に生きていたら、どうなのか。
そんなことを想像してみたくなる。

〈ぼく〉は、音楽の利用法について語っている。
     *
その夜、家に戻ったぼくは、珍しくバッハを聴いてみようという気をおこしていた。べつに、バッハでなければならないというわけではなかったが、この振幅の短くなった、ささくれだった気分には、ジャズでもないし、モーツァルトでもなく、やはりバッハがいちばん適しているように思われたのだ。ぼくは決して、音楽のよき鑑賞者ではないが、たぶんよき利用者ではあるだろう。仕事がうまくはかどってくれないようなとき、そのはかどらなさに応じて、必要な音楽を選びだすのだ。思考を一時中断させようと思うときには、刺戟的なジャズ、跳躍のバネを与えたいときには、思弁的なバルトーク、自在感を得たいときには、ベートーベンの弦楽四重奏曲、一点に集中させたいときには、螺旋運動的なモーツァルト、そしてバッハは、なによりも精神の均衡を必要とするときである。
     *
〈ぼく〉は音楽のよき鑑賞者ではないことを自覚している。
だからこそ、音楽のよき利用者なのかもしれないわけなのだが、
音楽のよき利用者であるためには、さまざまな音楽を聴いていることが必要になるし、
それぞれの音楽の特質を捉えることができていなければ、よき利用者にはなれない。

刺戟的なジャズ、思弁的なバルトーク、螺旋運動的なモーツァルトなどとある。
世の中には刺戟的でないジャズもあるし、
思弁的な演奏ではないバルトークもある。

「他人の顔」が発表された時代、バルトークは現代音楽であった。
そんなことも思ってみるのだが、
いまの時代、バルトークが現代音楽だったころに録音された演奏も聴けるし、
現代音楽でなくなった時代に演奏された録音も聴ける。

〈ぼく〉が思弁的と捉えているバルトークは、曲そのものであって、
演奏をふくめての話ではないのかもしれない。

それでも〈ぼく〉の時代のころは、バルトークはまだ現代音楽だった。

Date: 2月 15th, 2021
Cate: 所有と存在, 欲する

「芋粥」再読(その9)

TIDALが、10代のころに存在していたら、歓喜していただろうか。
TIDALでなくてもいい、Netflixでもいい。

この種のサービスが、いまから四十年ほど前、
中学生、高校生だったころにあったならば、どうだったろうか。

あのころの私は、毎月の小遣いをやりくりしてLPやミュージックテープを買っていた。
田舎のレコード店には輸入盤はなかった。

バスで約一時間、熊本市内に出れば、輸入盤を扱うレコード店もあったが、
往復のバス代はレコード一枚分に近かった。

FMの放送局も、そのころはNHKのみだった。
聴きたい音楽(ディスク)をすべて買えるわけではなかったどころか、
ほとんど買えなかった(聴けなかった)、といっていい。

そういう田舎での音楽体験に、TIDALがあったならば、
それはすごいことではあるけれど、
いま毎日のようにTIDALで音楽を聴いていて思っているのは、
そういう青春時代を送ったからこそ、
この歳になってTIDALがあってよかった、と感じている、ということだ。

聴きたくともなかなか聴けない。
そんな10代を送っていていなければ、
TIDALとの接し方も、少し違っていたかもしれない。

Date: 2月 13th, 2021
Cate: 欲する

新月に出逢う(その2)

瀬川先生の文章をおもいだしてもいた。
     *
 ブランデー・グラスについてはひとつの理想があって、それはしかし空想の中のものではなく、実際に手にしながら逃してしまった体験がある。もう十年近い昔になるだろうか。銀座のある店で何気なく手にとった大ぶりのブランデー・グラス。その感触が、まるで豊かに熟れた乳房そっくりで、思わずどきっとして頬に血が上った。乱暴に扱ったら粉々に砕けてしまいそうに脆い薄手のガラスでありながら、怖ろしいほど軽く柔らかく、しかも豊かに官能的な肌ざわりだった。あんなすばらしいグラスはめったに無いものであることは今にして思い知るのだが、それよりも、当時、一個六千円のグラスはわたくしには買えなかった。ああいうとりすました店で一個だけ売ってくれは、いまなら言えるが、懐中が乏しいときにはかえって言い出せないものである。いまでもあの感触は、まるで手のひらに張りついたように記憶に残っている。
     *
《思わずどきっとして頬に血が上った》、
いまならよくわかる。

人形と出逢った私は、まさにそうだった。

瀬川先生が、理想のブランデー・グラスに出逢われたのは、新月の日だったのだろうか。

Date: 2月 12th, 2021
Cate: 欲する

新月に出逢う(その1)

夕方、有楽町の交通会館の地階にいた。
特に用事はなかった。

あるブースの前を通ったら、クラフトアート創作人形展をやっていた。
以前だったら、こんな催し物やっているんだ、ぐらいで通りすぎていた。

会場をちらっとみたら、気になる存在があった。
それでも会場が女性だけだったら入らずに、やはり通りすぎていただろう。

男性の来場者もいた。
夕方の早い時間と、コロナ禍ということもあってなのか、
来場者はそう多くなかったので、入ってみた。

小さな人形から、けっこうな大きさの人形まで、
さまざまな人形が展示されていた。

一品モノのようで、1/3ぐらいはすでに売れていた。
私の目に留まった人形の前に立つ。

どきっ、とした。
まだ売れてなかった。
けれど値段をみると、いまの私には手が出せない。

気になる人形はいくつかあったけれど、この人形だけは特別な感じがする。

創作人形の世界に関しては、何も知らない。
昨日まで人形を興味を持つなんて考えもしなかった。

なのに、もう変ってしまった。
一目惚れみたいなものなのかもしれない。

Enという人形作家の、Eleanorという作品だ。

一年前だったら衝動買いしていたことだろう。
この歳になって、まさか人形を興味をもつ、
欲しい、という思うようになるなんて、まったく想像できなかったし、
したこともなかった。

買える買えないは別として、ときめくものに出逢えた。
そういえば、今日は新月だった。

Date: 2月 4th, 2021
Cate: 所有と存在, 欲する

「芋粥」再読(その8)

数年前の一時期、
Hulu、Netflix、Amazon Prime Video、
この三つのサービスを利用していた。

それぞれでしか見れない作品があるのだから、
海外ドラマ好きの私にとっては、どれも外せなかった。

けれどHuluは日本テレビの子会社になってから、質が落ちた。
見ている途中で途切れてしまう。
何度もそういうことがあったし、
さらに「他のデバイスで使用中だから見れません」的なことが表示される。

独り暮しでMacでしかみていないのに、この表示が頻繁に出てくる。
サービスセンターに問い合せても、毎度同じことしか返ってこない。

回線スピードが遅い、ということと、
そういう事例は、他からは報告されていません、だった。

回線スピードに関しては、測定すれば問題なかったし、
Netflixではそんなことは一度も発生してなかった。

なのでHuluはやめてしまった。
いまはNetflixとPrime Videoの二つなのだが、
この二つで、不満はない。

けれどほぼ毎日のように使っていて、何を思っているかというと、
どの作品を見たいのか、それをチェックしている時間が、
場合によっては作品をみている時間よりも長いのではないか、ということだ。

Netflixならばマイリスト、Prime Videoはウォッチリストとついている。
そのリストに、みたい作品を登録していく。

リストに登録される作品の傾向から、
あなたにはこれがおすすめ、というものも表示される。

こんな作品があるんだ、とか、
関連作品として表示されるのも気になってしまう。
そうやって登録するだけで、作品をみない日があったりする。

やりながらバカなことをしている、と自覚している。
アホウな話である。

私にとって、音楽を聴くことは、
映画や海外ドラマをみることよりも、ずっと大事で大切なことだから、
こんなアホウなことはやりたくない。

やらないためにTIDALだけを選択している。

Date: 2月 3rd, 2021
Cate: 所有と存在, 欲する

「芋粥」再読(その7)

CDを買う理由は、そのディスクにおさめられている音楽を聴きたいからにほかならない。
すぐに聴きたいのか、
それともじっくり聴くための時間がとれるようになってからなのか、
どちらにしても、そこに収録されている音楽が目的のはずだ。

けれどCDボックスのいくつもに手を出す。
その結果、聴かずのディスクが100枚を超えている人を知っているし、
そのくらいの人は、クラシックを聴く人では、もう珍しくなっているようでもある。

2ちゃんねる(5ちゃんねる)には、
《未聴のCDの山を見て人生の残りを考える》というスレッドが、
ずっと続いていることからもうかがえる。

つまり飽和点に達している、もしくは近づいている人はけっこういる。
なのに、CDボックスをつい買ってしまう。

聴くのが目的であれば、いまではCDに頼る必要はない。
TIDALにすべてがあるとはいわないが、クラシックに限ってもかなりの曲数である。

聴くのが目的なら、おまえはなぜTIDALだけなのか、といわれるかもしれない。
いまではAmazon Music HD、mora qualitasが日本ではサービスを開始しているし、
海外にはQobuzがある。

それらのサービスは利用していない。
聴くのが目的ならば、それらのサービスも、と考える人もいるけれど、
私は、聴くのが目的だから、TIDALだけ、である。

選択肢を増やしすぎると、選択のためだけに時間を費やしてしまうからだ。

Date: 1月 27th, 2021
Cate: 所有と存在, 欲する

「芋粥」再読(その6)

未開封のCDボックスが溜っていく……。

クラシックのCDボックスの安さは、
つい買っておこう、と思ってしまうほどで、
これを書いている私も、さすがに未開封のCDボックスはないが、
CDボックスすべてのディスクを聴いているのもあれば、そうでないボックスものもある。

CDボックスが、こんなに安価で入手できる以前から、
封も切らずにそのまま、ということはあった。

五味先生にもある。
     *
 書籍に〝ツンドク〟というのがある。全集もののように、申し込めばいやでも届けられるのではなく、ふらりと入った書店で読んでみようと買った本を、そのまま、読まず積んでおく謂だが、私くらいの歳になると、買ったレコードも帰宅後すぐ聴かず、レコード棚に置いたまま忘れることがある。まさか〝ツンレコ〟ともいうまいが、似たようなものだ。最近、そういうレコードが二十枚ちかくあるのに気がつき、あらためて聴いてみて無性に腹の立ったのが、ポリーニのベートーヴェンのソナタ(作品一一一)だった。
     *
「いい音いい音楽」に収められている「他人の褒め言葉うのみにするな」からの引用だ。
1970年代終りごろで、五味先生でも20枚ほど聴かずのレコードが溜まっていた。

クラシックのCDボックスは、20枚以上のものもけっこう出ている。
50枚を超えるものも少なくない。

五味先生のころから四十年。
あとで聴こう、時間がゆっくりとれたら聴こう、などと思っていたら、
聴かずのディスクは数十枚単位で増えていくばかりだ。

ここで考えたいのは、聴かずのCDボックスが増えていく一方の人は、
TIDALを利用するだろうか、である。

CDボックスを買ったり、中古店にまめに通い、コレクションに足りないものを探す。
そういう人でTIDALを利用していない、というのはどのくらいの割合なのだろうか。

日本では正式にサービス開始になっていないが、
Googleで検索すればどうすればいいのかはすぐにわかるし、
それにかかる労力はわずかでしかない。

しかもTIDALは44.1kHz、16ビットで聴ける。
CD未満の音というわけではない。
それにMQAでの配信もかなり積極的に行っている。

TIDALに手をのばさない理由があるだろうか。

Date: 11月 18th, 2020
Cate: 所有と存在, 欲する

「芋粥」再読(その5)

半年ほど前、ソニークラシカルから1994年ごろに発売になっていたCDボックスを買った。
中古である。

CDボックスといっても、単売されていたCDを五枚をまとめたものだから、
ボックスには、五枚分のCDケースが入っている。
しかもそれぞれのディスクがパッケージされている。

二十数年前のCDボックスにも関らず、
開封されていたのは一枚だけだった。
残り四枚は封が切られてなかった。

このカザルスのCDボックスを最初に購入した人は、どういう聴き方をしていたのだろうか。
五枚すべてを、買った当初は聴くつもりだったはずだ。
けれど、一枚だけで終ってしまっている。

人にはいろんな事情があるから、あれこれ詮索したところで、
ほんとうのところが、まったく見知らぬ人についてわかるわけなどない。

私としては、新品同様に近いカザルスのCDボックスが格安で買えたわけで、
前の所有者が封も切らなかったことを喜んでもいいわけだ。

これはそんなに珍しいことではない。
クラシックのCDボックスを購入した人には、わりとあることのはずだ。
しかも、いまのCDボックスは、もっと枚数が多い。

しかも価格も安い。一度に複数のCDボックスを購入することもある。
昔は店に行って買っていたから、荷物になるから、と控えることもあっただろうが、
インターネットの通信販売を利用すれば、そんなことを気にする必要はない。

一度に複数のCDボックスを注文したことのある人は、けっこう多いと思う。
それだけの枚数のCDが届けば、それなりの満足(満腹)感が得られるだろう。

どんなに空腹であっても、目の前に一度では食べきれない量の料理を出されたら──。
いまだ封すら切っていないCDボックスが、目の前に積み上げられていく。

その人は、ディスクの購入者ではある。
けれど音楽を聴く権利を行使しないままでいるということは、
どこまでいっても、ディスクの購入者(所有者)でしかなく、
音楽の聴き手とはいえない。

Date: 11月 18th, 2020
Cate: 所有と存在, 欲する

「芋粥」再読(その4)

オーディオマニアのなかには、パッケージメディア、
つまりアナログディスク、CD、ミュージックテープなどといった購入したメディアでのみ、
音楽を聴くことにこだわる人がいる。

そういう人は、パソコンやiPhoneなどで音楽を聴くことは視界にすら入っていないのだろう。
趣味の世界ととらえれば、それはそれでいい。

けれど、これだけネットワークが普及して、
音楽を聴くために必要なことがずいぶん変化してきた時代において思うのは、
ここで何度も引用していることである。

黒田先生の「聴こえるものの彼方へ」のなかの
「ききたいレコードはやまほどあるが、一度にきけるのは一枚のレコード」に、
フィリップス・インターナショナルの副社長の話だ。
     *
ディスク、つまり円盤になっているレコードの将来についてどう思いますか? とたずねたところ、彼はこたえて、こういった──そのようなことは考えたこともない、なぜならわが社は音楽を売る会社で、ディスクという物を売る会社ではないからだ。なるほどなあ、と思った。そのなるほどなあには、さまざまなおもいがこめられていたのだが、いわれてみればもっともなことだ。
     *
レコード(録音物)でも本でもいいのだが、
それを購入した人は、ディスクというモノ、紙の本というモノを所有していることになる。
けれど、それらを聴かず読まずであれば、どうだろうか。

そのディスクにおさめられている音楽、その本におさめられている小説、論文などを、
自分のものにした、とはいえない。

つまりディスクや本を買ったということは、そのディスク、本におさられている内容を、
聴いたり読んだりする権利を買ったわけで、その権利を行使するかのか、
それとも買っただけで、いわゆるツンドクのままにしておくのか。

そんなふうに考えていくと、レコード会社も出版社も、
ディスクや本といった物を売る会社ではなく、聴いたり読んだりする権利を売る会社といえる。

もっといえば、聴いたり読んだりする機会を売る会社でもある。

クラシックでは、CDボックスが、どのレコード会社からも毎月のように発売になる。
それらの多くは、CD一枚あたり数百円か、それ以下の価格で売られる。

なので、つい購入する。
購入すれば、一度十枚、二十枚、それ以上のCDが手元に来る。
一度にそれだけのCDが届いたからといって、それらをすべて聴くとはかぎらない。

Date: 11月 5th, 2020
Cate: 欲する

偶然は続く(その3)

(その2)までの内容とは関係ないのだが、
「偶然は続く」というタイトルに関係していることなので書いておく。

2019年をふりかえって(その19)」で書いているマッキントッシュの電源が落ちる件。
昨晩のaudio wednesdayでも、発生した。

昨年も11月のaudio wednesdayで、プリメインアンプのMA7900の電源が、
音を鳴らしている途中で、何の前触れもなく、四時間で四回、落ちた。

再び電源をいれれば、何の問題もなく、音の変化もなく鳴るのだが、
どこかに原因があるのかは、はっきりとはしなかったから、対策もできなかった。

一年後の昨晩、また電源が落ちた。
しかも昨年よりも、もっと回数が多かった。
いい気持で聴いていると、電源が落ちて、音が止む。

興醒めであるばかりか、マッキントッシュへの不信感へとつながっていく。
偶然なのか、今年も11月に発生している。

想像するに、なんらかのノイズ混入による誤動作のような気がする。
おそらく修理に出したところで、症状が確認できない、ということになるだろう。

こういう故障とはいえない不具合はやっかいである。

Date: 7月 28th, 2020
Cate: 欲する

何を欲しているのか(サンダーバード秘密基地・その4)

世代とオーディオ(実際の購入・その13)」へのコメントがfacebookにあった。

そこには、スペンドールのBCIIは欲しい製品ではあるけれど、
好きかどうかはわからない──、とあった。

これは、よくわかる。
ここでとりあげているデアゴスティーニからでている週刊サンダーバード秘密基地。
確かに小学生のころ、欲しかった。

けれど、サンダーバードの秘密基地のプラモデルが好きだったのか、というと、
そうでもなかった。
サンダーバードという番組は好きだった。

好きだったからこそ、テレビに出てくる秘密基地そっくりといえるものが欲しかった。
それは無理というものだと大人になればわかるけれど、小学生はそうではなかった。

欲しかったけれど、好きではなかった。
その気持は、別項で書いているマッキントッシュのMC2300やJBLの4310に対してもある。

MC2300が好きかといえば、微妙なところがある。
はっきりといえるのは嫌いではない、ということ。

MC2300の音だけで、これから先ずっと聴いていく、ということは、ごめんこうむる。
そんな気持ははっきりとある。

なのに欲しい、という気持がはっきりとある。

4310に対しても、MC2300とまったく同じとはいわないが、近い。
嫌いではない、と、4310についてもはっきりといえる。

4311は聴いているが、4310の音は聴いていない。
それでも4310の音だけでずっと私が好きな音楽を聴いていくのは、ちょっと無理である。

4310(正しくは4311A)の音は、うまく鳴ったときは惹かれるところがある。
これはMC2300も同じである。

どこか強烈に惹きつける魅力がある──、とはいわない。
まったくよさを感じない人がいるのも事実だからだ。

あくまでも私個人は、ということなのだが、
無性に聴きたくなる衝動が何年かに一回おとずれる(わきあがってくる)ということは、
惹きつけられるなにかを、感じとっているからなのだろう。

カートリッジだとエンパイアの4000D/IIIがそうだ。
好きではない。けれど、ある種の音楽、
それもたまに聴きたくなる音楽のためだけに欲しい、と若いころ思っていた。

Date: 7月 11th, 2020
Cate: 欲する

偶然は続く(その2)

去年の6月には、KEFのModel 303をヤフオク!で入手した。
探していたわけではなかった。
なのに、ヤフオク!のお探しの商品からのおすすめのところに、Model 303が表示されていた。

安かった。
この価格で落札できるとはほとんど思わず、
でも、この価格で落札できれば嬉しいなぁ、ぐらいの気持での入札だった。

結果は誰も応札してこなかった。
こういうこともあるものだと思っていた。

一年後、同じことをやっている。
やはりヤフオク!のお探しの商品からのおすすめのところに、コーネッタが表示された。
コーネッタを、この価格で落札できるとは思っていなかった。
なのに何人か入札していたけれど、私が最高値ということで、
思わぬ価格での落札だった。

去年は、Model 303のあとに、ヤマハのカセットデッキK1dを、
その後にサンスイのプリメインアンプAU-D607、
さらにテクニクスのアナログプレーヤーSL01と一ヵ月にほぼ一機種のペースで手に入れた。

もちろんすべて中古、ヤフオク!での入手だ。

別項で書いているのて簡単に書くに留めるが、
AU-D607をアンプに選んだのは、ステレオサウンド 56号での、
瀬川先生の組合せを自分の耳で確かめたかった、自分で鳴らしてみたかったからである。

今年も去年と同じことをやってしまうのか。
そうだとしたら、次に手に入れるのは何なのか──、
というよりも、次にヤフオク!のおすすめに表示されるのは、なんなのだろうか。