Archive for category マーラー

Date: 12月 16th, 2017
Cate: マーラー

マーラーの第九(Heart of Darkness・その8)

12月6日のaudio wednesdayから10日経った。
今日も、気がつくとマーラーの二番の第一楽章を口ずさんでいる。

これまでだってマーラーの音楽は数え切れないほど聴いてきている。
聴いた直後はそういうこともあったが、10日経っても……、ということは今回が初めてだ。

口ずさみながら、いくつかのことを思い出す。
ステレオサウンドの試聴室で聴いたマーラーのことなどを思い出す。

最初にステレオサウンドの試聴室で聴いたマーラーは、
ハインツ・レーグナーの第六番だった。
ドイツ・シャルプラッテンから出ていた。

1981年録音で、1982年に聴いている。
まだベルリンの壁があった時代で、
ドイツ・シャルプラッテンは東ドイツのレコード会社だった。

デジタル録音だった。
まだCDが登場する数ヵ月の前のことだから、LPだった。

その数年後のインバルのマーラーほど回数を聴いたわけではなかったが、
一楽章の途中までとはいえ、くり返しくり返し何度も聴いたマーラーだった。

自分でもマーラーのディスクは、少しずつ買い始めたころだった。
まだ九曲すべてのレコードを持ってはいなかった。

六番はまだだった。
レーグナーのディスクは試聴室にあるわけだから、
聴きたければ、最後まで聴けたわけだが、
一楽章は最後まで聴いたことが一度あるが、
二楽章以降は聴いていない。

私が最初に買った六番は、テンシュテットのLPだった。

Date: 12月 11th, 2017
Cate: マーラー

マーラーの第九(Heart of Darkness・その7)

五味先生が「マーラーの〝闇〟とフォーレ的夜」に、
マーラーの音楽について書かれている。
     *
よりよい音への貪欲さによることだが、貪らんで執拗な行為が、稚気を感じさせるには天性の童心がなくてはかなうまい。フォーレには、そういう童心はなかったとおもう。フォーレも執拗にパリ音楽院校長の職をはなれまいとし、きこえぬ耳で演奏会場に立った。だがマーラーとフォーレでは執念ぶかくとりついたその対象が、まるでちがう。マーラーの稚気はここに由来する。一皮剥けば、どろどろの血が奔き出してくる稚気だ。本来、執念深いユダヤ人がマーラーの中でいなくなることは、片時だってないのである。マーラーの交響曲をどれでもいい、聴いてみるといい。金管楽器の斉唱が必ずある。耳をつんざく咆哮で、どうしてそういつもむきに吹き鳴らすのかと言いたいほどだが、やがてつづく弦の旋律のこよない美しさは独特だ。時に耽美的で、悲痛で、全曲をそれは有機づけ、くさぐさなモチーフを敷衍させるうちにオーケストラが幾つかの動機でこれに絡みつく。動機はさまざまに変形され、響きわたると茫漠とした一つの世界がそこに展開される。そして突如、沈黙がおとずれヴァイオリンのソロが、トレモロで得もいえぬ甘美な、感傷的な調べをかなでる。それは木管に受けつがれ、絶妙な調和がそこにある、と、又もや冒頭の金管の動機がはげしく吹き鳴らされ、やや急しく弦楽器がこれにからみ、追いつき、さまざまな動機を飽和して曲は昂揚の頂点へのぼってゆく……そんなパタンのくり返しだ。本来淡泊な日本人のわれわれには、もうわかった、もう充分わかったと制したくなるほどだが、マーラーは止めない。執拗に執拗にパタンをくり返し、金管を咆哮させる。時には不協和音を殊更きかせるつもりかと怪しみたいくらい、弓ですべての弦を(それも強く!)こすらせる。マーラーならどの作品番号を取りあげてもこの執拗な——稚気などカケラもない〝闇〟が、ある。
     *
まさに、このとおりの音楽である、マーラーの交響曲は。
第二番の第一楽章もそうである。

マーラーは、くり返す。
くり返すから、長くなる。
二番の第一楽章も20分前後の時間を必要とする。

マーラーは苦手、マーラーは嫌い、
マーラーは聴きたくない、という人がいても、そうだろうと思うことだってある。

まして空気を揺らし、時には部屋をも揺らすような音量で鳴らすのだから、
マーラーを苦手とする人は、その部屋から逃げ出しても、そうだろうと思う。

それでも音量を下げようとは、微塵も思わない。

アルマ・マーラーは、もっと端的に語っている。
「形成を告知する混沌」だと。

だから、そこには尋常ならざるエネルギーが、どちらにも要求される。

Date: 12月 10th, 2017
Cate: マーラー

マーラーの第九(Heart of Darkness・その6)

12月のaudio wednesdayの音を聴いたHさんが、
「今日の音、いつもより明るいですね?」といわれた。

別項で書いたように、今回はファインメットコアを使ったコモンモードノイズフィルターを、
CDプレーヤーの電源に挿入している。
それからスピーカーのまわりもちょっといつもと違うセッティングにしている。

アルテックのドライバーの下には角材をかましている。
その向きと位置を変えただけであるが、それだけであっても音の変化は小さくない。

細部まで、光が当るようになった音ということでは、
明るくなった、という表現はそのとおりである。

だからといって能天気な明るさであったり、
まぶしすぎたり、細部まであからさまにするような、そんな明るさではない。

これまでの音より明るくなることで、音楽の表情は豊かに出るようになった、といえる。
瑕疵のない音であっても、表情に乏しい音は、いくらでも聴いている。

細かい音まで聴けるスピーカー、
つまりそういう細かな音を出してくるスピーカーだからといって、
音楽の表情も豊かになるわけではない。

音が全体に明るくなった──、
マーラーの〝闇〟から遠ざかった──、
そう単純なものではない、音の世界というのは。

Date: 12月 9th, 2017
Cate: マーラー

マーラーの第九(Heart of Darkness・その5)

12月のaudio wednesdayで、ショルティ/シカゴ交響楽団によるマーラーの二番を、
かなりの大音量で鳴らした。

瑕疵のまったくない音ではなかった。
人によっては、聴くに耐えぬ音と思うかもしれない。
それでもマーラーの音楽の本質は出していたと言い切れるし、
ショルティの演奏の本質についても、同じことをいう。

瑕疵がまったくない音を聴きたいわけではない。
私が心の中で描くマーラーの「音」を聴きたいのである。

二番は一楽章だけを鳴らした。
全楽章鳴らしたい気持はあったけれど、マーラーを聴くことがテーマだったわけでもないから、
一楽章だけでがまんした。

これが水曜日の夜のことだ。
それから今日まで、頭のなかで何度も、二番のフレーズがリフレインしている。
その度に、マーラーという男は、どこか狂っている、と思う。

この旋律から、なぜ、こういう展開になっていくのか。
何度も聴いている曲とはいえ、あらためてマーラーという男の頭の中は、
いったいどうなっているのか、覗けるものなら覗いてみたいと思うほどに、
強烈な展開をしていく。

聴き終って、五味先生の文章を思い出してもいた。
     *
 ところでマーラーの愛情にはウェーバー夫人も充分こたえた。知られていることだがウェーバーの未完の遺作『三つのピント』は、このときのマーラーと夫人との協力で完成された。(もっとも、どう見てもウェーバーのものではなく、マーラーの音楽で、なんといってもつぎはぎ細工の域を出ず、舞台にのせられる代物ではなかったと、アルマは書いている)この仕事にたずさわったことがしだいに二人を燃えあがらせ、ついに駆落ちを決意させる。アルマは書くのだ——「夫人に対するマーラーの愛はきわめて深かったが、最後の一歩をふみ出すことへの恐怖もそれにおとらず強かった。彼は一文無しだったし親兄弟を養わねばならぬ身だった、というわけで——彼の話によれば——マーラーと一緒に逃げるつもりでいた夫人を乗せずに汽車がすべり出したとき、彼は深い安堵の溜息をついたのだ!」——この記述がどれほど真実をつたえているかは怪しい。アルマと結婚するとき、「おれは年をとりすぎていないか?」とマーラーは自問し苦悩した。このときのマーラーは四十男だ。それが二十歳年下の女性と結婚して、思い出話に夫人との恋を語ったのである。四十男の述懐である、わずかにアルマの軽妙な筆致のおかげで、ユーモアの感じられるのがマーラーのためにも救いだろう。有体に言えば、二十八歳のそれも「禁欲者マーラー」(アルマ)が人妻と恋におち、駆落ちを決意した。その相手が駅に現われなくてホッとなどするわけがない。大袈裟に言えば絶望したにちがいない、おのれの人生に。貧しいということに。たいへん大胆な言い方をすれば、だが、そういう夫人との恋だったから〝巨人〟はあの程度の作品にとどまった。つまり大して傑作にはならなかった。真にマーラーの才能にふさわしい相手が夫人だったら、駆落ちは実行されたろう。〝巨人〟はもっと燃焼度の高い傑作になったろう。その代り、マーラーのその後の人生は変っていたろう。
〝巨人〟を聴くたびに私はそう思う。人生の出会いの重みを考える。天才に運命はない、というのが私の持論だが、マーラーほどの天才にしてウェーバー夫人との出会い、アルマとの結婚がその創作とわかちがたく結びついていること、個々の才能を超えた何ものかの摂理のもとに吾人はまだ在ることを、おもわざるを得ない。フルトヴェングラーを私は熱愛してやまないが、フルトヴェングラーの十七歳の写真がある、髭をはやし、長髪で、今のヒッピースタイルの若者と異らぬ風貌ながら、実にいい顔をした写真だ。(カルラ・ヘッカー女史の『フルトヴェングラーとの対話』—音楽之友社刊—に掲載されているから見た人も多いとおもう)私はこの写真を眺める度に、この若者ハインリッヒ・グスタフ・エルンスト・マルティーン・ヴィルヘルム・フルトヴェングラーが、今世紀最大の指揮者となり、ぼくらのフルトヴェングラーとして死んでいった六十八年の歳月を考えるのだ。いろいろなことがフルトヴェングラーにはあったし、指揮者としての彼の偉大さは、とりもなおさず作曲家であることのおかげで、「もし作曲家の立場がなかったらフルトヴェングラーは、その指揮する傑作の深奥にまで入りきることはできなかったろう」とフランク・ティースがフルトヴェングラーの書翰集を編んだ序文で書いているが、生前フルトヴェングラーと親しかったある人に言わせると、あれほど厳粛な感動を味わせてくれたぼくらの指揮者も、女性問題には至ってだらしがなかったそうだ。
 いろいろなことが人にはあるのだ。歳月がそれを浄化し、時に消去してくれる。マーラーが人妻と何をしようと、結局、マーラーの人生を語るのは彼の作品で、〝巨人〟はマーラーのものとしてはつまらない、と私は言いきる。〝巨人〟の擱筆ののちでなければ〝闇〟ははじまらないと。
(「マーラーの〝闇〟とフォーレ的夜」より)
     *
第二番から、マーラーの〝闇〟は始まっている、と。

Date: 8月 22nd, 2016
Cate: マーラー

マーラーの第九(Heart of Darkness・その4)

音は空気をともなう。
つねに空気をともなう。

空気があるから、われわれは音を聴くことができるわけだから、
当り前すぎることを書いているのはわかっている。

それでも、こういうことを書いているのは、
いわゆる音の違いは、この空気がどれだけ、そしてどのように音についてくることに、
深く関係しているように感じている。

音に空気がついてくる、ともいえるし、音が空気を巻き込む、ともいえる。

よく「低音の量感が……」という。
スピーカーによって変るのは当然だとしても、
低域特性がフラットなアンプによっても、量感は変ってくる。
このへんのことも、音にどれだけ空気がついてくるに関係しているように思っている。

音楽も、また同じように感じることがある。
空気をいっぱいつれてくる音楽もあれば、
空気をいっぱいつれてくる演奏もある。

ブルックナーを「長い」と感じてしまうのは、
私の場合、どうもこのことと無関係ではないようなのだ。

マーラーの音楽(ひとつひとつの音)がつれてくる空気は、多い。
多いがゆうえに濃い。
もちろんそうでないマーラーの演奏もある。そんなマーラーの演奏を、私はいいとは感じない。

ブルックナーだと、曲の構成に対して、音がつれてくる空気が足りないような気がする。
その足りない分を、何かで増している。
だから水増しして聴こえるのかもしれないし、「長い」と感じるのかもしれない。

Date: 8月 22nd, 2016
Cate: マーラー

マーラーの第九(Heart of Darkness・その3)

誰の演奏(指揮)で聴くのかは大事なことだ。
だからブルックナーも、長いと感じながらも゛何人かの指揮者の演奏を聴いた。

私がいたころのステレオサウンドのオーディオ評論家では、
長島先生がブルックナーをお好きだった。

「長くないですか」、そんなことを長島先生にぶつけたことがある。
「若いなぁ」と返された。
シューリヒトのブルックナーを教えてくださった。

もちろん買った。
あのころは国内盤LPしかなかったと記憶している。

20代前半ということもあったのか、それでも長い、と感じた。
ジュリーニのブルックナーも、もちろん聴いている。
フルトヴェングラーでも聴いているし、あと数人聴いている。
あのころとしては新譜だったシノーポリのブルックナーも聴いた。

シノーポリのブルックナーに関しては、ちょど来日していたこともあり、
サントリーホールに聴きに行った。
それでもブルックナーに感じる水増ししたような長さを、
私の中からなくすことはできなかった。

マーラーも凡庸な指揮者とオーケストラの、凡庸な演奏な演奏を聴いたら、
長い、と思うかもしれない。

以前にも書いているように、もうインバルのマーラーは聴かない。
さんざんステレオサウンドの試聴室で聴いたのが、その大きな理由である。
インバル指揮のマーラーの第四と第五は、数えきれないほど聴いた。

あのころのインバルのマーラーは、フランクフルト放送交響楽団とだった。
いま東京都交響楽団とのSACDが出ている。

オーディオ的な関心で聴いてみたい気がまったくないわけではない。
それにフランクフルト放送交響楽団との第五では、
補助マイクなしのワンポイントマイクだけの録音もCDになっているから、
そういう聴き比べという意味では、まったく関心がないとはいわない。

でもそういうことを抜きにして、聴いてみたいとは思わない。
そんなこともあってインバルのマーラーは、第一、第四と第五だけしか聴いていない。
第九は聴いていない。聴いたら、長いと感じるのか。

感じたとして、その「長い」はブルックナーの交響曲に対しての「長い」と同じなのか。
完全に同じではないにしても、何か共通するものがあるとも感じている。

Date: 8月 4th, 2016
Cate: Carlo Maria Giulini, マーラー

マーラーの第九(Heart of Darkness・余談)

昨夜の最後にかけたカルロ・マリア・ジュリーニのマーラーの第九。
タワーレコードがSACDとして9月に発売するというニュースが、今日あった。

昨夜も、これがSACDだったら、いったいどんな鳴り方・響き方になるのだろうか。
この音楽が、どう聴き手であるこちらに迫ってくるのか。
それを考えずにはいられなかった。

一夜明けたら、SACDのニュース。
すごいタイミングである。

喫茶茶会記には、いまのところSACDプレーヤーはないけれど、
来年の新月のどこかで、また「新月に聴くマーラー」をやりたいと思ってしまった。
そのときにはなんとかSACDプレーヤーを用意しておきたい。
そして最後にかけるのは、やはりジュリーニの第九、第四楽章である。

ジュリーニのマーラーだけでなく、
キリル・コンドラシンのシェエラザードもSACDになる。

Date: 8月 4th, 2016
Cate: マーラー

マーラーの第九(Heart of Darkness・その2)

長いといえば、ブルックナーの交響曲も長い。
こんなことを書いたら、ブルックナーの熱心な聴き手の方から、
お前はブルックナーがわかっていない、お前の理解できないところに良さがある、
などといわれそうだが、私はブルックナーを長いと感じてしまう。

五味先生の表現を借りれば、水増ししていると感じる。
だから長いと感じてしまう。

歳をとれば感じ方も変ってくるのか、と思っていたけれど、
50を過ぎたいまもそう感じてしまう。
私は、ブルックナーのほんとうの良さを味わうことなく終ってしまうかもしれない。

でも、そのことに何かを感じている、というわけではない。
そういう音楽の聴き方をしてきた結果であるし、
むしろブルックナーを長いと感じてしまうことに関心がある。

知人にカラヤンのブルックナーを絶賛する男がいる。
でも彼はマーラーをほとんど聴かない。
カラヤンにはベルリンフィルハーモニーとの1982年のライヴ録音のマーラーの第九が残っている。

カラヤンは’79年から’80年にかけてドイツ・グラモフォンにスタジオ録音している。
にも関わらず、わずかの間に、ドイツ・グラモフォンから、マーラーの第九が登場した。

スタジオ録音とライヴ録音の違いはあるにしても、
これだけの大作のレコードをわずかの期間のあいだにリリースしたということは、
それだけの演奏だということであり、カラヤンの1982年のマーラーの第九は、
カラヤンに対して否定的なところをもつ聴き手であっても、黙らせてしまうであろう。

カラヤンの残したもののなかでも、屈指の名盤であると思っているし、
多くのカラヤンの熱心な聴き手がそうであるとも思っていた。

知人はカラヤンの熱心な聴き手である。
にも関わらず、彼の口から、このマーラーの第九については、まったく出てこなかった。

Date: 8月 4th, 2016
Cate: マーラー

マーラーの第九(Heart of Darkness・その1)

8月3日のaudio sharing例会の最後に鳴らしたマーラーの第九は、
私が初めて聴いたマーラーの第九であるカルロ・マリア・ジュリーニ指揮のものだ。

マーラーの第九が長い曲なのは知っていた。
LPは二枚組だった。
ジャケット裏の解説の演奏時間を見ても、長いのは誰にでもわかる。

マーラーの第九は、ながい。
物理的な時間の長さではなく、ながい作品である。

マーラーの他の交響曲で感じられることだが、
ふつうの作曲家ではここで終るだろう、と思える旋律のあとに、
また(というかまだ)続いていく。
マーラーの第九では、特にそれを顕著に感じる。

ジュリーニの演奏で初めてマーラーの第九を聴いたときにも、そう感じた。
ここで終りではないのか……、まだ続くのか。

その続いた旋律も終りの兆しをみせたかと思うと、
またまた続いていく。どこまで続くのだろうか……、と思いながら聴いていた。

特に第四楽章のアダージョでは、何度そう思ったことだろう。
もしジュリーニの演奏でなかったら、途中で針を上げていたかもしれないくらいに続いていく。
マーラーの最後の音楽が、ひたひたと迫ってくる。

ジュリーニ指揮シカゴ交響楽団による第九は、まさしく大きな音楽が聴き手にひたひたと迫ってくる。
逃れられないのは、わかっている。
聴き続けるしかない。そういう凄い演奏であり、音楽であると思うとともに、
だからながいのかとも思ってしまう。