Date: 12月 11th, 2017
Cate: マーラー
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マーラーの第九(Heart of Darkness・その7)

五味先生が「マーラーの〝闇〟とフォーレ的夜」に、
マーラーの音楽について書かれている。
     *
よりよい音への貪欲さによることだが、貪らんで執拗な行為が、稚気を感じさせるには天性の童心がなくてはかなうまい。フォーレには、そういう童心はなかったとおもう。フォーレも執拗にパリ音楽院校長の職をはなれまいとし、きこえぬ耳で演奏会場に立った。だがマーラーとフォーレでは執念ぶかくとりついたその対象が、まるでちがう。マーラーの稚気はここに由来する。一皮剥けば、どろどろの血が奔き出してくる稚気だ。本来、執念深いユダヤ人がマーラーの中でいなくなることは、片時だってないのである。マーラーの交響曲をどれでもいい、聴いてみるといい。金管楽器の斉唱が必ずある。耳をつんざく咆哮で、どうしてそういつもむきに吹き鳴らすのかと言いたいほどだが、やがてつづく弦の旋律のこよない美しさは独特だ。時に耽美的で、悲痛で、全曲をそれは有機づけ、くさぐさなモチーフを敷衍させるうちにオーケストラが幾つかの動機でこれに絡みつく。動機はさまざまに変形され、響きわたると茫漠とした一つの世界がそこに展開される。そして突如、沈黙がおとずれヴァイオリンのソロが、トレモロで得もいえぬ甘美な、感傷的な調べをかなでる。それは木管に受けつがれ、絶妙な調和がそこにある、と、又もや冒頭の金管の動機がはげしく吹き鳴らされ、やや急しく弦楽器がこれにからみ、追いつき、さまざまな動機を飽和して曲は昂揚の頂点へのぼってゆく……そんなパタンのくり返しだ。本来淡泊な日本人のわれわれには、もうわかった、もう充分わかったと制したくなるほどだが、マーラーは止めない。執拗に執拗にパタンをくり返し、金管を咆哮させる。時には不協和音を殊更きかせるつもりかと怪しみたいくらい、弓ですべての弦を(それも強く!)こすらせる。マーラーならどの作品番号を取りあげてもこの執拗な——稚気などカケラもない〝闇〟が、ある。
     *
まさに、このとおりの音楽である、マーラーの交響曲は。
第二番の第一楽章もそうである。

マーラーは、くり返す。
くり返すから、長くなる。
二番の第一楽章も20分前後の時間を必要とする。

マーラーは苦手、マーラーは嫌い、
マーラーは聴きたくない、という人がいても、そうだろうと思うことだってある。

まして空気を揺らし、時には部屋をも揺らすような音量で鳴らすのだから、
マーラーを苦手とする人は、その部屋から逃げ出しても、そうだろうと思う。

それでも音量を下げようとは、微塵も思わない。

アルマ・マーラーは、もっと端的に語っている。
「形成を告知する混沌」だと。

だから、そこには尋常ならざるエネルギーが、どちらにも要求される。

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