Archive for category 録音

Date: 5月 5th, 2017
Cate: 録音

録音は未来/recoding = studio product(トスカニーニの場合)

トスカニーニがNBC交響楽団と録音したものは、ほぼすべてがモノーラルである。
しかもそれらスタジオでのモノーラル録音のすべて(といっていいだろう)が、
残響を徹底的に排除した、ともいえる録り方である。

結局、それはモノーラルだったからではないのか。
ステレオ録音がもう数年ほど早く実用化されていたら、
トスカニーニがあと数年、現役を続けていて録音を残していれば、
あそこまでドライな録音ではなかったはすである。

トスカニーニは、確かに録音において残響を嫌っていた。
それは演奏の明晰さを、モノーラル録音・再生において損なわないためだとして、
再生側で、トスカニーニの意図通りに再生するには、
デッドなリスニングルームで、間接音をできるだけ排除して、
直接音主体であるべきなのか、というと、どうもそうではないようである。

何で読んだのかは忘れてしまったが、
トスカニーニは部屋の四隅に大型のコーナー型スピーカーを配置してレコードを聴いていた、という。
トスカニーニは1957年に亡くなっているから、
トスカニーニの、この大がかりなシステムは、モノーラルと考えられる。

モノーラルで、四隅に設置されたコーナー型スピーカーを同時に鳴らす。
残響を嫌った録音とは異るアプローチの再生である。

Date: 3月 24th, 2017
Cate: 録音

PCM-D100の登場(その7)

世の中に自作マニアと呼ばれる人たちがいる。
オーディオの世界にいる。

本職を別に持ちながら、趣味としての自作マニアは昔いる。
その腕前は、なぜ本職にしないのだろうか、と思ってしまうほどの人もいる。

2013年9月、ソニーからPCM-D100が登場したのを機に、
この項を書き始めた。

書き始めて気づいたのは、録音もオーディオの世界における自作であるということだ。

自作にはアンプの自作、スピーカーの自作、
中にはアナログプレイヤー、トーンアーム、さらにカートリッジの自作などがある。
どれもハードウェアである。

無線と実験でDCアンプシリーズの記事を発表し続けられている金田明彦氏は、
マイクロフォンアンプもDCアンプ化し、ある時期から録音も手がけられるようになった。

そのころの無線と実験は熱心に読んでいた。
けれど、金田氏の行動を、プログラムソースの自作という視点で捉えることはできなかった。

なぜ、そう捉えられなかったのか、いま思うと不思議なのだが、そうだった。
それから30年ほど経ち、PCM-D100が登場して、やっとそう捉えられるようになった。

Date: 12月 9th, 2016
Cate: 憶音, 録音

録音は未来/recoding = studio product(続々・吉野朔実の死)

駅の改札を出ると、その奥に書店がある。
ふだんは帰り道にある別の書店に寄ることが多い。

この書店には数えるほどしか寄っていない。
今日はふと寄ってみた。
さほど広い書店ではない。
一周するのにも時間はかからない。
そのまま出ようと思っていたが、
レジの近くに平積みになっているコーナーを見てから帰ろう、と思い直した。

目に留った装丁の本があった。
なんだろう、と手にとった本は、吉野朔実の、今日発売になったばかりのものだった。
いつか緑の花束に」だった。

帯には「吉野朔実から、あなたへ。」とある。
おそらく、これが吉野朔実の最後の本なのだろう。

これだけだったら、ここで書くつもりはなかった。
「いつか緑の花束に」には、未公開ネームが収録されている。

ネームとは、マンガになる前のいわばスケッチ的なもので、
コマやセリフの割振りが割に描かれている。

本は印刷されたものだから、それは肉筆ではない。
でも収録されているネームを読んでいると、どこか肉筆に近いといいたくなるものを感じる。

この肉筆とは、録音・再生の系では何になるのか。
そんなことを考えていた。

Date: 10月 26th, 2016
Cate: 録音

マイクロフォンとデジタルの関係(その2)

デジタルマイクロフォンという言葉をきいたのは、
菅野先生のリスニングルームであった。

「このCD、聴いたことあるか」といって、
ケント・ナガノ、児玉麻里のベートーヴェンのピアノ協奏曲第一番を聴かせてくれた。
別項で書いているように、聴く前はあなどっていた。
音はいいだろうけど、ケント・ナガノ(?)、児玉麻里(?)と思っていた。

もちろんふたりの名前は知っていた。
ケント・ナガノの演奏は、何かの録音で聴いていた。
児玉麻里は聴いたことはなかった。

負のバイアスが思いっきりかかった状態で聴いていた。
もう最初の音から、負のバイアスは霧散した。
そのくらい、いままで聴いたことのないレベルの音が鳴ってきた。

音だけではなく、演奏も見事だった。
一楽章を最後まで聴いた。
「続けて聴くか」と菅野先生がいわれた。
最後まで聴いていた。

このCDは、ノイマンがデジタルマイクロフォンのデモストレーション用に制作した、ということだった。
その時は市販されていなかったが、しばらくしてカナダのレーベルから出ていた。

デジタルマイクロフォンとは、
マイクロフォンにA/Dコンバーターを内蔵し、デジタル出力で信号が取り出せるようになっている。

録音の現場ではマイクロフォンからケーブルが、場合によっては非常に長くなることがある。
ケーブルが長くなれば、それだけロスも増えるし、ノイズの影響も受けやすくなる。
音の変化もある。

デジタル伝送にすれば、すべて解決とまではいかないものの、かなりの改善が期待できる。
録音に必要な器材がデジタル化されて、マイクロフォンもそうなった。

このノイマンのマイクロフォンは、
ハードウェアとしてのデジタルが、マイクロフォンに搭載されたわけで、
デジタルにはハードウェアだけでなく、ソフトウェアとしてのデジタルもある。

このソフトウェアとしてのデジタルが、マイクロフォンをどう変えていくのか。

Date: 10月 26th, 2016
Cate: 録音

マイクロフォンとデジタルの関係(その1)

Lytro(ライトロ)の製品は2011年に登場しているが、
Lytroの技術(撮影後にピント合せが可能)が話題になったのは、製品化の数年前だった。

そのころは理屈がどうなっているのかさっぱりだっただけに、
すごい技術が誕生したものだと思うとともに、
録音の世界では、同じこと、同じようなことが可能にならないのたろうか、と思っていた。

カメラのレンズにあたるのはマイクロフォンである。
マイクロフォンには指向特性がある。
たとえば音の焦点は変化できなくとも、指向特性を録音後に変えることはできないのだろうか。
そんなことを考えていたけれど、すっかり忘れていた。

LEWITTというメーカーがある。
LCT640TSというマイクロフォンがある。
今年発売になっている。

このマイクロフォンは、録音後にマイクロフォンの指向特性をシームレスに変更できる、という。
もちろんこのマイクロフォンだけで可能にしているわけではなく、
専用のプラグインを用いることでDAW(Digital Audio Workstation)上で可能になる。

CDが登場してしばらくしたころから思っていたのは、
マルチトラック録音を2チャンネルにトラックダウンせずに、
マルチトラックのまま聴き手に届く時代が来るかもしれない、ということだった。

再生にはコントロールのためのなにがしかの機械が必要となる。
コンピューターが、聴き手にとってミキシングコンソールになる。

もちろんレコーディングエンジニアによる2チャンネル再生も、
その音源からできる上に、聴き手が聴きたい個所をクローズアップできるように、
マルチトラックのそれぞれのチャンネルをいじれるようになってほしい、と思っていた。

けれどそういうことよりも、マイクロフォンの指向特性が録音後に変更できることは、
別の可能性を聴き手にもたらしてくれる。
そういうふうになるのかどうかははっきりしないが、
少なくとも技術的には可能になってきている。

マイクロフォンがデジタル信号処理と結びつくことで、
アナログ時代では無理だったことが可能になりつつある。
マイクロフォンアレイも、そのひとつである。

Date: 10月 11th, 2016
Cate: アンチテーゼ, 録音

アンチテーゼとしての「音」(ベルリン・フィルハーモニーのダイレクトカッティング盤)

ダイレクトカッティングで名を馳せたシェフィールドは、
オーケストラ録音にも挑んでいた。

これがどんなに大変なことは容易に想像できる。
けれどシェフィールドのオーケストラ物のダイレクトカッティング盤が魅力的だったかといえば、
少なくとも私にとっては、そうではなかった。

クラシック以外のダイレクトカッティング盤はいくつか買いたいと思うのがあったが、
クラシックに関してはそうではなかった。

今回、キングインターナショナルから発売になるダイレクトカッティング盤には、
心が動いている。

サイモン・ラトル/ベルリン・フィルハーモニーによるブラームス交響曲全集(六枚組)。
レーベルはBERLINER PHILHARMONIKER RECORDINGS。

録音は2014年。
発売に二年かかっている理由はわからない。
けれど、なぜベルリン・フィルハーモニーがダイレクトカッティング録音に挑んだのだろうか。

ダイレクトカッティングを行うにはカッティングレーサーを、
録音現場(演奏会場)まで運ばなければならない。

スタジオ録音でも、日本ではカッティングレーサーはプレス工場に置かれていることも多かった。
東芝EMIが以前ダイレクトカッティング盤の制作に、
工場から赤坂のスタジオに移動したときには、調整の時間も含めて一週間を費やした、ということだ。
この手間だけでもたいへんなもので、また元の場所に戻して調整の手間がかかるわけだ。

それでもあえてダイレクトカッティング録音を行っている。
すごい、と素直に思う。

ダイレクトカッティングなので、生産枚数には限りがある。
全世界で1833セット(ブラームスの生年と同じ数)で、
日本用には特典付きの500セットが割り当てられている。

価格は89,000円(税抜き)。
安いとはいえない値段だが、
シェフィールドのダイレクトカッティングも、クラシックに関しては6,500円していた。
40年ほど昔でもだ。

アナログディスク・ブームだからということで、
売れるからアナログディスクのカタチをしていればいい、という商売っ気だけで、
アナログディスクのマスターにCD-Rを使ってカッティング・プレスするのとは、
まったく違うアナログディスクである。

どこかダイレクトカッティングに挑戦してほしい、とは思っていたけれど、
まさかベルリン・フィルハーモニーだったとは、今年イチバンの嬉しいニュースである。

Date: 7月 11th, 2016
Cate: 憶音, 録音

録音は未来/recoding = studio product(続・吉野朔実の死)

2002年10月から2003年12月いっぱいまで、渋谷区富ケ谷に住んでいた。
最寄りの駅は小田急線の代々木八幡だった。

まだ高架になっていない。
踏み切りがある。駅も古いつくりのままである。
私鉄沿線のローカル駅の風情が残っている、ともいえる。

電車が通りすぎるのを待つ。
踏み切りが開く。視界の向うには階段がある。
山手通りへと続いている階段だ。

この風景、どこかが見ている。
どこで見たんだろう……、と記憶をたどったり、
手元にある本を片っ端から開いていったことがある。

ここで見ていたのだ、とわかったのは数ヵ月後だったか。
吉野朔実の「いたいけな瞳」の、この踏み切りがそのまま登場しているシーンがある。
一ページを一コマとしていた。(はずだ)。
印象に残っているシーン(コマ)だった。

「いたいけな瞳」は最初に読んだ吉野朔実の作品であり、
最初に買った吉野朔実の単行本だった。

あの風景は現実にあるのか。
記憶と毎日見ている踏み切りと階段の風景が一致したときに、そう思った。

今日ひさしぶりに小田急線に乗っていた。
代々木八幡駅を通りすぎるとき、この風景は目に入ってきた。

そうだった、吉野朔実はもう亡くなったんだ……、と思い出していた。

オーディオとは直接関係のないことのように思えても、
記録、記憶、録音、それから別項のテーマにしている憶音などが、
この風景と吉野朔実とに関係していくような気がした。

Date: 6月 19th, 2016
Cate: 境界線, 録音

録音評(その4)

銀座に行くこと(そこで買物をすること)と輸入盤を買うことは、
当時の私にはしっかり結びついていることだった。

銀座は東京にしかないし、
当時、私が住んでいた田舎では輸入盤のLPはほとんどなかった、といえるからだ。

LP(アナログディスク)を買うならば輸入盤。
これは東京に出てくる前から、そう決めていた。
クラシックならば、絶対に輸入盤。
輸入盤が廃盤になっていて、それがどうしても聴きたいディスクであるときは、
しかたなく日本盤を買っていたけれど、
そうやって買ったものでも、輸入盤をみかけたら買いなおしていた。

これは刷り込みのようなものだった。
五味先生の文章、瀬川先生の文章によって、
クラシック(他の音楽もそうだけれど)は、特に輸入盤と決めていた。

それは音がいいから、だった。
もっといえば、音の品位が輸入盤にはあって、日本盤にはなかったり、低かったりするからだ。

輸入盤と日本盤の音の違いは、もっとある。
それに場合によっては、輸入盤よりもいい日本盤があることも知っているけれど、
総じていえば、輸入盤の方がいい。

その輸入盤の音の良さは、いわゆる録音がいい、というのとはすこし違う。
録音そのものは輸入盤も日本盤も、基本は同じだ。
もちろん日本に来るカッティングマスターは、
マスターテープのコピーであり、そのコピーがぞんざいであったり、
丁寧にコピーされていたとしても、まったく劣化がないわけではない。

それに送られてきたテープの再生環境、カッティング環境がまったく同じというわけでもない。
海外にカッティングさしメタルマザーを輸入してプレスのみ日本で行ったとしても、
レコードの材質のわすかな違いやプレスのノウハウなどによっても、音は違ってくる。

そうであっても大元の録音は、輸入盤も日本盤も同一であり、
そこから先のプロセスに違いがあっての、音の違いである。

Date: 5月 3rd, 2016
Cate: 録音

録音は未来/recoding = studio product(吉野朔実の死)

うたたねから起き、手にしたiPhoneで目にしたニュースは、かなり衝撃だった。
「漫画家の吉野朔実さんが死去」とあったからだ。

人は必ず死ぬものである。
こうやって書いているあいだにも、世界のどこかで誰が亡くなっている。
その人のことを、その人の名前も何も、私が知らないというだけで、
誰かがつねに、世界のどこかで亡くなっている。

今年も少なからぬ著名人が亡くなっている。
音楽関係において、もだ。

衝撃を受けることもあれば、それほどでもないときもある。
ただどちらにしても、喪失感はそれほど感じていない。

他の人はどうなのかわからないが、
私は、熱心に聴いてきた演奏家が亡くなっても、衝撃をうわまわるような喪失感は感じてこなかった。

けれど吉野朔実の死には、衝撃だけでなく喪失感が強かった。
手塚治虫のときもそうだった。

音楽もマンガも同じところがある。
オリジナルとなるものがあり、それの大量複製を手にしている、という点だ。

違いもある。
本はそのまま読める。
読むための特別な機器を必要とはしない。
視力がかなり悪い人は補うものを必要とするが、それは複雑なものではない。

レコード(録音物)はそうではない。
オーディオという、かなり複雑なシステムを介在させなければ聴くことはできない。

この決定的な違いが、私にとって喪失感につながるかどうかに大きく関係しているように、
吉野朔実の死を知って、考えたことだった。

あらためて「録音は未来」だと思う……

Date: 3月 31st, 2016
Cate: 録音

録音は未来/recoding = studio product(DAM45)

数日前に書いたDAM45
このレコードの録音は、どちらなのだろうか。

レコードに惚れこんでいるところからスタートして行われた録音なのか、
音源に惚れこむところからスタートしての録音なのか。

私には前者のように感じられる。

Date: 3月 30th, 2016
Cate: 録音

録音は未来/recoding = studio product(菅野沖彦・保柳健 対談より)

ステレオサウンド 47号から始まった「体験的に話そう──録音の再生のあいだ」。
菅野先生と保柳健氏による対談がある。

最初読んだ時は、面白いんだけどよくわからない、という面も多々あった。
当時高校一年で、オーディオの経験も浅いし、録音というものもよくわかっていなかったのだから、
あたりまえといえばそうなのだが、
それでもこの対談はじっくり読むべきものだということはわかっていた。

48号で保柳健氏が、こう語られている。
     *
保柳 ははあ、ここで、あなたと私の根本的な違いがわかってきました。菅野さんは、レコードに惚れこんでいるところからスタートしているんです。私は音源に惚れこむところからスタートしています。それをどう再生するかというところで再生にきた。
菅野 私のは、フィードバックなんです。
     *
録音を仕事としている人は大勢いる。
著名な人も少なくない。
彼らのなかで、菅野先生と同じでレコードに惚れこんでいるところからスタートした人の割合は、
どのくらいなのだろうか。
録音を仕事としている人の多くは、保柳健氏と同じで、
音源に惚れこむところからスタートした人が、多そうな気がする。

あくまでも気がする、という感じだ。
調べたわけではないし、そういうことに触れた記事を読んだこともない。

とはいえ、この違いは録音を考えていくうえで、ひじょうに興味深いことではないだろうか。

Date: 2月 9th, 2016
Cate: 録音

最良の録音方式

エジソンの発明から100年以上が経っている。
そのあいだに、いろいろな録音方式が誕生した。

蝋管による録音はディスクへと変っていった。
磁気テープの録音が生れ、ディスクは録音メディアから複製メディアへとなっていった。

その流れのなかで、
ディスクの録音メディアの可能性を追求したのがダイレクトカッティングという録音方式である。

磁気テープの録音方式は、ダイレクトカッティングが行われるようになったのと同時期に、
デジタル録音方式が誕生した。
いまでは考えられないほど大きな筐体と消費電力を要求するデジタル録音機器は、14ビットがやっとだった。

デジタル録音はその後、16ビットが標準になり、18ビット、24ビット……となっていく。
サンプリング周波数も高くなっている。

それまでデジタル録音イコールPCM録音だったが、いまではDSD録音も出てきた。

これから先、まだ新しい録音方式が登場するかもしれないが、
コストや編集のしやすさ、その他のことを考えなければ、最良の録音方式とはどういうものなのか、と時折考える。

きわめて主観的ではあるが、ダイレクトカッティングがもっとも気持のよい音を出してくれたように思っているから、
私の答はダイレクトカッティング、それもディスクへのダイレクトカッティングではなく、
シリンダーへのダイレクトカッティングである。

ラッカー盤ではなくラッカー筒にダイレクトカッティングする。
ディスクちは違い、複製をつくるのが困難にはなるが、
ディスク状であることに起因する問題点は、ここにはないわけだ。

こんなのを聴く機会は絶対にないであろう。
それでも、どんな音がするのか──、
それを想像するのは、けっこう楽しい。

Date: 12月 2nd, 2015
Cate: 録音

ショルティの「指環」(その16)

カラヤンとグールドの違いについて、ここで書くよりも、
テーマを新たにした別項で書いていきたいと思っている。

この項で、シェルティ/シカゴ交響楽団によるマーラーの第二交響曲について書いてきた。
その15)との間隔がずいぶん開いてしまったけれど、
ショルティの録音物について書くと言うことは、
オーディオの機能性について書くことでもある──、
この四年間で、ますますそう思うようになってきている。

Date: 8月 24th, 2015
Cate: Glenn Gould, 録音

録音は未来/recoding = studio product(2020年東京オリンピック)

私はアーティストには用はない
彼らは岩山に群がる猿だ。
彼らはなるべく高い地位、高い階層を目指そうとする。
     *
グレン・グールドがこういっている。

2020年東京オリンピックのエンブレムに関する騒動。
盗用なのかそうでないのか、他のデザインはどうなのか──、といったことよりも、
佐野研二郎氏を擁護している人たちの発言を目にするたびに、
このグレン・グールドの「アーティストには用はない」を思い浮べてしまう。

先日も、ある人が発表したエンブレムに対しての、この人たちの発言を目にした。
この人たちの多くは、アートディレクターもしくはアーティストと自称しているし、
まわりからもそう呼ばれているようだ。

グレン・グールドがいっている「岩山に群がる猿」、
「高い地位、高い階層を目指そうとする」猿そのもののように、どうしても映ってしまう。

この人たちも、グレン・グールドを聴いていることだろう。
そして、この人たちはグレン・グールドのことをアーティストと呼ぶのだろう。

だがグレン・グールドは「アーティストには用はない」といっているのだから、
自身のことをアーティストだとは思っていなかったはず。

グレン・グールドはピアニストではあった。
けれど指揮も作曲もしていたし、ラジオ番組の制作もやっていた。

ピアニストという枠内に留まっていなかった。
音楽家という枠内にも留まっていなかった。

グレン・グールドが行っていたのは、
スタジオでのレコーディングであり、それはスタジオ・プロダクトであり、
グレン・グールドはスタジオ・プロダクト・デザイナーであった。

グレン・グールドは、アーティストとデザイナーの違いをはっきりとわかっていた。
だから「アーティストには用はない」。

Date: 11月 24th, 2014
Cate: Glenn Gould, 録音

録音は未来/recoding = studio product(その4)

1992年に「ぼくはグレン・グールド的リスナーになりたい」を書いた。
グールドの没後10年目だから書いた。

22年が経って、1992年の「ぼくはグレン・グールド的リスナーになりたい」には欠けているものに気づいた。

録音、それもグレン・グールドが認めるところのスタジオ録音(studio productとはっきりといえる録音)、
それをデザインの観点からとらえていなかったことに気づいた。

そのことをふまえてもう一度「ぼくはグレン・グールド的リスナーになりたい」を書けるのではないか、
そう思いはじめている。

いつ書き始めようとか、そんなことはまだ何も決めていない。
それに、この項もまだまだ書いていく。
ただ、書けるという予感があるだけだ。