Archive for category 音楽の理解

Date: 9月 14th, 2022
Cate: 基本, 音楽の理解

それぞれのインテリジェンス(その8)

紀伊國書店で、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルトらの教育法、
子育てについて訊ねていた女性は、想像するに幼い子供の母親なのだろう。

その子供が音楽に関心を示し、才能の片鱗を感じさせたのだろうか。
母親として、子供の音楽の才能をのばしたい、
モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルトのような音楽家に育ってほしい。

そのためにはどういう子育て、教育法が求められるのか。
それを知りたい一心での問合せだったような気がする。

品のいい女性だった。
年の頃は三十前後か。

おそらく彼女は、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルトが、
どういう家庭環境で育ったのか、まったく知らないのだろう。

(その7)で引用した五味先生の文章にあるようなシューベルトを想像していたのだろう。
モーツァルトもベートーヴェンも同じような感じでの想像だったのだろう。

《映画なんかでは、大へんロマンティックな恋をする音楽青年が登場して、伝記風にその生涯が描かれてゆくが、本当は、一度のロマンスにもめぐまれなかったシューベルトは青年》、
まさか梅毒に罹って、苦しみ抜いた青年、
そんなふうにはまったく思っていなかったのだろう。

勝手な、これは私の想像でしかないのだが、
育ちのよさそうな女性の横顔をみていると、そんな気がしてならなかった。

Date: 8月 29th, 2022
Cate: 基本, 音楽の理解

それぞれのインテリジェンス(その7)

ここ数週間、シューベルトを聴くことが増えている。
主に交響曲を聴いている。

九番を、主に聴いている。
一楽章から聴きはじめると、四楽章まで聴くことが多い。
長いから、途中で、と思うこともあるのだが、
聴きはじめると最後まで聴いている。

そのあいまに、シューベルトの他の曲を聴く。
聴きながら、というか、聴き終ってひとつ思い出すことがあった。

その前に、五味先生の文章を読んでほしい。
      *
 もともとシューベルトという人は、細ぶちの眼鏡をかけ、羽ペンを把った肖像画などから大へん風采のすぐれた青年のごとき印象を私たちに与えてくれるが、ほんとうは、短身で、ねこ背で、ひどい近視で、そのうえ顔色のさえぬ見すぼらしい人物だった。加えるに、会話がへたで、自分の思っていることも満足に表現できず、いつも、オロオロしていたそうだ。
 気心の知れた友人や、したしい者にはうちとけて話をしたが、初対面の相手には非常に臆病で、そわそわし、とくに女性に対してはこの傾向がいちじるしかったという。女性の前に出ると口もきけぬ、小心でちびで、貧乏なそんな男が女性にモテるわけがない。映画なんかでは、大へんロマンティックな恋をする音楽青年が登場して、伝記風にその生涯が描かれてゆくが、本当は、一度のロマンスにもめぐまれなかったシューベルトは青年なのである。彼の音楽が湛えているロマンティックな香気、抒情性は、あくまで彼の魂の内だけのもので、その才能が生み出したものであり、現実はみじめで暗い青春だった。
 私は、そんな実在のシューベルトが好きだ。女性に一度も愛されたことがなく、性病をわずらって(おそらくタチのわるい娼婦にかかったのだろう)その性病に苦しみぬいて死んだ青年が、あれだけ珠玉の作品をうみ出していることに泣けてくる。いつの場合にも、芸術はそういうものだし悲惨な生活で紡むぎ出された美の世界とはわかっているが、でも、ベートーヴェンやブラームス——あのマーラーに比してさえ——シューベルトの実人生は痛ましすぎる。
 そんなシューベルトの暗い影と、天分のあざやかなコントラストが手にとるようにわかるのが、作品一五九のこの『幻想曲』だ。曲としては、彼のヴァイオリン・ソナタの第四曲目にあたるが、ソナタ形式の伝統からかなり逸脱していて、全曲は途切れることなく(楽章別の長い休止をおかずに)演奏される。曲趣もボヘミア的、スラブ的な色彩がつよいので、ソナタの名称を用いず『幻想曲』風にまとめられた。
 まあ、そんなことはどうでもいい。とにかく、一度この曲を聴いてほしい。こんな旋律の美しい、哀しい、日本のわれわれにもわかりやすい、いい意味での甘さ、感傷に満ちた作品は、そうざらにはない。しかも優婉で、高雅である。どうしてこれほど天分ゆたかな青年芸術家を、周囲の女性——おもに良家の令嬢——はわかろうとしなかったんだろう、愛せなかったのであろう……そんな余計なことまで考えたことが、私にはあった。——もっともこれが初演されたとき、幻想曲としては長大すぎるので演奏の途中で、帰ってしまった批評家がいたそうだ。「常識以上の長さ」と冷評した専門家がいたともいう。大方の音楽家でさえ当時はそんな無理解でしか、シューベルトに接しなかったのだから、令嬢たちが無知だったとは、いちがいに言えないが、しかし、聴けば分ることである。
 一体、どこに退屈する余地があろう、全篇、いきをのむ美しさではないかと、私なんかは当時の批評家とやらのバカさ加減にあきれたものだが、まあ、そんなこともどうでもいい。とにかくお聴きになってほしい。
(「ベートーヴェンと蓄音機」より)
     *
シューベルトも天才である。
モーツァルトもベートーヴェンも、そうである。

いまから三十年ほど前のこと。
平成になって二年ぐらい経ったころだった、
新宿の紀伊國書店で本を探していた時、ある女性が店員に訊ねていた。

「モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルトについての子育て、
教育法についての本はありませんか」と。

Date: 7月 10th, 2022
Cate: 基本, 音楽の理解

それぞれのインテリジェンス(その6)

TIDALを利用して音楽を聴くようになって、約一年半。
この一年半のあいだに何が変ってきたのか。

まず一つは、毎月の支払額が高くなっている。
TIDALの料金が上っているのではなく、円安ドル高の影響を受けて、である。

PayPalを利用してTIDALの料金を払っていることもあって、
先月は2,800円を超えていた。
高い、とは思っていないのだが、一年半前からすれば、けっこうな値上げでもある。

まだまだ円安が進めば、3,000円を超えるだろう。
それでもTIDALをやめることはまったく考えていない。

そのTIDALのおかげで、新しい演奏家の録音も、かなり積極的に聴いている。
いまに始まったことではないのだが、新しい演奏家の演奏テクニックは向上している。

私が、ここで書いている演奏家とはクラシックの演奏家のことなのだが、
このことはクラシックの世界だけではなく、ジャズでも、他の音楽の世界でもそのはずだ。

それにアイディアといっていいものだろうか、とちょっと迷うけれど、
アイディアも新しいところがあったりする。

なるほどすごいなぁ、と感心する。
けれども……、でもある。
そこから先が、あまりないように感じてしまうからだ。

そこから先の世界の拡がり、深まりが、
私が若いころ夢中になって聴いてきた、いわゆる往年の演奏家よりも、
狭く浅く感じてしまう。

なぜだろうか、とは思うし、その理由を考えてみたりもする。
世代の違いからくることなのか。
他にも、いくつか理由らしきものがあったりするのだが、
結局のところ、音楽、それも録音された音楽は、
その時代の音楽であるだけでなく、未来に放たれた矢でもある。

Date: 10月 20th, 2020
Cate: 音楽の理解

音楽の理解(平均律クラヴィーア曲集、ベートヴェンの後期ソナタ・その5)

先日、「eとhのあいだにあるもの(その6)」で触れているグルダのSACDが届いた。
バッハの平均律クラヴィーア曲集とベートーヴェンのディアベリ変奏曲である。

グルダの平均律クラヴィーア曲集は、CDになってから聴いている。
最初に買ったのがフィリップス・レーベルから出た廉価盤扱いのものだった。
それから五年前に出たリマスター盤、そして今回のSACDを買っている。

リヒテルの平均律クラヴィーア曲集は、最初は日本ビクターのLPを買った。
次に買ったのはSACDである。

グールドの平均律クラヴィーア曲集は、もっと買っている。
CD初期に出たモノから、かなり頻繁に買っている。
SACDも買った。
LPもオリジナル盤を含めて、買っている。

グルダ、リヒテル、グールドの平均律クラヴィーア曲集が、SACDで聴ける。
いい時代になったものだ、とおもう。

グルダ、リヒテル、グールド以外の演奏家による平均律クラヴィーア曲集も、
いくつか買って聴いてきた。
それでもリマスター盤が出たから、といって、買い足して(買い替えて)きたのは、
おもにこの三人だけ、である。

それだけでなく、この十数年、平均律クラヴィーア曲集の新譜は聴いていない、といっていい。
正確には部分的には聴いてたりするのだが、
買ってまできいた演奏家はいない。

平均律クラヴィーア曲集に関するかぎり、
マルタ・アルゲリッチと内田光子が録音してくれるのであれば、
ぜひ聴きたい(買いたい)のだが、それ以外の演奏家となると、ほとんど食指が動かない。

これは歳をとってきたせいなのか、とおもうところもある。
新しい演奏に耳を傾けなくなったのは、精神の老化だ、といわれれば、
反論する気はない。

とういことは、おまえは平均律クラヴィーア曲集という曲を、
これ以上理解しようという気がないのか、といわれれば、そうではない、と答える。

私がリマスター盤やSACD(できればMQAでも聴きたいのだが)を聴くのは、
グルダの平均律クラヴィーア曲集、リヒテルの平均律クラヴィーア曲集、
グールドの平均律クラヴィーア曲集を、より深く理解したいがためである。

このことが、平均律クラヴィーア曲集をより理解することになる、と考えている。

Date: 9月 19th, 2020
Cate: 音楽の理解

音楽の理解(平均律クラヴィーア曲集、ベートヴェンの後期ソナタ・その4)

味わえば味わうほどに、平均律クラヴィーア曲集はますます美しくなる、
味わえば味わうほどに、ベートヴェンの後期ソナタはますます美しくなる。

何度も、このことを書いている。

まず音ありき、だ。
どんな音楽であっても、音ありき、である。
平均律クラヴィーア曲集であっても、
ベートーヴェンの後期ソナタにしても、そうである。

むしろ、味わえば味わうほどに、ますます美しくなる音楽ほど、
まず音ありき、とさえおもうことがある。

私は音を聴いているわけではない、音楽を聴いているんだ──、
どんな人が強く主張しようと、まず音を聴いている。

ベートーヴェンの音楽、
動的構築物といえるベートーヴェンの音楽は、聴き手の裡で動的構築物となる。

常にそう感じられる音を出せているわけではない。
動的構築物と感じられる片鱗すら出せない音と比較すれば、
まだましとはいえても、
菅野先生のところで聴いた児玉麻里/ケント・ナガノによるピアノ協奏曲こそ、
まざまざと、音による動的構築物を私に見せてくれた。
いまのところ、これ以上の経験はない。

この時の菅野先生の音を聴いている私と、
そういうレベルの音をまったく聴いていない人とでは、
おそらく音による動的構築物についての認識は、
そうとうに違ったものになっているのではないだろうか。

そのこと以前に、まず音ありき、という認識がある人とそうでない人でも、
言葉で、音による動的構築物といったり書いたりするだろうが、いうまでもなく、
前者のいう音による動的構築物と後者のいう音による動的構築物が、
どういうことを指しているのか、伝えたいのかは、
これまた受けとる側にも、
まず音ありき、という認識がある人とそうでない人とがいるわけであり、
ここても、菅野先生のところで、
児玉麻里/ケント・ナガノの演奏を聴いている者とそうでない者とがいるわけで、
結局のところ、音による動的構築物の理解は、
人びとのあいだに深まるどころか、広まってもいかないのかもしれない。

Date: 10月 15th, 2019
Cate: 音楽の理解

音楽の理解(平均律クラヴィーア曲集、ベートヴェンの後期ソナタ・その3)

味わえば味わうほどに、平均律クラヴィーア曲集はますます美しくなる、
味わえば味わうほどに、ベートヴェンの後期ソナタはますます美しくなる。

味わえば味わうほどに、ということは、くり返しくり返し聴く、ということでしかない。

くり返しくり返し聴くために必要なものは、それこそが美しい音なのかもしれない。

いい音と書こう、とした。
けれど、いい音と書いてしまうと、そうとうに認識が違ってくることがわかっているから、
美しい音とした。

美しい音にしても、単にきれいな音を美しい音と勘違いしている人も少なくないし、
こちらも認識が、人によって大きく異っているのはわかっていても、
それでも美しい音とした。

精度の高い音、精確な音、
そういう音をひたすら目指していく。
そういうことも必要なのはわかっている。

それでも、それだけではどんなにしても到達できない領域があって、
その領域を目指すのか目指さないのか。

表現を変えれば、その領域が視えているのか視えていないのか、である。

そこをどう判断するのか。
結局、聴くしかない。

バッハの平均律クラヴィーア曲集を、
ベートーヴェンの後期のピアノソナタを、
美しくしていくために。

それが、レコード音楽(録音された音楽)を聴く上での、
音楽の理解だと確信している。

Date: 6月 25th, 2019
Cate: 基本, 音楽の理解

それぞれのインテリジェンス(その5)

クラシックの演奏家の違いによる演奏を、
楷書と草書にふたつだけで分類して語るのは無理があるのはわかっていても、
それでもマーラーの交響曲で、
しかも同じドイツグラモフォンでの録音でも、
アバドとバーンスタインのマーラーは、(別項)で書いているように、
アバドは楷書的、バーンスタインは草書的、と口走りたくなる。

昨年のことなのだが、ある人のリスニングルーム兼仕事場にいた。
CD棚を見ていて、バーンスタインのマーラーがあるのに気づいた。

そのCD棚はクラシックのCDばかりがあったわけではない。
ジャズもあれば、ロック、ポップスもあった。

部屋の主の好きな音楽が並んでいる。

それでもバーンスタインのマーラー(ドイツグラモフォン盤)が目に入ってきた。
これだけでも嬉しいのだが、その隣にはアバドのマーラーも並んでいた。

人それぞれだから……、と何度も書いているし、
その4)でも書いている。
別項でベートーヴェンの「第九」について書いているけれど、
そこでも、人それぞれだから……、ということになる。

同世代であっても、オーディオという共通の趣味をもっていても、
同じようにステレオサウンドを始めとするオーディオ雑誌を、学生時代に読んでいても、
やっぱり人それぞれなんだぁ……、とおもう。

人それぞれ──、そうであっても、
バーンスタインのマーラーとアバドのマーラーが並んでいるCD棚があれば、
この部屋の主とは、世代も違うし、いろんなことが違うけれど、
もしかすると私と同じ(もしくは近い)マーラーの聴き方をされているのかも……、と思ってしまう。

Date: 1月 18th, 2019
Cate: 音楽の理解

音楽の理解(オーディオマニアとして・その3)

音楽に対する「想像と解釈」、
これこそが聴き手の心象である。

わずかでもいい音をもとめ、音に一喜一憂して過ごす、オーディオマニアとしての永い時間は、
自分だけの心象を創造・構築していくことである。

Date: 12月 10th, 2018
Cate: 音楽の理解

音楽の理解(オーディオマニアとして・その2)

続きを書くつもりはなかった。
けれど、facebookでのコメントを読んで、書くことに変更した。

コメントの内容をここで引用はしないが、
間違ってはいないけれど、本質的なところで微妙に違う、とまず感じた。

コメントをくれた方を批判するわけではない。
伝え方が不十分だったな、と今回も思っている。

音楽とした場合、私にとってはクラシック音楽であるということだ。
作曲家がいて、演奏家がいる。

(その1)ではマーラーの交響曲を挙げたが、
マーラーの交響曲は、いまでは多くの指揮者、オーケストラが演奏しているし、
レコード会社もいろんなところから出ている。

(その1)でも、それ以前にも、
インバルのマーラー(デンオン録音)はとらない、と何度も書いている。

インバルのマーラーをとる人がいてもいい。
私とはマーラー観がまるで違う、ということであって、
私が好きなバーンスタインのマーラーがダメだ、という人もいてもいい。

別項「メリディアン ULTRA DACで、マリア・カラスを聴いた(その2)」で触れたことが大きく深く関係している。
音楽に対する「想像と解釈」である。

つまり、マーラーの交響曲では、マーラーの交響曲に対する「想像と解釈」で演奏を選ぶ。
そこから始まる。

Date: 12月 10th, 2018
Cate: 音楽の理解

音楽の理解(オーディオマニアとして・その1)

audio wednesdayでは、わりとマーラーの交響曲をかける。
かけるたびに、常連のKさんがつぶやく。
「マーラーはよくわからない」、
もしくは「マーラーはとらえどころがない」、
そんなKさんのつぶやきを聞きながら、
わかる(理解する)とは、どういうことなのか、と自問する。

マーラーの交響曲をかけるときは、好きな演奏しかかけない。
まちがってもインバルによるマーラーの交響曲はかけない。

誰かがインバルのディスクを持ってきて、かけてほしい、とは言われればことわりはしないが、
自分からかけることはしない。

マーラーの交響曲をわかる、とか、わかっていないとか、
オーディオマニアとしていえることは、
好きな演奏を、満足のいく音と響きで鳴らせるか、で決る。

どんなにマーラーの交響曲について、
音楽的な知識や作曲された背景などについてことこまかに知っていて、
音楽評論家顔負けのようなことを話せたとしても、
好きなマーラーの演奏を、満足のいく音で鳴らせなかったら、
それはマーラーの音楽(交響曲)を理解していない。

もちろん、これはオーディオマニアとして音楽の理解である。
バーンスタインのマーラー(ドイツグラモフォン録音)が好きだといいながら、
インバル(デンオン録音)のようにしか鳴らせないオーディオマニアがいたら、
その人はマーラーを理解していない、と私は捉える。

Kさんとマーラーの交響曲について、それ以上話したことはない。
Kさんは、これだといえるマーラーの交響曲の演奏(録音)にであっていないだけかもしれない。

マーラーに限らずいえることでもある。

Date: 12月 2nd, 2017
Cate: 基本, 音楽の理解

それぞれのインテリジェンス(その4)

人それぞれだから……、と何度も書いている。
ここ二、三年、そう書くことが多くなった。

人それぞれだから……、という表現を使う時、
私は、そのほとんどが、もうどうにもならないことだから……、
いまさらあれこれいっても……、という気持である。

言葉や時間をどれだけ費やしたところで、
伝わらない相手には、何ひとつ伝わらない、ということを実感している。

オーディオという狭い世界の中でも、そうである。

相手の年齢、職業、性別など、そんなことはまったく関係なく、
伝わらない人が世の中には、いる。

けれど、そんな人ばかりではないことも実感している。
伝わる人には、こちらの拙い表現でもきちんと伝わる。

それぞれのインテリジェンスということを実感している。

Date: 1月 21st, 2017
Cate: 基本, 音楽の理解

それぞれのインテリジェンス(その3)

ベートーヴェンの音楽を理解したいがためのオーディオという行為。
これが私にとっての、40年目のオーディオである。

その2)を書いて気づいたことがある。
ステレオサウンド 56号に、安岡章太郎氏による「オーディオ巡礼」の書評がある。
最後に、こうある。
     *
 しかし、五味は、最後には再生装置のことなどに心を患わすこともなくなったらしい。五味の良き友人であるS君はいっている。死ぬ半年まえから、五味さんは本当に音楽だけを愉しんでましたよ。ベッドに寝たままヘッド・フォンで、『マタイ受難曲』や『平均律』や、モーツァルトの『レクイエム』をきいて心から幸せそうでしたよ」
     *
ステレオサウンド 55号の原田勲氏の編集後記には、こうある。
     *
 オーディオの〝美〟について多くの愛好家に示唆を与えつづけられた先生が、最後にお聴きになったレコードは、ケンプの弾くベートーヴェンの一一一番だった。
     *
このときの入院では、テクニクスのアナログプレーヤーSL10とカシーバーSA-C02、
それにAKGのヘッドフォンを病室に持ち込まれていた。

EMTの930st、マッキントッシュのC22とMC275、
それにタンノイのオートグラフ。
五味先生の、このシステムからすれば、ずっと小型なシステムで最後は聴かれていた。

五味先生は
《私は多分、五十八歳まで寿命があるはずと、自分の観相学で判じているが、こればかりはあてにならない。》
と書かれていた。
58歳で肺ガンのため死去されている。

病状はひどくなる入院生活で、死期を悟られていたからこそ、
再生装置のことなどに心を患わすことなく音楽を愉しまれた──、
そう受けとめていた。

でも、そればかりではないような気が、ここにきて、している。
ベートーヴェンの音楽への理解にたどりつかれていたからではないだろうか、とも思えるのだ。

ベートーヴェンの音楽だけにとどまらない。
五味先生が生涯を通じて聴き続けてこられ、
聴き込むことで名盤としてこられた音楽、
マタイ受難曲、平均律クラヴィーア、レクイエムなどの深い理解にたどりつかれたからこそ、
再生装置に心を患わすことなく、というところに行かれたのだとすれば、
それは五味先生のネクスト・インテリジェンスなのだろうか。

Date: 1月 20th, 2017
Cate: 基本, 音楽の理解

それぞれのインテリジェンス(その2)

好きな音楽を少しでもいい音で聴きたい、
オーディオマニアなら誰もがそうおもって、オーディオの世界に足を踏み入れたであろう。

「五味オーディオ教室」で出逢って40年。
いまもそうかといえば、そうだと答えながらも、もうそればかりではないことに気づく。

いまもオーディオに、こうも取り組んでいるのかを改めて考えてみると、
私にとっては、ベートーヴェンの音楽を理解したいがためである、ということにたどりつく。

そして「それぞれのネクスト・インテリジェンス」とはいうことについて考えはじめている。

Date: 12月 23rd, 2016
Cate: 基本, 音楽の理解

それぞれのインテリジェンス(その1)

それぞれのインテリジェンス。
そのことを考えるきっかけがあった。

私のインテリジェンスは何かとなると、
音楽の理解であり、
ここでの音楽とは、ベートーヴェンの音楽であり、
バッハであり、ブラームスでもワーグナーの音楽、
つまりはドイツ音楽の理解こそが、そうである。

Date: 2月 18th, 2016
Cate: 音楽の理解

音楽の理解(平均律クラヴィーア曲集、ベートヴェンの後期ソナタ・その2)

「五味オーディオ教室」のまえがきに、こうある。
     *
 なお、筆者が音楽を聴き込んでから——おもにクラシック音楽だが——感じたことを、ここ十年来『藝術新潮』に載せてきた。それを『西方の音』『天の聲』(いずれも新潮社刊)の二冊にまとめたが、本書は、右の二冊のオーディオに関する部分と、オーディオ専門誌である季刊『ステレオ・サウンド』に連載した文章を中心にして、音を知り、音を創り、音を聴くための必要最少限の心得四十箇条を立て、新たに加筆したものである。
     *
「五味オーディオ教室」にある必要最少限の心得四十箇条。
最後の四十箇条目の大見出しは
「重要なのは、レコードを何枚持っているかではなく、何を持っているかである。」となっている。

この四十箇条目の最後には、こう書いてある。
     *
 もちろん、S氏が二人いても同じレコードが残されるとは限らないだろう。人にはそれぞれ異なる人生があり、生き方とわかち難く結びついた各人各様の忘れがたいレコードがあるべきだ。同じレコードでさえ、当然、違う鳴り方をすることにもなる。再生装置でもこれは言える。部屋の残響、スピーカーを据えた位置の違いによって音は変わる。どうかすれば別物にきこえるのは可聴空間の反響の差だと、専門家は言うが、なに、人生そのものが違うせいだと私は思っている。
 何を残し何を捨てるかは、その意味では彼の生き方の答になるだろう。それでも、自らに省みて言えば、貧乏なころ街の技術屋さんに作ってもらったアンプでグッドマンの12インチを鳴らした時分——現在わが家で鳴っているのとは比較にならぬそれは歪を伴った音だったが——そういう装置で鳴らしていい演奏と判断したものは、今聴いても、素晴らしい。人間の聴覚は、歪を超越して演奏の核心を案外的確に聴き分けるものなのにあらためて感心するくらいだ。
 だから、少々、低音がこもりがちだからといって、他人の装置にケチをつけるのは僭越だと思うようにもなった。当然、彼のコレクションを一概に軽視するのも。
 だが一方、S氏の、きびしい上にもきびしいレコードの愛蔵ぶりを見ていると、何か、陶冶されている感じがある。単にいいレコードだから残っているのではなくて、くり返し聴くことでその盤はいっそう名品になってゆき、えらび抜かれた名品の真価をあらわしてゆくように。
 レコードは、いかに名演名録音だろうと、ケースにほうりこんでおくだけではただの(凡庸な)一枚とかわらない。くり返し聴き込んではじめて、光彩を放つ。たとえ枚数はわずかであろうと、それがレコード音楽鑑賞の精華というものだろう。S氏に比べれば、私などまだ怠け者で聴き込みが足りない。それでも九十曲に減ったのだ。諸君はどうだろうか。購入するだけでなく、聴き込むことで名盤にしたレコードを何枚持っているだろうか?
     *
ここには「名盤は、聴き込んでみずからつくるもの」という見出しがつけられている。
この「名盤は、聴き込んでみずからつくるもの」が、「五味オーディオ教室」の最後にあるわけだ。

「五味オーディオ教室」から多くのことを学んだ。
大切なことがいくつもある。
そのうちのひとつが「名盤は、聴き込んでみずからつくるもの」である。

《単にいいレコードだから残っているのではなくて、くり返し聴くことでその盤はいっそう名品になってゆき、えらび抜かれた名品の真価をあらわしてゆくように。》
とある。

これはゲーテ格言集にある《味わえば味わうほどに、聖書はますます美しくなる》につながっていく。

味わえば味わうほどに、平均律クラヴィーア曲集はますます美しくなる、
味わえば味わうほどに、ベートヴェンの後期ソナタはますます美しくなる、
と書いた。

そのためにはくり返し聴くことが、当然のこととして求められる。
くり返し聴くために必要なものは何か。