つきあいの長い音(その20)
つきあいの長い音になっていくのだろうか、手本のような音は……。
つきあいの長い音になっていくのだろうか、手本のような音は……。
つきあいの長い音は、そのつきあいにおいて聴き手を試しているのだろう。
12月のaudio sharing例会は、2日(水曜日)です。
今回のテーマは、意外にもにもいろんなことを思い出させてくれる。
五年前に「確信していること(その1)」を書いた。
たった三行である。
瀬川先生が追い求められていた音とは、
クレデンザ、HMVの♯202、203といったアクースティック蓄音器の名器の音を、
真の意味でワイドレンジ化したものだった、と確信している。
これは私にとって長い間考え続けてきているテーマでもある。
良質の、というよりも極上のアクースティック蓄音器の音をワイドレンジにできるのか。
ステレオサウンド別冊「世界のオーディオ」ALTEC号で、瀬川先生が書かれていることを、
このことに関連して思い出す。
*
そこで再びアルテックだが、味生氏の音を聴くまでは、アルテックでまともな音を聴いたことがなかった。アルテックばかりではない。当時愛読していた「ラジオ技術」(オーディオ専門誌というのはまだなくて、技術専門誌かレコード誌にオーディオ記事が載っていた時代。その中で「ラ技」は最もオーディオに力を入れていた)が、海外製品ことにアメリカ製のスピーカーに、概して否定的な態度をとっていたことが私自身にも伝染して、アメリカのスピーカーは、高価なばかりで繊細な美しい音は鳴らせないものだという誤った先入観を抱いていた。
味生氏の操作でシュアのダイネティックが盤面をトレースして鳴り出した音は、そういう先入観を一瞬に吹き払った。実に味わいの深い滑らかな音だった。それまで聴いてきたさまざまな音の大半が、いかに素人細工の脆弱な、あるいは音楽のバランスを無視した電気技術者の、あるいは一人よがりのクセの強い音であったかを、思い知らされた。それくらい、味生邸のスピーカーシステムは、とびきり質の良い本ものの音がした。
いまにして思えば、あの音は味生氏の教養と感覚に裏づけられた氏自身の音にほかならなかったわけだが、しかしグッドマンとアルテックの混合編成で、マルチアンプで、そこまでよくこなれた音に仕上げられた氏の技術の確かさにも、私は舌を巻いた。その少し前、会社から氏の運転される車に乗せて頂いたときも、お宅の前の狭い路地を、バックのままものすごいスピードで、ハンドルの切りかえもせずにグァーッとカーブを切って門の中にすべりこませたそれまで見たことのなかった見事な運転に、しばし唖然としたのだが、音を聴いてその驚きをもうひとつ重ねた形になった。
使い手も素晴らしかったが、アルテックもそれに勝とも劣らず、見事に応えていた。以前聴いたクレデンザのあの響きが、より高忠実度で蘇っていた。最上の御馳走を堪能した気持で帰途についた。
*
これを改めて読みなおしてより確信している。
そして、アクースティック蓄音器の響きを、より高忠実度で蘇らせるには必要なことはなんだろう、と考える。
絶対条件とは断言できないけれど、スピーカーの変換効率の高さは深く関係しているような気がする。
低能率のスピーカーシステムからは、そういう音は絶対に出てこない──、
これもまた断言できずにいる。
出てくるのかもしれないが非常に出難いように、いまのところは感じている。
場所もいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。
さきほど書いた「使いこなしのこと(瀬川冬樹氏の文章より)」は、続きを書くつもりはなかった。
けれどfacebookにもらったコメントを読んで、これだけは補足しておこうと思った。
最初に書こうと考えていたことは、別にあった。
数日前、知人からメールで問合せがあった。
「瀬川さんが、こんなことを書いているようだけど、どこに書いているのか」というものだった。
知人は、二三ヶ月前のラジオ技術の是枝重治氏の文章を読んで、私に訊ねてきた。
その号を私は読んでいないので正確な引用ではないが、
瀬川先生がある人に、昔はアンプを自作していたのに、
なぜいまはメーカー製のアンプを喜々として使っているのか。
それに対して、その時はうまく反論できなかったけど、いまはこういえる……、
そういう内容のことだったそうだ。
これはステレオサウンド 17号の「コンポーネントステレオの楽しみ」に出てくる。
*
しかし音を変えたり聴きくらべたりといった、そんな単調な遊びだけがオーディオの楽しみなのではない。そんな底の浅い遊戯に、わたくしたちの先輩や友人たちが、いい年令をしながら何年も何十年も打ち込むわけがない。
大げさな言い方に聴こえるかもしれないが、オーディオのたのしさの中には、ものを創造する喜びがあるからだ、と言いたい。たとえば文筆家が言葉を選び構成してひとつの文体を創造するように、音楽家が音や音色を選びリズムやハーモニーを与えて作曲するように、わたくしたちは素材としてスピーカーやアンプやカートリッジを選ぶのではないだろうか。求める音に真剣であるほど、素材を探し求める態度も真摯なものになる。それは立派に創造行為といえるのだ。
ずっと以前ある本の座談会で、そういう意味の発言をしたところが、同席したこの道の先輩にはそのことがわかってもらえないとみえて、その人は、創造、というからには、たとえばアンプを作ったりするのでなくては創造ではない、既製品を選び組み合せるだけで、どうしてものを創造できるのかと、反論された。そのときは自分の考えをうまく説明できなかったが、いまならこういえる。求める姿勢が真剣であれば、求める素材に対する要求もおのずからきびしくなる。その結果、既製のアンプに理想を見出せなければ、アンプを自作することになるのかもしれないが、そうしたところで真空管やトランジスターやコンデンサーから作るわけでなく、やはり既製パーツを組み合せるという点に於て、質的には何ら相違があるわけではなく、単に、素材をどこまで細かく求めるかという量の問題にすぎないのではないか、と。
*
その知人に確認したことがある、是枝氏は「うまく反論できなかった」と書かれていたのか、と。
そうらしい。
でも、瀬川先生は「うまく説明できなかった」と書かれている。
反論と説明とでは、読む方の印象はずいぶんと違ってくることになる。
やはり瀬川先生ならば、反論ではなく説明のはずであり、
私はここが瀬川先生らしい、と思った。
そのことを書きたかっただけで、
引用するために「コンポーネントステレオの楽しみ」を開いていた。
読んでいくうちに、そんなことよりもフローベルの言葉について書かれたところにしよう、と思った。
だから、「使いこなしのこと(瀬川冬樹氏の文章より)」だけで済んでいた。
facebookへのコメントには「なかなか出会えない」とあったからだ。
その気持はわからないわけではないが、
瀬川先生も書かれている「オーディオのたのしさの中には、ものを創造する喜びがあるからだ」、
ここのところを読んでほしい、と思う。
素材を探し求める態度も真摯なものになる、と書かれている。
だから「なかなか出会えない」という気持はわかる。
でも、世の中にそうそう理想と思えるモノがあるわけではない。
真摯な態度で探し求め、そうやって手に入れたモノを組み合わせて、使いこなしていく、という行為、
この行為を創造する喜びがあるとして取り組んでいくしかない。
12月のaudio sharing例会は、2日(水曜日)です。
昨年7月に「自由奔放に鳴るのか」を書いた。
書き始めたばかりの別項「手本のような音を目指すのか」とも関係してくることでもある。
自由奔放に鳴る音は、手本になるような音ではないはずだ。
自由奔放に鳴る音のスピーカーが、いまの時代に現行製品として少なくなってきているように感じている。
スピーカーの性能としての物理特性が向上していくということは、そういうことなのかもしれない。
そうは思いながらも、何か違うのではないか……、とも思っている。
そういえば毎月、この例会で場所を提供してくれている喫茶茶会記のスピーカーはアルテックであり、
いまアルテックはなくなってしまった会社である。
アルテックといえば、
ステレオサウンド別冊のALTEC号の巻頭に山中先生が書かれていたことも思い出す。
こう書いてあった。
*
一つの興味深い例として、アルテックと非常によく似た構造のコンプレッシャー・ユニットを使うJBLのスピーカーシステムと比べた場合、JBLがどちらかといえばシャープで切れ味本位の、また言葉をかえれば、各ユニットを強力に束縛して自由をおさえた設計をとっているのに対し、アルテックは同じようなユニットを自由に余裕をもって働かせている印象が強い。
これが実は、アルテック・サウンドを分析するファクターで、独特のあたたかみ、そして一種の開放感を有無もとととなっている。したがってアルテックのスピーカーは、一歩使い方をあやまると、やたら百花斉放な音にもなりかねないが、しかし、この性向をうまく活かして使った場合、たとえばオーケストラなどスケールの大きなダイナミックレンジの広い音の再生を際立たせることができる。また、充実した中音域によって、人の声、合唱、そうしたメンタルな要素の覆いソースをすばらしく聴かせることも容易だ。
*
衰退していく前のアルテックは、まさに自由奔放に鳴ってくれるスピーカーの代表であった。
そのアルテックがなくなってしまった大きな理由は別のところにあるのだが、
それを承知のうえで時代の流れ(変化)ゆえ、といいたくもなる面もあるのではないだろうか。
自由奔放に鳴るスピーカーをうまく活かして使えば……、とこのごろ強く思う時がある。
場所もいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。
ステレオサウンド 17号に「コンポーネントステレオの楽しみ」という瀬川先生の文章が載っている。
「虚構世界の狩人」にもおさめられている。
そこには、こう書いてある。
*
「われわれの言おうとする事がたとえ何であっても、それを現わすためには一つの言葉しかない。それを生かすためには、一つの動詞しかない。それを形容するためには、一つの形容詞しかない。さればわれわれはその言葉を、その動詞を、その形容詞を見つけるまでは捜さなければならない。決して困難を避けるためにいい加減なもので満足したり、たとえ巧みに行ってもごまかしたり、言葉の手品を使ってすりかえたりしてはならぬ。」
これはフローベルの有名な言葉だが、この中の「言葉」「動詞」「形容詞」という部分を、パーツ、組み合わせ、使いこなし、とあてはめてみれば、これは立派にオーディオの本質を言い現わす言葉になる。
*
フローベルの言葉を置き換えてみると、
「われわれの言おうとする事がたとえ何であっても、それを現わすためには一つのパーツしかない。それを生かすためには、一つの組み合わせしかない。それを形容するためには、一つの使いこなししかない。さればわれわれはそのパーツを、その組み合わせを、その使いこなしを見つけるまでは捜さなければならない。決して困難を避けるためにいい加減なもので満足したり、たとえ巧みに行ってもごまかしたり、言葉の手品を使ってすりかえたりしてはならぬ。」
となる。
「言おうとする事」は、いうまでもなく「出そうとしている音」である。
クラシックのコンサートを聴きに行くとする。
つまりどこかのホールに行くわけだ。
オーケストラを聴けるホールであれば、いわゆる大ホールと呼ばれる大きさをもつ。
開場の時間が来てホールのロビーに入る。
この時点で、日常の空間とは大きく違う空間に来たことを肌で感じる。
そしてホールに入り、自分の席を目指して歩く。
ここでもすでに着席している観客のざわめきが、
大ホールというただ広いだけでなく、響きのたっぷりした空間でのざわめきなのだから、
これからオーケストラを聴くんだ、という気持は少しずつ昂ぶっていく。
クラシックのオーケストラのコンサートでは、
演奏が始まる前に楽器のチューニングがステージ上で行われる。
これを聴いていると、ますます気持は昂ぶることになる。
そして会場が暗くなり、対照的にステージが映えるかっこうになり、
指揮者が登場する。
拍手が起る。
そして指揮者が指揮棒を……。
最初の音が鳴り出すまでに、われわれはさまざまなバイアスを受けている。
そのバイアスはホールのある建物に入ったときから、少しずつ大きくなっていく。
このバイアスが、これから演奏される音楽の聴き手の感覚にどれだけ影響を与えているかは、
そんなことは測定できないものであろうが、かなりのもののはずだ。
そして、これらのバイアスから完全にフリーでいられる聴き手はいない、と思う。
むしろコンサートホールに出かけて音楽を聴くという行為は、
このバイアスを全面的に受け容れて楽しむ行為のはずだ。
KK塾、二回目の講師は、生田幸士氏。
生田氏の高校生時代のエピソードに、スタートレックのことが出て来た。
スタートレックのテレビシリーズを見ていた人ならば説明はいらないだろうが、
艦長のカークと副長のスポックは、たびたび異星に降りたつ。
エンタープライズ号のトップのふたりが、艦を離れてしまうことがたびたびある。
いまHuluでザ・ラストシップが毎週火曜日に一本ずつ公開されている。
ザ・ラストシップは面白い。
毎週火曜日が楽しみなくらいである。
今週の火曜日に公開されたエピソードを見て気づいたのは、
ザ・ラストシップとスタートレックは似ている、ということ。
スタートレックは宇宙戦艦、ザ・ラストシップは駆逐艦、
スタートレックは宇宙、ザ・ラストシップは海が舞台である。
スタートレックでは異星に降りたつ、ザ・ラストシップでは陸上に降りたつシーンもあるが、
メインとなるのは艦内という、いわば閉じられた空間での出来事という共通性を感じる。
ただザ・ラストシップでは艦長と副長のふたりともが艦を離れることはない。
艦長が交渉のため止むを得ず艦を離れた時には、副長が艦に残っている。
艦長はよほどのことがないかぎり艦を離れるものではないし、
まして副長とともに離れることはあってはならないこと。
今週火曜日にそのことに気づいたばかりだったから、
生田氏のスタートレックの話を聞きながら、2011年3月11日のことを思い出していた。
この日、東京電力の会長は中国に、社長は関西方面に出かけていて、
東京電力のトップふたりは会社という艦から離れていた。
どちらかひとりは必ず残っているべきである。
生田氏は高校の文化祭のリーダーだったときに、
必要だったススキを刈りに学校を離れて戻ってきたら、先生に叱られてしまった。
その時に、スタートレックでは、カートとスポックのふたりが艦を離れてしまう、
と反論したところは、それはテレビの話であり、リーダーは現場を離れてはいけない、
何かあったときにリーダー不在ではあってはいけないからだ、と、
また先生に叱られたということだった。
あの時の東京電力の会長と社長が、
どんな学校を卒業してきたのか知らないし、調べようとも思わない。
偏差値の高い学校なのだろう、とは思う。
優秀な人たちなんだろうとも思う。
だから東京電力という会社のトップになれたのだろう。
けれど、このふたりには、
生田氏の高校時代の先生の存在がいなかったのだろう、とも強く思う。
数日前に、石積みのことを書いたばかりということもあって、
教育も石積みだと思っていた。
大きな石だけでは積んでいくことはできない。
小さな石も中くらいの石も必要になってくる。
文化祭でのエピソードは、いわば小さな石かもしれない。
でも、この小さな石がなければ石垣は、空積みの石垣は崩れてしまう。
今日はKK塾の二回目だった。
五反田のDNPホールに行ってきた。
DNPはいうまでもなく大日本印刷のこと。
大日本印刷に関してのことは書く必要はないだろう。
昔、印刷といえば紙にインクで刷っていくものだった。
いまでも印刷と聞けば、紙への印刷を思い浮べがちだが、
印刷の領域は拡がっている。
LSIの製造も、一種の印刷技術であり、
DNPホールのある建物の一階には、さまざまな印刷物が展示してある。
そしてホログラフィックの展示もある。
ニケの女神像があり、その周囲にホログラフィックによる説明が映し出されている。
これは空気に光で印刷している、といえる。
今日はKK塾の開始前に、
大日本印刷の方による大日本印刷とルーヴル美術館との共同取組みについての説明があった。
ここでも光による印刷技術が表示された。
光による空気への印刷。
印刷領域はここまで拡大していることを感じていると、
オーディオの世界も、音による空気への印刷と捉えることができることに気づく。
再生音とは……を徹底的に議論せずに、音を語るということは、
「群盲像を撫ず」に陥ってしまうのではないだろうか。
別項で「再生音とは……」を書いている。
書きながら、再生音の正体について、以前よりも考えている時間が増えてきた。
生音と再生音はべつもの。
ずいぶん昔からいわれてきていることだし、
私も以前からそう思ってきていた。
だからといって、再生音について深く考えていたとはいえなかった。
オーディオとは、再生音の世界である。
なのに、その再生音について、これまでしっかりと語られてきたことがあっただろうか。
少なくとも私が読んできた範囲ではなかった。
けれど、オーディオ機器の性能が向上していくのであれば、
再生音とは……、について深く考えていく必要はある。
私はそう考えているけれど、いまあるオーディオ雑誌はそうではないようだ。
ここまで書いてきたことをまとめておくと、
五極管シングルアンプ製作を初心者向きとするならば、
ステレオよりもモノーラルで作ることを、まずすすめる。
出力管は、誰もが知っているポピュラーな球であれば、どれを選んでもいいと思っている。
出力管は三極管接続では私は使わない。
五極管接続かUL接続のどちらかで使う。
EL34だったらUL接続にするし、6F6や6V6などは五極管接続で使う。
五極管接続かUL接続かは、選んだ真空管によって違ってくる。
電源は、私は整流管を使う。
それから五極管シングルアンプではチョークコイルも必要と考える。
チョークコイルなしで平滑コンデンサーの容量を相当に増やすことを考える人もいるだろうが、
私はチョークコイルを使った方が、すっきりとまとまると考える。
電圧増幅段はどうするか。
五極管だから増幅段は一段あれば十分なゲインが確保できる。
双三極管を使えば、それぞれのユニットを左右チャンネルに振り分けることで、
電圧増幅段に使う真空管は左右チャンネル合せて一本にできる。
ただしそうするにはステレオ仕様で作るしかない。
モノーラルで作るのであれば、片側のユニットをあまらせるか、
並列接続にするか、SRPPにするか、もしくは二段目をカソードフォロワーにするか、などがある。
EF86などの五極管を電圧増幅段に使う手もある。
だが、いま簡単に入手できる電圧増幅用の五極管のクォリティが、どうにも信用できない。
ではどうするのか。
入力にトランスをもってきて電圧増幅段を省略してしまうという、
いわゆる単段アンプ(出力段のみのアンプ)も考えられる。
これが回路構成としてもっとも簡単なのだが、
入力トランスにいいかげんなモノをもってきたら、台無しになる。
いいトランスは、決して安くない。
こんなふうに考えてきて、ここでの初心者は、
いったいどういう初心者なのだろうか、と考えてしまう。
オーディオの初心者で真空管アンプを作るのも初めて、という初心者なのか、
それともオーディオ歴は長いけれど、これまでアンプを自作したことはない、という初心者なのか。
どちらの初心者なのかということもそうだが、
この初心者が、真空管アンプを作ったあとにどうしたいのか、も無視できないことである。
オーディオは電気特性だけでは語れない。
井上先生は1980年代なかばごろから、
アンプもCDプレーヤーもメカトロニクスだ、といわれていた。
アンプとしての性能は回路構成だけで決るわけではない、
使用パーツによって決定されるわけではない。
電気的に関すること以外に、機械的要素も音には大きく影響している。
このことについては以前書いているし、
ステレオサウンドに井上先生が何度か書かれていることだから、詳しくはくり返さない。
ただひとつだけ例をあげておきたい。
DATが登場した時に、発売された各メーカーのDATのデッキ八機種を集めた記事が、
83号に載っている。井上先生が記事を担当された。
この試聴ではテープもいくつか用意した。
デッキの試聴が終り、デッキをある機種に固定して(確かにソニーだったはず)に、
テープの比較試聴になった。
このときいくつのテープを聴いたのかは忘れてしまった。
聴き終り、テープの音の印象について雑談していた。
すると井上先生が、「テープを振ってみろ」といわれた。
すぐには、何をいわれているのか理解できなかった。
とにかくテープをひとつずつ手に取って振ってみた。
するとメカニズムに起因するカチャカチャという音がする。
この音に各社ごとに違いがある。
言葉にすれば、どれもカチャカチャというふうになってしまうけれど、
実際に振ってみた時の音は、微妙に違う。
そして井上先生がいわれた。
「振った時の音と実際の音は似ているだろう」と。
たしかにそうだった。
DATはデジタル信号で録音・再生を行う。
そんなことで音が変化することはない──、そう考えがちになるけれど、
実際にはそうでないことは、こうやって試聴してみると、よくわかる。
テープといえども、メカニズムの音が影響してくる。
テープもまたメカトロニクスといえる。
真空管もそうである。
五極管を三極管接続して電気特性だけを三極管的にしてみても、
それはあくまでも電気特性だけである。
内部の機械的構造は五極管は、五極管接続、UL接続、三極管接続、
どれであっても五極管のままである。
石を同じ形、同じ大きさに切り出す。
それを積み上げていき、あいだにモルタルやコンクリートを流し込んですきまを埋めていく。
ようするにレンガを積んでいくにと同じようにやるのが、
石積みとしては合理的なのかもしれない。
空積みは、無駄の多いやり方になるだろう。
石を積んでいこうとする者にとって、
見事な空積みが目の前にあったとして、手本となるのだろうか。
どんなに見事な空積みであっても、
それを見ながら同じ石積みを行うことはできない。
空積みは石を加工しない。
自然の石をそのまま使い積み上げていくのだから、
似た形、大きさの石はあっても、同じ形、同じ大きさの石はないのだから。
不揃いの石を積んでいく。
モルタルもコンクリートも使わずに、不揃いの石を積んでいく。
誰なのかはあえて書かない。
オーディオの仕事をしていた人がいた。
彼はスピーカーを買おうとしていた。
彼は気に入っているスピーカーをすでに鳴らしていた。
それでも彼はスピーカーを買おうとしていた。
つまり買い足そうとしていたのだ。
彼自身の音の好みを無視してでも、
オーディオを仕事としている以上、仕事にふさわしいスピーカーを買おうとしていたわけだ。
心がけとして立派と言えるかもしれない。
彼は何にすべきか、少し迷いがあった。
彼はある人に相談した。
相談を受けた人は、オーディオの世界の大先輩である。
彼は候補を二、三あげた。
いずれも世評の高いスピーカーであった。
どれを選んだとしても、
彼の要求に応えてくれるだけの性能の高さを持っていた。
相談を受けた人は言った。
どれも仕事の音だ、と
音楽を聴いて楽しい音のスピーカーではない、と。
七、八年前の話だ。
相談をした人も受けた人も知っている。
相談をした人から直接聞いた話だ。
なぜ彼はこんな相談をしたのか。
どんな答が返ってくるのか、おそらく彼はわかっていたはずだ。
彼自身も同じように感じていたのだと私は思っている。
私もそんなことを相談されたら同じことを答えたはず。
彼が候補としたスピーカーは、確かに優秀なモノだ。ケチをつけられるようなところは、ほとんどない。
細かな点を疎かにせずひとつひとつクリアーにしていくという開発をとっていて、それが音にも結実している。
だがそれは手本のような音だ、といえるように思っている。