Archive for 8月, 2020

Date: 8月 31st, 2020
Cate: Marantz, Model 7

マランツ Model 7はオープンソースなのか(その7)

1978年に、日本マランツからModel 7KとModel 9Kが発売になった。
型番末尾にKがつくことがあらわしているように、キットである。

この高価なキットの資料には、次のようなことが書いてある。
     *
ニューヨークの倉庫からする古い青図を私達は入手し、パーツリストをたどってオリジナルのパーツを極力探す努力をしました。ただし年月も経ち今や百パーセントオリジナルパーツの入手はもとより不可能です。従って完成品の再現ではなくして、こよなく♯7、♯9を愛しておられる方に、そして管球式アンプをよく熟知された高度なマニアに部品を提供し♯7、♯9を再現していただこうということになりました。
     *

オリジナルにより近いということでは、このキットのほぼ20年後に出た7と9のほうだろう。
だからこそ、キットではなく完成品として、この時は出してきた。

マランツ Model 7はオープンソースなのかについて、考えるうえで、
キットの存在は忘れてはならない。

ステレオサウンド 49号の記事には、資料からの引用がさらに続く。
     *
通常のキットとはかなりその意味が異なります。オリジナルな音の記録は現実にはありませんし、現状の古いアンプもパーツの老化を含めて本来の音の保証もありません。この音についてはより知っておられるユーザーに作っていただこうという趣向です。
     *
本来の音、
マランツ Model 7の本来の音。
それを知っている人がどれだけいるのだろうか。

私のModel 7はオリジナルだ、
その音こそ、オリジナルのModel 7の音だ、
こんなことを主張する人はいる。

それでも、その人がそう思い込んでいるだけであって、
オリジナルの音そのままだという保証は、どこにもない。

その6)で、アメリカのNwAvGuyと名乗る匿名のエンジニアのことを書いた。
彼が設計したヘッドフォンアンプとD/Aコンバーターは、回路図はもちろん、
プリント基板のパターンも公開されている。

指定通りに製作すれば、NwAvGuyの意図したとおりの、
つまり本来の音が出せるのか。

出てくるはず、と考えられるが、
NwAvGuyのヘッドフォンアンプ、D/Aコンバーターのオリジナルの音、
つまりNwAvGuyが製作したこれらの音を聴いている人は、
おそらくほとんどいないと思われる。

指定通りに製作して、その結果として出てきた音を、
本来の音と信じるしかない、ともいえる。

Date: 8月 31st, 2020
Cate: 冗長性

redundancy in digital(その8)

別項で書いているようにiPhoneを、
メリディアンの218に接続して音楽を聴くことが、私にとって当り前になってきている。

CDプレーヤーも使っている。
SACDを聴くときには、CDプレーヤーのアナログ出力をアンプに接続する。

それ以外、つまり通常のCDやMQA-CDを聴く場合には、デジタル出力を218に接続している。
CDプレーヤーの二つの出力(アナログとデジタル)を使い分けているわけで、
だからといってアンプの入力セレクターで対応はせずに、
その度にケーブルを接ぎかえている。

そこにiPhoneが加わると、接ぎかえが増える。
手間といえば手間だが、大変なことではない。
それでも、そろそろなんとかしようとは思いつつも、こんなことをいちいちやっているのも、
iPhoneでのMQA再生が、なかなかいいからである。

iPhoneとCDプレーヤー。
その大きさと重さは、比較するまでもなく、大きく違う。
消費電力もかなり違う。

ここでのテーマ、redundancy in digital(デジタルにおける冗長性)でいえば、
iPhoneは、冗長性の徹底的な排除をはかっている、といえるはずだ。

その成果は、iPhoneをオーディオ機器として捉えても、あると考えている。
デジタル機器としての完成度を高めるためには、
冗長性をなくしていくことは重要なことのようにも感じている。

そう思いながらも、(その2)で書いているように、
ワディアのWadia 2000、X64.4、同時代のD/Aコンバーターが気になってもいる。

ワディアの初期のD/Aコンバーターは、あのころ衝撃的だった。
おそらく、瀬川先生がマークレビンソンのLNP2をきいた時にうけられた衝撃に近い、
もっといえば同種の衝撃だった、とさえ思っているくらいだ。

その衝撃が、まだ残っているからなのもわかっている。
それでも、いまWadia 2000、X64.4を聴いたら、どんな印象を受けるのか、は気になる。

聴く機会はなかったけれど、ワディアのPower DACは、その意味でもっと気になる。

いま愛用している218は、冗長性は小さい、といえる。
そのD/Aコンバーターで、ラドカ・トネフの「FAIRYTALES」を聴いていると、
デジタルにおける冗長性について、どうしても考えてみたくなる。

Date: 8月 30th, 2020
Cate: アクセサリー

D/Dコンバーターという存在(その7)

一年前に、メリディアンから210 Streamerが登場した。

しばらくすれば日本に入ってくる──、そう思っていた。
ところが、しばらくしたら210のニュースどころか、
メリディアンの輸入元がオンキヨーに変る、というニュースだった。

オンキヨーがメリディアンを扱う。
いろんなサイトで取り上げられていた。
それから、ほぼ一年。

オンキヨーのサイトをみると、メリディアンのページはあることにはある。
ただし、2020年1月から、日本での販売代理店になった、という告知のみである。

ニュースでは2019年12月からだったのが、一ヵ月遅れて、である。
さらに、少しも進んでいない。

210の取り扱いも始まっていない。
どうなるのかは、いまのところなんともいえない。

218と組み合わせるD/Dコンバーターの候補の一つは、210である。
けれど……、という状態が、これからも続くのか。

210以外では候補として考えているのは、ミューテックのMc3+USBである。

MC3+USBは、16万円ほどする。
218との組合せ前提なので、価格的には、このあたりを上限としたい。

もっと高価なD/Dコンバーターがあるのは知っている。
試してみたい、と思うモノもある。
けれど、大きさと価格を考慮すれば、MC3+USBより上のモデルは候補から外れる。

Date: 8月 30th, 2020
Cate: 再生音, 快感か幸福か

必要とされる音(その14)

9月のaudio wednesdayでも、タンノイ・コーネッタを鳴らす。
コーネッタが、喫茶茶会記のアルテックよりもいいスピーカーだから、というよりも、
鳴らしたいから、というのが、理由にならない理由である。

喫茶茶会記のアルテックも、古いタイプのスピーカーといえる。
コーネッタもそうだ。
コーナー型で、フロントショートホーン付き。

アルテックよりも、古いといえば、いえなくもない。
そういうスピーカーを、今回もまた鳴らす。

7月に鳴らして、8月も鳴らした。
9月も鳴らすわけだから、三ヵ月続けてのコーネッタである。

鳴らしたいから、は、聴きたいから、でもある。
そして聴きたいから、は、聴いてほしい、ということでもある。

コーネッタの音を、聴いてほしい、と思うのは、
どこか、コーネッタの音を、必要とされる音と感じているからなのかもしれない。

Date: 8月 29th, 2020
Cate: 数字

300(その10)

オーディオの世界において、
300Wという出力は、スーパーカーの300km/hという速度と同じ意味あいをもっていた時期があった。

ほかの人はどうなのかはわからないが、
中学生、高校生のころの私には、
300Wと300km/hは、それぞれの領域での、その時点での突破すべき数値であった。

それにしても、なぜ300? なのか。
そういえば、オーディオの世界での、有名な300といえば、
ウェスターン・エレクトリックの300Bがある。

300Bは、いうまでもなく、真空管の型番である。
300Wや300km/hとは、もともと違っている。

それでも300なのである。
ウェスターン・エレクトリックの真空管の型番は、
開発時期、登場時期によってつけられているといっていいだろう。

これは、特別に優れた真空管だから、特別な型番にしよう、といった、
オーディオ機器の型番のつけ方ではない。

にも関らずの300である。
300Bが、ほかの型番だったら。
たとえば400Bとか200B、
そんなキリのいい数字ではなかったら、300Bという真空管の印象は、
まったく影響を受けないのだろうか。

300Bはアメリカの真空管だから、
300Bの読みは、スリーハンドレッド・ビーかスリー・オー・オー・ビー、
スリー・ゼロ・ゼロ・ビーのどれかだろう。

日本では、三百B(さんびゃく・びー)である。
ウェスターン・エレクトリックのほかの真空管は、
350Bだとサン・ゴー・マル・ビーと読む。
349Aもサン・ヨン・キュー・エーである。

300Bを、これまでサン・マル・マル・ビーとかサン・ゼロ・ゼロ・ビー、
こんなふうに読んだ人は、少なくとも私の周りには一人もいない。

300Bだけ、三百Bである。

Date: 8月 28th, 2020
Cate: audio wednesday

第115回audio wednesdayのお知らせ(夏の終りに)

9月5日のaudio wednesdayでは、タンノイ・コーネッタを鳴らす。
コーネッタで「CHET BAKER SINGS」がどう鳴ってくれるのか。

喫茶茶会記のアルテックでは、これから先、いつでも聴けるけれど、
コーネッタでの「CHET BAKER SINGS」は、今回限りとなる。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

19時開始です。

Date: 8月 28th, 2020
Cate: 書く

毎日書くということ(親指シフトキーボードのこと)

1999年末に、audio sharingをつくろうとおもった。
それから20年。

Mac本体は変ってきた。
周辺機器もそうだ。

けれどキーボードだけは、1999年12月に購入したRboard Proを使い続けている。
キートップを外して、内部清掃もやっているが、
そろそろ寿命が近づいてきているかな……、と感じていた。

Macで親指シフトキー入力をする方法はいくつかある。
すべてではないが、評判のいいのはいくつか試した。
それでもRboard Proでの入力から離れられないままの20年間だった。

Rboard Proが壊れても修理は無理である。
どうしようもなくなったら、このブログを書くのをやめることになるかも……、と考えていた。
しかも、それはそう遠くないうちにやってくるだろうな、と思っていた。

富士通も親指シフトキーのサポートをやめてしまう。
親指シフトキーボードのいいモノが、これから先新製品として登場することは、まずない。
いま使っているRboard Proの寿命は、あと十年もつのか。
数年なのか。

次の日本語入力をどうするのか考えなければ……、と思いつつも、
40年近くつきあってきている親指シフトの快適さは、何者にも変え難い。

Rboard Proはかなり以前に製造中止になっている。
先日、ふと思いついてヤフオク!で検索してみたら、
Rboard Proが出品されていた。

写真をみる限り、未使用品のようだ。
価格は、二万円近い。
いまどきのキーボードの価格からすれば、高いということになるが、
Rboard Proは、1999年当時、五万円ほどしていた。

入札したのは私一人だった。
今回手に入れたRboard Proが、20年もってくれれば、もう十分である。

Date: 8月 27th, 2020
Cate: 真空管アンプ

五極管シングルアンプ製作は初心者向きなのか(その25)

「聴感上のS/N比がよくなるって、どんな感じですか」と問われたことが数回ある。
音を鳴らしている場であれば、実際に音を聴いてもらえば、わかってもらえるかもしれない。

何度聴かせても分かってもらえない人がいることも、体験上知っている。
時に言葉で説明した方が伝わることがないわけでもない。

おかしいなことだ、と思うところもあるが、結局のところイメージの問題なのかもしれない。
訊いてきた人のなかに、まったくイメージがなければ、
音を聴いてもらってもダメなことなのかもしれない。

そしてイメージのきっかけでも与えることができれば、
音を聴いてわかってもらえるようになる。

オーディオでは、昔から、百読は一聴に如かず、という人がいる。
オーディオ評論家が書いたものをどれだけ読んだところで、
一回音を聴いたほうがよくわかる的な使われ方がされるし、
絶対的な感じで、これをいう人もいる。

聴いた方がはやい、という場合は確かに多い。
でも、上に書いているように、必ずしもそうでないこともある。
そのことをわかんていない人ほど、百読は一聴に如かずを使いたがる。

そしてオーディオ評論家不要論を、そのあとに続ける。
そんな人はどうでもいいのだけれど、
「聴感上のS/N比がよくなるって、どんな感じですか」という質問に、
前回書いたもやしのヒゲのことを答えたことがある。

ヒゲを取ったもやし炒めを食べてみれば、
聴感上のS/N比がよくなる、というどんな感じなのか、
そして雑共振が音に与える影響についての、なんらかのイメージは掴めるのではないだろうか。

ヒゲを取ってみたら、というと、決って返事は、
そんな面倒なことするんですか、である。

面倒なことかもしれないが、難しいことではない。
もやしのヒゲを取るだけである。
ただ本数が多いだけのことだ。

それなのに、やりもしないで、面倒だ、と決めつける人がいる。
もやし一袋のヒゲを取るのに、一時間くらいかかるのであれば、
私だってそんなにやらないし、人にすすめたりもしない。

でも、やってみると、そんなに時間はかからない。
くり返すが難しいことは何もない、このことをやらない人は、
アンプの自作はやらないほうがいい。

Date: 8月 26th, 2020
Cate: audio wednesday

第115回audio wednesdayのお知らせ(夏の終りに)

今週末から、ようやくツール・ド・フランスが始まる。
例年どおりだと7月の第一週の土曜日からの開催だったのが、今年はコロナ禍の影響で、
最悪中止なのかと思ったりもしたけれど、二ヵ月ほど遅れて開催となる。

自転車好きの私は、ツール・ド・フランスは夏の到来でもあり、
ツール・ド・フランスの最終日は、真夏ただ中であってせ、夏の終りというふうに感じてしまう。

9月のaudio wednesdayは、ツール・ド・フランスと重なる。
9月なのに、である。

一週間後も、まだまだ暑いはずだ。
それでも、もう夏の終りであり、
同時にツール・ド・フランスの開催によって夏の到来でもある、と個人的には感じている。

なので、9月のaudio wednesdayは、
そんな「夏」だからこそ聴きたいディスク、
誰かに聴かせたいディスクをテーマにしたい。

私はアストル・ピアソラの「Tango:Zero Hour」と、
チェット・ベイカーの「CHET BAKER SINGS」をもっていく予定。

「Tango:Zero Hour」はSACDで、
「CHET BAKER SINGS」はMQA-CD。

ジャズに明るい聴き手ではない私でも、「CHET BAKER SINGS」は聴いている。
どうやって、このディスクと出逢ったのかは忘れてしまったし、
頻繁に聴いているディスクでもないけれど、これから先もずっと思い出して聴いていくだろう。

MQAが聴けるようになって、e-onkyoで早い時期に検索した一つが、チェット・ベイカーだった。
「CHET BAKER SINGS」をMQAで聴きたいからだった。

チェット・ベイカーのMQAはあるけれど、
「CHET BAKER SINGS」はなかった。

ほぼ毎晩のように、e-onkyoの新譜をチェックしては、今回も出ないのか……、
そう思うのも慣れっこになっていた。

だから、9月2日にユニバーサルミュージックから、
ジャズのMQA-CDのラインナップに「CHET BAKER SINGS」を見つけた時の喜びは、
想像してもらうしかない。

「Tango:Zero Hour」は、暑い夏に聴きたい、と毎年のように思うディスクだ。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

19時開始です。

Date: 8月 26th, 2020
Cate: ロングラン(ロングライフ)

定番(その9)

JBLのControl 1は、1986年ごろに最初のモデルが登場している。
現在はControl 1 PROである。

この間に何度かのモデルチェンジをしているし、
パワーアンプ内蔵モデルが登場した時期もあった。

つまり、それだけ売れているわけだ。

Control 1が登場した時は、ステレオサウンドにいた。
周囲の人たち、それもJBLのスピーカーを鳴らしている人たちの反応が、
どういうものなのかは知っていた。

私だって、その頃は、QUADのESLを鳴らしていたけれど、
4343への憧れはずっと抱いたままだったから、
Control 1登場のニュースは、複雑なものがあった。

この十年ぐらいで、JBLはずいぶん変った。
Control 1の登場が、いまのJBLにつながっているような感じを受けるし、
だからこそ、Control 1はPROとなり、いまも現行製品なのだろう。

4312が古くからの定番を引き継いでいる位置づけだとすれば、
Control 1は、はっきりといまのJBLの定番といえる。

Control 1 PROは、ペアで二万円前後である。
一ペアあたりの利益は小さいわけだが、
安価な製品だけに数は、かなり売れている、とみていいだろう。

おそらく安定して売れている製品だからこそ、
JBLは定番として、いまも製造している。

つまり定番をもつブランドは、ある程度の安定した収益が見込める。
定番をもっているからこそ、フラッグシップモデルの開発ができるし、そこに力を注ぎ込める。

冒険だって可能になる。

Date: 8月 25th, 2020
Cate: 日本のオーディオ

リモート試聴の可能性(その6)

なんらかの再生音を録音して、もう一度再生して聴くということは、
昔から行われていることでもある。

アクースティック蓄音器の音を録音してレコードにする、という企画は以前からあった。
いまもある。

この企画に否定的な人もいる。
SP盤の復刻ならば、そんなことをせずにダイレクトに電気信号に変換すべき、という意見である。

SP盤の復刻であっても、一つの手法に縛られる必要は、どこにもない。
アクースティック蓄音器で再生して、その音を録音する、というのも、
復刻の一つの方法である。

どちらが好ましいかは、きいた人が判断すればいい。
とにかく、再生音をマイクロフォンで捉えて、スピーカーを通して聴く、ということは、
なにもいまに始まったことではない。

ただ、そのことについてこれまでは、論議されることはなかったように思う。
それがここにきて、コロナ禍によるオーディオショウの中止が続き、
オンラインでのオーディオショウの開催も試みられている。

春のヘッドフォン祭も中止になったが、オンラインでは行われたし、
秋のヘッドフォン祭も中止なのだが、オンラインでの開催はある。

さらにAudio Renaissance Onlineという、
オンラインのオーディオショウが11月14日、15日に開催される。

Date: 8月 25th, 2020
Cate: 真空管アンプ

五極管シングルアンプ製作は初心者向きなのか(その24)

アンプの自作が初めて、という人にいいたいのは、
一時間自炊のすすめ、である。

これは伊藤先生から30年以上昔にいわれたことだ。
別項「伊藤喜多男氏の言葉」で書いている。

一時間自炊といっても、なにか特別なものを作って、ということではない。
特別な食材、高価な食材を用意しての自炊ということではない。
それこそ冷蔵庫の中にある食材を使って自炊、
近所の店で食材を買ってからの自炊である。

一度も自炊をしたことのない人が、
一流の高級料理店で出される料理をつくろうとするだろうか。

たぶんやらないだろう。
なのに趣味の世界となると、
オーディオの世界となると、
初心者がいきなり300Bのアンプを作ろうとしたりする。

それも高価な部品をたっぷりと使って、である。

趣味の世界だから、という一言で片づけてしまえるところもあるといえばある。
でも趣味の世界だからこそ、段階を踏んでこそ、ではないだろうか、と思う。

五極管で真空管アンプを作ってみよう、と思う人がいるかもしれない。
そういう人は、まず自炊をしてほしい。
ありふれた食材での料理から始めてみる。

たとえば肉ともやしの炒め物。
もやしは安価だし、特に難しいわけではない。

誰にでもできる料理といえば、たしにかそうなのだが、
変に凝る人は、味つけに変った調味料を使ったりするかもしれない。

そんなことをしてほしいのではなく、
ごく当り前の味つけであっても、炒める前にもやしのヒゲをきれいに取っていく。

一手間かけるだけである。
これだけのことなのだが、ヒゲを取ったのを味わうと、次からもそうしたくなる。

Date: 8月 24th, 2020
Cate: 真空管アンプ

五極管シングルアンプ製作は初心者向きなのか(その23)

初心者が真空管アンプを作りたい、というのであれば、
私は五極管のシングルアンプではなく、プッシュプルアンプをすすめる。

位相反転回路にP-K分割を採用すれば、真空管の数も抑えられる。
よほどまずい配線をやらないかぎり、ハムの心配もない。

シングルよりもプッシュプルのほうが、当然だが出力はとれる。
大型の出力管を最初から使わなくても、よほど低能率のスピーカーでないかぎり、
実用的な出力は、十分とはいわないまでも確保できる。

とにかくポピュラーな出力管を使ったほうがいい。
EL34もいい球だし、ラジオ球とバカにする人もいるようだが6V6もいい球だ。

これらの球ならば、インターネットで検索すれば、製作例はけっこう見つかる。
回路は自分で設計するのもいいが、最初は基本的な回路のほうがいい。

まずは一台をきちんと作ってからのことだ。
創意工夫していくにしても、もっと大がかり、本格的なアンプに挑戦するにしても、だ。

EL34、6V6のプッシュプルアンプでは、
《他人(ヒト)とは違うのボク》を満足させられないかもしれない。

だからといって、変に凝ったレイアウトにはしないほうがいい。
オーソドックスなレイアウトでやったほうがいい。

使用する部品に関しても、オーディオ用を謳っているモノは使わない方がいい。
信頼性のある部品を、まず使ってみることだ。

オーディオ用を謳っている部品のなかには、サイズがかなり大きかったりする。
このくらいのサイズなら……、と楽観しない方がいい。

極端に小さな部品も作業がしにくいが、大きい部品もけっこう苦労する。

こうやって書いていると、
ますます《他人(ヒト)とは違うのボク》を満足させるところからは遠ざかる。

それでいい、と私は考えている。
一台目の真空管アンプを、佇まいを多少なりであっても感じさせることができれば、
それで十分《他人(ヒト)とは違うのボク》であるからだ。

プリント基板は使わない方がいい。
初心者だからといって、プリント基板に頼ることだけは止した方がいい。

Date: 8月 23rd, 2020
Cate: ベートーヴェン

ベートーヴェンの「第九」(その25)

吉田秀和氏の「隙間 ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲」で、
パールマンとヨーヨー・マについてふれたあとで、こう書かれている。
     *
 いずれにせよ、ヨーヨー・マの演奏は、いかにも大器らしい爽やかさと痛快さを感じさせるにふさわしかった。
 と同時に、私は、こういう人たちは、いずれは「音楽」の一つひとつになじんでゆくのだろうと考える一方で、しかし、少なくとも目下のところでいえば、彼らとその扱う音楽とのあいだには、目に見えない、精神的な隔たりというか、隙間というか、壁というかがあるのが見えるような気がした。
 かつては、私は、それを日本人の演奏に感じたものだった。ソロでもアンサンブルでもオーケストラでも、彼らが、バッハをひき、ベートーヴェンの交響曲を演奏し、シューベルト、シューマンを歌うのをきいていると、作品と演奏家のあいだに、隙間があり、表現とならない部分が残ってしまっている。その結果、演奏が何ともいえず、冷たく、形式的で、内容的なもの、精神的なものにまで入っていかない。なるほど音はきれいに整い、技術も見事だけれど、結局、何がうれしくて、何が悲しくてやっているのかわらない。いや、どうしてもこれをやらなければならない、これをやりたいという、その必然性、その意義が、聴き手に伝わってこないという、もどかしさを感じ、このままでいいのだろうかという危惧を抱いたものだった。
 いま、私は、パールマンやヨーヨー・マをきいていると、ときどき、それに少し似たものを感じる。この人たち、本当にベートーヴェンをやる必然性があるのだろうか? と。ただし、彼らの場合、ヴァイオリンをひき、チェロをひく、その必然性はよくわかる。それは、彼らがその楽器をもってステージに姿を現わした瞬間、その姿からすでに感じられるのである。ただ、そのあと、作品と彼らのあいだに、まだ、何かの隙間がある。それからまた、彼らの演奏をきいて、日本人の多くとちがうのは、作品とのギャップは似ていても、その演奏家の人柄そのものは、よく伝わってくる。ときには、あんまりナマのカタチで伝わってくるのに閉口するくらいである。これまた、彼らと日本人の演奏家の多くとの違いである。日本人のときは──例外はもちろんある──その演奏をきいていて、作品の「魂」も、演奏家の「人間性」も、どちらも伝わってこないことが珍しくないのだから。
     *
このことは、別項「正しいもの」で書いている、
アンドレ・シャルランが、
若林駿介氏録音の岩城宏之/NHK交響楽団のベートーヴェンの第五とシューベルトの未完成の録音を聴いて、
「それはそうと、あなた方は何故ベートーヴェンやシューベルトのレコードなんか作るのですか」と、
若林氏に訊いたことにも深く関係してくることだ。

隙間は、音楽と演奏家のあいだにだけあるものではない。
音楽と録音する者のあいだにもあるからこそ、シャルランはそうたずねたのだろう。

「正しいもの」で引用しているゼルキンのエピソードにしても、まったくそのはずだ。
ゼルキンは、日本での録音に「これはベートーヴェンの音じゃない」といったのは、
まさに、隙間を感じてのことだったはずだし、
その意味を汲みかねた日本の録音技術者たちは、隙間を感じていなかったのだろう。

そして、この隙間は、音楽の送り手側にだけいえることなのか。
「第九」の四楽章に歌がなければいいのに……、といってしまう人と、
「第九」のあいだにも、はっきりと隙間がある。

その隙間は大きすぎて、その人たちの目には見えないのかもしれない。
だからこそ、あんなことを口に出せるのだろう。

Date: 8月 23rd, 2020
Cate: ベートーヴェン

ベートーヴェンの「第九」(その24)

作曲家は、演奏家は、客を求めているのか、
それとも聴き手を求めているのか。

どんな素晴らしい曲をつくっても、
どんなに素晴らしい演奏をおこなっても、
慈善事業ではないのだから、お金が入ってこなければ、
作曲活動も演奏活動もつづけていくことは無理である。

必要なのは、客といってもいいだろう。

その20)で書いた人たちは、その意味では客である。
少なくとも、ベートーヴェンの音楽の聴き手とは、とうてい思えない。

もちろん、この人たち自身はそんなふうに微塵も思ってないだろう。
思っていたら、(その20)で書いたようなことを言葉にできるわけがない。

その23)で書いた受刑者は、ベートーヴェンの音楽の客ではなかった。
ベートーヴェンの「第九」を聴くのに、一銭も払っていないのだから。
それでも、ベートーヴェンの音楽の聴き手ではあった。

音楽の客と音楽の聴き手の違いは、聴き手の必然性だろう。
ベートーヴェンを聴く必然性が、音楽の客にはない。

必然性──、そんなものが聴き手に必要なのか、と思う人もいようが、
少なくとも、私はベートーヴェンの音楽には絶対に必要と考える。