Date: 8月 23rd, 2020
Cate: ベートーヴェン
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ベートーヴェンの「第九」(その25)

吉田秀和氏の「隙間 ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲」で、
パールマンとヨーヨー・マについてふれたあとで、こう書かれている。
     *
 いずれにせよ、ヨーヨー・マの演奏は、いかにも大器らしい爽やかさと痛快さを感じさせるにふさわしかった。
 と同時に、私は、こういう人たちは、いずれは「音楽」の一つひとつになじんでゆくのだろうと考える一方で、しかし、少なくとも目下のところでいえば、彼らとその扱う音楽とのあいだには、目に見えない、精神的な隔たりというか、隙間というか、壁というかがあるのが見えるような気がした。
 かつては、私は、それを日本人の演奏に感じたものだった。ソロでもアンサンブルでもオーケストラでも、彼らが、バッハをひき、ベートーヴェンの交響曲を演奏し、シューベルト、シューマンを歌うのをきいていると、作品と演奏家のあいだに、隙間があり、表現とならない部分が残ってしまっている。その結果、演奏が何ともいえず、冷たく、形式的で、内容的なもの、精神的なものにまで入っていかない。なるほど音はきれいに整い、技術も見事だけれど、結局、何がうれしくて、何が悲しくてやっているのかわらない。いや、どうしてもこれをやらなければならない、これをやりたいという、その必然性、その意義が、聴き手に伝わってこないという、もどかしさを感じ、このままでいいのだろうかという危惧を抱いたものだった。
 いま、私は、パールマンやヨーヨー・マをきいていると、ときどき、それに少し似たものを感じる。この人たち、本当にベートーヴェンをやる必然性があるのだろうか? と。ただし、彼らの場合、ヴァイオリンをひき、チェロをひく、その必然性はよくわかる。それは、彼らがその楽器をもってステージに姿を現わした瞬間、その姿からすでに感じられるのである。ただ、そのあと、作品と彼らのあいだに、まだ、何かの隙間がある。それからまた、彼らの演奏をきいて、日本人の多くとちがうのは、作品とのギャップは似ていても、その演奏家の人柄そのものは、よく伝わってくる。ときには、あんまりナマのカタチで伝わってくるのに閉口するくらいである。これまた、彼らと日本人の演奏家の多くとの違いである。日本人のときは──例外はもちろんある──その演奏をきいていて、作品の「魂」も、演奏家の「人間性」も、どちらも伝わってこないことが珍しくないのだから。
     *
このことは、別項「正しいもの」で書いている、
アンドレ・シャルランが、
若林駿介氏録音の岩城宏之/NHK交響楽団のベートーヴェンの第五とシューベルトの未完成の録音を聴いて、
「それはそうと、あなた方は何故ベートーヴェンやシューベルトのレコードなんか作るのですか」と、
若林氏に訊いたことにも深く関係してくることだ。

隙間は、音楽と演奏家のあいだにだけあるものではない。
音楽と録音する者のあいだにもあるからこそ、シャルランはそうたずねたのだろう。

「正しいもの」で引用しているゼルキンのエピソードにしても、まったくそのはずだ。
ゼルキンは、日本での録音に「これはベートーヴェンの音じゃない」といったのは、
まさに、隙間を感じてのことだったはずだし、
その意味を汲みかねた日本の録音技術者たちは、隙間を感じていなかったのだろう。

そして、この隙間は、音楽の送り手側にだけいえることなのか。
「第九」の四楽章に歌がなければいいのに……、といってしまう人と、
「第九」のあいだにも、はっきりと隙間がある。

その隙間は大きすぎて、その人たちの目には見えないのかもしれない。
だからこそ、あんなことを口に出せるのだろう。

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