Archive for 11月, 2008

Date: 11月 30th, 2008
Cate: 録音

50年(その2)

ブラムラインがいたコロムビアは、1931年にHMV(イギリス・グラモフォン)を買収して、
EMI(Electric and Musical Industries Ltd.)となる。

ドイツでは、第二次大戦中にステレオ録音ヘッドの開発に成功し、
1944年秋、ギーゼキングとローター指揮ベルリン放送管弦楽団による
ベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番のステレオ録音を行なっている。

不思議に思うのは、なぜフルトヴェングラーのステレオ録音が存在しないのか、である。
1981年だったか、イタリアのチェトラ・レーベルからフルトヴェングラー/スカラ座オーケストラによる
ワーグナーの「ニーベルングの指環」の全曲LPが出ると話題になったとき、
当初ステレオ録音だと発表されていた。
結局、発売されたLPはモノーラルだった。

フルトヴェングラーのステレオ録音は、ほんとうにないのか。
モノーラル録音と同時にステレオ録音も試していたとしても不思議ではない。

フルトヴェングラーのステレオ録音は、どこかにあって、それを誰かが独り占めしている……、
あくまでも妄想にしかすぎないけど、そんな気がしてならない。

Date: 11月 30th, 2008
Cate: 五味康祐

長生きする才能

五味先生の遺稿集「人間の死にざま」(新潮社刊・絶版)を読んでいると、
いくつもの、印象ぶかい言葉にぶつかる。

「私の好きな演奏家たち」に出てくる言葉がある。
     *
 近頃私は、自分の死期を想うことが多いためか、長生きする才能というものは断乎としてあると考えるようになった。早世はごく稀な天才を除いて、たったそれだけの才能だ。勿論いたずらに馬齢のみ重ね、才能の涸渇しているのもわきまえず勿体ぶる連中はどこの社会にもいるだろう。ほっとけばいい。長生きしなければ成し遂げられぬ仕事が此の世にはあることを、この歳になって私は覚っている。それは又、愚者の多すぎる世間へのもっとも痛快な勝利でありアイロニーでもあることを。生きねばならない。私のように才能乏しいものは猶更、生きのびねばならない。そう思う。
     *
「長生きしたくないなぁ、50くらいでぽっくり死にたいな。病気で苦しみたくないし」という者が、
私のまわりに何人かいる。おそらく、そう思っている人は少なくないのかもしれない。
先の見えないこういう時代だと猶更なのか。

私も、20代前半のころは、そんなふうに思っていたことがある。
30過ぎたころから「長生きもいいかも」と思いはじめ、
そして5年くらい前から「しぶとく長生きしよう」と決めた。

長生きする才能が備わっているかどうかはわからないので、思うだけ、なのだが、
長生きしなければ出しえない音がある以上は、思うことからはじめる。
そう決めた。

Date: 11月 30th, 2008
Cate: 録音

50年(その1)

あまりというか、ほとんど話題になっていないようだが、今年はステレオLPが誕生して50年目である。

ステレオ録音のはじまりはずっと以前に遡る。
バイノーラルサウンドの発見は、1881年、フランスのクレマン・アデルによってなされている。
ステレオ録音、ステレオディスクの歴史に関しては、
岡先生の「マイクログルーヴからデジタルへ」の下巻をお読みいただきたい。
一時期絶版だったこの本も、オンデマンド出版で購入できる。

1988年、ステレオサウンドからいちばん近いレコード店は、WAVE六本木店で、週に3度は通っていた。
まだオリジナルLPが騒がれる前ということと、CD全盛の時代ということもあって、
グレン・グールドの初期LPが格安で大量に入荷して、まとめ買いしたことがある。

これだけ通っていると、めずらしいレコードを見つけることもある。
ステレオサウンドの記事で紹介したことのあるブラムラインのステレオディスクも、
WAVEで見つけた一枚である。

アラン・ドゥアー・ブラムラインは、1924年からインターナショナル・ウェスタン・エレクトリックで、
国際電話網の建設に従事した後、29年にイギリスのコロムビアに入社している。
コロムビアの研究所にはいったブラムラインは、
ベル研究所の録音用カッターヘッドがバランスドアーマチュア型なのに気がつき、
ムービングコイル型のカッターヘッドの開発・試作を行なっている。
しかもMFBによる改良も実現している。
カッターヘッドだけでなく、
ムービングコイル式(MC型)カートリッジやマイクロフォンの試作も行なっていたらしい。

MC型カッターヘッドの最初の特許は1931年12月14日に申請され、1933年6月14日、
イギリス特許第394325号として登録されている。
この特許には、バイノーラルという言葉で、
現在の45/45方式のステレオ録音と再生に関する原理特許も含まれている。

ブラムラインは、2つのコンデンサー型マイクロフォンを組み合せたMS方式のステレオマイクも開発、
1933−4年ごろ、ステレオディスクの録音・再生のテストを行なっている。
だが当時はまだSP時代だったため、商品化にはいたらなかった。

ブラムラインのステレオディスクは、そんななかの一枚と思われるもので、
ビーチャムの指揮による録音が収められていた。

レーベルはSymposium。LPではなく78回転のSPのステレオディスクである。
とうぜん再生にはSPのステレオカートリッジが必要になる。
海老沢徹氏に、「こういうレコードをみつけました」と連絡したところ、
ひじょうに興味をもっていただき、
ラウンデールリサーチのカートリッジ2118を改造した専用カートリッジをお持ちくださった。

このレコードの詳細は、1988年当時のステレオサウンドに載っている。
出てきた音は、なぜ1958年までステレオディスクが登場しなかったのか──、
解決すべき問題が、いかに多く、20年以上の年月を必要としたことがが、直ちに理解できた。

Date: 11月 29th, 2008
Cate: 川崎和男

川崎和男氏のこと(その14)

思い起きてきた「きもち」はひとつだけではなかった

1999年、audio sharing をつくろう、と思ったきもち、
1998年、「得手」を読んだときのきもち、
1994年、草月ホールでのきもち、「プラトンのオルゴール」展でのきもち、
1991年、はじめて「Design Talk」を読んだときのきもち、である。

2000年のE-LIVEのときもそうだったが、川崎先生の講演が終ると、すこし休憩に入る。
何人かのひとが、川崎先生のもとに集まる。
ここで順番を待っていると、気後れすると思って、真っ先に川崎先生のところに行った。
実は、この日、最前列の真ん中に座っていた。

その日の朝、印刷したばかりの手作りの、たった3行の名刺──、
audio sharing の下にURLとメールアドレスだけで、私の名前も電話番号もない、そんな名刺を渡し、
「菅野先生と対談をしていただけないでしょうか」とお願いしたときの川崎先生の顔は、
よく憶えている。いまでも、はっきりと思い出せる。

Date: 11月 29th, 2008
Cate: 川崎和男

川崎和男氏のこと(その13)

2002年6月のE-LIVEは川崎先生だった。
講演が終りに近づきはじめたとき、川崎先生が「いのち・きもち・かたち」と言われた。
「いのち・きもち・かたち」について説明されるのを聞きながら、
私の「いのち・きもち・かたら」はなんだろう、と考えた。

川崎先生は、このとき、「私のいのちはデザイナーであるということ」と言われた。
ならば、私はオーディオマニアだ、ここまではよかった。
だが、オーディオマニアとしての「かたち」がなかった。

オーディオマニアの「かたち」は、その人の「音」しかないだろう。
このときも、まだオーディオは再開してなかった、できていなかった。
1度、再開したことはあったが、なぜか機械の不調が続き、その他の理由もあって、1年と続かない。
オーディオの休止は10年を超えていた。

「かたち」を持たないオーディオマニア……。
そう思ったとき、川崎先生との距離は、1994年の草月ホールで感じたときよりも、さらに遠かった。

2年前のE-LIVEの時と同じように、また足踏みしようとしていた。

「かたち」がひとつあることに気がついた。
audio sharing である。
これがいまのオーディオマニアとしての私の「かたち」だ。
そう思えたとき、audio sharing をつくろうとしたときの「きもち」がよみがえってきた。

「かたち」が「きもち」に気づかさせてくれた。

Date: 11月 29th, 2008
Cate: 川崎和男

川崎和男氏のこと(その12)

audio sharing の公開は2000年8月だが、5月には公開できるまでつくっていた。
3ヵ月ズレたのは、おもにそういう理由からだ。

公開して、まず黒田先生から公開の許諾をいただいた。
岩崎先生と瀬川先生のご家族の連絡先がわからなかったため、ことわりをいれていたところ、
ある日、岩崎先生のお嬢様からメールが届いた。
またしばらくして瀬川先生の妹さんをご存じの方からのメールが届き、許諾をいただいた。

2001年春、菅野先生に、audio sharing を見ていただいた。
トップページを見て、「おっ、美しいなぁ」と言ってくださった。
正直、この言葉で、川崎先生に見てもらう自信がついた。
けれど、この年のE-LIVEは、川崎先生ではなく、MacPower誌の編集長・石坂氏だった。

Date: 11月 28th, 2008
Cate: 川崎和男

川崎和男氏のこと(その11)

2000年5月、EIZO主催の催し物 E-LIVE 2000で、川崎先生が講演をやられる。
誰にも話していないが、実は、この時、MacのPowerBook G3を持っていき、
川崎先生にaudio sharing を見てもらい、菅野先生との対談をお願いするつもりでいた。

川崎先生の話をきいていた。やっぱりすごい。菅野先生との対談は、絶対面白くなる。
そう思っていた。けれど、休憩時間に、会場に展示してあったアンチテンションのフレームを見て、
急に尻込みしてしまった。

まだダメだ。段階を踏んで、それからお願いしよう、そう決めた。
audio sharing の公開はその年の8月だから、
この時点で、瀬川先生、岩崎先生のご家族の方と連絡はついていなかった。
黒田先生、菅野先生のページは、まだつくっていなかった。

トップページの出来にこだわったのは、川崎先生に見てもらうため。
そのためにPowerBook G3を持ってきたわけだが、帰り途、重たく感じた。

財布の中には、もう小銭しかなくて、会場のある五反田から、当時住んでいた荻窪まで歩いて帰った。
翌日、Macを中古販売店に買い取ってもらうことで、とりあえずしのげたものの……。

Date: 11月 28th, 2008
Cate: 川崎和男

川崎和男氏のこと(その10)

「絶対零度下の音」──、
これが最初につけていたサイトの名前だった。

1999年いっぱいで仕事を辞めて、2000年1月からサイトづくりを始めた。
トップページは何度作りかえたことだろう。
トップページが変ると、当然、他のページのデザインも変っていく。
満足できるトップページが作れない。
それに続くページもうまくいかない。

そんなある日、Macをさわっていて、File Sharing という単語が目にとまった。
このとき使っていたのはMac OS9の英語版だった。
Macは2台使っていたので、ときどきFile Sharing(ファイル共有)の機能は使っていた。
でも、ふだんは気にとめることはなかったのに、この日は違っていた。

これだ、と思った。audio sharing が、
いまつくっているサイトの中身に、よりふさわしい、というか、ぴったりの名前だ。

名前が最終的に決り、またトップページの作り直し。
この時も思った、デザインの勉強をしてくればよかった、と。

Macを使っていたから、MacPowerを読んでいた。
MacPowerを読んでいたから、川崎先生の存在を知った。
川崎先生の存在を知ったから、このウェヴサイトをつくろうと思った。

そして、Macを使っていたから、audio sharing という名前にした。

Date: 11月 27th, 2008
Cate: 川崎和男

川崎和男氏のこと(その9)

文章を書くことも含めて、なにかを表現する行為は、詰まる所、自己顕示欲の現われだと思っている。
その自己顕示欲を何処まで昇華できるかが才能であるとも思っている。
誰かに頼まれたわけでもないのにウェブサイトを作り、そこに自分の文章を書いていくことは、
自己顕示欲をうまく利用していかないと続かないだろう。

1999年にウェブサイトをつくろうと決めた。
何をそこに載せるのか。

このころになると、オーディオの個人サイトも増えてきていた。
オーディオを休止していた私は、現在進行形でオーディオを語れない。
それまでの経験と知識で、いかにもオーディオを、こんなに熱心にやっています、
と見せかけることをやろうと思えばできなくはなかったが、それは不誠実な行為にすぎない。

どうするか。
いくつか決めていったことがある。
できれば自己顕示欲から離れたものでありたい、
想定読者は、まずは私自身。読みたいもののためであること。
つまり菅野先生と川崎先生の対談を実現するための場。

もうひとりの読者は、13歳の私である。
1976年、オーディオに興味を持ちはじめたころの私のためである。
もし、いま(1999年)、13歳の私がいたとしよう。
はたして、1976年といまとでは、どちらが幸せだろうか。

生れてくる年、性別など自分では選択できない事柄が、かならずある。

私は1976年に13歳だった。そのころは、岩崎先生も五味先生も、瀬川先生も健在だった。
やはり、このことはすごい幸運であった、といまでも思っている。

1999年、いま(2008年)でもどちらでもいい。13歳の私がいて、幸運だ、と思えるようにしたい。
そう思いやったわけだ。

Date: 11月 26th, 2008
Cate: 川崎和男

川崎和男氏のこと(その8)

動かなきゃ、と思ったものの、何をするのか、すればいいのか。
1998年にやったことは、川崎先生のデザインのメガネをつくったこと。
まず、ここから始めよう、始まると思ってのことだ。
12月末のことだ。

年が明けたからといって、何かが起こるわけではない。
菅野先生と川崎先生の対談のまえがきに書いたが、
おふたりの対談を、ステレオサウンドかMacPowerがやるだろうな、と思っていた。
春が来て、夏がおわり、秋が過ぎ去ろうとしても、
私がいちばん、面白い、読みたいと思っている記事は、どちらにも載らなかった。

ならば、自分でやりたい、実現したい、と思いはじめたものの、実際にどうするか。
まえがきには、「その場」をインターネットにつくればいいと、簡単に書いたが、
どういうサイトをつくるのか、つくれるのか、と考え込む。

考え込んだ大きな理由は、オーディオを休止していたからだ。

Date: 11月 25th, 2008
Cate: 川崎和男

川崎和男氏のこと(その7)

1996年夏、高校球児でもないのに、五厘刈りにしたことがある。
この年のツール・ド・フランスにマルコ・パンターニの姿はなかった。
不運な事故による足の骨折で、1年、棒に振ったパンターニの復帰を願っての、五厘刈り。
できれば、彼の同じスキンヘッドにしたかったのだが、仕事上、やはりまずいので。

マルコ・パンターニの存在を知ったのは、94年のツール・ド・フランス。
自転車に興味をもちはじめたばかりの私にとっても、
パンターニの、山岳ステージでの走りは驚異的だった。熱狂した。

97年のツール・ド・フランスのラルプ・デュエズで、ステージ優勝。
パンターニ復帰する。
ゴールでの、雄叫びをあげるパンターニのガッツポーズ。
そのポスターを手に入れてから、ずっと目に付くところに貼っていたこともある。

そして98年。
ジロ・デ・イタリアで総合優勝。
でもツール・ド・フランスの、おおかたの予想は、前年度の覇者ヤン・ウルリッヒ。
私もそう思っていた。

でも、雨の日の、あの山岳ステージ、
パンターニがアタックをかけて成功してしばらくすると、テレビ画面の下に、
暫定マイヨ・ジョーヌを示すテロップが出た。
深夜、友人宅で、テレビ放送を見ていたことも重なってか、
「なぜ、こんなところにいるんだろう……」と、
いきなり、そんな思いがこみあげてきた。

その数ヶ月後、MacPowerの12月号が出た。この号の「Design Talk」のタイトルは「得手」だった。
川崎先生が菅野先生のことを書かれている。

「得手」を読んで、あの日と同じようなことを思っていた。
そして、とにかく動かなきゃ、と思った。

Date: 11月 24th, 2008
Cate: 川崎和男

川崎和男氏のこと(その6)

どうやったら川崎先生と会うことができるのか。

デザインの勉強をしてきたわけではない。接点はなにひとつないように思えた。
とにかく、できるのはMacPowerに連載されている「Design Talk」を読みつづけることだけ。

読みつづけていたら、ある日、真空管アンプについて書かれている号があった。
えっ、もしかしてオーディオマニアなの? と思った。

またしばらく読みつづけていたら、今度はJBLの4343という単語が出てきた。

このころである、もしかすると会える日がやってくるかもしれない、と感じたのは。
それでも草月ホールでの講演から、3年ほど経っていた。

Date: 11月 23rd, 2008
Cate: 川崎和男

川崎和男氏のこと(その5)

ギャラリー間の床は、真っ白なタイルで敷きつめられていた。靴は入口でぬぐ。
スリッパなんて無粋なものは用意されていない。

壁も白い。
部屋の中央に12本の、白い、細長い柱が建っていて、その上にオルゴールが置かれている。

「プラトンのオルゴール」は川崎先生のサイトで見ることができる。
左端WorksにあるMusic boxをクリックしてほしい。

12年後の2006年、金沢の21世紀美術館で開催された川崎先生の個展「いのち・きもち・かたち」にも
「プラトンのオルゴール」は展示してあった。

そして気がつくのだが、「プラトンのオルゴール」は、
柱の上に乗っているオルゴールひとつひとつのことではなく、
ギャラリー間に構築された空間そのものである。

21世紀美術館の展示では、タイルのまわりから見るだけで、作品そのものの中には入れない。

ギャラリー間では、川崎先生の作品の中に入っていたことになる。
だから、印象は強烈だったのか。

このとき受けた感じを、いまでもうまく表現できないでいる。

Date: 11月 23rd, 2008
Cate: ESL, QUAD, 長島達夫

QUAD・ESLについて(その5)

ステレオサウンドの弟分にあたるサウンドボーイ誌の編集長だったO氏は、
QUADのESL63が登場するずいぶん前に、スタックスに、
細長いコンデンサースピーカーのパネルを複数枚、特注したことがあって、
それらを放射状に配置し、外周部を前に、中心部を後ろに、
つまり疑似的なコーン型スピーカーのようにして、
長島先生同様、なんとか球面波に近い音を出せないかと考えての試作品だった、と言っていた。

結果は、まったくダメだったそうだ。
だからO氏も、ESL63の巧みな方法には感心していた。

Date: 11月 23rd, 2008
Cate: ESL, QUAD, 長島達夫

QUAD・ESLについて(その4)

QUAD・ESLの2段スタックは、1970年代前半、
香港のオーディオショップが特別につくり売っていたことから始まったと言われている。

ステレオサウンドでは、38号で岡俊雄先生が「ベストサウンド求めて」のなかで実験されている。
さらに77年暮に出た別冊「コンポーネントステレオの世界’78」で山中先生が、
2段スタックを中心にした組合せをつくられている。

38号の記事を読むと、マーク・レヴィンソンは75年には、自宅で2段スタックに、
ハートレーの61cm口径ウーファー224MSを100Hz以下で使い、
高域はデッカのリボン・トゥイーターに受け持たせたHQDシステムを使っていたとある。

山中先生が語っておられるが、ESLを2段スタックにすると、
2倍になるというよりも2乗になる、と。

ESLのスタックの極付けは、スイングジャーナルで長島達夫先生がやられた3段スタックである。

中段のESLは垂直に配置し、上段、下段のESLは聴き手を向くように角度がついている。
上段は前傾、下段は後ろに倒れている格好だ。
真横から見ると、コーン型スピーカーの断面のような感じだ。
上段と下段の角度は同じではないので、写真でみても、威容に圧倒される。

この音は、ほんとうに凄かったと聞いている。
山中先生の言葉を借りれば、3段だから3乗になるわけだ。

長島先生に、この時の話を伺ったことがある。
3段スタックにされたのは、ESLを使って、疑似的に球面波を再現したかったからだそうだ。

繊細で品位の高い音だが、どこかスタティックな印象を拭えないESLが、
圧倒的な描写力で、音楽が聴き手に迫ってくる音を聴かせてくれる、らしい。

その音が想像できなくはない。
ESLを、SUMOのThe Goldで鳴らしていたことがあるからだ。

SUMOの取り扱い説明書には、QUADのESLを接続しないでくれ、と注意書きがある。
ESLを鳴らすのならば、The Goldの半分の出力のThe Nineにしてくれ、とも書いてある。

そんなことは無視して、鳴らしていた。
ESLのウーファーのf0は50Hzよりも少し上だと言われている。
なのに、セレッションのSL6をクレルのKMA200で鳴らした音の同じように、
驚くほど低いところまで伸びていることが感じとれる。
少なくともスタティックな印象はなくなっていた。