Archive for 9月, 2020

Date: 9月 30th, 2020
Cate: ケーブル

結線というテーマ(その11)

バランス伝送の場合も同じである。
XLRプラグを開け、1番ピンの接続を片側だけ外す。
そしてアース線を用意して接続する。

一度知人宅で試したことがある。
知人宅のリスニングルームは広かった。

コントロールアンプをリスニングポイントの目の前に、
パワーアンプはスピーカーの中央に、という置き方だった。

コントロールアンプとパワーアンプ間はバランスケーブルで、
7mは優にこえていた、と記憶している。
上記のような最短距離での配線でも、これだけの長さが要るほどの広い空間だった。

ラインケーブルにおける左右チャンネルのアースの共通化(一本化)は、
ケーブルが長くなればなるほど効果的であることは理屈からいってもそうである。

それでも私が自分のシステムでやっていたときは部屋が狭いこともあって、
ケーブルが目につかないように部屋の端っこをはわせても、
せいぜいが3m程度であった。それでもはっきりと効果は聴きとれる。

それが倍以上の長さになると、どの程度の変化量となるのか。
その時知人が使っていたアンプはクレルだった。
おもしろいことにパワーアンプにもアース端子が備わっていた。

なので実験は、より簡単に行える。
知人にケーブルに手を加えることの了解を得て、
アース線には、一般的なスピーカーケーブル(太くない)を引き裂いて使った。

10分もかからずにできる。
そんな作業にも関らず、出てきた音の変化の大きさには、二人とも驚いた。
ケーブルの長さに比例して、というよりも、
二乗とまではいいすぎだろうが、それに近いのでは、と思うくらいの変化量だった。

1990年ごろの話で、いまほど高価すぎるケーブルはほとんどなかった時代だが、
知人が使っていたのは、当時としては高価な部類のケーブルであった。

つまり、どんなに高価なケーブルであっても、ここでやっていることは、
アースの明確化であって、それにはこういう方法をとる以外にない。

Date: 9月 29th, 2020
Cate: ケーブル

結線というテーマ(その10)

私がいたころのステレオサウンドの試聴室で使っていたラインケーブルは、
ほとんどが1.5mか2m程度の長さだった。

それ以上の長さのケーブルももちろんあったけれど、
実際に使う長さのケーブルといえば、上記の長さのものだった。

この程度の長さのラインケーブルでも、(その9)で書いていることが発生する。
ラインケーブルのシールドで、
コントロールアンプとパワーアンプのアースは接続されている。

どんな導体にも直流抵抗はあるわけで、
たとえ1.5m程度のケーブルであっても、わずかとはいえ直流抵抗は存在する。
それからインダクタンスもある。

とはいえ、コントロールアンプ側のアースとパワーアンプ側のアースとに、
どれだけの電位差が生じるというのだろうか。

それから左右のケーブル間には浮遊容量が存在する。
1.5mもしくは2mのケーブルの引き回しかたによっては、
二本のケーブルの距離が広いところと狭いところができる。

それによって浮遊容量は変化する。
それでも左右チャンネルのシールドの電位は同じ、といってよい。
同電位間では浮遊容量の影響はほぼない。

こんなふうに考えていっても、理屈に合わないほどの音の変化が確かにある。
ならば試してみるしかないわけで、
ラインケーブルのシールドを、片側だけ外す。

コントロールアンプ側を外すのか、
パワーアンプ側を外すのか。

それは別項「境界線」で書いているように、
それぞれのアンプの領域をどこまでと考えるかによって違ってくる。

私はコントロールアンプの領域は、出力に接がれるラインケーブルまで、
つまりパワーアンプの入力端子まで、と考えるので、
ここではパワーアンプ側のシールドを外すことになる。

RCAプラグを開けて、シールド側にハンダづけされているのを外すだけである。
もちろん、こうしてしまうと音は基本的には出ない。
ただし機器間の浮遊容量があるため、実際には音が鳴ることがある。

そしてラインケーブルの他にアース線を用意して、
コントロールアンプとパワーアンプを接ぐ。

Date: 9月 29th, 2020
Cate: モノ

モノの扱い(その3)

その1)へのコメントには、若い世代のモノの扱いについてのものだった。
それだけを読むと、世代的なことが関係しているようにも読める。

けれどKさんからきいた話は、いまのことではない。
1970年代の終りごろの話だから、
(その1)で書いているレコードの扱いがまるでなっていない女性は、
世代に関係してのこととはいえない、と思う。

いつの時代にも、いるわけだ。
そのことを(その1)を公開して思い出した。

ほんとうに首を傾げたくなるほど、モノの扱いがわかっていない人がいる。
ここでいっているモノの扱いは、
ほとんどモノの持ち方である。

モノを持つというのは、人の基本的な動作なのではないのか。
それがアヤシイというか、
こんなところで使う言葉ではないと思いつつも、
センスがない、といいたくなる。

そういえば映画でもあった。
2003年公開の「チャーリーズ・エンジェル フルスロットル」だ。

ルーシー・リュー演じるアレックス・マンディがテレビを持っているシーンがある。
テレビといっても20年近く前なのだから液晶テレビではなく、
ブラウン管のテレビである。そこそこ大きなサイズのテレビだった。

インターネットで見た予告編では、
テレビの正面を自分の身体に押しつけるようなかっこうで持っていた。
ブラウン管のテレビは重量的にアンバランスで、前側が重い。
だから重い側自分の方に向けて持つ。

それが公開された映画本編では前後逆に持っていた。
ここで持っているテレビはソニー製である。

「チャーリーズ・エンジェル」の映画の配給は、
ソニー・ピクチャーズ・エンタテインメントである。

テレビがソニー製であることを、
観ている人たちにはっきりとわからせるための変更のはずだ。

Date: 9月 28th, 2020
Cate: TANNOY

タンノイはいぶし銀か(その11)

この項のタイトルは「タンノイはいぶし銀か」であって、
「タンノイはいぶし銀だ」でも「タンノイはいぶし銀ではない」でもない。

ここで、タンノイはいぶし銀だといいたいわけでもなく、
またいぶし銀ではない、といいたいわけでもない。

「タンノイはいぶし銀か」への答は聴いた人がそれぞれに出すことであって、
その出した結論にあれこれいうつもりはない。

ただ、あまりにも「いぶし銀」が安易に使われているのではないか、
ということをいいたいだけである。

ステレオサウンド 29号に、黒田先生の「ないものねだり」が載っている。
     *
 思いだしたのは、こういうことだ。あるバイロイト録音のワーグナーのレコードをきいた後で、その男は、こういった、さすが最新録音だけあってバイロイトサウンドがうまくとられていますね。そういわれて、はたと困ってしまった。ミュンヘンやウィーンのオペラハウスの音なら知らぬわけではないが、残念ながら(そして恥しいことに)、バイロイトには行ったことがない。だから相槌をうつことができなかった。いかに話のなりゆきとはいえ、うそをつくことはできない。やむなく、相手の期待を裏切る申しわけなさを感じながら、いや、ぼくはバイロイトに行ったことがないんですよ、と思いきっていった。その話題をきっかけにして、自分の知らないバイロイトサウンドなるものについて、その男にはなしてもらおうと思ったからだった。さすが云々というからには、当然その男にバイロイトサウンドに対しての充分な説明が可能と思った。しかし、おどろくべきことに、その男は、あっけらかんとした表情で、いや、ぼくもバイロイトは知らないんですが、といった。思いだしたはなしというのは、ただそれだけのことなのだけれど。
     *
ここに登場する「バイロイトサウンド」も、いぶし銀と同じような使われ方を、
オーディオの世界ではされている、と感じる。

黒田先生はその後バイロイトに行かれている。
バイロイトの音が、ヨーロッパの、ほかのオペラハウスとどう違うのかを、
端的に説明してくださった。

バイロイトに行ったことのない男が、
バイロイトで録音されたレコードを聴いて、「さすが」というのと同じように、
タンノイが鳴っているというだけで、いぶし銀を見たこともないのに、
「さすがタンノイ、いぶし銀の音ですね」といってたりはしないだろうか。

バイロイトでの最新録音という前知識があったから、
その男は「さすが」といっただけかもしれない。

そんな前知識がなく、そのレコードを聴いていたら、そんなこといわなかっただろう。

Date: 9月 27th, 2020
Cate: TANNOY

タンノイはいぶし銀か(その10)

(その8)へのfacebookへのコメントに、
いぶし銀ときいて思い出すのは、東欧のオーケストラの音、とあった。
レーグナーのワーグナーやブルックナーでもある、と。

いわれてみれば、いぶし銀といえるかもしれない、と思った。
ステレオサウンドで働くようになったばかりのころ、
試聴レコード(まだCDは登場してなかった)で、レーグナーが使われていた。

ドイツ・シャルプラッテンの録音である。
レーグナーのレコード(録音)は、自分では一枚も買っていない。
なので、当時聴いた音を思い出すしかないのだが、
その弦の音をいぶし銀と喩えることにはすんなりと納得できる。

ステレオサウンドの試聴できいたレーグナーは、
私にとって、初めて聴く東ドイツの音であった。

ずいぶん弦の音が違うなぁ、が最初の印象だった。
あのころは、いぶし銀ということについて、いまのように考えてなかったから、
そんなふうに表現することは思いもよらなかった。

ドイツ・シャルプラッテンには、レーグナーのほかに、
スウィトナー、コッホ、ブロムシュテット、ケーゲルなどの録音もある。

アナログディスクではドイツ・シャルプラッテンの録音は、
他にもいくつか聴いているのに、
CDになってからは、ほとんど聴いていない。

どこかで聴いていただろうが、記憶にはっきりと残っていないだけかもしれないが、
まぁ聴いていない、といったほうがいいだろう。

ドイツ・シャルプラッテンのCDを、レーグナーの他に数枚買ってみようかな、と、
コメントを読んで思っていたが、
ここで察しのよい方からからは、またMQAかよ、といわれそうだが、
レーグナーのMQAがあることは、記憶にある。

e-onkyoをあれこれ眺めていた時に気づいていた。
改めて検索すると、ドイツ・シャルプラッテンのタイトルは40ある。

40タイトルの詳細を見たわけではないが、
flac、WAV、MQA Studioで、196kHz、24ビットで配信されている。

レーグナーのワーグナー、ブルックナーもある。
ドイツ・シャルプラッテン、コーネッタ、MQA、
これらの組合せで聴くと、当時の音の記憶が鮮明によみがえってくるのか、
あらたな発見があるのか。

Date: 9月 27th, 2020
Cate: TANNOY

タンノイはいぶし銀か(その9)

いぶし銀とは、硫黄をいぶして、表面の光沢を消した銀のことである。
それで比喩的に、渋くて、味わいのあるものとして使われる。

どんなに辞書をひいたところで、いぶし銀の音といわれて、
それがいったいどういう音なのか、はっきりとつかめるわけではない。

ならばGoogleで「いぶし銀」を画像検索すれば、
いくつもの写真が表示される。

私はいぶした銀そのものを見たことがない。
それらの写真を見て、やっぱりこういものなのか、と思った。
けれど、これがタンノイの音の印象なのかというと、少なくとも私の場合は違う。

いぶし銀は常套句といえるのか。
一時期は、タンノイの音に対しての常套句といえた。
いまはどうだろうか。

昔ほどには、そうとはいえないのではないだろうか。
どちらにしても、常套句はわかりやすいといえば、そうともいえるけれど、
いぶし銀という表現を見た人すべてが同じ音を思い浮べているという保証はどこにもない。

百人の人がいれば、百通りのいぶし銀の音をイメージしていることだろう。
私がいぶし銀でイメージする音と、Aさんがイメージする音、Bさんがイメージする音……、
それぞれの人の頭をのぞいて、イメージした音を聴ければ、
近い人、まったく正反対の音をそう思っているだけの人、さまざまだろう。

わかりやすい。
それだけは事実であっても、
わかりやすさは善ではない──、ということは以前別項で書いている。

いぶし銀に関しては、ほんとうの意味でわかりやすい表現ではない。
むしろ書き手側にラクをさせているだけの常套句になりさがっているのではないだろうか。

Date: 9月 26th, 2020
Cate: モノ

モノの扱い(その2)

その1)は、ついさっきまで別のタイトルをつけていた。
続きを書くつもりはなかった。

facebookでのコメントを読んで、続きを書く気になったし、
タイトルも変えた。

コメントを読んで思い出したことがある。
友人のKさんから聞いた話である。

Kさんは私よりも少し年上で、オーディオ業界で仕事もしていた。
スイングジャーナルの編集部に在籍していたこともある。

そのKさんがいうには、意外にもモノの扱いを知らない人がいる、ということである。
そんなことは知っている、といわれそうだが、
それはオーディオに関心のない人のオーディオ機器の扱いについてではなく、
スイングジャーナル編集部内にも、
オーディオ機器の扱いがまるでなっていない人がいた、という話である。

その人たちは、Kさんと同じか上である。
そうなると、世代によることではない。

具体例を一つ挙げておくと、
スイングジャーナルは既製品のスピーカーシステムだけでなく、
スピーカーユニットを組み合わせての試聴テストも積極的に行っていた。

大型のコンプレッションドライバーに大型のホーンを組み合わせたモノ。
モノの扱いを知らない編集部の人は、
ホーン開口部を持ち、いきなり持ちあげようとする。

逆だろう! 何やっている! と、
すぐさま試聴していたオーディオ評論家の怒声があったそうだ。

こんな例を他にも聞いている。
オーディオ機器の扱いというよりも、
モノの扱い、ということではなくそれ以前の、モノの持ち方からしてわかっていない。

どちら側が重いのか、をまずわかろうとしないのだろう。
重量的にアンバランスなモノは、重たい方を自分の身体側にする。
反対に身体から遠くなればそれだけアンバランス的な重みを感じることになるし、
落しやすくなる。

Date: 9月 26th, 2020
Cate: モノ

モノの扱い(その1)

数時間前、新宿のディスクユニオンにいた。
欲しかったCDが見つかりレジに並んでいた。

隣のレジでは私より先の客が店員とやりとりしていた。
アナログディスクについて店員に訊ねていた。

このディスクはモノーラルなのか、ステレオなのか、と。
どうもステレオと表記してあったようだ。

けれど実際はモノーラルで、客はそのことを知っていたようで、店員に訊いていたし、
別の店員がモノーラルです、というと、安くなります? とまた訊いていた。

値引きしてもらうつもりだったようだ。
でも、店員は値段は変りません、と答えていた。

じゃ、買うの止めます、と客。
いっしょに買うつもりだったCD数枚も、買わずに店を出た。

中古CD、中古LPの買い方の基準は人によって違う。
このディスクならば、この値段ならば買うけれど、というのが、
その人なりにある程度は決っているのだろう。

その客は、そこから外れていたから買わなかったのだろう。
そのことは別に構わない。

買うつもりだったCDも買わないのも構わない。

なのにこんなことをここに書いているのは、
その客のLPの扱いが、あまりにもひどかったからだ。

検盤していたのが見えた。
盤面は艶があり、隣にいた私の目にはかなりコンディションがよさそうに見えた。

なのに、この客は、盤面を平気で指で触れていた。
ディスクの縁を両手ではさむのではなく、
指で両盤面をはさんでいた。

しかもごていねいに両手の指で、だから、
盤面には常に四本の指が触れている。

その客は、私よりもひとまわりほど下の女性だった。
40代半ばごろのようにみえた。

この世代だと、音楽を10代のころに聴き始めたとすれば、
すでにCDで、だった可能性はけっこうある。

それにしても、LPの扱いを知らないのか。
自分のディスクであれば、ぞんざいに扱おうと、その人の勝手であり、
第三者の私がとやかくいうことではない。

けれど、今日見たのは、商品である。
店に並べられている商品であり、その客のモノにはまだなっていない段階での、
この扱いをみてしまうと、書きたくなってしまう。

店員はクリーニングをやらなければ思って見ていたことだろう。

昔ながらの昭和のガンコおやじがやっている店で、
こんなことをやったら、怒鳴られていたはずだ。

この客は何も知らないうえに、そういう経験もおそらくないのだろう。

Date: 9月 25th, 2020
Cate: High Resolution

MQAのこと、オーディオのこと(その5)

MQA対応のアクティヴ型スピーカーは、クリプトンがいちはやくKS9 Multi+を出してきた。

このあとに、ほかのメーカーも続くだろう、と勝手に期待していたけれど、
なかなかMQA対応を謳ったアクティヴ型スピーカーは登場しなかった。
私が単に見落していただけなのかもしれないが。

なので、なぜ出てこないのか、と書く予定でいたところに、
KEFからLS50 Wireless IIが登場した。

パッシヴ型のLS50ととともに、II型になった大きな特徴は、
Metamaterial Absorption Technology(MAT)という消音技術の導入であって、゛
私はLS50 Metaのほうにまず興味を持った。

聴いてみたい、と思った。
MATへの興味が強かったため、LS50 Wireless IIへの関心は薄かった。

KEFのサイトで、LS50IIのページは見たものの、
LS50 Wireless IIのページはさらっと流しただけだった。

翌日になって、LS50 Metaについて何か書こうかな、と思い、
再度KEFのサイトにアクセスして、LS50 WirelessがII型になって、
MATの導入だけでなく、MQA対応になったことを知った。

ようやく次が登場した。
メリディアンのULTRA DACを聴いたのが二年前の9月。
MQA対応のアクティヴ型スピーカーへの関心がわいてきたのは、昨年の秋ぐらいからだった。

なのでそれほど待っていたわけではないのだが、
期待しているモノだけに、ずいぶん待ったという感じがしている。

またしばらく待つことになるのか、
それとも意外に早く次が出てくるのか。

Date: 9月 25th, 2020
Cate: TANNOY

タンノイはいぶし銀か(その8)

ステレオサウンド 94号の特集から、柳沢功力氏の文章からの引用だ。
     *
 タンノイも、最近のカンタベリーやウェストミンスター・ロイヤルなどは、以前ののものに比べるとずいぶん音色が異なってきた。以前の、ということはオートグラフの時代のことだが、例の「いぶし銀の音」の名言が生まれたように、そこにまさに、うす明かりの中で見るいぶし銀の輝きのような渋い音色があって、それが独特の重量感をもつ低音の中に、半ばうもれる様で輝いていた。
 実のところ僕はあのいぶし銀の音は、さめた目でみれば単に中高域の歪み成分だと思うのだが、でも、その正体が何であったかはこの際あまり問題ではない。あの低音とあの中高音が、重厚さを超えた崇厳さと気品に満ちたクラシック音楽の世界を、垣間見させてくれていたのは事実なのだから。
 しかし、現在のタンノイにこの話はそのまま通用はしない。ユニットの基本形は頑として変らずとはいうものの、タイプを重ねるごとに内容は近代化され、もはや歪みの音色に頼るような前時代的なサウンドではない。それに今回のはタンノイといってもバックロードホーンでもなければ、そんなに大型でもないスターリング/HWだから、ここでなにも「いぶし銀」の話を持ちだすことはなかったかもしれない。
 とはいうものの、このスピーカーを他のこのクラスのものと横一列にならべてみれば、やはりこれだけが特別な雰囲気をもつものであるのは事実。そしてその特別さが、タンノイ伝統の血にもとづくものであるのもまた事実だ。僕はこの音をとくに重い響きとは思わないが、しかしこの音を標準にすれば、世の中の大半のスピーカーは軽薄サウンドと思えそうである。それにいまさら「いぶし銀」とはいわないものの、この音を標準とすれば、世の中の多くのスピーカーの音は、まるでアルミニウムかステンレスのようにキラキラとまぶしくもある。
     *
柳沢功力氏の「いぶし銀」に、ウンウン、そうだと頷く人もいるだろうし、
そうかな、と首を傾げる人もいようが、
いぶし銀の音について、どう感じているかを説明しているのは、そう多くはない。

この柳沢功力氏の文章を読んだ後で、
ステレオサウンド 207号の特集中、タンノイの新しいArdenの試聴記で、
和田博巳氏が《他の弦楽器は艶やかというよりはいぶし銀のごとき味わい》とされているのを読むと、
柳沢功力氏と和田博巳氏の音の聴き方の相違が、なんとも興味深く感じられる。

いぶし銀のことからは外れるが、
94号の特集で、スターリングを七機種のプリメインアンプで鳴らした音の、
三氏の試聴記を比較しながら読むと、これまた別の意味で興味深い。

このことに関しては、別項でいずれ書くつもりである。

Date: 9月 25th, 2020
Cate: TANNOY

タンノイはいぶし銀か(その7)

7月、8月、9月のaudio wednesdayで、タンノイ・コーネッタを鳴らした。
来られた(聴いた)方から、いぶし銀ですね、という感想はなかった。

タンノイ・コーネッタとつい書いてしまうけれど、
昔からのステレオサウンドの読者には説明の必要はないであろうが、
タンノイのオリジナルなわけではない。

ステレオサウンドの企画で生れたフロントショートホーン付きコーナー型エンクロージュアに、
10インチ口径のタンノイの同軸型ユニットをおさめたモノを、コーネッタと呼んでいる。

この呼称が通用するのは、日本ぐらいのはずだ。
とはいうものの、タンノイ・コーネッタと書きたくなるのは、
いいスピーカーシステム、
もっといえばタンノイのスピーカーシステムとしても、いいモノであるからだ。

そのコーネッタの音は、五味先生も高く評価されていた。
まがいもの、という人たちがいるのは知っている。

この人たちは、ほんとうにコーネッタの音を聴いているのか。
聴かずに、ステレオサウンドの記事だけで判断しているのではないか。

ひどい人になると、井上先生のことを、スピーカーの素人と書いている。
何も知らないということは、ホント、シアワセなことだ。

いぶし銀と感じていたけれど、黙ってただけなのかもしれない。
でも、いぶし銀と感じさせる音であったならば、
なんらかの反応、感想はあったはずだ。

別項で引用するために、ステレオサウンド 94号をひっぱり出している。
94号の特集は「いまこれだけは聴きたい’90エキサイティングコンポーネント」で、
プリメインアンプ×スピーカーの相性テストで、タンノイのスターリングが、
20万円以上のプリメインアンプ七機種で鳴らされている。

試聴しているのは、井上先生、柳沢功力氏、傅 信幸氏である。
柳沢功力氏の文章のなかに、いぶし銀が出てくる。

井上先生、傅 信幸氏のところには、いぶし銀は出てこない。

Date: 9月 24th, 2020
Cate: ケーブル

結線というテーマ(その9)

私が働いていたころのステレオサウンドは、六本木五丁目にあった。
ビルの窓から顔を出せば東京タワーが、かなり大きく見える位置にあった。

六本木という繁華街、しかも東京タワーのすぐ近く。
オーディオ的な環境としては、そうとうに悪い。
だからこそ、セッティングに関しては鍛えられた、といえる面もある。

(その8)でちょっと触れたラインケーブルの引き回しの前に、
スピーカーケーブルの引き回しに関しては、
できるかぎり左右チャンネルのケーブルが同じところを通るように注意していた。

つまりFMのT字アンテナのようにスピーカーケーブルは配置する。
たったこれだけのことで、音場感はずいぶん改善される。

こんな引き回しだと左右チャンネルのセパレーションの確保が……、という人もいるだろう。
まったく影響がないとはいわないが、それ以上に、
左右チャンネルのスピーカーケーブルが物理的に離れてしまうことのデメリットが大きい。

蛇のようにくねくねした引き回しで、
部分部分で左右のスピーカーケーブルの距離が広がった狭まったりするようにすると、
とたんに音場感はこわれてしまう。

同じことがラインケーブルでも起るわけである。
ラインケーブルとスピーカーケーブル、どちらもケーブルであることに変りはないが、
スピーカーケーブルはスピーカーシステムに接続されるもので、
スピーカーは左右チャンネルで完全に独立している。

一方ラインケーブルは、コントロールアンプとパワーアンプ、
もしくはCDプレーヤーとコントロールアンプとのあいだを接続するケーブルで、
モノーラルパワーアンプ以外では、アースに関してはシャーシー内部で接続されている。

それでも同じ現象(音の変化)が、ラインケーブルでも起る。
このことで、DINケーブルのもつ優位性に気づくことができた。

Date: 9月 24th, 2020
Cate: ディスク/ブック

SATURDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO(その2)

“SATURDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”には期待している。
期待は“SATURDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”に対してだけではなく、
“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”に対しても持っている。

“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”はSACDも出ている。
その意味での期待ではなく、“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”の完全版が、
“SATURDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”の発売にあわせて出てくるのではないか、という期待だ。

“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”の実際のライヴは、もっと長かったはずだ。
それをすべて聴きたい、とずっとおもってきた。

“SATURDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”は、
“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”との組合せで、
いくつかのヴァージョンが出るではないだろうか。

そういうやり方を好まないけれど、
今回はそのことに期待している。

Date: 9月 24th, 2020
Cate: 老い

老いとオーディオ(とステレオサウンド・その7)

出版社とは記事を売る会社で、本という物を売る会社ではない、書いてすぐに、
記事を情報とする人もいるだろうな、と思っていた。

出版社とは情報を売る会社で、本という物を売る会社ではない──
そうだろうか。

記事も情報のうちに含まれる、といえば、否定はしない。
それでも記事と情報を同じに捉えていては、
この二つの境界を曖昧にしたままで、
インターネットに自社サイトを公開しているところがあるように感じている。

インターネット以前は、
海外屋と呼ばれる人たちが、どの業界にもいた、ときいている。
とにかく海外の動向をいち早く知ることが、昔は仕事につながっていっていた。

オーディオの世界も、そういう人たちはいた。
オーディオ評論家と呼ばれている人たちのなかにも、
昔は、海外屋的な人が確かにいた。

音楽評論家のなかにも、海外屋と呼ばれる人は何人かいた。
三浦淳史氏も、その一人であったけれど、
海外屋も、情報だけの人もいれば、三浦淳史氏のように記事(読みもの)として、
読み手に提供してくれる人とに分れていた。

残念なのは、三浦淳史氏のような人が少ないということ。

少なかっただけでなく、情報提供だけの海外屋を求めていた読み手も、
実のところ少なくなかったのではないだろうか。
それはいまも続いているような気さえする。

情報だけでいいんだよ、そんな声があるのか。
いまもSNSで情報提供だけの海外屋的な人を持囃す人たちがいる。
オーディオの世界では、まだまだそうである。

インターネットがこれだけ普及して、
ほとんどの人がスマートフォンをもっている時代であっても、そうである。

スイングジャーナルが売っていたのは、
休刊間際のころに売っていたのは、情報だったのか記事だったのか。

もう情報でもなかった、記事でもなかったのではないだろうか。

Date: 9月 24th, 2020
Cate: 老い

老いとオーディオ(とステレオサウンド・その6)

フィリップス・インターナショナルの副社長の
「なぜならわが社は音楽を売る会社で、ディスクという物を売る会社ではないからだ」は、
出版社にあてはめれば、
出版社とは記事を売る会社で、本という物を売る会社ではない、ということになる。

スイングジャーナルがなくなってしまったのは、
結局のところ、記事を売る会社ではなく、本という物を売る会社のままだったからなのか。

スイングジャーナルの最終号がいつものままのつくりであったことは、
どういうことなのか。

編集部としては、このまま終らせるつもりはない、
復刊させてみせる、という気持があって、
復刊を信じていれば、あえて通常通りの編集を最終号でもやったのかもしれない──、
そういう見方もできる。

でもアドリブが休刊になる前から、
スイングジャーナル社があぶない、というウワサは耳に入ってきていた。

編集部の人たちは、どうだったのだろうか。
このまま消えてしまうのであれば、特別な労力を必要としない、
いつも通りの編集でいいじゃないか──、
そんなどこか投げやりな気持はなかったのか、とも思ってしまう。

どっちでもいいとも思っている。
もし復刊できたとしても、あのままだっただろうから。
復刊できたとしても、いずれまた休刊してしまう。

本という物を売る会社としての出版社。
スイングジャーナルもそうだし、ステレオサウンドもそうなのだが、
どちらも雑誌がメインの出版社である。

ここでの本とは雑誌のことであり、
雑誌を売る会社とは、売る相手は読者だけでなく、広告主もいるということだ。