Archive for category 再生音

Date: 2月 18th, 2024
Cate: 再生音

再生音に存在しないもの(その3)

スピーカーの存在をまったく感じさせない──、とか、
スピーカーの存在が消えてしまう──、
そういった表現を、ここ数年、けっこうな回数見かけるようになってきている。

この手の表現を使う人は、そのスピーカーのことを最上級の褒め言葉で賞讃している。
そんな試聴記を読んでいると、いまの世の中、
そんなにもスピーカーの存在が消えてしまうほどの製品が多いのか、とも思ってしまう。

そのことを、スピーカーも進歩している、
技術の進歩でもあり、いいことだ、と素直に喜べるだろうか。

私は、また、この人、こういった表現を書いている、としか捉えていない。
なぜかといえば、その人(一人ではない)は、
再生音に存在しないものを、何ひとつ語っていない、明確にしていない。

このことを抜きにして、スピーカーの存在について語れるとは思っていないからだ。

Date: 3月 26th, 2023
Cate: 再生音

続・再生音とは……(生演奏とのすり替え実験・その7)

ビクターが五十年ほど前に数回行った生演奏とのすり替え実験。
いまの技術でもう一度やってみたら、どういうことになるのだろうか──、
オーディオマニアならば、そんなことを想像する人も少なくないだろう。

とはいえ、いま、そんな公開実験を行なうメーカーはない、とずっと以前からあきらめていた。
実際、生演奏とのすり替え実験はずっと行われていない。

先月、ソーシャルメディアを眺めていたら、
無人オーケストラコンサートの告知が表示された。

なんだろう? と思って詳細をみたら、
文字通りの無人オーケストラによるコンサートである。

ホールのステージには、椅子がある。
そこに演奏者が座っているのではなく、スピーカーが置かれている。

一度録音して、それをスピーカーから再生するというコンサートで、
スピーカーの数はオーケストラの演奏者の数と同じである。

これはなにがなんでも聴いておかなければ──、と思った。
それからfacebookでシェアした。
オーディオマニアならば関心をもつ人が多いはず、と思ったけれど、
予想に反し、いいねをつけてくれた人は二人だけだった。

そんなものなのか……、と思っていた。
昨日(3月25日)、横浜みなとみらいホールに行ってきた。

無人オーケストラコンサートを聴くためである。

Date: 1月 7th, 2023
Cate: 再生音

残像、残場、残響(その3)

十年以上、毎日、音について書いてきているわけだが、
ここでの音は、ほとんどすべてがスピーカーから鳴ってくる音について、である。

しかも、そのスピーカーから鳴ってくる音は、
一度録音されたものを再生しての再生音について、であり、
マイクロフォン、ミキシングコンソール、アンプを通ってきていても、
それが一度も記録(録音)されていない音、
つまりPA(public address)の音ではない、
ということをつい忘れがちになる人もいるのではないのか。

どちらもスピーカーから鳴ってくる音(音楽)であっても、
PAでのスピーカーからの音を再生音とは言わない。

Date: 10月 13th, 2022
Cate: 再生音

続・再生音とは……(その36)

このブログを始めたばかりの頃、
2008年9月に、
「生の音(原音)は存在、再生音は現象」と考えていきたい、
と書いている。

ステレオサウンド38号からもうひとつ。
黒田恭一氏の文章から。

再生音は現象だからこそ、おもしろいし、
オーディオを長く続けているのだ、といまひとりで納得している。

ステレオサウンド 38号に、
黒田先生が八人のオーディオ評論家のリスニングルームを訪問された特集がある。

そこで「憧れが響く」という文章を書かれている。
そのなかに、こうある。
     *
 目的地は不動であってほしいという願望が、たしかに、ぼくにもある。目的地が不動であればそこにたどりつきやすいと思うからだ。あらためていうまでもなく、目的地は、いきつくためにある。その目的地が、猫の目のようにころころかわってしまうと、せっかくその目的地にいくためにかった切符が無効になってしまう。せっかくの切符を無駄にしてはつまらないと思う、けちでしけた考えがなくもないからだろう。山登りをしていて、さんざんまちがった山道を歩いた後、そのまちがいに気づいて、そんしたなと思うのと、それは似ていなくもないだろう。目的地が不動ならいいと思うのは、多分、そのためだ。ひとことでいえば、そんをしたくないからだ。
 目的地はやはり、航海に出た船乗りが見上げる北極星のようであってほしいと思う。昨日と今日とで、北極星の位置がかわってしまうと、旅は、おそらく不可能といっていいほど、大変なものになってしまう。
 ただ、そこでふりかえってみて気づくことがある。すくなくともぼくにあっては、昨日の憧れが、今日の憧れたりえてはいない。ぼくは、他の人以上に、特にきわだって移り気だとは思わないが、それでも、十年前にほしがっていた音を、今もなおほしがっているとはいえない。きく音楽も、その間に、微妙にかわってきている。むろん十年前にきき、今もなおきいているレコードも沢山ある。かならずしも新しいものばかりおいかけているわけではない。しかし十年前にはきかなかった、いや、きこうと思ってもきけなかったレコードも、今は、沢山きく。そういうレコードによってきかされる音楽、ないしは音によって、ぼくの音に対しての、美意識なんていえるほどのものではないかもしれない、つまり好みも、変質を余儀なくされている。
 主体であるこっちがかわって、目的地が不変というのは、おかしいし、やはり自然でない。どこかに無理が生じるはずだ。そこで憧れは、たてまえの憧れとなり、それ本来の精気を失うのではないか。
 したがってぼくは、目的地変動説をとる。さらにいえば、目的地は、あるのではなく、つくられるもの、刻一刻とかわるその変化の中でつくられつづけるものと思う。昨日の憧れを今日の憧れと思いこむのは、一種の横着のあらわれといえるだろうし、そう思いこめるのは仕合せというべきだが、今日の音楽、ないしは今日の音と、正面切ってむかいあっていないからではないか。
     *
この黒田先生の文章と再生音は現象ということが、
いまの私のなかではすんなり結びついている。

Date: 3月 3rd, 2022
Cate: 五味康祐, 再生音

再生音に存在しないもの(その2)

4月3日まで、東京都美術館で「フェルメールと17世紀オランダ絵画展」をやっている。
ヨハネス・フェルメールの「窓辺で手紙を読む女」が公開されている。

修復作業によって、誰かによって消されていた、
壁に描かれていたキューピッドの絵があらわれた「窓辺で手紙を読む女」である。

コロナ禍ということもあって入場時間を予約しなければならない。
そのおかげで比較的空いていた。
平日の午前中ということもあってだろう。

すべての絵を見終ると、そこには今回の展示に関連したグッズの販売コーナーがある。
そのなかに、3Dプリントで複製したフェルメールの絵があった。

オランダでの3Dデータを元にした複製画である。
オリジナルの絵にある凹凸も再現されている。

この複製画には触れる。
触って感じるのは、フェルメールは重ね塗りをやらなかったのか、である。

私は絵に関しては素人なのだが、
重ね塗りをしているのであれば、3Dデータで複製した絵にも、
同じように表面の凹凸が再現されるはずである。

今回触った複製画には、オリジナルにあるひび割れの感触が感じられる。
そこまでの複製画なのだから、重ね塗りの凹凸も複製しているはずである。

Date: 2月 13th, 2022
Cate: 再生音

続・再生音とは……(その35)

つぼみのままで終ってしまう音と花を咲かせる音。
どちらを愛でるのか。

つぼみのままで終ってしまう音は、
花を咲かせはしないものの、熟すことのない音ともいえるだろう。

ずっとつぼみのままなのだから。

そういう音を愛でるのが好きな人がいる。
対象が音なのだから、周りがとやかくいうことではない。

けれどつぼみのままで終ってしまう音は、決して実を結ぶことはない。
花を咲かせた音は、いつか花が散ってしまうことだろう。

そうなるくらいならつぼみのままのほうが──、という人にはわからないだろうが、
花が散っていった先には、実が生る。

この音の「実」を意識することなく終るのか、そうでないのか。

Date: 7月 2nd, 2021
Cate: 再生音

ゴジラとオーディオ(その8)

半年以上公開が遅れた「ゴジラvsコング」が、
やっと今日(7月2日)公開を迎えた。

さっそく観てきた。

2005年に公開されたピーター・ジャクソン監督の「キング・コング」を観た時に、
CGでつくれない映像はなくなった、と感じていた。

どんな映像でもつくれるようになったから、どんな映像をつくりだしたいのかが、
これまで以上に重要になってくる、とも感じていた。

「ゴジラvsコング」を観ていても、同じことを考えていた。
2005年から十年以上が経っているから、技術はさらに進んでいる。

もうCGの技術に驚くことはなくなりつつある。

日本の「ゴジラ」は着ぐるみゴジラであり、
アメリカの「ゴジラ」はCGIゴジラである。

着ぐるみゴジラをミニチュアの街を壊していく。
着ぐるみゴジラと着ぐるみ怪獣とが戦う。
それが日本の「ゴジラ」映画であり、私が子供のころに観た「ゴジラ」シリーズだ。

本編が始まる前に、アメリカから始まった特撮の技術、
それに刺戟された日本の映画人たちが独自の特撮を生み出して、
「ゴジラ」を撮影した、という短い映像が流れた。

この短篇(サントリーの缶コーヒー、BOSSのコマーシャル)があったから、
よけいにあれこれ思ってしまったし、
ここでもSAEのMark 2500に関することを思っていた。

Mark 2500は1975年に登場したアンプで、
筐体は、曲げ加工を施したアルミニウムで構成されている。

Mark 2500と同時代のパワーアンプで、1976年時点で、
価格的に同じか超えていたアンプとなると、
アルテックの9440A(691,000円)、オーディオ・リサーチのD150(1,280,000円)、
マッキントッシュのMC2300(858,000円)くらいしかなかった。

いまでは650,000円のパワーアンプは最高級機とは呼べなくなっているが、
四十年以上前は、そうではなかった。

当時の最高級機といえたMark 2500と、
現在の最高級機といえるパワーアンプの筐体のつくりを、
「ゴジラvsコング」を観ながら比較していた。

Date: 5月 30th, 2021
Cate: 再生音

続・再生音とは……(その34)

以前書いたことを、ここでもくり返す。

オーディオマニアとして自分を、そして自分の音を大切にすることは、
己を、己の音を甘やかすことではなく、厳しくあることだ。

そうでなければ、繊細な音は、絶対に出せない、と断言できる。

繊細な音を、どうも勘違いしている人が少なからずいる。
キャリアのながい人でも、そういう人がいる。

繊細な音を出すには、音の強さが絶対的に不可欠であることがわかっていない人が、けっこういる。

音のもろさを、繊細な音と勘違いしてはいけない。
力のない、貧弱な音は、はかなげで繊細そうに聴こえても、
あくまでもそう感じてしまうだけであり、そういう音に対して感じてしまう繊細さは、
単にもろくくずれやすい類の音でしかない。

そんな音を、繊細な音と勘違いして愛でたければ、愛でていればいい。
一生勘違いしたままの音を愛でていればいい。

つぼみから花へと変化していくのに必要なのは何なのか。
そのことに気づかぬままでは、いつまでたっても花を咲かすことはできないし、
繊細な音がほんらいはどういう音なのかにも気づかずに終ってしまうことだろう。

Date: 5月 22nd, 2021
Cate: 再生音

続・再生音とは……(その33)

つぼみのままで終ってしまう音なのか、
花を咲かせてこその音なのか。

自己模倣という純化の沼にはまってしまったら、
永遠に花を咲かすことはできない。

自己模倣という純化の沼がやっかいなのは、
浸かってしまっていることに気づかないことが多いからだ。

オレは大丈夫、スピーカーをよく交換するから、という人がいるかもしれない。
そんなことをいう本人のなかでは、
それまでのスピーカーとはまったく別のタイプのスピーカーにした、という意識があるはずだ。

でも、これは昔からよくいわれていることで、
周りからみたら、また同じタイプのモノにして、ということだったりする。

つきあう女性がころころ変る人がいる。
こういう人も、同じことをいう。

これまでつきあってきた女性とはまったく違うタイプの女性とつきあうことにした、と。
でも、周りからみたら、また同じタイプの女性とつきあっている、ということでしかない。

スピーカーの場合、タイプ的にまったく別のタイプにすることはできる。
それまで大型ホーン・システムを使っていた人が、
コンデンサー型スピーカーに変更することとかがそうである。

タイプ的にも音的にも、まったく別のスピーカーではあっても、
おもしろいもので、自己模倣の泥沼に陥っている人が鳴らすと、
結局、同じ音になってしまう。

このことを肯定的に捉えることがてきる人がいる。
どんなスピーカーであっても、自分の好きな音で鳴らせる、というふうにだ。

Date: 3月 17th, 2021
Cate: 再生音

続・再生音とは……(その32)

いい音、
それも再生音でのいい音とは、どういうことなのか。

いろいろこまかなことを書いていけば、きりがないほどにあるように感じている。
それでも、菅野先生が提唱されたレコード演奏。

この考えに賛同する人もいれば、無関心な人、完全否定する人もいる。
それでも、いい音ということに関していえば、
レコード演奏と呼べる音は、やはり、いい音である。

では、レコード演奏と呼べる音、
再生音でのいい音とは、簡潔にいうならば、
花が咲いた音だと、最近思うようになってきた。

そして、どこかオーディオマニアは、つぼみのままで、あれこれいいすぎたり、
こだわりすぎているようにも感じている。

懸命につぼみを大きくしようとしたり、きれいにしようとしたりする。
花を咲かせてこそ、いい音であり、
それこそレコード演奏と呼べる音だ、といいたい。

つぼみを愛でるのも、趣味といえばそうである。
つぼみのまま楽しむのも、人それぞれだから、そういう趣味もあっていい。

それでも、花を咲かせたい。
そういう音でこそ、好きな音楽を聴きたいものである。

Date: 3月 16th, 2021
Cate: 再生音

続・再生音とは……(その31)

辞書(大辞林)には、再生のところにこうある。

(1)死にかかっていたもの,死んでいたものが生き返ること。蘇生。
(2)心を改め,くずれた生活からまともな生活に戻ること。更生。「—を誓う」
(3)廃品となったものを再び新しい製品に作りなおすこと。「—した紙」「—品」
(4)録音・録画したものを機械にかけてもとの音・画像を出すこと。「映画の名場面を—する」「—装置」
(5)再びこの世に生まれること。「弘法大師を—せしめ/文明論之概略(諭吉)」
(6)失われた生体の一部が再び作り出されること。下等生物ほど再生能力が強い。
(7)〔心〕 記憶の第三段階で,記銘され保持された経験内容を再現すること。想起。

オーディオで、再生といえば四番目の意味が常識となっている。
だからこそ再生音ともいう。

けれど再生に三番目の意味がある。
再生紙とか再生ゴムとか、そういった意味での再生があるから、
再生音といういいかたを嫌う人がいても不思議ではない。

私は、再生音といういいかたが、むしろ好きである。
それは一番目、二番目の意味での再生音ととらえているところがあるからだ。

EMIのクラシック部門のプロデュサーだったスミ・ラジ・グラップは、
「人は孤独なものである。一人で生まれ、一人で死んでいく。
その孤独な人間にむかって、僕がここにいる、というもの。それが音楽である。」
と語っている。

ここでも何度も触れている。
孤独な人間は、死に向って急いぎはじめているかもしれない。
そんな孤独な人間に、僕がここにいる、と寄り添ってくれる。

ならば、その音楽に身を寄せて死に向い始めていた心が、
再生に向い始めるのを音楽を聴くことで待つこともあるからだ。

オーディオで聴く音とは、音楽である。
だからこそ、私は再生音を使う。

Date: 3月 13th, 2021
Cate: 再生音, 快感か幸福か

必要とされる音(その15)

「必要とされる音」について書いている。

いまの時代に必要とされる音であったり、
いつの時代においても必要とされる音でもある。
そのことについて考えているわけだ。

「音は人なり」と何度も書いている。
そのことをテーマにもしている。

ということは、必要とされる音を出すということは、
必要とされる人でなければならない、ということでもある。

Date: 8月 30th, 2020
Cate: 再生音, 快感か幸福か

必要とされる音(その14)

9月のaudio wednesdayでも、タンノイ・コーネッタを鳴らす。
コーネッタが、喫茶茶会記のアルテックよりもいいスピーカーだから、というよりも、
鳴らしたいから、というのが、理由にならない理由である。

喫茶茶会記のアルテックも、古いタイプのスピーカーといえる。
コーネッタもそうだ。
コーナー型で、フロントショートホーン付き。

アルテックよりも、古いといえば、いえなくもない。
そういうスピーカーを、今回もまた鳴らす。

7月に鳴らして、8月も鳴らした。
9月も鳴らすわけだから、三ヵ月続けてのコーネッタである。

鳴らしたいから、は、聴きたいから、でもある。
そして聴きたいから、は、聴いてほしい、ということでもある。

コーネッタの音を、聴いてほしい、と思うのは、
どこか、コーネッタの音を、必要とされる音と感じているからなのかもしれない。

Date: 8月 10th, 2019
Cate: 再生音

ゴジラとオーディオ(その7)

秩序から連想したのが、暖炉だった。
暖炉には炎がある。

その炎を、オーディオによる音として連想することが、またある。

「音は人なり」は何度もくり返し書いてきている。
「音は人なり」なのだから、暖炉の炎は人なり、である。

この炎は、奔馬ではないか、と連想する。
辞書には、
《勢いよく走る馬。あばれ馬。また,転じて物事の勢いの盛んなたとえ》とある。
だから奔馬の勢いという表現がある。

オーディオマニアならば、裡に奔馬を秘めているのではないのか。
だからこそのオーディオマニアではないのか。

つまり、暖炉の炎は、裡なる奔馬、
そう連想してしまう。

Date: 8月 9th, 2019
Cate: 再生音

ゴジラとオーディオ(その6)

(その5)で秩序と書いて連想したのは、暖炉だった。

オーディオによる音とは、暖炉での炎ではないのか、と思ったからだ。
音も炎も一瞬として静止することはない。
自在に形を変えていく。

炎には薪が必要である。
薪がなければ、どんなに立派な暖炉であっても、そこに炎は立たない。

薪があれば、それでいいわけでもない。
暖炉の大きさによって、そこに焼べる薪の量は関係してくる。

暖炉を薪でいっぱいにしたらどうなるのだろうか。
暖炉のある家に住んだことはないので、なんともいえないが、
おそらく炎は立たないであろう。

酸素も必要になるからだ。

暖炉の大きさに見合った薪の量と酸素があって、
つまり一つの秩序が成り立っているからこそ、暖炉は暖炉として機能する。

炎が音であるとすれば、
薪と酸素は何になるのか。