Archive for category 再生音

Date: 12月 18th, 2016
Cate: 再生音

続・再生音とは……(その12に対して……)

三年半前に(その12)を書いた。
次のようなことを書いている。
     *
ロボット(robot)は、カレル・チャペックの戯曲「R.U.R.」において、
初めて提示され、このロボットの着想にはゴーレム伝説が影響していると、チャペックが述べている。

ゴーレムは泥人形であり、機械仕掛けのロボットではない。
その意味では、ゴーレムは、アトムやその他のロボットよりも、
イメージとしてはピノキオに近い、といえるだろう。

ピノキオは、意志をもって話をすることができる木をゼペットじいさんが人形に仕上げたものだ。
ピノキオにも、手足を動かしたりする機構は、ゴーレム同様ない。
意志をもった木であっても、ピノキオに人間の脳に相当するものがあるわけではない。
     *
ゴーレムとピノキオは近い存在といえると今も思っているが、
同時にゴーレムは、やはり現在のロボットを示唆していた、とも思うようになった。

実際のロボットを形作っている素材のほとんどは、土の中、土の下にあるものだ。
半導体の材料となるものがどこにあるのか。
配線の素材はどこに存在しているのか。
ロボットの動力の源となるのは何なのか、それはどうやってつくられるのか。
ロボットの動きをスムーズにするためのオイルにしても、そうだ。

こんなことを考えていくと、ほとんどすべてが土と関係してのモノであることに気づく。
その意味でゴーレムが泥人形(土)なのは先見性があった、というべきなのか。

土、鉱物、ロボットと考えていくと、
ジェームズ・ラブロックにより仮設が提唱されたガイア理論と結びついていく。

最先端のロボットは、つまりは土から生れる。
土とは地球と捉えれば、ガイアがGaiaなのは、単なる偶然なのだろうか、と思うのだ。

Gaiaの真ん中にはaiがいる。AIだ。
artificial intelligence(人工知能)のAIが、Gaiaの真ん中なのだ。

こじつけと思われようが、こう考えていくと、
やはりAIは現実となる日が来るのだろう。

Date: 11月 14th, 2016
Cate: 再生音

実写映画を望む気持と再生音

攻殻機動隊の映画が2017年公開される。
これまでのアニメーションではなく、ハリウッド制作の実写版である。

今日、予告編が公開された。
楽しみにしている、期待している映画だけにさっそく予告編を見た。
見ながら、ふと思ったことがある。
なぜ、実写版をみたいと思うのだろうか。

1991年、「ターミネーター2」が公開された。
初日に観に行った。
いまでは驚きもしないのだが、「ターミネーター2」の映像は衝撃だった。

観終ったあと、連れと「これで寄生獣が映画されるね」と話していて。
「寄生獣」は、そのころ月刊アフタヌーンに連載されていたマンガだった。
2014年に実写映画が公開されている。

マンガを原作とする映画は、いくつも制作され公開されてきている。
予告編をみただけで観に行く気がうせてしまうのもけっこう多い。

日本制作だから……、が必ずしも失敗作の理由ではなく、
ハリウッド制作であってもひどい例がある。

いくつもの失望を味わいながらも、実写版をみたいという気持は常にある。

今回の攻殻機動隊の実写版は、
アニメーションのGHOST IN THE SHELL(1995年公開の映画)がベースである。
予告編では、アニメーションのGHOST IN THE SHELLを、
そのままトレースしたかのような実写映画のように思えた。

だからこそ、よけいに再生音のことを考えていた。

Date: 11月 12th, 2016
Cate: 再生音, 快感か幸福か

必要とされる音(その3)

アルテックのイギリス版といえるヴァイタヴォックス。
CN191、Bitone Majorがよく知られていた。

1970年代では、アルテックのA5、A7の音と同じで、
いくぶん古めかしいが、響きの豊かで暖かい音だ。

Bitone Majorは、システム構成からしてアルテックのMagnificentと同じといえる。

ヴァイタヴォックスの名も、1980年代以降あまりきかなくなった。
そしてカタログからも消えていった。

ヴァイタヴォックスという会社は、
軍需用を含めた業務用スピーカーメーカーとしてもいまも健在だが、
いわゆるトーキー用、コンシューマー用といわれる部門からは撤退していた。

ヴァイタヴォックスの製品ラインナップは、アルテックよりも少なかった。
ユニットの数も少ないし、スピーカーシステムの数はさらに少ない。
新製品はずっと登場していなかった。

しかもイギリスのオーディオ関係者からも存在を忘れられていない──、
そんなことを瀬川先生が、ステレオサウンド 49号に書かれている。

そんなヴァイタヴォックスのスピーカーが消えてしまったのは、
会社がなくなったわけではなく、収支があわなくなった故の、その分野からの撤退なのだろう。

そうなっていったのは、新製品が発表されないから、でもあろうし、
時代にそぐわないから、なのかもしれない。

時代にそぐわない音、といえば、そうかもしれない。
だが必要とされない音ではないと思う。

Date: 11月 12th, 2016
Cate: 再生音, 快感か幸福か

必要とされる音(その2)

1980年前後は、スピーカーのマグネットが、
アルニコからフェライトへと全面的と移行せざるをえなかった時期と重なる。

アルテックもユニットをフェライト化していった。
同軸型ユニットの604-8Hは604-8KSになっていった。
ウーファー、ドライバーもフェライトになった。

タンノイもそうだが、同軸型ユニットはアルニコとフェライトの違いは、
ユニットの設計を全体でやり直すことが必要となる。

マグネットの磁気特性の違いから、アルニコとフェライトでは最適な形状が異り、
そのためフェライトにすることでユニットの奥行きはアルニコよりも短くなる。
そうなると同軸型ユニットの場合、中高域のホーン長が短くなるということに直結する。

604シリーズ中、フェライトになった604-8KSを傑作と評価する人がいるのは知っている。
その人が、アルテックに精通している人であることも知っている。

その評価を疑うわけではないが、アルテック全体として見た場合、
JBLがフェライト化に成功したのに、アルテックはお世辞にもそうとはいえない。
むしろ失敗したように映った。

アルテックは没落していく。

アルテックもJBLも元を辿ればウェスターン・エレクトリックに行き着く。
このふたつのスピーカーメーカーは浅からぬ縁もある。
JBLは生き残り、アルテックは消失した(といっていいだろう)。

アルテックが没落した理由について書きたいわけではない。
その理由は、ステレオサウンド別冊「JBL 60th Anniversary」を読めばわかる。

アルテックという会社が消失したことで、アルテック・サウンドと呼べる音も消えつつある。

Date: 11月 12th, 2016
Cate: 再生音, 快感か幸福か

必要とされる音(その1)

1970年代後半くらいまではアルテックは健在だった、といえる。
私がオーディオに興味をもちはじめてステレオサウンドを読みはじめたころ、
A7、A5といった古典的なモデルの他に、Model 15、Model 19といった、
コンシューマー用モデルも登場したばかりで、Model 19の評価は高かった。

Model 15は写真で見ても、いい恰好とはいえず興味をもてなかったが、
Model 19はずんぐりむっくりしたプロポーションが、
安定感を感じさせるとともに、そのことがアルテックの音を表しているようにも思えた。

数年前、中古を扱うオーディオ店にModel 19があった。
ひさしぶりに見たな、と思いながら、
やっぱり、このカタチは好きだな、と思い出していた。

Model 19のころ、アルテックは2ウェイでありながら、高域のレンジを延ばそうとしていた。
専用トゥイーターに比べればまだまだといえても、
従来のアルテックよりはワイドレンジになって、成功している、といわれていた。

実は私が最初に聴いたアルテックはModel 19だった。
A5、A7も現役モデルだったし、より有名ではあっても、
オーディオ店に置いてあるかどうかによって、
歴史の長いブランドにおいては、最初に聴いたモデルは、
世代によっても、どこに住んでいるのかによっても、違ってくる。

私はModel 19であり、好感をその時からもっていた。
その後、604-8Gが604-8Hになる。
620Aも620Bとなる。
そして604-8Hを中心に4ウェイ・モデル6041が登場した。

JBLの新製品の数からすればアルテックは少なかったが、
アルテック健在と思わせてくれた。

けれど1980年代にはいると、あやしくなってくる。
9861、9862のころからである。

それ以前にもA7にスーパートゥイーターを加えて3ウェイ化したA7XSを出していた。
音は聴いたことがないけれど、成功作とは決していえない。
すこし迷走しはじめた感じもあったけれど、6041の登場がそれを吹き消していた。

私は9861、9862にA7XSと同じにおいを感じていた。

Date: 10月 4th, 2016
Cate: 再生音

続・再生音とは……(その30)

私が瀬川先生から、今回書いた話をきいたのは高校生のときだった。
いま思えば、その後体調を崩されて最初の入院をされている。

インターナショナルオーディオショウでは、
「スピーカーの存在が消える」を聞いても憶い出したが、
ヤマハのNS5000の音を聴いても、このことを考えていた。

NS5000の音──。
昨年のプロトタイプの音、今年の完成品の音。
ふたつの音のあいだには一年という時間があって、
正確には比較判断できるわけではないが、感じたことは違っている。

感じたことのひとつは、ここで書いていることに関係しているし、
この点で、完成品のNS5000の音にはがっかりしている。
もうひとつは別項「Noise Control/Noise Designという手法」に関係してくることである。

同時に、私の裡では「肉体の復活」とも深く関係してくるであり、
このことは「五味オーディオ教室」の冒頭に書かれていたことであり、
オーディオに興味を持ったときからの、考え続けていることである。

オーディオの世界において、
「スピーカーの存在が消える」「オーディオの存在が消える」のは、
オーディオらしさの消失ではないだろうか。

それを求めていくのも、ひとつの道とは思うが、
それは技術者、研究者が目指す道のひとつだとも思う。

Date: 10月 4th, 2016
Cate: 再生音

続・再生音とは……(その29)

瀬川先生がずっと以前話されたことを憶い出しながら書いている。

美味しいものを食べれば、舌の存在を意識する。
美味しいものを食べて、ほどよく満腹になれば、胃の存在を意識する。

空腹だったり食べ過ぎてしまっても胃の存在は意識するわけだが、
これは、悪い音を意識するのと同じことである。

人間の身体は不具合があっても存在を意識するが、
快感を感じても意識するようになっている。

瀬川先生にさらに、臍下三寸にあるものもそうだと話された。
臍下三寸にあるもの、つまりは性器である。
ここが快感を感じることは、そういう行為に及んでいるときである。

快感を感じている部位の存在を意識しない、という人がいるだろうか。

ならば、ほんとうに「いい音」とは、スピーカーの存在を意識することではないだろうか。
もちろん悪い音で意識するのとは反対の意味での意識である。

だから存在を感じさせない音は、まだまだだと考えられる、ともいわれた。

このことは別項「老いとオーディオ(その5)」でも触れている。
そこで最後に書いたことを、くり返しておく。

瀬川先生は、いい音とは、について考え続けられていた。
いい音とはなにか、について考えられてきたからこそ、こういう例えをされたのだと私は受けとめ理解している。

それにオーディオを介して音・音楽を聴くという行為は、どこかに官能的な要素がある、
と思われていたのではないだろうか。

Date: 10月 4th, 2016
Cate: 再生音

続・再生音とは……(その28)

再生音らしさ、とは、いいかえればオーディオらしさ、となるのだろうか。

よく「スピーカーの存在が消える」という表現が使われる。
インターナショナルオーディオショウでも、いくつかのブースで聞いた。

「スピーカーの存在が」というが、
オーディオの存在が消えるて、そこには音楽だけがある、というのが、
オーディオの理想として語られることが、ほんとうに増えてきた。

耳につく音がスピーカーから出ていれば、
スピーカーの存在を意識してしまう。

オーディオではなく身体にあてはめてみよう。
健康なときは、特に体の部位を意識することはない。
どこかに痛みを感じたら、その部位の存在を意識する。

頭痛がすれば頭を、腰痛であれば腰を……、といったようにだ。
健康とはいえない状態であるから、存在を意識する。
痛みでなくとも不快さや疲れを感じても同じである。

身体が健康であれば、どこにも不具合がなければ、
身体の部位を意識することはない。
存在を意識しないわけで、その意味では「スピーカーの存在が消える」は、
健康状態を目指すのと同じことともいえる。

けれどいっておきたいのは、「スピーカーの存在が消える」、
「オーディオの存在が消えるの」のは、ほんとうに理想といえるのだろうか。

ここを目指すのはいいが、
ここに留まってしまうのは思考停止としか思えない。

人間の身体は、会館を感じたときにも、その存在を意識するからだ。

Date: 9月 26th, 2016
Cate: 再生音

続・再生音とは……(その27)

その人の音を表現するものとして、
例えばその人がJBLのスピーカーを鳴らしていたとしたら、
JBLらしくない音という表現が、そこで使われることがある。

JBLのところは、他のブランドや型番に置き換わる。
アルテックらしくない音、タンノイらしくない音……、いろいろある。

これは褒め言葉なのだろうか。
一般的には褒め言葉として受けとめられている。

例えば「可能性が感じられる音ですね」とか「可能性が感じられるスピーカーですね」、
こういう言い方も時としてされることがある。

友人、知人が新しいスピーカーに買い換えた。
興味、関心のあるスピーカーだから、さっそく聴きに行く。
いい音が鳴っていれば、言葉には困らない。
けれどそうでない時が、どうしてもある。

そういう時、あからさまに「ひどい音ですね」という人もいるが、
たいていの人は、相手を傷つけまいと「可能性の感じられる……」ということがある。

そういわれて喜ぶ人もいれば、
これがそういう時に使われがちな言葉であることを知っている人もいる。

「らしくない音ですね」、
これも時として「可能性が感じられる……」と同じ意味合いで使われることがあるからだ。

「JBLらしくない音ですね」といわれたら、どちらなのだろうか。
喜ぶ人の方が多いのだろうか。

知人も、そういわれて喜んでいたし、
彼自身も、JBLらしくない音だと表現していた。

このことは、ひとつのテーマとして書けるぐらいに長くなりそうだが、
ここでは、再生音らしい、再生らしさについて書いていこう(考えていこう)。

Date: 8月 30th, 2016
Cate: 再生音

続・再生音とは……(生演奏とのすり替え実験・その6)

ステレオサウンド 32号「みんなほんとうのステレオを聴いているだろうか?」で、
岡原勝氏が次のことを述べられている。
     *
岡原 理想的なステレオエフェクトを得るには、フィールドを再生しなければならない。それにはリスニングポジションで左右のスピーカーからの音が混ざって初めて、レコーディングで意図されたフィールドが再生されるのです。そこで左右の音が混じらなかったら、左は左、右は右というようになってしまい、フィールドの再現は望めません。
 大きなホールでのレコードコンサートを聴きに行くと、よくそういうことがおこっています。ちょっと体を動かすと左の音しか聴こえない、逆に動くと右の音しか……ということで全然ステレオになっていない。一般家庭では部屋が狭いですから、内部での反射があり、スピーカー自体の指向性が少々狭くても、左右の音が混ざってフィールドが出来ますが、ホールは一般家庭の部屋にくらべ大きさが違いますから、指向性の狭いスピーカーをつかうと、左右の音はほとんど混ざりません。つまりステレオにならない。
瀬川 二つのスピーカーから出た音をステレオで聴くというのは、不特定多数が相手では無理ですね。厳密な意味でのステレオエフェクトは、それほど多人数では聴けないでしょうね。
岡原 以前ビクターが、ホールで生演奏と再生音のスリ替え実験をやった時には、そのことを大変気にしてまして、スピーを数多く用い、中には後ろ向きに置いた反射音専用のスピーカーもあるというような実験をしたわけです。要するに、生演奏と同じフィールドを再現出来ればスリ替えてもごまかせるわけですから、指向性をダルにして、左右の音がうまく混ざるようにすれば、相当な広範囲でも生演奏と同じような音場が出現します。
     *
一般的なリスニングルームよりもずっと広い空間であるホールでの、生演奏とのすり替え実験では、
中央の席の人もいれば、壁に近い端っこの席の人もいるわけで、
それでもすり替え実験を成功させているのは、こういうスピーカー配置があったからこそ、ともいえる。

生演奏とのすり替え実験に成功した再生音が、
家庭のリスニングルームで聴く音として理想的であるのかどうかは検討する必要があるけれど、
あるパラメータを極端にすることで、それまであまり問題とならなかったことが顕在となるし、
再生音とは……、について考えるきっかけ、手がかりを与えてくれる。

Date: 5月 1st, 2016
Cate: High Fidelity, 再生音

ハイ・フィデリティ再考(現象であるならば……)

High Fidelity Reproductionは高忠実度再生であり、
何に対して高忠実度なのかというこで、原音に、というこで原音再生でもある。

ここでの原音の定義は人により違うこともある。
高忠実度再生とは原音に高忠実度であることを目指しているわけだが、
高忠実度再生とは原音の追求なのだろうか、それとも原音を模しているだけなのか。

そんなことを考える。
原音を高忠実度に模す──、
高忠実度再生ではない、とはいえない。

ならば……、と考える。
音楽の理想形ということを。

音楽の理想形を追求しているのか、それと模しているのか。
音楽の理想形を模すこともまた高忠実度再生といえるのではないのか。

このブログを始めたころに「再生音とは……」を書いた。
そこに「生の音(原音)は存在、再生音は現象」とした。
直感による結論であり、この結論が間違っていなければ、
再生音は現象であり、それは模すことのはずだ。

Date: 3月 6th, 2016
Cate: 再生音

続・再生音とは……(音の修復とは)

KK塾、六回目の講師、澤芳樹氏が語られた再生医療。

ここでの「再生」と再生音の「再生」とでは、同じではないことはわかったうえで、
それでも同じ「再生」ということ、
そして四回目の講師、長谷川秀夫氏の話に出てきた、修理、修繕。

これらのことにこだわって考えてなければならないことがあるような気がしている。

ハートシートは心臓を修復する。
まさに再生医療である。

ハートシートは魔法のようにも思える。
がハートシートは死んでしまった細胞は修復できない。
そんなことを可能とするのは魔法でしかない。

ここで考えるのは、再生音の元となるものは、どういう状態なのか。
死んでしまっているものなのか、仮死状態なのか、それとも別の状態なのか。

音の修復といっても、それによって意味が違ってくる。

Date: 1月 4th, 2016
Cate: 再生音

続・再生音とは……(CBSソニーのピアノロールLPについて)

CBSソニー「世紀の大ピアニストたち」の七枚のLPは1977年に発売になり、
ステレオサウンドでは44号に広告が載っている。

広告にもあるように、当時のソニーの会長だった盛田昭夫氏のコレクションをレコード化したものだ。
45号の記事とあわせて読むと、盛田氏のコレクションは録音時点で998本で、
録音に使われたのは約100本、コレクションの一割がレコードになったわけである。

監修は岡先生であり、
第一巻がヨーゼフ・ホフマン、第二巻がイグナツ・ヤン・パデレフスキー、
第三巻がアルフレッド・コルトー、
第四巻は伝説の巨匠たちというタイトルで、ゴドフスキー、パハマン、フリートハイム、ガブリロヴィッチなど、
第五巻は若き比の巨匠たちで、ホロヴィッツ、バックハウス、ルービンシュタイン、フリートマンなど、
第六巻は女流ピアニスト名演集で、ランドフスカ、エリー・ナイ、ノヴァエスなど、
第七巻は大作曲家、自作自演集で、ガーシュイン、プロコフィエフ、サン=サーンス、グラナドスなど、
となっていて、この企画はCSBソニー創業10周年記念でもあり、
エジソンが蓄音器を発明した1877年からちょうど100年目ということで、実現になった、とある。

録音は盛田氏の自宅で行なわれている。
ピアノはスタインウェイで、フォルセッサーはアメリカ・エオリアン社のデュオ・アート。

録音場所がスタジオやホールではなく、個人の住宅ということから、
スタインウェイの調律は、この条件下でピアニスティックに響くように、
調律師の枡渕直知氏が、一日半かけて行われている。

CBSソニーにとって、この「世紀の大ピアニストたち」が初のデジタル録音である。
テスト録音はすでに何回を行っていたが、当時のデジタル録音には、まだ編集の問題が残っていた。

45号の記事では、76cmのアナログ録音では2mmきざみ(約1/400秒に相当する)の編集をやっていたけれど、
同レベルでのデジタルでの編集はできなかったため、
こまかな編集を必要とする録音は避けようということで、
ピアノロールによる自動ピアノがデジタル録音第一段に選ばれている。

Date: 1月 4th, 2016
Cate: 再生音

続・再生音とは……(その26)

正月休みに何をやっていたかというと、
Huluで、スタートレックの映画版を一作目から順に観ていた。

全部で十本ある。
TOS(The Original Series)が六本、
TNG(The Next Generation)が四本。
すべて映画館で観ている。それをあらためて観ていた。

TOSにはスポック、TNGにはデータが登場する。
スポックはバルカン人と地球人のハーフであり、
スポックの口ぐせ「船長、それは非論理的です」からもわかるように、感情を表に出すことはない。
バルカン人の設定が、感情を完全に抑制できるためであり、スポックは地球人とのハーフのため、
この部分が完全なバルカン人とはちがう。

データはアンドロイドであり、当然のことながら感情をもたない。
けれど感情チップを装着している。

くわしいことは映画スタートレックを観ていただきたいのだが、
スポック、データの存在は、人間とは何かを問いかけてくる。

特にアンドロイドのデータがそうだ。
映画版だけでなくテレビ版のTNGをみていた人ならば、
データの変化、進化が描かれることで、人間とは何者なのかを考えることになる。

人と限りなく近い存在であり、
人よりも優れた能力をスポックもデータももっている存在でありながら、
感情という点に関して、人とははっきりとちがう。

だからこそスポックとデータは、スタートレックにおける重要な存在といえる。

私にとって、オーディオを考えるうえで、再生音とは何かを考えるうえで、
このふたりの存在といえるのが、
アンドロイドのピアニストであり、ピアノロールによる自動ピアノなのだ。

Date: 1月 3rd, 2016
Cate: 再生音

続・再生音とは……(その25)

ピアノロールによる自動ピアノの再現性とは、いったいどの程度なのだろうか。
ステレオサウンド 45号では、インタヴュアーの坂氏の、
「巨匠たちの演奏スタイルがかなりのところまできくことができる」を受けて、
京須氏と半田氏は次のように語られている。
     *
京須 ええ、まずそれがいえると思います。それから、強弱が16段階までコントロール出来るといっても、ある範囲内での16段階で、おのずと限界はありますけれど、SP録音とくに一九三〇年代初頭以前のものは、感覚的には演奏がおしはかれるような気がするが、本当のところは分らないのに対して、こちらのほうが骨格ははっきり分ります。たしかに微妙なところは出ないかもしれませんが、演奏の骨組みはひじょうにはっきり出ます。ですから、SPあるはSP復刻盤をきいて、情緒的に描いていたピアニストのイメージと、ややちがったものが出てきているように思うんです。もちろん、ぴったり一致するところもあるけれど、全部が全部一致しない。
 われわれがSPの復刻盤などをきいてムード的に描いていた、今世紀初頭のピアニストの演奏スタイルに対する認識を変えるひとつのきっかけになるのではないか、そんな気がしています。このことは、実際に音をきいてみてはじめて気がついたことなんですよ。
半田 ぼくなんかはもっと単純に、機械がピアノを弾くんだからどれも同じ音がするだろうなどと、最初は思っていたんですね(笑い)。ところが実際に録音してみると、たとえば女流ピアニストはやっぱり女性の音なんですよ。そのちがいが出てくるんでびっくりしたんです(笑い)。
京須 リストの弟子なんかは、やっぱりものすごく豪快に弾いたり……(笑い)。ホフマンとパデレフスキーはぜんぜんちがうし、そういところがちゃんと出てくるんですね。
     *
1977年当時は気がつかずに読んでいたのは、
京須氏も坂氏も「演奏スタイル」といわれているところだ。

ピアノロールによる自動ビアノが、同時代のSP盤録音よりも優れていたといえるのは、
この演奏スタイルの記録かもしれない。

京須氏が、そのことについて、もう少し詳しく語られている。
     *
京須 ピアノ・ロールの再生というのは、たしかに実際の演奏とは多少ちがっているのでしょうから、厳密にはいえないのかもしれないんだけれど、さっきもちょっとふれましたように、コルトーにしてもホフマンにしても、SPをとおして語られているほど情緒的でも崩れてもいないような気がするんですね。べつないいかたをすれば、過度にロマンティックではないのではないか、と思う。もちろん現代のピアニストの演奏に比較すれば、そうだったのかもしれないけど、一般に語られているほど気分のままに弾いているとは思えないんです。いわゆる耽溺的な演奏とばかりはいえないような気がします。
 たとえば、コルトーやバウアーのものでとくに思ったんですが、テンポ・ルバートをぼくたちはひじょうに心情的に受けとめているんだけれど、ピアノ・ロールでこのひとたちのテンポのゆれをきいていると、かならずしも心情的な表現のためにテンポを動かしているとは思えないんです。カラッと、あっけらかんと弾いていて、ただ、たとえば歌舞伎や踊りのきまりの手と同じように、こういうところはテンポを落とすんだといった、即物的といってもいいような意味での、ひとつのスタイルとして、テンポを変えているのではないかという気がします。だからこちらが、そこにあまり心情的なものをのっけてきくのは、むしろまちがっているようにも思うんです。
     *
今回、ピアノロールのことを思い出して、45号を取り出して読み返した。
これが約40年前の記事なのか,と思い読んでいた。

40年前のステレオサウンドだからこそ、というおもいももちながら読んでいた。