続・再生音とは……(その33)
つぼみのままで終ってしまう音なのか、
花を咲かせてこその音なのか。
自己模倣という純化の沼にはまってしまったら、
永遠に花を咲かすことはできない。
自己模倣という純化の沼がやっかいなのは、
浸かってしまっていることに気づかないことが多いからだ。
オレは大丈夫、スピーカーをよく交換するから、という人がいるかもしれない。
そんなことをいう本人のなかでは、
それまでのスピーカーとはまったく別のタイプのスピーカーにした、という意識があるはずだ。
でも、これは昔からよくいわれていることで、
周りからみたら、また同じタイプのモノにして、ということだったりする。
つきあう女性がころころ変る人がいる。
こういう人も、同じことをいう。
これまでつきあってきた女性とはまったく違うタイプの女性とつきあうことにした、と。
でも、周りからみたら、また同じタイプの女性とつきあっている、ということでしかない。
スピーカーの場合、タイプ的にまったく別のタイプにすることはできる。
それまで大型ホーン・システムを使っていた人が、
コンデンサー型スピーカーに変更することとかがそうである。
タイプ的にも音的にも、まったく別のスピーカーではあっても、
おもしろいもので、自己模倣の泥沼に陥っている人が鳴らすと、
結局、同じ音になってしまう。
このことを肯定的に捉えることがてきる人がいる。
どんなスピーカーであっても、自分の好きな音で鳴らせる、というふうにだ。