オーディオマニアとしての「純度」(その17)
ステレオサウンド 52号の巻頭に、瀬川先生が、こう書かれている。
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新型のプリアンプML6Lは、ことしの3月、レビンソンが発表のため来日した際、わたくしの家に持ってきて三日ほど借りて聴くことができたが、LNP2Lの最新型と比較してもなお、歴然と差の聴きとれるいっそう透明な音質に魅了された。ついさっき、LNP(初期の製品)を聴いてはじめてJBLの音が曇っていると感じたことを書いたが、このあいだまで比較の対象のなかったLNPの音の透明感さえ、ML6のあとで聴くと曇って聴こえるのだから、アンプの音というものはおそろしい。もうこれ以上透明な音などありえないのではないかと思っているのに、それ以上の音を聴いてみると、いままで信じていた音にまだ上のあることがわかる。それ以上の音を聴いてみてはじめて、いままで聴いていた音の性格がもうひとつよく理解できた気持になる。これがアンプの音のおもしろいところだと思う。
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オーディオマニアとしての「純度」も、アンプの透明度と同じなのかもしれない。
オーディオマニアとしての「純度」を高めてきた──、
そう信じている人でも、なにかのきっかけでもっと上の「純度」があることを知るかもしれない。
アンプの場合、それ以上の透明度をもつアンプを聴くことで、そのことがわかる。
けれど、オーディオマニアとして「純度」ともなると、アンプの比較のようにはいかない。
《それ以上の音を聴いてみてはじめて、いままで聴いていた音の性格がもうひとつよく理解できた気持になる》、
これはそのとおりである。
いままでの聴いてきた音とのつきあいは長い。
長いからこそ、すべてを知り尽くしている、と聴き手をそう思い込ませるかもしれない。
でも現実には、それよりも一つ先の段階へと進んで、
やっと一つ前の段階の音を理解できるところがあるのがオーディオだ。
ならば、オーディオマニアとして、一つ先の段階へと進んでこそ、
一つ前の段階となる「純度」を理解できることになる。
ここのところがアンプと違い、微妙なところである。