音の種類(その9)
音をよくしていくことと、
音を育てていくことは同じではない。
このことに気づかないままでは、
つぼみのままの音を愛でるだけに終ってしまうだろうし、
結実させることはできない。
音をよくしていくことと、
音を育てていくことは同じではない。
このことに気づかないままでは、
つぼみのままの音を愛でるだけに終ってしまうだろうし、
結実させることはできない。
正直な音というのがあるはずだ。
反対の音も間違いなくある。
音の種類についてあれこれ考え書いていても、
それらの音を出せるのか、である。
結局は、出せる音と出せない音ということになっていくのだろうか。
つぼみのままの音がある。
花を咲かせる音がある。
花が散り、実を結ぶ音もある。
つぼみのままの音は、音楽をつぼみのままで終らせる。
花を咲かせられる音は、音楽という花を咲かすことができる。
実を結ぶ音は、音楽という「実」を聴き手に与えてくれるはずだ。
つぼみを眺めるだけ(愛でるだけ)の音、
花を眺める(愛でる)音、
「実」を食すことのできる音。
2020年12月、「Erinnerung:思い出〜マーラー歌曲集」が出ている。
クリスティアーネ・カルクのアルバムである。
ピアノはマルコム・マティヌーが、19曲中17曲を受け持っている。
のこりの2曲は、グスタフ・マーラーである。
自動ピアノ(ヴェルテピアノ)との協演で、
クリスティアーネ・カルクは、マーラーの曲をマーラーの伴奏で歌っている。
18曲目では、「若き日の歌」より「私は緑の森を楽しく歩いた」を、
19曲目では、交響曲第四番の「天上の光」を歌っている。
クリスティアーネ・カルクは、
ヤニック・ネゼ=セガン指揮ベルリン・フィルハーモニーによる四番でも、
「天上の光」を歌っている。
オーケストラ伴奏と自動ピアノ伴奏、
クリスティアーネ・カルクの二つの「天上の光」を聴き比べできるし、
マルコム・マティヌーの伴奏とグスタフ・マーラーの伴奏とも比較できる。
マルコム・マティヌーのピアノの音と、
自動ピアノでのマーラーのピアノの音は、ずいぶん違う。
マルコム・マティヌーは、そこにいたわけだ。
クリスティアーネ・カルクと同じ場所に、同じ時間にいたからこそ、
「Erinnerung:思い出〜マーラー歌曲集」の録音が生れた。
演奏の場に、二人の人間がいた。
マーラーの伴奏は、となると、やや不思議な感じを受けた。
ピアノの音ががらっと変ってしまったからではなく、
そこには一人(クリスティアーネ・カルク)しかいないのに──、
ということからの印象なのかもしれない。
なんといったらいいのだろうか。
こじつけのようにも受け止められるだろうが、
マーラー伴奏の二曲では、一人の息づかいしか感じられない。
徹底して、個人の音といえる音がある。
その一方で、個人と個人をつなぐ音もある。
ステレオサウンド 38号、
黒田先生による「アレグロ・コン・ブリオ 岩崎先生の音」のなかに、
こう書いてある。
*
大きな音で、しかも親しい方と一緒にきくことが多いといわれるのをきいて、岩崎さんのさびしがりやとしての横顔を見たように思いました。しかし、さびしがりやというと、どうしてもジメジメしがちですが、そうはならずに、人恋しさをさわやかに表明しているところが、岩崎さんのすてきなところです。きかせていただいた音に、そういう岩崎さんが、感じられました。さあ、ぼくと一緒に音楽をきこうよ──と、岩崎さんがならしてくださった音は、よびかけているように、きこえました。むろんそれは、さびしがりやの音といっただけでは不充分な、さびしさや人恋しさを知らん顔して背おった、大変に男らしい音と、ぼくには思えました。
*
(その3)を書いていて、ここのところを思い出していた。
独りで聴く音(聴きたい)がある。
誰かと聴きたい音もある──、
けれど、そういう音を出せるのだろうか、という自問がある。
音楽に奉仕する音がある。
音楽に奉仕しない音もある。
音楽に奉仕させる音も、ある。
ステレオサウンド 49号に、
「体験的に話そう──録音と再生のあいだ」という対談の最終回が載っている。
菅野先生と保柳 健氏の対談である。
47号、48号、49号の三回にわたっての、この対談は復刻されないのだろうか。
ステレオサウンドは、バックナンバーから記事をまとめたムックを、
わりと積極的に出している。
けれど、録音と再生に関する、この手のムックは出していない。
あまり売れないから──、というのがその理由なのかもしれないが……。
このことについて書いていくと、また脱線してしまうので、このへんにしておく。
49号で、菅野先生が、こう語られている。
*
菅野 一つ難しい問題として考えているのはですね、機械の性能が数十年の間に、たいへん変ってきた。数十年前の機械では、物理的な意味で、いい音を出し得なかったわけです。ですがね、美的な意味では、充分いい音を出してきたわけです。要するに、自動ピアノでですよ、現実によく調整されたピアノを今の技術で録音して、プレイバックして、すばらしいということに対して、非常に大きな抵抗を感ずるということてす。
ある時、アメリカの金持ちの家に行って、ゴドウスキイや、バハマン、それにコルトーの演奏を自動ピアノで、ベーゼンドルファー・インペリアルで、目の前で、間違いなくすばらしい名器が奏でるのを聴かしてもらいました。
彼が、「どうですか」と、得意そうにいうので、私は、ゴドウスキイやバハマン、コルトーのSPレコードの方が、はるかによろしい、私には楽しめるといったわけです。
すると、お前はオーディオ屋だろう、あんな物理特性の悪いレコードをいいというのはおかしい、というんですね。そこで、あなた、それは間違いだと、果てしない議論が始まったわけです。つまり、いい音という意味は、非常に単純に捉えられがちであって……。
*
49号は1978年12月にでている。
もう四十年以上前なのだが、このことは、いまもそのままあてはまる、と感じている。
アメリカの金持ちは、オーディオマニアなのかどうかははっきりしないが、
そうではないような感じで、読んでいた。
けれど、少なからぬ数のオーディオマニアと接してきて感じているのは、
オーディオマニアのなかにも、このアメリカの金持ちと同じ感覚の人が、
けっこういる、ということである。
いい音を求めるのは、どうしてなのか。
欲からなのか、好奇心からなのか。
どちらか片方だけということはあまりなくて、
欲に片寄ったり、好奇心に片寄ったりしながらないまぜになっているのだろうか。
それに欲といっても、いくつかの欲があるようにも感じる。
ここでは、その欲については書かないけれど、
こんなことをあえて書いているのは、
(その5)で触れたM&KのSatellite-IA + Volkswooferの音を思い出しているからだ。
(その5)で書いているように、
20代のころ、このスピーカーシステムをステレオサウンドの試聴室で何度か聴いている。
井上先生が鳴らした時だけが、楽しいスピーカーだと感じていた。
音のクォリティはそれほど高くない。
なので、ただ聴いただけでは、このスピーカーの評価は低いものになる。
そのためか日本市場では受け入れられなくて、一時輸入が途絶えていたし、
別の輸入元が扱うようになっても、わりと短期間でまた日本市場から消えていった。
20代のころは、M&Kのスピーカーシステムを一人で鳴らして楽しめたかというと、
そうではなかった。
あくまでも井上先生の指示にしたがってあれこれ調整していくことで、楽しめた。
なぜ、一人では楽しめなかったのか。
好奇心をもって取り組めていなかったからだ、といまは思う。
「大人の音」というのは、Moto NAVIという雑誌の、
2019年4月号、特集記事のタイトルである。
Moto NAVIのことは今回初めて知った。
たまたま入った書店で目に入ってきたのが「大人の音」という文字だった。
Moto NAVIという雑誌名を見て、「大人の音」が何を意味しているのかはすぐにわかった。
バイクにまつわる音の特集である。
手にとってパラパラとページをめくって、
バイクの世界は「大人の音」が特集として組めるほどに、まだまだ健在なのに対し、
オーディオの世界はスピーカーから出てくる音ではなく、
オーディオにまつわる音としての「大人の音」は、なくなりつつある。
コントロールアンプのスイッチ、ボリュウムなどが電子スイッチ化され、
パワーアンプの電源スイッチもそうなりつつあるだけに、
オーディオ機器の操作にまつわる音は減っているだけでなく、楽しめる要素ではなくなりつつある。
寂しくなってきた、と感じる人、
特に何も感じない人、
どちらもいることだろう。
2018年4月、「いい音、よい音(きこえてきた会話)」で、
隣のテーブルからきこえてくる数人の女性の会話のなかに出てきた「いい音響」、
そのことにふれた。
オーディオマニアでもなんでもない人たち(そうみえた)が、
映画の話であっても、そこに「いい音響で観るとほんといい」と頷きあっていた。
「いい音で……」という人は珍しくないけれど、
「いい音響」とみなが言っていたのが興味深かった。
川崎先生が「コーラルはオークションで手に入るから、教えたい」を公開されている。
そこでも、いい音響が出てくる。
以前から音響ということばについて書こう、と考えていた。
とはいえ、少し斜めからの解釈による音響について書く、ということだ。
音響とは、音と響き、と書く。
これを少し違う言葉でおきかえると、質感と量感ではないか、と、
ここ数年思うようになってきたからだ。
質感はともかく、量感は、どうも誤解されているような気もする。
私にしてみれば、それは量感とは捉えない鳴り方を、量感と一般的にはいっているような気もしている。
それだけでなく、量感のよさというのが、最近のスピーカーシステムからは失われつつあると感じている。
近くに大きな大学病院がある中華屋さんでのこと。
隣の席は、夜勤明けと思われる女性四人が、軽い宴会の感じで食事していた。
彼女らの話声はそこそこ大きくて、隣の席の私の耳にも、はっきりと入ってくる。
何かの映画が話題になった。
ひとりの女性が「四回観ました」といっていた。
別の女性が「全部2Dで?」と訊いた。
「2D、2D、IMAX、あと音響のいいやつ」
「アトモスだっけ、あれいいよね」
「いいですよ、いい音響で観るとほんといいです」
「いい音響って、いいよね」
そんな会話がきこえてきていた。
彼女たちは「いい音」ではなく「いい音響」といっていた。
突き破れない音、
突き破れる音、
突き破ろうとあがいている音、
突き破りかけている音、
──それぞれがあると感じている。