Archive for 1月, 2019

Date: 1月 31st, 2019
Cate: 新製品

新製品(マッキントッシュ MC2152)

MTI100のことを知りたくてマッキントッシュのサイトを見ていたら、
70周年記念モデルとして、MC2152が出ていることを知った。

MC2152のことも、今日現在エレクトリのウェブサイトには何の情報もない。

MC2152は150W+150Wの出力の管球式パワーアンプである。
出力管はKT88、パラレルプッシュプルで使うことで、MC275の倍の出力を得ている。

“Striking new design with carbon fiber side panels”
MC2152のページには、そうある。

印象的な新しいデザイン──、
確かにマッキントッシュの管球式パワーアンプとしては、
いままでにはないスタイルであるし、
あまりいい意味ではなくて、印象的ともいえる。

真空管、トランスの配置はMC275とは違う。
詳しいことはマッキントッシュのウェブサイトをみてほしい。

真空管、トランスのレイアウト変更にあわせてだろうが、
ベースとなるシャーシーの形状も変更されている。
真横からみれば、フロント側もリア側も斜めにカットされ、
全体としては台形のシャーシーであり、この箇所にはカーボンが使われている。

写真でみるかぎり、重みを感じさせないようにしているのだろうか──、
と思ってしまう。

管球式であっても、フロントパネル付きの従来からのモデルは、
マッキントッシュらしい重量感を見る者に与えてくれていたが、
MC2152からは、いまのところ感じとれない。

それが悪いとは、いまのところなんともいえない。
音を聴いてみれば、納得できるのだろうか。

マッキントッシュも変っていくのか、というよりも、
摸作しているのか……、と感じている。

Date: 1月 31st, 2019
Cate: 新製品

新製品(モジュラーステレオの復活か)

マッキントッシュからMTI100が登場している。
輸入元エレクトリのウェブサイトにはまだ情報はない。

MTI100はマッキントッシュによれば、Integrated Turntableである。
さらに“A modern home audio system for modern lifestyles”ともある。

modernとついているけれど、
古くからの日本のオーディオマニアがみれば、それはモジュラーステレオである。

モジュラーステレオという言い方は日本だけのようである。
1960年代に流行したモジュラーステレオは、MTI100そのものといっていい。

アナログプレーヤーにチューナー、アンプが一つのシャーシーにまとめられて、
あとはスピーカーを一組用意すれば、ステレオ再生が楽しめる、というもの。

アメリカにはモジュラーステレオという形態はなかったのだろう。
だからマッキントッシュは、
“A modern home audio system for modern lifestyles”と謳っているのだろう。

MTI100が十年ほと前に企画されていればアナログプレーヤーではなく、
CDプレーヤーが搭載されていただろうし、チューナー機能も省略されなかったかもしれない。

けれど2019年では、CDプレーヤーではなくアナログプレーヤーであり、
チューナーはなくBluetooth対応で、デジタル入力をもつ。

パワーアンプはD級動作だが、プリアンプ部には真空管を使用している。
おもしろい構成といえばそうだし、
大きさが限られているのだからD級アンプの採用は当然の選択ともいえる。

それにしても感じるのは、真空管が露出している点である。
D級アンプに真空管の組合せもそうだが、これみよがしに真空管を見せつけているのも、
中国の、ここ数年のアンプの流行的でもあるように感じなくもない。

こういう製品だから、もしかすると輸入されないのかもしれない。
でも輸入してほしい、とも思う。

アメリカでMTI100は受け入れられるのか、
日本ではオーディオ評論家が、MTI100をどう評価するのか、
徒花的存在ですぐに消えてしまうのか……。

Date: 1月 31st, 2019
Cate: High Fidelity

原音に……(コメントを読んで・その2)

たとえばマークレビンソンのLNP2。
このコントロールアンプに惚れ込んでいる、という人はいまでも多くいることだろう。
私も惚れ込んでいる一人である。

けれど、私の惚れ込み方は、少しいびつともいえるし、ひねくれた惚れ込み方でもあろう。
メリディアンのULTRA DACへの惚れ込み方とは、微妙に違うといわさるをえない面を、
私自身がいちばん感じている。

そういうLNP2だから、
1970年代後半、10代前半だった私ではなく、
50をすぎた私だったら、惚れ込むことはなかったかもしれない。

あの時代、LNP2は優秀なコントロールアンプであった。
そのことは素直に認めただろうし、惚れたであろう。
でも惚れ込むまでいくとは、50すぎの私は思えないのだ。

あの時代に、10代の若造だったからこそのLNP2との出あいであり、
そこには瀬川先生という存在もあってのことだ。

別項で書いているように、一時期LNP2への関心はすっかり薄れてしまった。
なのにふたたび盛り返してきた。

LNP2が現行製品だったころに聴く機会がなく、
近ごろになって聴いた、という人もいるであろう。
それでLNP2に惚れた(惚れ込んだ)という人もきっといるだろう。

そういう人の惚れ込み方と私の惚れ込み方は、違う。
かなり違うといってよい。

そのころのマークレビンソンのML2に関しては、
LNP2よりもずっと素直に惚れ込んでいる。

Date: 1月 30th, 2019
Cate: High Fidelity

原音に……(コメントを読んで・その1)

(その4)にfacebookでコメントがあった。

惚れ込めるオーディオ機器との出あいは、
過去に較べると減ってきていると感じていますか、というものだった。

最初はfacebookのコメント欄で返事をしようと思っていた。
でも書きたいことを思っていたら、コメント欄に書くには少し長くなりそうなので、
ここでこうやって書くことにした。

オーディオ歴は40年以上になる。
惚れ込んだオーディオ機器は、いくつかある。
思いつくままにあげていけば、
JBLの4343、マークレビンソンのLNP2とML2、
EMTの930stと927Dst、トーレンスのReference、ノイマンのDST、
SUMOのThe Gold、スレッショルドの800A、
ロジャースのLS3/5AとPM510、スペンドールのBCII、QUADのESL、
フィリップスのLHH2000、SMEの3012-R Specialなどが、すぐに頭に浮ぶ。

惚れ込んだオーディオ機器ということであって、
優れたオーディオ機器、いい音を聴かせてくれたオーディオ機器ということになると、
一つ一つ挙げていくのは面倒なくらいにある。
といっても百はいかないくらいの数だ。

惚れ込んだオーディオ機器というのは、私の場合、
私が優れたオーディオ機器と判断したモノよりも、さらに優れているというわけではなかったりする。

たとえばSMEのトーンアーム。
私が惚れ込んだのは3012-Rであり、Series Vではない。
Series Vは、ほんとうに優れたトーンアームである。
その音を聴いて、驚いた。
その驚きは、いまでもはっきりと思い出せるほどだ。

欲しい、と思った。
その時使っていたプレーヤーがトーレンス101 Limitedでなければ買っていたであろう。
トーンアームはSeries Vで終着点かとも思わせた。

その後、さまざまなトーンアームが登場してきていて、
Series Vよりもずっと高価なトーンアームもいくつかある。
その中にあっても、いまでもSeries Vはもっとも優れたトーンアームだと信じている。

けれど、惚れ込んだということではSeries Vではなく、やはり3012-Rなのである。

Date: 1月 29th, 2019
Cate: 老い

老いとオーディオ(齢を実感するとき・その10)

今日(1月29日)、ひとつ歳をとった。
56になった。

55も一の位を四捨五入すれば60になる。
それでも55と56の違いは、60という年齢をどれだけ意識するかということでは、
なってみてけっこうな違いのように感じている。

もう60がそこまで来ているようにも感じるし、
まだまだあるような気もしないわけではないが……。

14年前のことを思い出していることも関係しているのかもしれない。
川崎先生が菅野先生にたずねられたことが、よみがえってくる。
「50代をどう生きるべきですか」
そう川崎先生はきかれていた。

川崎先生(1949年生れ)と私(1963年)は14違う。
ちょうど、そのときの川崎先生と同じ年齢になっている。
厳密には川崎先生は2月生れなので、一ヵ月のズレはある。

「50代をどう生きるべきか」
14年前は、まだまだ先のことと思っていたことに、直面している。

Date: 1月 29th, 2019
Cate: オーディオ評論
1 msg

「新しいオーディオ評論」(評論の立ち位置)

オーディオに関係する評論家には、
軸足をどちらにおいているかで、オーディオ評論家と呼ぶか、
オーディオ・ヴィジュアル(もしくはホームシアター)評論家と呼ぶかが決る。

ホームシアターを積極的に取り組まれていても、
山中先生、朝沼氏は、私にとってはオーディオ評論家である。

オーディオ評論家(職能家)、オーディオ評論家(商売屋)と、
このブログで書いていても、どちらにしてもオーディオ評論家と認識のことである。

その人は、その意味ではオーディオ評論家ではない。
どの人なのかは、あえて書かない。

それでも昨晩の川崎先生のfacebookを読んだ人ならば、
伏せ字とはいえ、誰なのかはすぐにわかろう。

川崎先生の投稿からは、川崎先生の強い怒りが感じられる。

その人(ホームシアター評論家と呼ぶべきか、違う呼称もあるけれど)は、
この業界ではもっとも力がある人といえる。

オーディオショウに行ってみればわかる。
国産メーカーの人たちの、その人に対する態度を見ていれば、わかる。

それだけの影響力がある、とメーカー側は見ているのだろう。
その影響力に関しては、長岡鉄男氏と同じくらいではないか、とすら思えてくる。

その人が書いたものは、ずっと以前は仕事柄読んでいた。
いまはまったく読んでいない。

それでもひとつ感じることがある。
その人には、熱心な読み手がいるのだろうか、ということだ。

私は長岡鉄男氏に対して否定的な立場である。
それでも長岡鉄男氏には、熱心な読み手がいたことはわかっている。

長岡ファン、長岡教の信者とはいわれるほどの熱心な読み手がいた。
そういう人たちがいるから、いまでも長岡鉄男氏の本が出版されている。

長岡鉄男氏だけではない、
私自身、瀬川先生、岩崎先生、五味先生、菅野先生の熱心な読み手である。

その人には、熱心な読み手はいないように、私は感じている。
熱心な読み手がついていないのに、影響力があると業界はみているのか。

評論の立ち位置を、その人は変えてしまったのか。

Date: 1月 28th, 2019
Cate: ラック, 広告

LOUIS VUITTONの広告とオーディオの家具化(その4)

Aさんの友人をBさんとしよう。
Bさんの奥さんはなぜヤマハだったのか。

アキュフェーズは、(その3)で書いているように、
アキュフェーズ(?)状態である。

アキュフェーズ以外にテクニクスがある。
テクニクスは候補にならなかったのか。

Bさんを直接知っているわけでないから、憶測にすぎないけれど、
おそらくデザイン面で、奥さんの選択肢から外れたのではないのか。

テクニクスの修理に関しては、いくつかウワサを耳にしているけれど、
一応国産メーカーだし、それほどひどくはないであろう(と思う)。

テクニクスもSACDプレーヤーが発表されたし、
アナログプレーヤーもある。
チューナーは、これから先も出ない(と思う)。

チューナーがないからテクニクスではなく、ヤマハなのか。
たぶん違うはずだ。

テクニクスのデザインは、Bさんの奥さんの気に入るものではなかったのだろう。
でも、だからといってヤマハの5000番シリーズの、
特にコントロールアンプのデザインが優れている、とは私はまったく思っていない。

別項で指摘しているように、あれはコントロールアンプのデザインではなく、
プリメインアンプのデザインである。

ヤマハのC5000のデザインを褒める書き手がいたら、
その人はオーディオ評論家(職能家)ではなく、
はっきりとオーディオ評論家(商売屋)といえる。

とはいえBさんの奥さんには、そんなことはどうでもいいことだろう。
イヤミのないデザイン、丁寧な仕上げ、
リビングルームに置いて、変に自己主張しない──、
そういったことでいえば、ヤマハのC5000、M5000は、納得のいく選択だろう。

Bさんの奥さんは、オーディオを音が出る家具、
好きな音楽を聴ける家具という認識なのかもしれない。

そう勝手に思って、これを書いているわけだが、
だとするとBさんの奥さんは、どういうラックを選択するのだろうか。

Date: 1月 28th, 2019
Cate: High Fidelity

原音に……(その4)

別項でメリディアンのULTRA DACのことを書いている。
まだまだ書きたいことがある。
そのくらい惚れ込んでいる。

ULTRA DACと同じくらいに惚れ込んだオーディオ機器は、
ジャーマン・フィジックスのUnicornがある。
2002年のインターナショナルオーディオショウで聴いてからだ。

だから16年後にULTRA DACに出逢って、惚れ込めるオーディオ機器が一つ増えたことになるし、
その16年のあいだに、いいなぁと思うオーディオ機器はいくつかあったけれど、
惚れ込んだ、と心からいえるオーディオ機器となると、残念なことになかった。

なかっただけにULTRA DACを熱をあげている、ともいえる。

惚れ込んだオーディオ機器は、音がいいだけにとどまらない。
こちらにさまざまなことを考えさせてくれるところがある。

ULTRA DACの音もまさしくそうである。
ULTRA DACの音を聴いて、こうやって書きながら、その音を思い出すと、
この項のはじめに書いたように、
原音を目指すのではなく、原音に還ることが、
私にとってのハイ・フィデリティであることを、つよく実感できる。

とはいえ、その理由については、いまだはっきりしない。
はっきりしないからこそ、書いている。

Date: 1月 27th, 2019
Cate: オーディオ評論

「新しいオーディオ評論」(ルールブレイカーか・その4)

二時間ほど前に「「新しいオーディオ評論」(バランサーであること)」を書いた。
ルールブレイカーとバランサーでしることは、私のなかでは矛盾しない。

むしろルールブレイカーでなければバランサーたりえない。

Date: 1月 27th, 2019
Cate: 世代

世代とオーディオ(その表現・その5)

家族にとっては、新しい生命の誕生は、確かにOnly oneである。
けれど「世界の一つだけの花」の歌詞は、《もともと特別なOnly one》である。

Only oneの前に「特別な」がつく。
「特別な」がつく以上、
マーク・トウェインがいうように《なぜ生れてきたかを見出し》てこそのである。

マーク・トウェインの
“The two most important days in your life are the day you are born and the day you find out why.”
あなたの人生で最も重要な二つの日は、あなたが誕生した日と、なぜ生れてきたかを見出した日である。
このことばを知らない人であっても、
《もともと特別なOnly one》という歌詞に、素直に首肯けない人は少なからずいたのではないのか。

《もともと特別なOnly one》、
そんなことあるわけないじゃないか──、
そんな声ならぬおもいが、
「フツーにおいしい」とか「フツーにかわいい」というところに滲んできているように感じる。

フツーと特別は、いわゆる対語の関係である。

《もともと特別なOnly one》、
この歌詞で一時は慰められたとしても、
一歩社会に出れば、そうじゃない……、とは肌で感じられるものだ。

《なぜ生れてきたか》を見出せていないことを自覚している人もいれば、
見出せていると錯覚している人もいよう。

私だって、錯覚しているだけなのかもしれない。
それゆえ《もともと特別なOnly one》のところに反撥しているのかもしれない。

それに見出せている人よりも、
「世界の一つだけの花」をきいてなぐさめられたり、元気をもらった、といえる人のほうが、
ずっとシアワセかもしれない。

そういえばいま書店に並んでいる文藝春秋に、
「SMAPと平成に最も愛された歌『世界に一つだけの花』が教えてくれた」というタイトルの、
槇原敬之、水野良樹の対談が載っている。

電車の吊り広告で知った。
読む気はない。

文藝春秋の読者層は、かなり高いと思っている。
たぶん高いはずだ。
そんな文藝春秋が、2002年にリリースされた「世界の一つだけの花」を取り上げている。

「世界の一つだけの花」は、広い年齢層に受け入れられているということなのか。

Date: 1月 27th, 2019
Cate: オーディオ評論

「新しいオーディオ評論」(バランサーであること)

「ピュアオーディオという表現(バラストなのか)」で、
アキュフェーズの創業者、春日二郎氏の「オーディオ 匠のこころを求めて」から、
ピュアオーディオについて書かれているところを引用した。

もう一度引用しておく。
     *
 船舶は、転覆をしないように重心を低くするため、船底に重いバラスト(底荷)を積んでいる。これは直接的な利潤を生まない「お荷物」ではあるが、極めて重要なものである。
 歌人の上田三四一(みよじ)氏は、「短歌は高い磨かれた言葉で的確に物をとらえ、思いを述べる、日本語のバラスト(底荷)だと思い、そういう覚悟でいる。活気はあるが猥雑な現代の日本語を転覆から救う、見えない力となっているのではないか」、このように書かれている。

 純粋オーディオも、人類にとって大切なオーディオ文化を守る重要なバラストの役目をしているのではないだろうか。
     *
その時、オーディオはバラストといえる、と書いた。
いまもそう思っている。

そして、オーディオ評論家はバランサーである、とも思うようになった。

Date: 1月 26th, 2019
Cate: ラック, 広告

LOUIS VUITTONの広告とオーディオの家具化(その3)

昨晩は、友人のAさんから食事の誘いがあって、神楽坂に出かけていた。
食事をしながらあれこれ話していた。

Aさんの友人のことが話題になった。
Aさんと私は1963年生れ、友人の方もそう、とのこと。

Aさんはオーディオマニアだが、Aさんの友人はそうではない。
でも、オーディオシステムを一式揃えることになったそうだ。
奥さんの許可も得てのことである。

予算は制約がないわけではないが、そこそこあるようだ。
それでも別の制約がある。

故障したときに修理体制がしっかりしている、ということがある。
これにより海外製のアンプはすべて候補から外された、らしい。

奥さんの意見として、修理を優先して国産アンプということになる。
そうなると絞られてくる。
結局、ヤマハの新製品5000シリーズのペアに決った。

スピーカーはまだ選択中だが、こちらはそうそう故障するものでもないだろうから、
海外製でもいいらしい。
いまのところB&Wが第一候補とのこと。

アンプをヤマハにすれば、CDプレーヤーもチューナーもヤマハで揃えられる。
5000シリーズのCDプレーヤーもチューナーも、いまのところないが、
CDプレーヤーの5000番は近々登場してくるであろう。

アナログプレーヤーも揃う。
アキュフェーズではなくヤマハが選ばれたのは、こういうところも関係してようだ。

アキュフェーズもチューナー、CDプレーヤーが揃えられる。
けれどオーディオにまったく関心のない奥さんにとって、
アキュフェーズ? といったところだろう。

話を聞いていておもしろいな、と感じたのは、
スピーカーがヤマハのNS5000ではなかったところがひとつ。

それからラックをどうするのかが、もうひとつである。

Date: 1月 25th, 2019
Cate: フルレンジユニット

シングルボイスコイル型フルレンジユニットのいまにおける魅力(その18)

オーディオではいくつかのモノを並列接続して使う。

アンプは出力素子を、大出力確保のために並列接続する。
トランジスターにしても真空管にしても、一組よりも二組使用の方がパワーは倍にとれる。
さらに出力を増したければ、素子数を三組、四組……と増やしていく。

トランジスターにしても真空管にしても、
素子としての物理的な大きさをもつため、
並列接続の数が増えれば、その物理的大きさがもたらす制約も大きくなってくる。

1990年代、トランジスターアンプの出力段のトランジスターを並列接続しない、
そのことを謳った製品がいくつか登場した。

音の反応が早い、とか、音のにじみが少ない、とか、そんな評価を受けていた。

頭で考えても一組よりも二組、二組よりも三組……、と並列接続の数が増えていけば、
この世には完全な素子など存在しないのだから、弊害として音のにじみが生じてくるのは、
想像しやすいことである。

確かに一組よりは二組のほうが、そうであろう。
ただ、そこから先はどうなのだろうか、という疑問もある。

なんとなくなのだが、二組よりも三組の並列接続が音がいいような気もする。

検証したわけではない。
直観として、並列接続の数は素数がいいような気がするだけだ。

2も素数である。
けれど2は偶数である。
素数で奇数。そして小さな数となると3である。

これも検証したわけではないが、
スピーカーユニットの複数使用にもあてはまるのかもしれない。

そんな考えからの、ユニットの三角形配置(三発配置)でもある。

Date: 1月 24th, 2019
Cate: ステレオサウンド

月刊ステレオサウンドという妄想(というか提案・その4)

黒田先生が、「レコード・トライアングル」のあとがきに書かれている。
     *
 最近はあちこちに書きちらしたものをまとめただけの本ばかりが多くて——と、さる出版社に勤める友人が、あるとき、なにかのはずみにぼそっといった。もうかなり前のことである。その言葉が頭にこびりついていた。
 その頃はまだぼくの書いたものをまとめて出してくれる出版社があろうとは思ってもいなかった。なるほど、そういうこともいえなくはないななどと、その友人の言葉を他人ごとのようにきいた。
 三浦淳史さんが強く推薦してくださったために、この本が東京創元社から出してもらえることになった。むろん、うれしかった。
     *
音楽評論家、オーディオ評論家にしても、
評論家とつく書き手で、書き下しがある人はどのくらいいるのだろうか。

多くの音楽評論家、オーディオ評論家が、
《最近はあちこちに書きちらしたもの》をまとめて一冊の本として出す。

でも、それすらいまや難しいのではないのか。
特にオーディオ評論家と名乗って現在仕事をしている人たちは、どうだろうか。

《あちこちに書きちらしたもの》が、試聴記や新製品紹介、ベストバイのコメントが主で、
あとはブランド訪問ぐらいだとしたら、
いくら文量は足りていても、一冊の本としてまとめられるだろうか。

そんな本を買う奇特な人はどのくらいいるだろうか。

本を出すことが、評論家ほんらいの仕事ではないことぐらいわかっている。
それでもオーディオ雑誌にあれこれ書いてきても、
一冊の本としてまとめられる内容のものを書いてこなかった、と、
書き手自身がふり返って気づくことこそ残酷なことではないだろうか。

一冊の本としてまとめられなくてもそれでいい、という人もいよう。
オーディオ評論家の仕事なんて、そんなものさ、と割り切れる人ならば、それでいい。

その人が亡くなったら、あっという間に忘れ去られていく。
死んだあとの評価なんて、どうでもいい──、といえば、確かにそうだ。

生きているうちにしっかり稼いでいければそれでいい。
評論家は、ほんとうにそういう考えでいいのだろうか。

書いたものが掲載誌でしか残らない。
オーディオ評論(決してそう呼べないけれども便宜的にそう言う)は、
その程度のことと認識しているのか。

Date: 1月 24th, 2019
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドと幕の内弁当の関係(その1)

『「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(わかりやすさの弊害)』の(その7)、(その8)で、
ステレオサウンドの幕の内弁当化(これは他の項でも書いている)と、
マス目弁当への進化について書いた。

進化としているが、ほんとうの意味での進化とは、もちろんまったく考えていない。
商業誌として売行きを重視しての進化という意味で使っている。

幕の内弁当化の理由が、特集の内容によって売行きが左右されることをなくすためのものであること、
これもすでに何度か書いている通りである。

けれど、理由はほんとうにこれだけだろうか、とずっと思っていた。

さきほどGoogleで、定食について検索していた。
検索結果で、おもしろいページがあった。
楠木建の偏愛「それだけ定食」――スパゲティ「バジリコだけ定食」を愛する理由』である。

これを読んで、そうか、と納得した。
ステレオサウンドの幕の内弁当化への、もうひとつの理由はここにある、
そう確信できたからだ。
     *
「美味しいものを少しずつ」の不思議
 あくまでも個人的な好き嫌いの話として聞いていただきたい。

 ド中年ともなると「いろいろな美味しいものを少しずつ食べるのがイイですな……」とか言う人が多くなる。ま、わかるような気がしないでもないのだが、本当のところはよくわからない。

 温泉宿に泊まってちょっとずついろいろな料理が出てくるのをゆっくりと食べる。上等上質な料理店でフルコースを食べる。こういうのはたまに経験する分には確かによろしいが、あくまでも非日常。そういう経験の総体というか文脈が楽しかったり嬉しかったりするわけで、僕の場合、「美味しいものを少しずつ」は食そのものに対する欲求にはなり得ない。

 美味しいものであればそれだけを大量に食べたい。ほとんど小学生のようではあるが、これが僕の日常生活の食に対する基本姿勢である。

 食通の人ほど「美味しいものを少しずつ」路線に走る。これが僕には不思議である。本当に美味しくてスキな食べ物であれば、それだけでお腹一杯になるまで、スキなだけ、心ゆくまで、気が済むまで食べたい、と思うのがむしろ普通というか人情なのではないか。

 例外は吉田健一。この人の本を読んでいると、美味しいパンとバターがあれば、他のものには目もくれず、それだけをお腹一杯になるまで食べる、というようなことが書いてあって嬉しくなる。これだけでイイ人であるような気がする。
     *
冒頭を引用した。
楠木建氏のプロフィールには、1964年生れとある。
私より一つ若い方だ。

私も食べることに関しては、まったく楠木建氏と同じである。
《本当に美味しくてスキな食べ物であれば、それだけでお腹一杯になるまで、スキなだけ、心ゆくまで、気が済むまで食べたい》

私もそうである。
そんな私には「いろいろな美味しいものを少しずつ食べるのがイイですな……」と言う人の気持の、
本当のところは理解できてない。
ここも楠木建氏といっしょだ。

中年以降になると、食に関して、そうなる人の方が多いのか。
だとすると、ステレオサウンドの幕の内弁当、マス目弁当への道は、
そういう読者層を相手にしているのであれば、正しい選択ということになるのか。