ステレオサウンドと幕の内弁当の関係(その1)
『「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(わかりやすさの弊害)』の(その7)、(その8)で、
ステレオサウンドの幕の内弁当化(これは他の項でも書いている)と、
マス目弁当への進化について書いた。
進化としているが、ほんとうの意味での進化とは、もちろんまったく考えていない。
商業誌として売行きを重視しての進化という意味で使っている。
幕の内弁当化の理由が、特集の内容によって売行きが左右されることをなくすためのものであること、
これもすでに何度か書いている通りである。
けれど、理由はほんとうにこれだけだろうか、とずっと思っていた。
さきほどGoogleで、定食について検索していた。
検索結果で、おもしろいページがあった。
『楠木建の偏愛「それだけ定食」――スパゲティ「バジリコだけ定食」を愛する理由』である。
これを読んで、そうか、と納得した。
ステレオサウンドの幕の内弁当化への、もうひとつの理由はここにある、
そう確信できたからだ。
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「美味しいものを少しずつ」の不思議
あくまでも個人的な好き嫌いの話として聞いていただきたい。
ド中年ともなると「いろいろな美味しいものを少しずつ食べるのがイイですな……」とか言う人が多くなる。ま、わかるような気がしないでもないのだが、本当のところはよくわからない。
温泉宿に泊まってちょっとずついろいろな料理が出てくるのをゆっくりと食べる。上等上質な料理店でフルコースを食べる。こういうのはたまに経験する分には確かによろしいが、あくまでも非日常。そういう経験の総体というか文脈が楽しかったり嬉しかったりするわけで、僕の場合、「美味しいものを少しずつ」は食そのものに対する欲求にはなり得ない。
美味しいものであればそれだけを大量に食べたい。ほとんど小学生のようではあるが、これが僕の日常生活の食に対する基本姿勢である。
食通の人ほど「美味しいものを少しずつ」路線に走る。これが僕には不思議である。本当に美味しくてスキな食べ物であれば、それだけでお腹一杯になるまで、スキなだけ、心ゆくまで、気が済むまで食べたい、と思うのがむしろ普通というか人情なのではないか。
例外は吉田健一。この人の本を読んでいると、美味しいパンとバターがあれば、他のものには目もくれず、それだけをお腹一杯になるまで食べる、というようなことが書いてあって嬉しくなる。これだけでイイ人であるような気がする。
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冒頭を引用した。
楠木建氏のプロフィールには、1964年生れとある。
私より一つ若い方だ。
私も食べることに関しては、まったく楠木建氏と同じである。
《本当に美味しくてスキな食べ物であれば、それだけでお腹一杯になるまで、スキなだけ、心ゆくまで、気が済むまで食べたい》
私もそうである。
そんな私には「いろいろな美味しいものを少しずつ食べるのがイイですな……」と言う人の気持の、
本当のところは理解できてない。
ここも楠木建氏といっしょだ。
中年以降になると、食に関して、そうなる人の方が多いのか。
だとすると、ステレオサウンドの幕の内弁当、マス目弁当への道は、
そういう読者層を相手にしているのであれば、正しい選択ということになるのか。