「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(わかりやすさの弊害・その7)
ステレオサウンド 207号の試聴記を見て(読んで、ではなく)、
twitter的といったのは、つまみ食いならぬつまみ読みができるからでもある。
このスピーカーの試聴記のを頭から終りまで通して読むのではなく、
オーディオ評論家の○○さんの、この機種の、このディスクのところだけ、
といった読み方ができるからである。
このことに関連して思い出すのは、
私がステレオサウンドにいたころ、原田勲氏がいわれたことである。
雑誌は幕の内弁当でなければならない、とはっきりといわれたことがある。
私がいたころだから、もう30年も前のことであり、
いまではどう雑誌を捉えているのかは、なんともいえなかったけれど、
207号の試聴記を見るにつれ、いまもまだその考えは変っていない、と確信した。
幕の内弁当は、たとえばとんかつ弁当とは大きく違う。
とんかつ弁当(焼き魚弁当でもいいけれど、別項でとんかつを書いているので)は、
メインとなるおかずは、文字通りとんかつだけである。
とんかつ以外にはキャベツの千切りとちょっとしたサラダ、つけものぐらいか。
どんなに美味しいとんかつであっても、その日、とんかつを食べたくない人、
肉が嫌いな人にとっては、他に食べるものがなくなるのが、とんかつ弁当である。
どんな人であっても、まんべんなくおかずが食べられるのが幕の内弁当であって、
そういうつくりの雑誌にすれば、特集の企画によって売行きが変動することを抑えられるからである。
その幕の内弁当思想が、特集の試聴記にまで及んでいる。
さしずめtwitter的試聴記は、弁当でいえば、
一口サイズにおかずもご飯も区切られているマス目弁当である。
幕の内弁当は、さらに進歩した、といえる。