音のマエストロ「菅野沖彦の世界」
平成29年12月9日(土曜日)から平成30年1月20日(土曜日)まで、
東京・杉並区の中央図書館で、特別展示『音のマエストロ「菅野沖彦の世界」』が開催される。
平成29年12月9日(土曜日)から平成30年1月20日(土曜日)まで、
東京・杉並区の中央図書館で、特別展示『音のマエストロ「菅野沖彦の世界」』が開催される。
オーディオの聖域とは──、と考える。
同時にオーディオこそが聖域なのだ、とも思っている。
つまらぬ意地の張り合い。
オーディオマニアでない人からすれば、ほんとどうでもいいこと、
もっといえばアホなこと。
それでも、この「つまらぬ意地の張り合い」は、
オーディオマニアの聖域かもしれない。
なんらかの聖域をもつからこそ、オーディオは男の趣味。
五味先生が「不運なタンノイ」で書かれていること。
オーディオは、まさしく男の趣味だな、と思わせる。
*
さてテレフンケンの音の輝きに恍惚とし、満足し、そのうちステレオが盛んとなるにつれ高音部に不満を見出すようになって、昨秋のヨーロッパ旅行でSABAを得た。
ミュンヘンに世界的に有名な博物館がある。エジソンの発明になる初期の蓄音機から最新のステレオ装置までが進歩の順次に展覧されている。その最新のステレオはテレフンケンではなくSABAだった。私は勇気と喜びをあらたにして日本へ着くであろうSABAへの期待に夢をふくらませた。
さて昨年暮にはるばる海を渡ってSABAはわが家に運び込まれた。それを聴いて、どんなに絶望したか。もう一つの新しいテレフンケンの装置は、工場のほうから、不備の点を発見して製造を中止した旨の連絡があった。私は怏々とたのしまなかった。いまひとつロンドンで聴いたデッカ《デコラ》は、テレフンケンがベンツならロールスロイスではあろう、しかし、これはS氏のもので、今さら同じものを取り寄せることは日本オーディオ界のパイオニアを自負する私の気持がゆるさない。人さまはいい音で満悦至極であるのに、私だけがなんでこうも不運なのか。私がどんな悪いことをしてきたというのか? 私は天を怨んだなあ。
*
デッカのデコラの素晴らしさを知り、認めながらも、それを購えることができても、
デコラは、すでに新潮社のS氏の愛器であるために、《気持がゆるさない》と。
求める音がデコラで得られるならば、それを買えるだけの財力があるのならば、
素直に買えばいいのに……、と思う人は、オーディオマニアではない。
傍からみれば、つまらぬ意地を張っているだけ──、
きっとそう見えるはずだ。
五味先生だけではない。
他の人も、そのはすだ。
瀬川先生は、これを《オーディオ・マニアに共通の心理だろう》と書かれている(「私とタンノイ」より)。
ほんとうにそうである。
意地の張り合いなんてしなければ、ずっと楽になれるのはわかっていても、
それでもオーディオは男の趣味だから……、やってしまう。
二週間ほど前にセルの「エグモント」について書いた。
今回、このCDを持っていく。
とあるジャズ喫茶は、「エグモント」をリファレンスレコードとしている、ときいている。
その意味で、ジャズ喫茶である喫茶茶会記でどんなふうに鳴ってくれるのかという興味はある。
あるけれど、だからといって「エグモント」を、
喫茶茶会記での隠れたリファレンスディスクにするのは、なんともおもしろくない。
つまらぬ意地なのかもしれないが、また別のディスクにしたい。
最新録音から選ぶのも、おもしろくない。
何をもっておもしろいとするのか、おもしろくないとするのか、
それは私の中の勝手な判断でしかなくて、いちいち説明するのはめんどうだ。
候補として考えているのが、ショルティ/シカゴ交響楽団によるマーラーの二番である。
ショルティを理由もなく毛嫌いしていた20代のときに聴いている。
CDで聴いている。
第一楽章冒頭の低弦の鳴り方の凄さ。
実演では聴けそうにない(おそらく聴けないであろう)低弦のこわいまでの鳴り方。
これを録音が生み出した音であって、コンサートホールでは、こんな音は響かない──、
と否定するのは、誰にでもできよう。
そんなことはデッカの録音陣、そしてショルティはわかったうえでの、
この録音であると受け止めるもののはずだ。
ショルティによる二番の最初の録音は、1966年、ロンドン交響楽団によるもの。
このLP(それもオリジナル盤)の、出だしの低弦は、すごかった、と、
岡先生が「マイクログルーヴからデジタルへ」の下巻でふれられているので、引用しておく。
*
このレコードの開始部の凄まじい低弦の表現力というもは、おそらくどんなコンサートでも聴かれない強烈な効果で聴き手を圧倒する(筆者がこの曲をコンサートで聴いたのは、小沢征爾が日フィルを振った一回しかないが、コンサートでは、ベルリンPOやシカゴSOであろうと、ショルティのレコードのようには鳴らないだろうと思っている)。明らかに低弦にブースト・マイクが置かれており、しかもハイレベルでカッティングされている。このレコードが出た当時のデッカのカッティング・ヘッドはノイマンのSX45であったはずだが、明らかに低域の低次ひずみが存在しており、それがかえって低弦の表現に強烈なダイナミックな効果を添えていたと思う。のちにSX68でリカットされたこの部分は、明らかに低次ひずみが減って音はおとなしくなり、コンサートで聴かれるチェロとコントラバスのユニゾンのフォルテらしい音になっていたけれど、凄まじいまでの迫力は失われていた。
*
そして14年後の、つまり今回もっていくシカゴ交響楽団との再録については、
こう書かれている。
*
十四年間の録音系の進歩は、レコードの音質の改善に明らかであるが、ショルティは《復活》の冒頭の低弦を、前回よりもさらに強烈に表現する。低弦に対するマイクは旧録音よりさらに近づけられ、低弦楽器の低次倍音までなまなましくとらえる。
*
現象としてのマーラーの二番ではなく、
心象としてのマーラーの二番を響かせたい、と考えている。
場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。
Vitavoxがvitae vox(生命の音)から来ているのであれば、
Vitavoxで、カザルスを聴きたい、無性に聴きたい。
チェリスト・カザルス、
それ以上に指揮者カザルスの演奏を、Vitavoxで聴きたい、と思うのは、
聴くということは、生きているからできることなのだ、という、
当り前すぎることを、実感させてくれる。
演奏も、生きているから(生きていたから)こそ、
その演奏が録音として残されたわけだ。
故人の演奏であっても、録音の時は生きていた。
生きていたから、演奏がなされたし、残っている。
これも当り前すぎることだ。
でも当り前すぎることゆえに、実感しにくいのではないか。
ステレオサウンド「世界のオーディオ」のタンノイ号、
瀬川先生の「私とタンノイ」にこう書かれている
*
はじめてタンノイの音に感激したときのことはよく憶えている。それは、五味康祐氏の「西方の音」の中にもたびたび出てくる(だから私も五味氏にならって頭文字で書くが)S氏のお宅で聴かせて頂いたタンノイだ。
昭和28年か29年か、季節の記憶もないが、当時の私は夜間高校に通いながら、昼間は、雑誌「ラジオ技術」の編集の仕事をしていた。垢で光った学生服を着ていたか、それとも、一着しかなかったボロのジャンパーを着て行ったのか、いずれにしても、二人の先輩のお供をする形でついて行ったのだか、S氏はとても怖い方だと聞かされていて、リスニングルームに通されても私は隅の方で小さくなっていた。ビールのつまみに厚く切ったチーズが出たのをはっきり憶えているのは、そんなものが当時の私には珍しく、しかもひと口齧ったその味が、まるで天国の食べもののように美味で、いちどに食べてしまうのがもったいなくて、少しずつ少しずつ、半分も口にしないうちに、女中さんがさっと下げてしまったので、しまった! と腹の中でひどく口惜しんだが後の祭り。だがそれほどの美味を、一瞬に忘れさせたほど、鳴りはじめたタンノイは私を驚嘆させるに十分だった。
そのときのS氏のタンノイは、コーナー型の相当に大きなフロントロードホーン・バッフルで、さらに低音を補うためにワーフェデイルの15インチ・ウーファーがパラレルに収められていた。そのどっしりと重厚な響きは、私がそれまで一度も耳にしたことのない渋い美しさだった。雑誌の編集という仕事の性質上、一般の愛好家よりもはるかに多く、有名、無名の人たちの装置を聴く機会はあった。それでなくとも、若さゆえの世間知らずともちまえの厚かましさで、少しでも音のよい装置があると聞けば、押しかけて行って聴かせて頂く毎日だったから、それまでにも相当数の再生装置の音は耳にしていた筈だが、S氏邸のタンノイの音は、それらの体験とは全く隔絶した本ものの音がした。それまで聴いた装置のすべては、高音がいかにもはっきりと耳につく反面、低音の支えがまるで無に等しい。S家のタンノイでそのことを教えられた。一聴すると、まるで高音が出ていないかのようにやわらかい。だがそれは、十分に厚みと力のある、だが決してその持てる力をあからさまに誇示しない渋い、だが堂々とした響きの中に、高音はしっかりと包まれて、高音自体がむき出しにシャリシャリ鳴るようなことが全くない。いわゆるピラミッド型の音のバランス、というのは誰が言い出したのか、うまい形容だと思うが、ほんとうにそれは美しく堂々とした、そしてわずかにほの暗い、つまり陽をまともに受けてギラギラと輝くのではなく、夕闇の迫る空にどっしりとシルエットで浮かび上がって見る者を圧倒するピラミッドだった。部屋の明りがとても暗かったことや、鳴っていたレコードがシベリウスのシンフォニイ(第二番)であったことも、そういう印象をいっそう強めているのかもしれない。
こうして私は、ほとんど生まれて初めて聴いたといえる本もののレコード音楽の凄さにすっかり打ちのめされて、S氏邸を辞して大泉学園の駅まで、星の光る畑道を歩きながらすっかり考え込んでいた。その私の耳に、前を歩いてゆく二人の先輩の会話がきこえてきた。
「やっぱりタンノイでもコロムビアの高音はキンキンするんだね」
「どうもありゃ、レンジが狭いような気がするな。やっぱり毛唐のスピーカーはダメなんじゃないかな」
二人の先輩も、タンノイを初めて聴いた筈だ。私の耳にも、シベリウスの最終楽章の金管は、たしかにキンキンと聴こえた。だがそんなことはほんの僅かの庇にすぎないと私には思えた。少なくともその全体の美しさとバランスのよさは、先輩たちにもわかっているだろうに、それを措いて欠点を話題にしながら歩く二人に、私は何となく抵抗をおぼえて、下を向いてふくれっ面をしながら、暗いあぜ道を、できるだけ遅れてついて歩いた。
古い記憶は、いつしか美化される。S家の音を聴かせて頂いたのは、後にも先にもそれ一度きりだから、かえってその音のイメージが神格化されている――のかもしれない。だが反面、数えきれないほどの音を聴いた中で、いまでもはっきり印象に残っている音というものは、やはり只者ではないと言える。こうして記憶をたどりながら書いているたった今、S家に匹敵する音としてすぐに思い浮かぶ音といったら、画家の岡鹿之介氏の広いアトリエで鳴ったフォーレのレクイエムだけといえる。少しばかり分析的な言い方をするなら、S氏邸の音はタンノイそのものに、そして岡邸の場合は部屋の響きに、それぞれびっくりしたと言えようか。
そう思い返してみて、たしかに私のレコード体験はタンノイから本当の意味ではじまった、と言えそうだ。とはいうものの、S氏のタンノイの充実した響きの美しさには及ばないにしても、あのピラミッド型のバランスのよい音を、私はどうもまだ物心つく以前に、いつも耳にしていたような気がしてならない。そのことは、S氏邸で音を聴いている最中にも、もやもやとはっきりした形をとらなかったものの何か漠然と心の隅で感じていて、どこか懐かしさの混じった気持にとらわれていたように思う。そしていまとなって考えてみると、やはりあれは、まだ幼い頃、母の実家であった深川・木場のあの大きな陽当りの良い二階の部屋で、叔父たちが鳴らしていた電気蓄音器の音と共通の響きであったように思えてならない。だとすると、結局のところタンノイは、私の記憶の底に眠っていた幼い日の感覚を呼び覚ましたということになるのか。
*
瀬川先生の音とピラミッド型の音のバランスとが、イメージとして重ならないという人は、
瀬川先生が愛用されたオーディオ機器を思い出してほしい。
アナログプレーヤーならば、EMTの930st、927Dst、
それに購入されたわけではないが、とても気に入られていたトーレンスのReference。
音の入口にあたるアナログプレーヤーにおいて、
瀬川先生はまさしくピラミッド型の音のバランスのモノをつねに選ばれていた。
EMTのカートリッジ単体の音を聴いても、あまり意味がない。
やはりEMTのプレーヤーシステム込みでの音、
最低でも930st、その上の927Dst、
EMTの純正プレーヤーとはひと味ちがう魅力を抽き出したReference、
これらのプレーヤーの音を聴いても、
ピラミッド型の音のバランスがとういうものかわからない人には、
何を言っても無駄だし、瀬川先生の音をイメージすることはできない。
新品のスピーカー、
それも封を切ったばかりのスピーカー、
特に中高域に金属の振動板を採用したスピーカーは、
耳障りな音を出す傾向が、ままある。
特にホーン型は、鳴らし込みが必要だ、といわれてきた。
鳴らし込みはエージングともいわれる。
エージングは、agingである。老化とも訳せる。
鳴らし込みには時間がかかる。
ある意味では、老化といえる。
スピーカーは振動によって音を発しているわけだから、
自らが発する振動によって、エージング(老化)が進むところもある。
スピーカーを構成するあらゆるところがヘタッてくる。
いつしか耳障りな音がしなくなり、音がこなれてくる。
鳴らし込みとは、たしかにそういうものなのだが、
力みを取り去っていくことでもあるように、10年ほど前から感じるようになった。
人と同じで、若いころほど力みがある。
力があり余っているから、ともいえる。
それが歳をとり、力も少しずつ衰えていく。
けれど、一方で力みも消えていくのではないだろうか。
すべての人がそうだとはいわないが、気がつけば力みが少なくなっている、
消えている、ということは、50を過ぎている人であれば、感じているのではないだろうか。
以前できなかったことが、いつのまにかすんなりできるようになっている。
特に練習したとか、そんなことはしていないのに……。
それはおそらく力みがなくなってきたからだ、と私は思っているし、
スピーカーの鳴らし込み(エージング)の肝要な点は、まさにここのはずだ。
菅野邦彦氏による、新しいピアノの鍵盤のデザインについて、4月に書いた。
この新しいピアノ鍵盤(未来鍵盤)での菅野邦彦氏の演奏を聴いてみたい、と思っていた。
2018年1月24日、
三軒茶屋のJazz & Cafe Gallery Whisperで、
横溝直子氏(ヴォーカル)とのデュオ・ライヴが行われる。
先月も行われていたけれど、都合がつかなくて行けなかった。
今回は行こうと思っている。
このライヴが、新しい鍵盤での演奏なのかどうかは、確認していない。
ピラミッド型の音のバランス。
昔からいわれ続けている。
でも、いまはどうなんだろう……。
10年ほど前だったか、
ピラミッド型の音のバランスは、低音のいちばん低いところがピークで、
高域にいくに従ってダラ下がりのレスポンスのことだ──、
そんな理解をしている人がいるのを知って、愕然としたことがある。
フラットレスポンスが理想であって、
それはピラミッド型ではなく、上(高域)にいくに従ってとがっていく形ではなく、
低域から高域まで幅が一定の形でなければならない──、
そんな主張があった。
個人サイトだったし、どんな人が書いているのかははっきりとはわからなかったが、
どうも私よりも少し上の世代の人のようだった。
世代的にピラミッド型の音のバランスは、いわば常識として理解されているものだと、
私などは勝手に思っていたけれど、どうもそうではないようだ。
ピラミッド型の音のバランスを、そんなふうに理解する(される)のか、
表現の難しさを感じる──、とは思っていない。
ピラミッド型の音のバランスがどういうことなのか、わからない人はそのままで、もういい。
瀬川先生の音を考えるうえで、忘れてはならないのは、
絶対に忘れてはならないのが、ピラミッド型の音のバランスである。
この大事なことを、
「瀬川先生の音を彷彿させる音が出せた」と、私にヌケヌケといってきた知人は、
忘れていたのか、それとも気づいてすらいなかったのか。
もしかするとピラミッド型の音のバランスがどういうことなのかを、
誤解した人であったのか。
マッキントッシュ号の、
青柳圭亮氏による「マッキントッシュ製品の変遷」という記事の中に、
マッキントッシュ・クリニックのことが書かれている。
*
末尾ながら、マッキントッシュ社のアフターサービスで、あまり日本人には知られていない、マッキントッシュ・クリニックのことに触れてみたい。原則的にはマッキントッシュ・アンプ類の保証期間は、オーナーズ・マニュアルのポケットに入っている、「3YEARS SERVICE CONTRACT」に署名し、各欄に記入して郵送することによって、始めて三年間の無償補修が受けられることになっている。このコントラクトを発送しない場合は、購入時から90日間の保証のみというわけだ。このカードを受領すると、本社ではそれをファイルし、以後そのアンプがいつ、どういう修理を受けたかすぐに調べられるようになっている。従ってある傾向的な故障が続くとすぐに改良、その他の処置が取れるわけで、人間のカルテのようなものである。しかしマッキントッシュ・クリニックというサービス・システムほど私を驚かせたことはなかった。名目上は三年間の保証となっているけれども、マッキントッシュの人気の秘密は実は、このクリニックにこそあるのである。すなわち、全米各地を一州何都市か定めて、一年に一度このクリニックチームが巡回する。各都市のデポとなるオーディオ・ショップはこのクリニックの開催を前もって自分のコミュニティーの顧客に店頭或はラジオコマーシャル等で知らせる。そして通常クリニック・チームその店頭の一角を借り、自分たちの持って来た、ヒューレット・パッカード、テクトロニクス等の超一流測定器を並べて持ち込まれるアンプを待つわけである。又このサービスは自社製品にだけ適用するのではなく、例えばサイテーション、マランツ等と言った他社製あるいは自作のアンプの特性もこれらの測定器で測りデータを無料で対数グラフに移し取って渡してくれる。そしてマッキントッシュ製品についていえば、それがどんなに古い機種でも、トランス以外の故障であるならば、その場で、見ている前で、ものの20分とかからぬうちに必要部品を取り替え、データを取って返してくれる。しかもこれが一切無料なのだ。
*
このマッキントッシュ・クリニックの測定のところだけでも、
リスニングルームでできるようにならないのか。
しかも誰にでもできるようにならないのか。
そのために必要なモノはなんのなのか、と考えての、
ここでのタイトルで「パノプティコンとしてのコントロールアンプ像」である。
パノプティコン(Panopticon)は、全展望監視システムのことである。
もっと詳しいことを知りたい方はGoogleで検索していただきたい。
ここでテーマとして考えているのは、
コントロールアンプがオーディオシステム全体を監視・管理・制御できるようになり、
さらにはリスニング環境を含めてのことである。
たとえば、こんな機能があっていいと思うのは、
個々のオーディオ機器の診断である。
どんなオーディオ機器であっても、初期性能をずっと維持できるわけではない。
使っているうちに性能は、少しずつ衰えていく。
音が出なくなるとか、ノイズが出るようなったとか、そういう症状が出れば、
修理に出すけれど、そういう症状が出なくとも、初期性能は劣化している。
神経質な人であれば、定期的にメーカー、輸入元にチェックに出すかもしれない。
けれど、どこといって異状の感じられない機器を、しばらくのあいだとはいえ、
リスニングルームから持ち出すことは、気乗りしない。
移動すれば、それだけで事故に合う可能性が出てくる。
たいていは無事戻ってくるだろうが、万が一ということが絶対にないとはいいきれない。
それに振動や衝撃がオーディオ機器に与える影響もある。
できればリスニングルームにおいて、初期性能がどれだけ維持できているのか、
どれだけ性能が劣化しているのか、故障につながるような劣化が発生していないか、
そういったことを、特別な技術的な知識なしに可能になれば──、とおもう。
以前マッキントッシュは、マッキントッシュ・クリニックというアフターサービスを行っていた。
いまもやっているのどうかは調べていないが、
1970年代のアメリカでは行われていたことが、
ステレオサウンド「世界のオーディオ」のマッキントッシュ号に載っている。
数年前から音元出版のオーディオ雑誌は、
記事はすべてカラーになっている。
広告の一部がモノクロである。
ありえないことだが、
もし音元出版がカラー広告とモノクロの広告の料金を同じにしたら……、と考えてみた。
こんなことを考えたのは、アキュフェーズの広告は、
ずっと昔からモノクロで通してきているからである。
アキュフェーズはカラー広告を出すようになるのだろうか。
2003年に酣燈社から「オーディオ 巧みのこころを求めて」が出た。
アキュフェーズの創業者の春日二郎氏の本である。
非売品だが、少なからぬ数が配られているようだがら、読まれた方もいよう。
1975年の文章に、こうある。
*
オーディオ・フェアが10月24日から開かれるが当社は出品しない。これには数百万円の費用がかかり、それだけの効果が期待できないこともあるし、今の当社にはそれだけの経費は負担できない。「出さない話題性」も有効だし、アキュフェーズは別格だというイメージを作り出したい。「そうした費用を製品に造り込んでいるから良いのだ」という見方も生まれる。外部から質問があったら、こんなことを頭に入れておいて答えてほしい。このように一つの理念を貫いて行くことにより、長い年月の間に特別な存在としてのアキュフェーズ像が出来上がってゆくのだ。
*
1980年の文章にも、同じことが書かれている。
*
宣伝は、オーディオ関係の雑誌に白黒の広告を出すだけである。費用のかかるオーディオ・フェアには参加しない。ただし、話題商品を出すことによってオーディオ誌の記事に取り上げられ、自社宣伝の数倍の効果がもたらされている。宣伝費を最小にして、その費用を開発費に当てる方が宣伝になる。販売店にユーザーを集めてシンポジウムを積極的に行ない、販売店のお手伝いをしている。講師は、私をはじめ、社内のメンバーがつとめている。このようなミニコミが高級品の販売には非常に重要である。
*
カラーの広告ばかり出しているところを批判したいわけではない。
カラーの、優れた広告があれば(オーディオ関係ではあまりないけど)、雑誌が映える。
けれど、そういう会社は一つの理念をもって、カラー広告を出しているとは思えない。
アキュフェーズは、これからも一つの理念を貫いて、モノクロの広告を出し続けてほしい。
12月18日ごろに、トランジスタ・プレスという出版社から、
喫茶茶会記の本が出る。
喫茶茶会記、10周年記念の本である。
本が出る(出す)ということは、店主の福地さんから夏ごろに聞いていた。
どんな本に仕上がっているのかは、まだ知らない。
オーディオの想像力の欠如を放っていては、音楽の追体験にとどまる。