Archive for category 基本

Date: 1月 21st, 2017
Cate: 基本, 音楽の理解

それぞれのインテリジェンス(その3)

ベートーヴェンの音楽を理解したいがためのオーディオという行為。
これが私にとっての、40年目のオーディオである。

(その2)を書いて気づいたことがある。
ステレオサウンド 56号に、安岡章太郎氏による「オーディオ巡礼」の書評がある。
最後に、こうある。
     *
 しかし、五味は、最後には再生装置のことなどに心を患わすこともなくなったらしい。五味の良き友人であるS君はいっている。死ぬ半年まえから、五味さんは本当に音楽だけを愉しんでましたよ。ベッドに寝たままヘッド・フォンで、『マタイ受難曲』や『平均率』や、モーツァルトの『レクイエム』をきいて心から幸せそうでしたよ」
     *
ステレオサウンド 55号の原田勲氏の編集後記には、こうある。
     *
 オーディオの〝美〟について多くの愛好家に示唆を与えつづけられた先生が、最後にお聴きになったレコードは、ケンプの弾くベートーヴェンの一一一番だった。
     *
このときの入院では、テクニクスのアナログプレーヤーSL10とカシーバーSA-C02、
それにAKGのヘッドフォンを病室に持ち込まれていた。

EMTの930st、マッキントッシュのC22とMC275、
それにタンノイのオートグラフ。
五味先生の、このシステムからすれば、ずっと小型なシステムで最後は聴かれていた。

五味先生は
《私は多分、五十八歳まで寿命があるはずと、自分の観相学で判じているが、こればかりはあてにならない。》
と書かれていた。
58歳で肺ガンのため死去されている。

病状はひどくなる入院生活で、死期を悟られていたからこそ、
再生装置のことなどに心を患わすことなく音楽を愉しまれた──、
そう受けとめていた。

でも、そればかりではないような気が、ここにきて、している。
ベートーヴェンの音楽への理解にたどりつかれていたからではないだろうか、とも思えるのだ。

ベートーヴェンの音楽だけにとどまらない。
五味先生が生涯を通じて聴き続けてこられ、
聴き込むことで名盤としてこられた音楽、
マタイ受難曲、平均率クラヴィーア、レクイエムなどの深い理解にたどりつかれたからこそ、
再生装置に心を患わすことなく、というところに行かれたのだとすれば、
それは五味先生のネクスト・インテリジェンスなのだろうか。

Date: 1月 20th, 2017
Cate: 基本, 音楽の理解

それぞれのインテリジェンス(その2)

好きな音楽を少しでもいい音で聴きたい、
オーディオマニアなら誰もがそうおもって、オーディオの世界に足を踏み入れたであろう。

「五味オーディオ教室」で出逢って40年。
いまもそうかといえば、そうだと答えながらも、もうそればかりではないことに気づく。

いまもオーディオに、こうも取り組んでいるのかを阿貯めて考えてみると、
私にとっては、ベートーヴェンの音楽を理解したいがためである、ということにたどりつく。

そして「それぞれのネクスト・インテリジェンス」とはいうことについて考えはじめている。

Date: 12月 23rd, 2016
Cate: 基本, 音楽の理解

それぞれのインテリジェンス(その1)

それぞれのインテリジェンス。
そのことを考えるきっかけがあった。

私のインテリジェンスは何かとなると、
音楽の理解であり、
ここでの音楽とは、ベートーヴェンの音楽であり、
バッハであり、ブラームスでもワーグナーの音楽、
つまりはドイツ音楽の理解こそが、そうである。

Date: 7月 27th, 2016
Cate: 基本

基本すぎることだけど、あえて

オーディオの試聴は楽しい。
試聴には必ず接続をしたり外したりする。

アンプの電源が切ってあれば、どうやろうと問題ないといえば確かにそうだ。
それでも習慣として、接続する際には入力から先にして、出力を接ぐ。
接続を外すときには、その逆、出力を外して入力を外す。

これは無意識でそうするようにしておきたい。
電源が入っていないからといって無造作にやっていると、いつか痛い目にあうかもしれないからだ。

Date: 4月 28th, 2016
Cate: 基本

「基本」(スタートレック・スポックのセリフより)

2009年にJ.J.エイブラムス監督によるスタートレックが公開された。
それまでの10作制作された映画「スタートレック」の直接的続編ではなく、
いわゆるリブート版であるが、
カーク、スポックなどおなじみの人物が登場する(もちろん役者は違う)。

この2009年版スタートレックの終りの方で、
スポックがスポックに語るシーンがある。

なぜスポックがスポックに……、と思われるだろうが、
ネタバレになるので書かないでおく。

スポックがスポックにいう。
「論理を捨て正しいと感じることをしろ」と。

なるほどと感心させられるとともに、
この言葉に省略されているところがある、と思った。

スポックは地球人の母とバルカン人の父をもつ。
地球人とバルカン人のハーフである。
そしてスポックはバルカン星のアカデミーをトップの成績で卒業している。

バルカン人は感情をもたずにきわめて論理的である、という設定なのは、
スタートレックのファンならば誰しもが知っていること。

そういうスポックがスポックに言っている。
徹底的に論理を学んできたスポックに、徹底的に論理を学んできたスポックが言っているわけだ。

同じようなシーンを、日本の番組でも見ている。
NHKの連続ドラマの「あまちゃん」でも、そういうシーンがあった。

主人公の天野アキが映画の主役に選ばれる。
映画のクランクインまで、あらゆることを勉強させられる。
そしてクランクイン当日の朝、
共演者である大女優の鈴鹿ひろ美にいわれる。
「いままで勉強してきたこと、すべて忘れてしまいなさい」と。

論理を捨てろ、勉強してきたことを捨てろ、といわれたからといって、
何ひとつ学ばなくてもいい、ということではない。

徹底的に学んだうえで捨てろ、ということで、
スタートレックのスポックのセリフと「あまちゃん」の鈴鹿ひろ美のセリフは共通しているところがある。

Date: 7月 21st, 2015
Cate: 基本

ふたつの「型」(その3)

世の中には器用な人がいる。
はじめてやることでも、なんなくやってみせる人のことを、「あの人は器用だ」だという。

「あの人は器用だ」といってしまうと、
その人の器用さは、その人の才能のように受けとめられるかもしれない。
「あの人は器用だ」と口にしてしまった人も、
器用な人の器用さを、ある種の才能だと思ってそう言ったのかもしれない。

器用であることは、才能のような気もするし、そうでないような気もする。

器用な人であれば、けっこうな腕前でピアノを弾いてしまうだろう。
そういうのを目の当りにすれば、器用であることは才能のようにも思えてくる。

けれど器用な人のピアノと、
グレン・グールド(グールドなくとも他のピアニストでもかまわない)のピアノと、
何が違うのだろうか、と考えたときに、器用と技は違うことに気づく。

Date: 11月 30th, 2014
Cate: 基本

ふたつの「型」(その2)

10年以上前のこと。
美容関係の専門学校でメイクについて教えている人が言っていた。
「私は生徒に基本は教えない。基本を教えると基本から抜け出せなくなるから」と。

こんなことを言っていた女性はメイクの仕事をやっている。
専門学校に通い基本を学んできた人のはずだ。
にも関わらず、彼女はこんなことを言っていた。

確かに「型にはまった」という言い方があるように、
彼女がいわんとしていることもわかるけれども、基本は大事なことである。

その専門学校で彼女がどんなことを生徒に教えていたのか、
他の先生たちが基本を教えていたのであれば、彼女のやり方もありだろうが、
そうでなければ彼女に教えられていた生徒が気の毒になってくる。

「型にはまる」「基本から抜け出せない」といった問題は、
基本を学んだから生じることではない。

正しい基本を正しく身につけることは大事なことであるが、
オーディオにおける「型」とは、どういうことをいうのか。

Date: 11月 26th, 2014
Cate: 基本

ふたつの「型」(その1)

型にはまった、という表現がある。
この場合の型は基本を指していることが多い。

型にはまった音。
もし誰かに音を聴かせたら、こんなことをいわれたら聴かせた方としては嬉しくないはず。
特に欠点はないのだれど、個性のない音とか、その人らしさの感じられない音とか、
そういうふうに受けとることができるからである。

けれどほんとうに基本に忠実な音を出していて、
その音を「型にはまった」といわれたのであれば、それほど悲しむことではないと思う。

基本という型がある。
もうひとつ別の型があると、オーディオには確実にあると思うことが何度もあった。

この場合の型は、その人の音の鳴らし方の癖てある。
どんなにタイプの違うスピーカーシステムであっても、同じ音で鳴らしてしまう人がいる。

こう書いてしまうと、その人の鳴らし方が優れているように思われるかもしれないが、
むしろ逆で、どんなスピーカーにもそのスピーカーならではの良さがあるにも関わらず、
その人が鳴らすと、スピーカー固有の良さは影をひそめ、
その人の癖(個性とは言い難い)にはまってしまった鳴り方しかできなくなっている。

鳴らしている本人は、どんなスピーカーでも自分の音として鳴らせる、と自信満々だったりする。
けれど、その人の音をスピーカーが替るたびに聴いてきた私からすれば、
どのスピーカーでも、結果としての音は同じだから……、と思ってしまう。

スピーカーを替えるよりも、まず自分の型にはまってしまっていることに気づき、
そこから離脱することに精進すべきなのでは、と言おうと思ったことは何度もある。

Date: 3月 27th, 2011
Cate: 基本

「基本」(その9)

「発端への旅」(原題:VOYAGER TO A BEGINNING)を思い出す前から、
瀬川先生の「本」を出すと決めたときから、
ひとつ決めていたことがある。

瀬川先生の「本」のタイトルに関して、だ。

メインタイトルは未定だけれど、サブタイトルは最初から決めていた。
audio identity (beginning) 、である。

このブログのタイトルのほとんど同じだが、私は audio identity を、或る意味としても捉えている。
その発端であるから、beginning をつける。

Date: 9月 24th, 2010
Cate: 基本

「基本」(その8)

「発端への旅」(基本へ立ち返ること)と前に進むことは、メビウスの環における表と裏のようにも思えてくる。
どちらが表(陽の当るほう)で、どちらが裏(陰になるほう)とつねにはっきりとしているのではなく、
メビウスの環のとおり、いつのまにか表立ったのが裏になり、裏にいたものが表になる、というぐあいに。

Date: 9月 23rd, 2010
Cate: 基本

「基本」(その7)

オーディオの世界に入ってくるきっかけは、人それぞれだから、
必ずしも「基本」から入ってくるわけではないないだろう。
オーディオに対する関心が強まってきてから、そして向上のために基本・基礎をしっかりさせておくべき必要性から、
「基本」をきちんと学ぶ人も少なくないはずだ。

「基本」をしっかりと身につければ、あとはもう前に進んでいくだけ、であろうか。
前に進んでいくことで、新しい発見があろう。

けれど新しい発見は前に進むことだけにあるものではない。
オーディオとながいことつきあってきた人ほど、身につけたものが多い人ほど、
いまいちど「基本」に立ち返ってみると、以前に学んだときには見つけ出すことのできなかった発見が、
いくつも見つけ出すことができるはずだ。

「基本」はすべての人に共通しているものはあるし、人それぞれの「基本」ある。
私にとっての、人それぞれの「基本」になるのは、やはり五味先生と瀬川先生の文章ということになる。

だからこれまでにも幾度となく、その「基本」に戻る。
そのたびに、かならずなにか新しい発見がある。だから戻っていくのだが。

コリン・ウィルソンの著書に「発端への旅」(原題:VOYAGER TO A BEGINNING)がある。
「発端への旅」、いいタイトルだと、いまごろ思っている。
この本を手にいれたのは20年近く前のことなのに。

「発端への旅」だけがすべてではないし、前に進んでいくことも大事だ。
それに「基本」も、こういった性質のものだけではなく、オーディオを構成する技術の「基本」──、
つまりすべての人に共通する「基本」にも立ち返ってみることも、
新しい発見、あえていえば、新しい再発見のためにも必要なことだと認識しておきたい。

Date: 6月 13th, 2010
Cate: 基本

「基本」(その6)

オーディオの「基本」とは、いったいどういうことがあるのだろうか。

オーディオは科学技術の産物であるから、そういった基本はある。
基本は、でもそれだけではない。

つくり手側の基本もあれば、つかい手側の基本もある。

最近、なんとなくではあるが感じているのが、つかい手側の基本が、ないがしろにされがちなこと。
このことを、いま強く感じるのが、いわゆるPCオーディオと呼ばれているものに対して、である。
オーディオとコンピューターの融合については、積極的でありたい。
でも、以前書いているように、PCオーディオという呼称は、はっきりいって気に喰わない。
だから、基本がないがしろにされている、といいたいのではない。

オーディオの基本は、やはり「美」を求めることであるはず。

このことを意図的に無視しているのか、それとも、もともと考えていないのか、
「美」のまったくといっていいほど存在しないOSを使い音楽を聴くという行為が、
私にはまったく理解できない。オーディオの大事な「基本」を、どこかに追いやったまま、
音を語るのはただ虚しいだけではないのか。

Date: 8月 16th, 2009
Cate: 基本

「基本」(その5)

ヤルヴィのベートーヴェンを聴いたあとに、
フルトヴェングラー、バーンスタイン、ジュリーニのベートーヴェンを聴く。

ヤルヴィの演奏をきいた耳で聴くと、聴きなれていたディスクに、再発見がある。
己の、聴き手としての未熟さに気づかされるわけだが、それもまたいい。
未熟さに気づかずに、これから先ずっと聴いていってたとしたら、
なにかとりかえしのつかないことをしでかした気持になるというものだろう。

だから、ヤルヴィのベートーヴェンは、ちょっとしたひとつの事件だった。

そして、私にとっての基本は、正三角形の頂点で聴くことだけではない。
わずか数人だが、信じている人がいる。
その人の言うことならば、とにかく、すべて信じることにしている。
黒田先生がそうだし、川崎先生も、私にとってはそうだ。

このことが、私にとっての、いちばんの基本である。
すべての人を疑ってかかるのも、その人なりの生き方だろうし、
私が信じている人を信じないのも、人それぞれだろう。

信じられる人がいるということは大事なことだし、
信じられる人がいないということは、哀しいことではないか。

Date: 8月 16th, 2009
Cate: 基本

「基本」(その4)

パーヴォ・ヤルヴィのベートーヴェンは、9月に「第九」が発売になり、全集が完成する。

黒田先生の、サライの記事を読むまで、まったくヤルヴィへの関心はなかった。
ベートーヴェンを録音していることも、知らなかった。
今回、サライを読んでなかったら、聴く機会はずっと後になっただろうし、
最悪、聴かずじまいだったかもしれない。

レコード店で、実際手にしてみて、SACDだということに驚いた。
六番、二番のカップリングのディスクだけでなく、他のディスクもSACDである。

RCAレーベルとはいえ、SACDに対して、そっけない態度をとっているソニーに吸収されているのに、
よくぞ出してくれた、とうれしくなる。

しかもベーレンライター版を使っての、演奏でもある。
これらのことが関係しているのか、1980年代の後半に、
フランス・ブリュッヘン指揮18世紀オーケストラによるベートーヴェンを聴いたときの新鮮さを、
もちろん性格の違う新鮮さであるが、ふたたび感じられた。

黒田先生も書かれているように「ベートーヴェンを再発見できる」。

Date: 8月 16th, 2009
Cate: 基本

「基本」(その3)

微調整のあと、もういちどパーヴォ・ヤルヴィのベートーヴェンの「田園」交響曲の第4楽章をかける。
微調整の時にかけていたディスクの音の変化から、こんな感じで鳴ってくれるだろうと予測の範疇を超え、
アグレッシヴで、力に富んだ鳴り方に、黒田先生の言葉をまた引用すれば、
「描写音楽の迫力にあらためて圧倒されないではいられない」。

ただ精緻さにおいては、以前のセッティングにくらべて、やや後退したものの、どちらをとるかといえば、
しばらくは、このセッティングのまま、細部を追い込んでいこうと思う。

不思議なことに、他のディスクでは、正三角形のセッティングのほうが精緻さでもまさる。
優秀録音と云われるものほど、いかに緻密な録音を行なっているかが、はっきりと示される。

もちろん、あらゆる条件において、正三角形のセッティングが最良の結果を得られるわけではない。
それでも、スピーカーのセッティングに迷ってしまったら、いちど試してみる価値はある。