Archive for category 基本

Date: 9月 14th, 2022
Cate: 基本, 音楽の理解

それぞれのインテリジェンス(その8)

紀伊國書店で、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルトらの教育法、
子育てについて訊ねていた女性は、想像するに幼い子供の母親なのだろう。

その子供が音楽に関心を示し、才能の片鱗を感じさせたのだろうか。
母親として、子供の音楽の才能をのばしたい、
モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルトのような音楽家に育ってほしい。

そのためにはどういう子育て、教育法が求められるのか。
それを知りたい一心での問合せだったような気がする。

品のいい女性だった。
年の頃は三十前後か。

おそらく彼女は、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルトが、
どういう家庭環境で育ったのか、まったく知らないのだろう。

(その7)で引用した五味先生の文章にあるようなシューベルトを想像していたのだろう。
モーツァルトもベートーヴェンも同じような感じでの想像だったのだろう。

《映画なんかでは、大へんロマンティックな恋をする音楽青年が登場して、伝記風にその生涯が描かれてゆくが、本当は、一度のロマンスにもめぐまれなかったシューベルトは青年》、
まさか梅毒に罹って、苦しみ抜いた青年、
そんなふうにはまったく思っていなかったのだろう。

勝手な、これは私の想像でしかないのだが、
育ちのよさそうな女性の横顔をみていると、そんな気がしてならなかった。

Date: 8月 29th, 2022
Cate: 基本, 音楽の理解

それぞれのインテリジェンス(その7)

ここ数週間、シューベルトを聴くことが増えている。
主に交響曲を聴いている。

九番を、主に聴いている。
一楽章から聴きはじめると、四楽章まで聴くことが多い。
長いから、途中で、と思うこともあるのだが、
聴きはじめると最後まで聴いている。

そのあいまに、シューベルトの他の曲を聴く。
聴きながら、というか、聴き終ってひとつ思い出すことがあった。

その前に、五味先生の文章を読んでほしい。
      *
 もともとシューベルトという人は、細ぶちの眼鏡をかけ、羽ペンを把った肖像画などから大へん風采のすぐれた青年のごとき印象を私たちに与えてくれるが、ほんとうは、短身で、ねこ背で、ひどい近視で、そのうえ顔色のさえぬ見すぼらしい人物だった。加えるに、会話がへたで、自分の思っていることも満足に表現できず、いつも、オロオロしていたそうだ。
 気心の知れた友人や、したしい者にはうちとけて話をしたが、初対面の相手には非常に臆病で、そわそわし、とくに女性に対してはこの傾向がいちじるしかったという。女性の前に出ると口もきけぬ、小心でちびで、貧乏なそんな男が女性にモテるわけがない。映画なんかでは、大へんロマンティックな恋をする音楽青年が登場して、伝記風にその生涯が描かれてゆくが、本当は、一度のロマンスにもめぐまれなかったシューベルトは青年なのである。彼の音楽が湛えているロマンティックな香気、抒情性は、あくまで彼の魂の内だけのもので、その才能が生み出したものであり、現実はみじめで暗い青春だった。
 私は、そんな実在のシューベルトが好きだ。女性に一度も愛されたことがなく、性病をわずらって(おそらくタチのわるい娼婦にかかったのだろう)その性病に苦しみぬいて死んだ青年が、あれだけ珠玉の作品をうみ出していることに泣けてくる。いつの場合にも、芸術はそういうものだし悲惨な生活で紡むぎ出された美の世界とはわかっているが、でも、ベートーヴェンやブラームス——あのマーラーに比してさえ——シューベルトの実人生は痛ましすぎる。
 そんなシューベルトの暗い影と、天分のあざやかなコントラストが手にとるようにわかるのが、作品一五九のこの『幻想曲』だ。曲としては、彼のヴァイオリン・ソナタの第四曲目にあたるが、ソナタ形式の伝統からかなり逸脱していて、全曲は途切れることなく(楽章別の長い休止をおかずに)演奏される。曲趣もボヘミア的、スラブ的な色彩がつよいので、ソナタの名称を用いず『幻想曲』風にまとめられた。
 まあ、そんなことはどうでもいい。とにかく、一度この曲を聴いてほしい。こんな旋律の美しい、哀しい、日本のわれわれにもわかりやすい、いい意味での甘さ、感傷に満ちた作品は、そうざらにはない。しかも優婉で、高雅である。どうしてこれほど天分ゆたかな青年芸術家を、周囲の女性——おもに良家の令嬢——はわかろうとしなかったんだろう、愛せなかったのであろう……そんな余計なことまで考えたことが、私にはあった。——もっともこれが初演されたとき、幻想曲としては長大すぎるので演奏の途中で、帰ってしまった批評家がいたそうだ。「常識以上の長さ」と冷評した専門家がいたともいう。大方の音楽家でさえ当時はそんな無理解でしか、シューベルトに接しなかったのだから、令嬢たちが無知だったとは、いちがいに言えないが、しかし、聴けば分ることである。
 一体、どこに退屈する余地があろう、全篇、いきをのむ美しさではないかと、私なんかは当時の批評家とやらのバカさ加減にあきれたものだが、まあ、そんなこともどうでもいい。とにかくお聴きになってほしい。
(「ベートーヴェンと蓄音機」より)
     *
シューベルトも天才である。
モーツァルトもベートーヴェンも、そうである。

いまから三十年ほど前のこと。
平成になって二年ぐらい経ったころだった、
新宿の紀伊國書店で本を探していた時、ある女性が店員に訊ねていた。

「モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルトについての子育て、
教育法についての本はありませんか」と。

Date: 7月 10th, 2022
Cate: 基本, 音楽の理解

それぞれのインテリジェンス(その6)

TIDALを利用して音楽を聴くようになって、約一年半。
この一年半のあいだに何が変ってきたのか。

まず一つは、毎月の支払額が高くなっている。
TIDALの料金が上っているのではなく、円安ドル高の影響を受けて、である。

PayPalを利用してTIDALの料金を払っていることもあって、
先月は2,800円を超えていた。
高い、とは思っていないのだが、一年半前からすれば、けっこうな値上げでもある。

まだまだ円安が進めば、3,000円を超えるだろう。
それでもTIDALをやめることはまったく考えていない。

そのTIDALのおかげで、新しい演奏家の録音も、かなり積極的に聴いている。
いまに始まったことではないのだが、新しい演奏家の演奏テクニックは向上している。

私が、ここで書いている演奏家とはクラシックの演奏家のことなのだが、
このことはクラシックの世界だけではなく、ジャズでも、他の音楽の世界でもそのはずだ。

それにアイディアといっていいものだろうか、とちょっと迷うけれど、
アイディアも新しいところがあったりする。

なるほどすごいなぁ、と感心する。
けれども……、でもある。
そこから先が、あまりないように感じてしまうからだ。

そこから先の世界の拡がり、深まりが、
私が若いころ夢中になって聴いてきた、いわゆる往年の演奏家よりも、
狭く浅く感じてしまう。

なぜだろうか、とは思うし、その理由を考えてみたりもする。
世代の違いからくることなのか。
他にも、いくつか理由らしきものがあったりするのだが、
結局のところ、音楽、それも録音された音楽は、
その時代の音楽であるだけでなく、未来に放たれた矢でもある。

Date: 6月 25th, 2019
Cate: 基本, 音楽の理解

それぞれのインテリジェンス(その5)

クラシックの演奏家の違いによる演奏を、
楷書と草書にふたつだけで分類して語るのは無理があるのはわかっていても、
それでもマーラーの交響曲で、
しかも同じドイツグラモフォンでの録音でも、
アバドとバーンスタインのマーラーは、(別項)で書いているように、
アバドは楷書的、バーンスタインは草書的、と口走りたくなる。

昨年のことなのだが、ある人のリスニングルーム兼仕事場にいた。
CD棚を見ていて、バーンスタインのマーラーがあるのに気づいた。

そのCD棚はクラシックのCDばかりがあったわけではない。
ジャズもあれば、ロック、ポップスもあった。

部屋の主の好きな音楽が並んでいる。

それでもバーンスタインのマーラー(ドイツグラモフォン盤)が目に入ってきた。
これだけでも嬉しいのだが、その隣にはアバドのマーラーも並んでいた。

人それぞれだから……、と何度も書いているし、
その4)でも書いている。
別項でベートーヴェンの「第九」について書いているけれど、
そこでも、人それぞれだから……、ということになる。

同世代であっても、オーディオという共通の趣味をもっていても、
同じようにステレオサウンドを始めとするオーディオ雑誌を、学生時代に読んでいても、
やっぱり人それぞれなんだぁ……、とおもう。

人それぞれ──、そうであっても、
バーンスタインのマーラーとアバドのマーラーが並んでいるCD棚があれば、
この部屋の主とは、世代も違うし、いろんなことが違うけれど、
もしかすると私と同じ(もしくは近い)マーラーの聴き方をされているのかも……、と思ってしまう。

Date: 7月 16th, 2018
Cate: 基本
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BTS

BTS(Broadcasters Technical Standard)。
日本語でいえば、放送技術規格である。

いまではほとんど耳にすることもなくなっている。
それでも私が20代のころは、真空管アンプを自作しようとすれば、
少なくともトランスのケースに関しては、BTS準拠のケースがひとつのスタンダードでもあった。

それからダイヤトーンの2S305。
これもBTS準拠のスピーカーシステムである。
ダイヤトーンのロクハンP610も、もちろんそうである。

あのころはまだBTSという言葉がまだ使われていた。
それでもBTSという規格がどういうものなのか、そのすべてを知っていたわけではないし、
むしろ知っていたのは、ごくごく狭い範囲のことだけである。

BTSという言葉は使っていながらも、
その実体(どこまで広く、そして細かいのか)は、周りの人もほとんど知らなかった。

BTSはNHKが制定したものだから、NHKに行けば規格書があるんだろうな……、
そのぐらいの認識しか持ってなかった。

けれど、都立図書館に行けば、読めるということを昨日初めて知った。
教えてくれたOさんは、仲間数人といっしょにほぼすべてをコピーされている。

BTS規格は、存在意義がなくなったため、2001年7月にすべての規格が廃止されている。
そんな古い規格なんて、資料価値もない、のかもしれないが、
コピーされた、そうとうなページをめくっていると、ネジ一本まで、
BTSでは定められていることがわかる。

BTSについてまったく知らなくとも、
オーディオを鳴らす上で何の支障はない。

趣味でもあるわけだから、知っておくのも一興だろう。
いまとなっては何かの役に立つわけではないけれども。

Date: 12月 2nd, 2017
Cate: 基本, 音楽の理解

それぞれのインテリジェンス(その4)

人それぞれだから……、と何度も書いている。
ここ二、三年、そう書くことが多くなった。

人それぞれだから……、という表現を使う時、
私は、そのほとんどが、もうどうにもならないことだから……、
いまさらあれこれいっても……、という気持である。

言葉や時間をどれだけ費やしたところで、
伝わらない相手には、何ひとつ伝わらない、ということを実感している。

オーディオという狭い世界の中でも、そうである。

相手の年齢、職業、性別など、そんなことはまったく関係なく、
伝わらない人が世の中には、いる。

けれど、そんな人ばかりではないことも実感している。
伝わる人には、こちらの拙い表現でもきちんと伝わる。

それぞれのインテリジェンスということを実感している。

Date: 1月 21st, 2017
Cate: 基本, 音楽の理解

それぞれのインテリジェンス(その3)

ベートーヴェンの音楽を理解したいがためのオーディオという行為。
これが私にとっての、40年目のオーディオである。

その2)を書いて気づいたことがある。
ステレオサウンド 56号に、安岡章太郎氏による「オーディオ巡礼」の書評がある。
最後に、こうある。
     *
 しかし、五味は、最後には再生装置のことなどに心を患わすこともなくなったらしい。五味の良き友人であるS君はいっている。死ぬ半年まえから、五味さんは本当に音楽だけを愉しんでましたよ。ベッドに寝たままヘッド・フォンで、『マタイ受難曲』や『平均律』や、モーツァルトの『レクイエム』をきいて心から幸せそうでしたよ」
     *
ステレオサウンド 55号の原田勲氏の編集後記には、こうある。
     *
 オーディオの〝美〟について多くの愛好家に示唆を与えつづけられた先生が、最後にお聴きになったレコードは、ケンプの弾くベートーヴェンの一一一番だった。
     *
このときの入院では、テクニクスのアナログプレーヤーSL10とカシーバーSA-C02、
それにAKGのヘッドフォンを病室に持ち込まれていた。

EMTの930st、マッキントッシュのC22とMC275、
それにタンノイのオートグラフ。
五味先生の、このシステムからすれば、ずっと小型なシステムで最後は聴かれていた。

五味先生は
《私は多分、五十八歳まで寿命があるはずと、自分の観相学で判じているが、こればかりはあてにならない。》
と書かれていた。
58歳で肺ガンのため死去されている。

病状はひどくなる入院生活で、死期を悟られていたからこそ、
再生装置のことなどに心を患わすことなく音楽を愉しまれた──、
そう受けとめていた。

でも、そればかりではないような気が、ここにきて、している。
ベートーヴェンの音楽への理解にたどりつかれていたからではないだろうか、とも思えるのだ。

ベートーヴェンの音楽だけにとどまらない。
五味先生が生涯を通じて聴き続けてこられ、
聴き込むことで名盤としてこられた音楽、
マタイ受難曲、平均律クラヴィーア、レクイエムなどの深い理解にたどりつかれたからこそ、
再生装置に心を患わすことなく、というところに行かれたのだとすれば、
それは五味先生のネクスト・インテリジェンスなのだろうか。

Date: 1月 20th, 2017
Cate: 基本, 音楽の理解

それぞれのインテリジェンス(その2)

好きな音楽を少しでもいい音で聴きたい、
オーディオマニアなら誰もがそうおもって、オーディオの世界に足を踏み入れたであろう。

「五味オーディオ教室」で出逢って40年。
いまもそうかといえば、そうだと答えながらも、もうそればかりではないことに気づく。

いまもオーディオに、こうも取り組んでいるのかを改めて考えてみると、
私にとっては、ベートーヴェンの音楽を理解したいがためである、ということにたどりつく。

そして「それぞれのネクスト・インテリジェンス」とはいうことについて考えはじめている。

Date: 12月 23rd, 2016
Cate: 基本, 音楽の理解

それぞれのインテリジェンス(その1)

それぞれのインテリジェンス。
そのことを考えるきっかけがあった。

私のインテリジェンスは何かとなると、
音楽の理解であり、
ここでの音楽とは、ベートーヴェンの音楽であり、
バッハであり、ブラームスでもワーグナーの音楽、
つまりはドイツ音楽の理解こそが、そうである。

Date: 7月 27th, 2016
Cate: 基本

基本すぎることだけど、あえて

オーディオの試聴は楽しい。
試聴には必ず接続をしたり外したりする。

アンプの電源が切ってあれば、どうやろうと問題ないといえば確かにそうだ。
それでも習慣として、接続する際には入力から先にして、出力を接ぐ。
接続を外すときには、その逆、出力を外して入力を外す。

これは無意識でそうするようにしておきたい。
電源が入っていないからといって無造作にやっていると、いつか痛い目にあうかもしれないからだ。

Date: 4月 28th, 2016
Cate: 基本

「基本」(スタートレック・スポックのセリフより)

2009年にJ.J.エイブラムス監督によるスタートレックが公開された。
それまでの10作制作された映画「スタートレック」の直接的続編ではなく、
いわゆるリブート版であるが、
カーク、スポックなどおなじみの人物が登場する(もちろん役者は違う)。

この2009年版スタートレックの終りの方で、
スポックがスポックに語るシーンがある。

なぜスポックがスポックに……、と思われるだろうが、
ネタバレになるので書かないでおく。

スポックがスポックにいう。
「論理を捨て正しいと感じることをしろ」と。

なるほどと感心させられるとともに、
この言葉に省略されているところがある、と思った。

スポックは地球人の母とバルカン人の父をもつ。
地球人とバルカン人のハーフである。
そしてスポックはバルカン星のアカデミーをトップの成績で卒業している。

バルカン人は感情をもたずにきわめて論理的である、という設定なのは、
スタートレックのファンならば誰しもが知っていること。

そういうスポックがスポックに言っている。
徹底的に論理を学んできたスポックに、徹底的に論理を学んできたスポックが言っているわけだ。

同じようなシーンを、日本の番組でも見ている。
NHKの連続ドラマの「あまちゃん」でも、そういうシーンがあった。

主人公の天野アキが映画の主役に選ばれる。
映画のクランクインまで、あらゆることを勉強させられる。
そしてクランクイン当日の朝、
共演者である大女優の鈴鹿ひろ美にいわれる。
「いままで勉強してきたこと、すべて忘れてしまいなさい」と。

論理を捨てろ、勉強してきたことを捨てろ、といわれたからといって、
何ひとつ学ばなくてもいい、ということではない。

徹底的に学んだうえで捨てろ、ということで、
スタートレックのスポックのセリフと「あまちゃん」の鈴鹿ひろ美のセリフは共通しているところがある。

Date: 7月 21st, 2015
Cate: 基本

ふたつの「型」(その3)

世の中には器用な人がいる。
はじめてやることでも、なんなくやってみせる人のことを、「あの人は器用だ」だという。

「あの人は器用だ」といってしまうと、
その人の器用さは、その人の才能のように受けとめられるかもしれない。
「あの人は器用だ」と口にしてしまった人も、
器用な人の器用さを、ある種の才能だと思ってそう言ったのかもしれない。

器用であることは、才能のような気もするし、そうでないような気もする。

器用な人であれば、けっこうな腕前でピアノを弾いてしまうだろう。
そういうのを目の当りにすれば、器用であることは才能のようにも思えてくる。

けれど器用な人のピアノと、
グレン・グールド(グールドなくとも他のピアニストでもかまわない)のピアノと、
何が違うのだろうか、と考えたときに、器用と技は違うことに気づく。

Date: 11月 30th, 2014
Cate: 基本

ふたつの「型」(その2)

10年以上前のこと。
美容関係の専門学校でメイクについて教えている人が言っていた。
「私は生徒に基本は教えない。基本を教えると基本から抜け出せなくなるから」と。

こんなことを言っていた女性はメイクの仕事をやっている。
専門学校に通い基本を学んできた人のはずだ。
にも関わらず、彼女はこんなことを言っていた。

確かに「型にはまった」という言い方があるように、
彼女がいわんとしていることもわかるけれども、基本は大事なことである。

その専門学校で彼女がどんなことを生徒に教えていたのか、
他の先生たちが基本を教えていたのであれば、彼女のやり方もありだろうが、
そうでなければ彼女に教えられていた生徒が気の毒になってくる。

「型にはまる」「基本から抜け出せない」といった問題は、
基本を学んだから生じることではない。

正しい基本を正しく身につけることは大事なことであるが、
オーディオにおける「型」とは、どういうことをいうのか。

Date: 11月 26th, 2014
Cate: 基本

ふたつの「型」(その1)

型にはまった、という表現がある。
この場合の型は基本を指していることが多い。

型にはまった音。
もし誰かに音を聴かせたら、こんなことをいわれたら聴かせた方としては嬉しくないはず。
特に欠点はないのだれど、個性のない音とか、その人らしさの感じられない音とか、
そういうふうに受けとることができるからである。

けれどほんとうに基本に忠実な音を出していて、
その音を「型にはまった」といわれたのであれば、それほど悲しむことではないと思う。

基本という型がある。
もうひとつ別の型があると、オーディオには確実にあると思うことが何度もあった。

この場合の型は、その人の音の鳴らし方の癖てある。
どんなにタイプの違うスピーカーシステムであっても、同じ音で鳴らしてしまう人がいる。

こう書いてしまうと、その人の鳴らし方が優れているように思われるかもしれないが、
むしろ逆で、どんなスピーカーにもそのスピーカーならではの良さがあるにも関わらず、
その人が鳴らすと、スピーカー固有の良さは影をひそめ、
その人の癖(個性とは言い難い)にはまってしまった鳴り方しかできなくなっている。

鳴らしている本人は、どんなスピーカーでも自分の音として鳴らせる、と自信満々だったりする。
けれど、その人の音をスピーカーが替るたびに聴いてきた私からすれば、
どのスピーカーでも、結果としての音は同じだから……、と思ってしまう。

スピーカーを替えるよりも、まず自分の型にはまってしまっていることに気づき、
そこから離脱することに精進すべきなのでは、と言おうと思ったことは何度もある。

Date: 3月 27th, 2011
Cate: 基本

「基本」(その9)

「発端への旅」(原題:VOYAGER TO A BEGINNING)を思い出す前から、
瀬川先生の「本」を出すと決めたときから、
ひとつ決めていたことがある。

瀬川先生の「本」のタイトルに関して、だ。

メインタイトルは未定だけれど、サブタイトルは最初から決めていた。
audio identity (beginning) 、である。

このブログのタイトルのほとんど同じだが、私は audio identity を、或る意味としても捉えている。
その発端であるから、beginning をつける。