Archive for category Wilhelm Furtwängler

Date: 11月 1st, 2008
Cate: Wilhelm Furtwängler

1932年

フルトヴェングラーの「音楽ノート」の所収の「カレンダーより」の1932年に、
ラジオの聴衆が音楽会から受けとる、あの栄養素のない、ひからびて生気のぬけた煎じ出しを
心底から音楽会の完全な代用物とみなすことができるのは、
もはや生の音楽会が何であるかを知らない人たちだけである。
と書いている。

フルトヴェングラーはレコードを信用していなかったことは有名な話である。
だから、この記述に驚きはしないが、この1932年9月25日にグレン・グールドは生を受けている。

単なる偶然、そう、たぶんそのとおりだろう。
けれど、ごっちゃにしすぎと言われそうだが、
菅野沖彦、長島達夫、山中敬三の三氏の誕生月も、1932年の9月である。

レコードの可能性、オーディオの可能性を信じてきた人たちが、ここに集中しているのは、
ほんとうに偶然なのだろうか。

Date: 9月 6th, 2008
Cate: Wilhelm Furtwängler, 言葉

「比較ではなく没頭を」

「比較ではなく没頭を」──フルトヴェングラーの言葉である。 
「音楽現代」7月号から連載がはじまった「フルトヴェングラーの遺言」(野口剛夫)で、
最初に取りあげられたのが、この言葉である。

1954年11月にフルトヴェングラーは亡くなっているから、残されている彼の録音はモノーラルであり、
夥しいライヴ録音には、けしていい録音とは言えないものも多い。 
にも関わらず、スタジオ録音、ライヴ録音に関係なく、
CD時代になり、リマスター盤が多く出ている。SACDまで出ている。 
マスターテープからの復刻、テープの劣化を嫌って、オリジナルLPからの復刻、
その方法も20ビットハイサンプリングでデジタル化などもある。 
それらすべてを聴いたわけでは、勿論ない。聴くつもりもない。

それでも、いくつかを聴くと、たしかに音は異なる。 
もっともアナログディスクもなんども復刻されている。 

グールドも、リマスターの種類は多い。 

オリジナルLPを含めて、どれがいいのか、どう違うのか、比較するのは楽しいといえば楽しい。 
情報もモノもあふれているいまは、比較をしようと思えばいくらでもできる。
そして、自分なりに感じたその違いを、簡単に公表できる。
これが、比較することをあおっているような気もする。 

レコードに限らない、よりよいモノを求めるために比較する、そんな声がきこえてくる。 
けれど、それは比較することに没頭してしまう罠に嵌ってしまうかもしれない。 

いうまでもなく没頭したいのは、
フルトヴェングラーの演奏であり、グールドの演奏であるのはいうまでもない。 
そして、よりよいモノ、最上のモノを選んだとしたも、
結局、あたえられたものを聴いているのだということに気づいてほしい。