Archive for category Wilhelm Furtwängler

Date: 9月 9th, 2022
Cate: Wilhelm Furtwängler, ディスク/ブック

Brahmus: Symphony No.1(Last Movement, Berlin 23.01.1945)

五味先生の「レコードと指揮者」からの引用だ。
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 もっとも、こういうことはあるのだ、ベルリンが日夜、空襲され、それでも人々は、生きるために欠くことのできぬ「力の源泉」としてフルトヴェングラーの音楽を切望していた時代——くわしくは一九四五年一月二十三日に、それは起った。カルラ・ヘッカーのその日を偲ぶ回想文を薗田宗人氏の名訳のままに引用してみる——
「フルトヴェングラーの幾多の演奏会の中でも、最後の演奏会くらい強烈に、恐ろしいほど強烈に、記憶に焼きついているものはない。それは一九四五年一月二十三日——かつての豪華劇場で、赤いビロードを敷きつめたアドミラル館で行なわれた。毎晩空襲があったので、演奏会は午後三時に始まった。始まってまもなく、モーツァルトの変ホ長調交響曲の第二楽章の最中、はっと息をのむようなことが起った。突如明りが消えたのである。ただ数個の非常ランプだけが、弱い青っぽい光を音楽家たちと静かに指揮しつづけるフルトヴェングラーの上に投げていた。音楽家たちは弾き続けた。二小節、四小節、六小節、そして響はしだいに抜けていった。ただ第一ヴァイオリンだけが、なお少し先まで弾けた。痛ましげに、先をさぐりながら、とうとう優しいヴァイオリンの旋律も絶え果てた。フルトヴェングラーは振り向いた。彼のまなざしは聴衆と沈黙したオーケストラの上を迷った。そしてゆっくりと指揮棒をおろした。戦争、この血なまぐさい現実が、今やはっきりと精神的なものを打ち負かしたのだ。団員がためらいながらステージを降りた。フルトヴェングラーが続いた。しばらくしてからやっと案内があって、不慮の停電が起りいつまで続くか不明とのことであった。ところが、この曖昧な見込みのない通知を聞いても、聴衆はただの一人も帰ろうとはしなかった。凍えながら人びとは、薄暗い廊下や、やりきれない陰気な中庭に立って、タバコを吸ったり、小声で話し合ったりしていた。舞台の裏では、団員たちが控えていた。彼らも、いつものようにはちりぢりにならず、奇妙な形の舞台道具のあいだに固まっていた。まるでこうしていっしょにいることが、彼らに何か安全さか保護か、あるいは少なくとも慰めを与えてくれるかのように。フルトヴェングラーは、毅然と彼らのあいだに立っていた。顔には深い憂慮が現われていた。これが最後の演奏会であることは、もうはっきりしていた。こんな事態の行きつく先は明瞭だった。もうこれ以上演奏会がないとすれば、いったいオーケストラはどうなるというのだ。」
 このあと一時間ほどで、待ちかねた演奏会は再開される。ふつう演奏が中断されると、その曲の最初からくりかえし始められるのがしきたりだが、フルトヴェングラーはプログラムの最後に予定されたブラームスの交響曲から始めた、それを誰ひとり不思議とは思わなかった。あのモーツァルトの「清らかな喜びに満ちて」優美な音楽は、もうこの都市では無縁のものになったから、とカルラ・ヘッカーは書きついでいるが、何と感動的な光景だろうか。おそらく百年に一度、かぎられた人だけが立会えた感動場面だったと思う。こればかりはレコードでは味わえぬものである。脱帽だ。
     *
この「レコードと指揮者」を読んだ頃、
フルトヴェングラーのブラームスの一番といえば、
1951年、ベルリン・フィルハーモニーとのライヴ録音の世評は高かった。

こういものを読むと、聴きたくなる。
1945年のドイツでの演奏会の録音が残されているとは、当時は思わなかった。

けれど残っているものである。
最終楽章のみ録音が残っている。

私が聴いたのは、Music & ArtsのCDだった。
フルトヴェングラーのブラームスの演奏を集めた四枚組ぐらいのCDだった。

そこに1945年1月23日のブラームスの一番の最終楽章があった。
1990年ごろだったはずだ。

五味先生の文章を読んで十年ほど経っていた。
いまはTIDALでも聴くことができる。

なので先日、久しぶりに聴いた。
前回きいた時から、二十年近く経っていた。

Date: 8月 19th, 2018
Cate: Wilhelm Furtwängler

フルトヴェングラーのことば(その2)

フルトヴェングラーが1929年に発表した「指揮の諸問題」に、こう書いてある。
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 アメリカ的な様式に見られるオーケストラ崇拝、総じて素材的な面における楽器崇拝は、現在の技術的な思考方式に即応している。「楽器」がもはや音楽のために存在しなくなれば、ただちに音楽が楽器のために存在するようになる。「ハンマーになるか、鉄敷(かなしき)になるか」の言葉が、ここにもまた当てはまる。それによってすべての関係が逆になる。そしていまや、アメリカから私たちに「模範的」なものとして呈示される、あの技術的に「無味乾燥な」演奏の理想が姿を見せるようになる。それはオーケストラ演奏においては均整のとれた、洗練された音色美を通して顕示され、この音色美は決して一定の限度を越えることなく、楽器それ自体の音色美という一種の客観的な理想を追うのである。ところで作曲家の意図は、このように「美しく」響くということになるのだろうか。むしろ、このようなオーケストラや指揮者によって、ベートーヴェンの律動的・運動的な力ならびに音の端正さがまったく損われてしまうことは明らかである。
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「指揮の諸問題」なのだが、現在のオーディオの諸問題にも読める。
この「指揮の諸問題」の初めのほうには、こうも書かれている。
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 芸術における技術的なものの意義、それは以前の、非合理性に傾いていた時代には過小評価されがちであったが、今日ではむしろ過大評価されている。
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これはある種のスポーツ化ともいえるような気がしてくる。
より高度な技を、より精度高く演じていくことで、
現代の、たとえば体操、フィギュアスケートは高得点を得られるのではないのか。

それはそれで、凄いことではあるけれど、ずっと以前とは違ったものになりつつあるようにも感じる。

スポーツも演奏も、どちらも肉体を駆使しての結果であるのだから──、
という考え方は成り立つのだろうが、それでも「違う」といいたくなる。

「指揮の諸問題」はいまから90年前に書かれている。
それをいま読んで、オーディオにあてはめている。

《「楽器」がもはや音楽のために存在しなくなれば、ただちに音楽が楽器のために存在するようになる。》
楽器をスピーカーにおきかえれば、
《「スピーカー」がもはや音楽のために存在しなくなれば、ただちに音楽がスピーカーのために存在するようになる。》
となる。

《「美しく」響くということになるのだろうか》は、
いまならば
《「スマートに」響くということになるのだろうか》だ。

Date: 8月 4th, 2018
Cate: Wilhelm Furtwängler

フルトヴェングラーのことば(その1)

フルトヴェングラーの「音と言葉」。
「アントン・ブルックナーについて」という章で、こう書いてある。
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もう二十年以上も前になりますが、あらゆる世界の国々の全音楽文献をあさって、最も偉大な作品は何かという問合せが音楽会全般に発せられたことがありました。この質問は国際協会(グレミウム)によって丹念に調査されたうえ、回答されました。人々の一致した答えは、──『マタイ受難曲』でもなければ、『第九シンフォニー』でも、『マイスタージンガー』でもなく、オペラ『カルメン』ということに決定されました。こういう結果が出たのも決して偶然ではありません。もう小粋(エレガンス)だとか、「申し分のない出来」とか、たとえば「よくまとまっている」とかいうことが第一級の問題として取り上げられるときは、『カルメン』は例外的な高い地位を要求するに値するからです。しかしそこにはまた我々ドイツ人にとってもっとふさわしい、もっとぴったりする基準もあるはずです。
(新潮文庫・芳賀檀 訳より)
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「アントン・ブルックナーについて」は1939年だから、20年前というと1919年以前。
ニイチェが亡くなったのが1900年。
ニイチェの「ワーグナーの場合」のこと。

そんなことも考えながら、もっとふさわしい基準、もっとぴったりする基準、
名曲はオーディオの名器にも置き換えられる。

いろんなことにつながっていき、いろんなことを考えさせられる。

Date: 11月 1st, 2008
Cate: Wilhelm Furtwängler

1932年

フルトヴェングラーの「音楽ノート」の所収の「カレンダーより」の1932年に、
ラジオの聴衆が音楽会から受けとる、あの栄養素のない、ひからびて生気のぬけた煎じ出しを
心底から音楽会の完全な代用物とみなすことができるのは、
もはや生の音楽会が何であるかを知らない人たちだけである。
と書いている。

フルトヴェングラーはレコードを信用していなかったことは有名な話である。
だから、この記述に驚きはしないが、この1932年9月25日にグレン・グールドは生を受けている。

単なる偶然、そう、たぶんそのとおりだろう。
けれど、ごっちゃにしすぎと言われそうだが、
菅野沖彦、長島達夫、山中敬三の三氏の誕生月も、1932年の9月である。

レコードの可能性、オーディオの可能性を信じてきた人たちが、ここに集中しているのは、
ほんとうに偶然なのだろうか。

Date: 9月 6th, 2008
Cate: Wilhelm Furtwängler, 言葉

「比較ではなく没頭を」

「比較ではなく没頭を」──フルトヴェングラーの言葉である。 
「音楽現代」7月号から連載がはじまった「フルトヴェングラーの遺言」(野口剛夫)で、
最初に取りあげられたのが、この言葉である。

1954年11月にフルトヴェングラーは亡くなっているから、残されている彼の録音はモノーラルであり、
夥しいライヴ録音には、けしていい録音とは言えないものも多い。 
にも関わらず、スタジオ録音、ライヴ録音に関係なく、
CD時代になり、リマスター盤が多く出ている。SACDまで出ている。 
マスターテープからの復刻、テープの劣化を嫌って、オリジナルLPからの復刻、
その方法も20ビットハイサンプリングでデジタル化などもある。 
それらすべてを聴いたわけでは、勿論ない。聴くつもりもない。

それでも、いくつかを聴くと、たしかに音は異なる。 
もっともアナログディスクもなんども復刻されている。 

グールドも、リマスターの種類は多い。 

オリジナルLPを含めて、どれがいいのか、どう違うのか、比較するのは楽しいといえば楽しい。 
情報もモノもあふれているいまは、比較をしようと思えばいくらでもできる。
そして、自分なりに感じたその違いを、簡単に公表できる。
これが、比較することをあおっているような気もする。 

レコードに限らない、よりよいモノを求めるために比較する、そんな声がきこえてくる。 
けれど、それは比較することに没頭してしまう罠に嵌ってしまうかもしれない。 

いうまでもなく没頭したいのは、
フルトヴェングラーの演奏であり、グールドの演奏であるのはいうまでもない。 
そして、よりよいモノ、最上のモノを選んだとしたも、
結局、あたえられたものを聴いているのだということに気づいてほしい。