Archive for category 五味康祐

Date: 7月 1st, 2020
Cate: 五味康祐, 瀬川冬樹

カラヤンと4343と日本人(その9)

アルテックというスピーカーの音の魅力とは──、
そのことで思い出すのは、ステレオサウンド 16号でのオーディオ巡礼である。
五味先生が、瀬川先生、山中先生と菅野先生のリスニングルームを訪問されている。

このころの山中先生はアルテックのA5に、
プレーヤーはEMTの930st、アンプはマッキントッシュのMC275を組み合わされていた。
     *
そこで私はマーラーの交響曲を聴かせてほしいといった。挫折感や痛哭を劇場向けにアレンジすればどうなるのか、そんな意味でも聴いてみたかったのである。ショルティの〝二番〟だった所為もあろうが、私の知っているマーラーのあの厭世感、仏教的諦念はついにきこえてはこなかった。はじめから〝復活〟している音楽になっていた。そのかわり、同じスケールの巨きさでもオイゲン・ヨッフムのブルックナーは私の聴いたブルックナーの交響曲での圧巻だった。ブルックナーは芳醇な美酒であるが時々、水がまじっている。その水っ気をこれほど見事に酒にしてしまった響きを私は他に知らない。拙宅のオートグラフではこうはいかない。水は水っ気のまま出てくる。さすがはアルテックである。
     *
《さすがはアルテック》とある。
ブルックナーの音楽にまじっている水を、見事に酒にしてしまう響き、だからだ。

タンノイ、ここでのタンノイとは五味先生のオートグラフのことと捉えた方がいい。
そのタンノイでは《水は水っ気のまま出てくる》。

これは五味先生の聴き方である。
ブルックナーの音楽を熱心な聴き手は、
ブルックナーの音楽に水なんてまじっていない、というかもしれない。

そういうブルックナーの聴き手からみれば、
アルテックこそブルックナーの音楽をきちんと鳴らしてくれるスピーカーであって、
タンノイは酒なのに、時々水にしてしまう──、
そういう捉え方になるかもしれない。

Date: 6月 29th, 2020
Cate: 五味康祐, 瀬川冬樹

カラヤンと4343と日本人(その8)

JBLが積極的に、
それも振幅特性のみワイドレンジではなく、
多方面からみてもワイドレンジ指向をすすめていたのに対して、
同時代のアルテックは、2ウェイという枠組みのなかでのワイドレンジ化にとどまっていた。

それがアルテックらしい、といえばそうともいえるたわけだが、
そのことによってプロフェッショナル、コンシューマーの両方の市場でシェアを失っていった──、
ともいえるわけだ。

JBLは、常に、その時点での技術の粋をきわめようとする姿勢だった。
スピーカーシステムに求められる物理特性を、できるかぎりすべてをベストに整えることを目指していた。
だが、このやり方は、常に前身を続けていくことでもある。

もっともそれが科学技術の産物といえるオーディオ機器なのだから、当然ともいえる。

終点がない。
つまりいつかは古くなる、ということだ。
技術は進歩していく。
必ずしも、すべての面で進歩していくとはいえないところもある。
合理性という面では進歩していても、
性能的にはなんらかわりなくても、音を聴いてみると……、というのは実際にある。

それがオーディオだ、といえるわけだが、それでも技術は進歩していくのだから、
古くなっていくことからは逃れられない。

アルテックは、どうだろうか。
6343の成功に刺戟され,6041という4ウェイ・システムを出してからは、
マルチウェイ化に積極的(濫造)になっていったが、それ以前は、あくまでも2ウェイが基本だった。

2ウェイという枠組みのなかで、個性をつくりあげていた、ともいえる。
だからとおもうのは、(その7)で書いた三人のオーディオマニアは、
若いころアルテックを聴いていたら、はたしてアルテックの魅力に気づいていただろうか、だ。

Date: 4月 11th, 2020
Cate: 五味康祐

続・無題(その12)

「西方の音」と「天の聲」。
これまでは、そのままの意味で受け止めていた。

けれど、ここにきて、
五味先生は、「西方の音」へと向っての旅をされていたように感じてきた。
そして「天の聲」へと向っての旅である。

Date: 4月 1st, 2020
Cate: 五味康祐

ケンプだったのかバックハウスだったのか(40年目の4月1日)

ステレオサウンド 55号の原田勲氏の編集後記には、こうある。
     *
 オーディオの〝美〟について多くの愛好家に示唆を与えつづけられた先生が、最後にお聴きになったレコードは、ケンプの弾くベートーヴェンの一一一番だった。
     *
テクニクスのアナログプレーヤーSL10とカシーバーSA-C02、
それにAKGのヘッドフォンを病室に持ち込まれていた。

これに近いシステムで、今日(40年目の4月1日)に、
ケンプの弾くベートーヴェンの作品一一一を聴いた。

iPHone、メリディアンの218、スタックスのヘッドフォンというシステムである。
五味先生はLPだったが、私はMQAで聴いた。

原田勲氏の編集後記には、こうも記してあった。
     *
先生は、AKGのヘッドフォンで聴かれ、〝ほう、テクニクスもこんなものを作れるようになったんかいな〟とほほ笑まれた。
     *
《ほう、テクニクスもこんなものを作れるようになったんかいな》には、
いい時代になったなぁ、という感慨もあったのではないだろうか。

いい時代になったなぁ、と私はしみじみ感じていた。
私が、今日聴いたシステムも、病室に持ち込める規模だ。
それでいて、どこにも薄っぺらさのない音で、ケンプのベートーヴェンを聴かせてくれる。

ケンプというピアニストの奏でる音と、MQAの本質的なよさは、
互いにソッポを向きあうわけではない。
むしろ、同じ方向の音と響きのようにも感じるから、
よけいにケンプのベートーヴェンが美しくきこえてくる。

いい時代になったものだ。

Date: 3月 31st, 2020
Cate: 五味康祐

ケンプだったのかバックハウスだったのか(番外)

予定していた4月1日のaudio wednesdayの最後にかける曲は、
ケンプのベートーヴェンのピアノソナタにしようと考えていた。

バックハウスにするか、ケンプにするか、迷っていた。
ケンプに決めたのは、MQAでリリースされているからだ。

バックハウスの演奏は、SACDが発売になっているし、
e-onkyoではDSFでリリースされている。

ケンプはflacとMQA(どちらも96kHz、24ビット)である。

MQAがある、
これだけの理由で、ケンプのベートーヴェンの後期のピアノソナタのどれかをかける予定でいた。

結局、明日のaudio wednesdayは止めにしたので、かけることはなくなった。

2026年の4月1日は、水曜日だ。
あと六年、audio wednesdayを続けていたら、この日にケンプのベートーヴェンをかけたい。

Date: 3月 19th, 2020
Cate: 五味康祐, 瀬川冬樹

カラヤンと4343と日本人(その7)

私と同世代、近い世代のオーディオマニアで、
若いころJBLに憧れていた──、そしてJBLのスピーカーを鳴らしている。

けれど、アルテックのスピーカーを、四十代、五十代になって聴いて、
JBLに憧れてはいたけれど、自分が求めていた音は、
JBLよりもアルテックだったのではないか──、
そういう人を、いまのところ三人知っている。

三人が多いのか少ないのかは、なんともいえないが、
この三人のオーディオマニアの気持はわかる、というか、
わかるところがある。

JBLがほんとうに輝いていた時代がある。
その時代を十代のころ、もしくはハタチ前後のころに体験していた人にとって、
アルテックはライバルなのはわかっていても、
輝きは乏しかっただけでなく、輝きを失い始めているような感じさえしていた。

だからこそ、いつかはJBL、と思っていたはずだ。
私もそうだった。

それに、そのころ、少なくとも私が住んでいた熊本では、
JBLを聴く機会は当り前のようにあったけれど、
アルテックのスピーカーとなると、熊本で聴いたことは一度だけだった。

三人のうちの一人は、私よりも少し上だが、
若いころアルテックを聴く機会はなかった、といっていた。
そして、JBLを鳴らしている。

JBLの輝きが強すぎた時代には、
アルテックはくすんでしまったように見えてしまっていた。

聴く機会がなかった、少なかった、ということは、
オーディオ業界全体も、そんなふうに見ていたのかもしれない。

けれど四十代、五十代になって、何かの機会でアルテックの音を聴く。
そこで、もしかすると……、と思ってしまった人を、三人知っているわけだ。

Date: 3月 19th, 2020
Cate: 五味康祐, 瀬川冬樹

カラヤンと4343と日本人(その6)

私と同世代のオーディオマニアにとって、
JBLというスピーカーは、輝いて見えていた。

もちろんアンチJBLの人が少なからずいるのは、
アンチ・カラヤンの人が少なからずいるのと同じかもしれない。

1970年代後半、中学生、高校生だった私の目には、
JBLのスタジオモニターだけでなく、
パラゴンも、過去のモデルとはなっていたがハーツフィールドも、
なにか特別な存在のように映っていた。

JBLのライバル的スピーカーメーカーといえるのが、
アルテックとタンノイだった。

同じアメリカのスピーカーメーカー、それも西海岸のメーカーであり、
その成り立ちをたどっていくと、どちらも同じウェスターン・エレクトリックにたどりつく。

JBLとアルテックは、確かに、あの当時ライバル同士だった。
JBLが4343、4350などのスタジオモニターを出していたころ、
アルテックはどうだったかというと、プロ用としてはA5、A7が現役モデルであったし、
604-8Gを搭載した620、612などだった。

輝いて見える、という点では、
JBLがアルテックよりもはるかに上だった。

私と同じようにそう見ていた人は少なくない、はずだ。

アルテックは、4343の成功に刺激されてだろう、
604-8Hを中心とした4ウェイのスタジオモニター6041を出してきた。

アルテックらしい、といえるし、おもしろい製品ではあったが、
4343ほどの完成度というか、洗練されていたスピーカーではなかった。

4343には4341というモデルがその前にあったし、
上級機として4350があったのだから、6041とはベースが違う。

6041はII型になったが、
4341が4343になったような変更ではなかった。

Date: 2月 8th, 2020
Cate: 五味康祐, 瀬川冬樹

カラヤンと4343と日本人(その5)

五味先生、瀬川先生、
ふたりとも結局同じことをいわれている。

五味先生はHBLの4343とタンノイのコーネッタ、
瀬川先生は4343とロジャースのLS3/5Aにおいて、である。

五味先生はJBLに《糞くらえ》と、
瀬川先生は《蹴飛ばしたくなるほどの気持》と。

あのころおJBLのスタジオモニターの最新モデルの4343の実力を認めながらも、
クラシックにおける響きの美しさが、鳴ってこないことを嘆かれている。

コーネッタにしてもLS3/5Aにしても、
4343からすれば、価格的にかなり安価なスピーカーだし、大きさも小さい。

4343を本格的なスピーカーシステムとして捉えれば、
コーネッタもLS3/5Aも、そこには及ばない。
だからこそ、《あの力に満ちた音が鳴らせないのか》と、瀬川先生は書かれているわけだ。

《クラシック音楽の聴き方》は、五味先生、瀬川先生はもう同じといっていいはずだ。
けれど、そこから先が違っている、というのだろうか。

正直、こうやって書いていても、よくわからないところもある。
五味先生と瀬川先生が、
「カラヤンと4343と日本人」というテーマで対談をしてくれていたら──、
そうおもうこともある。

けれど、そういう対談は、どこにもない。
ない以上、考えていくしかない。

カラヤンと4343。
指揮者とスピーカーシステム。
けれど、どちらもスターであったことは否定しようがない。

アンチ・カラヤンであっても、
アンチJBLであっても、
カラヤンはクラシック界のスターであったし、
4343も、少なくとも日本においてはスター的存在であった。

Date: 11月 17th, 2019
Cate: 五味康祐

続・無題(その11)

その1)の冒頭で引用したことを、また書き写しておく。
     *
暴言を敢て吐けば、ヒューマニストにモーツァルトはわかるまい。無心な幼児がヒューマニズムなど知ったことではないのと同じだ。ピアニストで、近頃、そんな幼児の無心さをひびかせてくれたのはグレン・グールドだけである。(凡百のピアニストのモーツァルトが如何にきたなくきこえることか。)哀しみがわからぬなら、いっそ無心であるに如かない、グレン・グールドはそう言って弾いている。すばらしいモーツァルトだ。
(五味康祐「モーツァルト弦楽四重奏曲K590」より)
     *
《ヒューマニストにモーツァルトはわかるまい》とある。
そう書いている五味先生が、「モーツァルト弦楽四重奏曲K590」を書いている。

その10)で引用しているように、
五味先生は、モーツァルトの弦楽四重奏曲第23番 K.590を聴かれていない。

なのに三万字をこえる「モーツァルト弦楽四重奏曲K590」だ。

五味先生はヒューマニストでないから書けたのか。

Date: 8月 20th, 2019
Cate: 五味康祐

「音による自画像」(1965年8月19日)

昨晩書こうと思ったけれど、
あえて一日ずらして書くことにした。

音による自画像について考えていくうえで、
これも自画像なんだ、と思っているのがある。

ジャクリーヌ・デュ=プレのエルガーのチェロ協奏曲である。

1965年8月19日に、ジャクリーヌ・デュ=プレは、
バルビローリ指揮ロンドン交響楽団と、エルガーのチェロ協奏曲を録音している。

EMIは、ジャクリーヌ・デュ=プレのエルガーを一度も廃盤にしなかった、ときいている。
この録音が終って、プレイバックを聴き終ったデュ=プレがなんといったのかは有名な話である。

なので、このエルガーをジャクリーヌ・デュ=プレの自画像とするのは、
どうか、と思わないわけではない。

けれど宿命的に自画像になってゆく。

Date: 8月 2nd, 2019
Cate: 五味康祐

「音による自画像」(その10)

自画像といえる歌について考えていくうえで、
どうしても外せない歌手がいる。

ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウであり、
ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウによる「冬の旅」について、である。

スタジオ録音だけでなく、ライヴ録音を含めると、
十種以上のCDが発売になっている。
そのすべてを聴いているわけではないし、
スタジオ録音に関しても、すべてを聴いているわけではない。

ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウは、
1955年にジェラルド・ムーアのピアノで、EMIに「冬の旅」を録音している。
これが一回目である。

1962年、同じくムーアの伴奏で、ステレオ録音、
1965年に、今度はイェルク・デムスのピアノで、レコード会社もドイツ・グラモフォンになっている。

1971年に、三度、ムーアと、ドイツ・グラモフォンに録音している。

1979年、ダニエル・バレンボイムと五度目の録音、
1985年、アルフレッド・ブレンデルとの六度目、
1990年、マレイ・ペライアとの七度目(最後)の「冬の旅」である。

バレンボイムとの録音から、ピアニストが、伴奏ピアニストの域を超えたところでなされている。
このバレンボイムとの「冬の旅」の評価は高い。

バレンボイムがあまり好きでない私でも、この「冬の旅」は素晴らしいと思っている。

ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウは、1925年5月28日生れである。
一度目の「冬の旅」は、ぎりぎり29歳、
二度目は37歳、三度目は39歳(40歳になる二週間ほど前)、
四度目は46歳、五度目は53歳、六度目は60歳、七度目は65歳である。

黒田先生は、「冬の旅」は青春の歌だ、とどこかに書かれていた。
「青春」を実感できるということで、
ヘルマン・プライ/ヴォルフガング・サヴァリッシュの「冬の旅」も高く評価されていた。

もちろんディートリヒ・フィッシャー=ディースカウとバレンボイムとの「冬の旅」も、
高く評価されていたけれど、
この録音でのディートリヒ・フィッシャー=ディースカウは60歳である。

Date: 7月 31st, 2019
Cate: 五味康祐

「音による自画像」(その9)

代表曲、十八番(おはこ)といえる歌をもつ歌手もいる。
たとえばサラ・ブライトマン。

私は、サラ・ブライトマンの名をきくと、
反射的に“Amazing Grace”を思い出す。

サラ・ブライトマンの代表曲は、他にもいくつかあるだろう。
他の曲(歌)でもかまわないが、
“Amazing Grace”が、サラ・ブライトマンの自画像であるとは、まったく思っていない。

それは曲、歌の出来や素晴らしさ、そういったこととは違うところで、
そう思えない。

私がそう思えないだけなのかもしれない。
私以外の人は、サラ・ブライトマンの“Amazing Grace”は、
彼女の自画像そのものといえる曲(歌唱)だということだってあろう。

いやいや、“Amazing Grace”ではなくて……、といって、
他の曲をサラ・ブライトマンの自画像だ、と挙げる人もいるであろう。

サラ・ブライトマンの“Amazing Grace”は、
マリア・カラスの“Casta Diva”よりもずっと多くの人が聴いていることだろう。

マリア・カラスの“Casta Diva”は聴いたことがなくても、
サラ・ブライトマンの“Amazing Grace”は聴いたことがある、
口ずさめる、という人の方が多いはずだ。

ジュディ・ガーランドの“Over The Rainbow”を聴いたことがなくても、
サラ・ブライトマンの“Amazing Grace”は知っている、という人は多いはずだ。

だからこそ、“Amazing Grace”はサラ・ブライトマンの代表曲といえる。
けれど、だからといって自画像とは必ずしもいえない。

結局、世の中には、自画像といえる歌をもつ歌い手とそうでない歌い手とがいる。

Date: 7月 30th, 2019
Cate: 五味康祐

「音による自画像」(その8)

マリア・カラスによる「清らかな女神よ」(Casta Diva, カスタ・ディーヴァ)が、
マリア・カラスの自画像そのものだ、ということにはっきりと気づいたのには、
ひとつのきっかけがある。

5月のaudio wednesdayで、“Over The Rainbow”を聴いた。
ジュディ・ガーランドの“Over The Rainbow”を筆頭に、いくつかの“Over The Rainbow”を聴いた。

“JUDY AT CARNEGIE HALL”での、“Over The Rainbow”は見事だった。
この晩、何度かけたことか。
最初にかけた。
それからアンプがあたたまってきた、といって、またかけた。

音が良くなってきたな、と感じたら、かけた。
最後に、またかけた。

いくつか聴いた“Over The Rainbow”のなかに、手嶌葵が歌う“Over The Rainbow”もあった。
手嶌葵の“Over The Rainbow”を聴いて、
“JUDY AT CARNEGIE HALL”でのジュディ・ガーランドによる“Over The Rainbow”のすごみを、
いっそう感じた。

手嶌葵のCDを持ってきたHさんは、これかける、やめましょう、といわれていたのを、
少々無理矢理かけた。

Hさんが、やめましょう、といった理由も、聴けばわかる。

表現という、表現力という。
これらのことばは、安易に使われがちのようにも感じることが多くなった。

手嶌葵の“Over The Rainbow”は、
手嶌葵なりの表現である──、
手嶌葵のファンからそういわれれば、そうですね、というしかないが、
それでは手嶌葵なりの表現とは何ですか──、
もしそんなふうにいってくる人がいたら、そう聞き返したくなる。

その晩は、ジュディ・ガーランドのカーネギーホールでの“Over The Rainbow”に圧倒された。
圧倒されたから、その時には気づかなかったが、
ここでの“Over The Rainbow”も、ジュディ・ガーランドの自画像そのものである。

Date: 7月 11th, 2019
Cate: Wilhelm Backhaus, 五味康祐

ケンプだったのかバックハウスだったのか(補足・7)

今年2月に、バックハウスのベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集がSACDで発売になった。
9月には、ケンプによる全集が、CD八枚組+Blu-Ray Audio(一枚)で出る。

バックハウスはDSDで、ケンプは96kHz/24ビットで、それぞれのベートーヴェンが聴ける。
ケンプはさらにe-onkyoでMQAでも配信されている。

いい時代、面白い時代になってきた。

Date: 7月 10th, 2019
Cate: 五味康祐

続「神を視ている。」(その2)

ひとつ前の「人工知能が聴く音とは……(NTTの発表より)」でふれた
「音認識のために訓練された深層ニューラルネットワーク(DNN)」は、
進歩していくことで「神を視ている」といえるようになるのか。

その1)を書いて五年が過ぎ、そんなことを考えている。