Archive for category 複雑な幼稚性

Date: 12月 2nd, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(理解についての実感・その19)

オーディオは、つまるところ感動の再現ではないのか。
いや、生音の再現、原音とおもわれるものの再現という人もいようが、
私は、ここにきて、感動の再現だ、とつくづくおもう。

別項でメリディアンのULTRA DACについて書いているのも、
その理由のひとつ、もっとも大きな理由は、私にとってULTRA DACが、
私が聴きえた範囲では最も感動の再現に近いD/Aコンバーターだからだ。

ULTRA DACよりも、いい音のD/Aコンバーターはある、という人がいる。
あるだろう、とは思っている。
ULTRA DACよりもはるかに高価なD/Aコンバーターはいくつかあるし、
それらとULTRA DACを比較試聴しているわけではないが、
ULTRA DACよりも、一般的にいわれている精度の高い音に関しては、
それらのD/Aコンバーターの方が上だろう。

プログラムソースに含まれている信号の波形再現こそが、最終的なことであるならば、
歪がなくノイズもなく、プログラムソースに記録された信号を、それこそ純粋な形で信号処理して──、
そういうプロセスを感じさせる音、いわゆる精度の高い音こそが正しい──、
そう力説されれば、確かにそれは技術的には正しい、といわざるをえない。

けれど、われわれが音楽を聴くのは家庭において、である。
録音スタジオでもないし、コンサートホールでもない。
音量ひとつとっても、録音の場で鳴っている音とは違う。

これは重要なことだ。
スピーカーもアンプもなにもかも違う条件で、われわれは録音された音楽を再生して聴いている。
そこにおいて、もっとも大事にしたいことはなんなのか。

音楽が美しく響いてくれることであり、
そして感動の再現である。

波形再現の精度をどこまでも追求するのを否定はしない。
けっこうなことだ。

そういう時期は、私にもあった。
けれど、いまはもう違う。
自分に正直になろうとすればするほど、そこからは離れていくような気がする。

Date: 11月 1st, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(理解についての実感・その18)

十年ほど前からか、KYという略語が流行り出した。
空気を読め、空気が読めない、という意味で使われていた。

誰がいい出したのか、
どうして、こんな略語が流行ったのか。
研究している人はいるのだろうが、
私は、これも「私を不快にさせるな」というところから来ているように感じている。

よかれ、と思って言ったことが、相手を不快にさせることはある。
わたしなんて、しょっちゅうといえるほうだろう。

八年前もあった。
あきらかにおかしな音を聴かされた。
25年のつきあいのある男の音だった。

そのことをやんわりと指摘した。
そのくらい、おかしな音(間違っている音)だったからだ。
彼の出す音は、バランスを欠いた音である。
そのことはわかっていても、その時の音は、バランスのおかしさという範囲を逸脱した音だった。

でも、その音は彼にとって自慢の音だったようで、
彼とのつきあいはそれっきりである。
彼にしてみれば、「私を不快にさせるな」もくしは「私を不快にさせやがって」なのだろう。

それは彼のプライドを傷つけた(無視した)からなのか。
いまとなってはどうでもいいことなのだが、
それにもかかわらず、こんなことを書いているのは、
時として不快な気持になる誰かの言動は、
己が本当に正直なのか、という確認につながっていくようにも、私は思っている。

本当に私は正直なのか、音楽の聴き手として、
オーディオマニアとして正直なのか、という確認作業は、とても大事なことである。

Date: 10月 29th, 2018
Cate: ショウ雑感, 複雑な幼稚性

2018年ショウ雑感(「複雑な幼稚症」)

「複雑な幼稚症」というタイトルとカテゴリーで(その1)を書いたのは、十年前。
120本以上書いている。

「2018年ショウ雑感」の(その13)へのコメントが、facebookにあった。

そこには、こう書かれていた。
《ある意味、オタク性群れヒエラルキーの幼児性ですね》と。
まさしく、(その13)で書いている人たちは、そうだといえよう。

最近、よく目にする表現で、マウントの取り合い、というのもある。

どちらも、「複雑な幼稚症」だと私は思っている。
だから、この「複雑な幼稚症」のカテゴリーをつくって書きつづけている。

Date: 10月 13th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(理解についての実感・その17)

ティラミス(Tiramisù)というイタリアのデザートが、
日本で知られるようになったのは1990年ごろと記憶している。

いまではすっかり定着してしまったティラミスの語源( Tirami su!) は、
イタリア語で「私を引っ張り上げて」である。
これが転じて「私を元気付けて」という意味もあるときいているが、
私がそのころ耳にしたのは、「私を気持ちよくさせて」という意味もある、ということだった。

引っ張り上げては、上に上げるわけで、つまりはそういうことか、と納得した。
「私を気持ちよくさせて」に、そういった性的意味があるのかどうかは別として、
ティラミス(私を気持ちよくさせて)が流行りはじめたころの日本は、
バブル期でもあった。

おもしろい偶然だな、といまになって思っている。
雑誌もこのころから変りはじめたのかもしれない、とも思う。

雑誌が変ったのか、読者も変ったのか。
少なくとも読者は雑誌に「私を気持ちよくさせて」ということを求めはじめたのではないのか。
その要求に、雑誌側も応えるようになってきた──、
少なくともステレオサウンドは、そうであるように感じる。

読者を気持ちよくさせること自体は悪いとはいわないが、
結局、それが読者の「私を不快にさせないで」を生み出すことになっていった──、
そんな気もしている。

ステレオサウンド 207号の柳沢功力氏のYGアコースティクスのHailey 1.2の試聴記に、
読者であるavcat氏がツイートした件は、つまるところ、その程度のことから発している。

Date: 10月 11th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(理解についての実感・その16)

ステレオサウンドがつまらない、と書いてきている。
私はそう感じているけれど、
いや、とても面白いじゃないか、という人がいるのは知っている。

先日もSNSで、そういう人たちがいた。
誰が、どれを面白いと感じてもいい。

けれど、その人たちの発言を見ていると、
そういうのを面白い、というのかと、と思う。

ステレオサウンドはオーディオ雑誌である。
雑誌に何を求めるのか。

いまのステレオサウンドを面白い、という人たちは、
気持ちよくさせてくれれば、と思っているように感じた。

自分が鳴らしているスピーカーシステム、アンプ、CDプレーヤーなどが、
ステレオサウンドの誌面で高く評価される。

このことを嬉しく思わない人は、まずいないだろう。
でも、もういい大人なんだから……、ともつぶやきたくなる。

使っているスピーカーシステムが、高く評価される。
さらには新しい音とか、ハイエンドオーディオを代表する、とか、
そんなふうなことが書いてあったら、
そのスピーカーを使っている自分も、
ハイエンドオーディオファイルの一人だ、と思えるのだろうか。

読者を気持よくさせる。
それも雑誌の役目なのだろうか。

気持よくさせてくれる雑誌ならば、面白いというのだろうか。

Date: 10月 2nd, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(その60)

別項で「オーディオ評論家は読者の代表なのか」を書いている。
その18)では、編集者は、必要な時は、強く代弁者であるべきだ、と思う、とも書いた。

では、編集者は読者の代表なのか。
実をいうと、編集者だったころに、こんなことは考えたことはほとんどなかった。
まったくなかった、といってもいいかもしれない。

こんなことを考えるようになったのは、ステレオサウンドを離れて、
さらに「バクマン。」というマンガを読んでからだった。

「バクマン。」は2008年から少年ジャンプに連載が始まった。
NHKでアニメになっているし、映画にもなっているから、
「バクマン。」というタイトルだけはみた記憶があるという人もいるだろう。

二人の高校生が、一人は原作、一人は作画という協同作業をすることで、マンガ家となっていく。
少年ジャンプが、物語の舞台としても登場してくる。
マンガ家と編集者とのやりとりも、そうとうに描かれている。

少年ジャンプは、読者ハガキに人気投票欄がある。
その集計が連載を続けるか打ちきりになるかを決定する──、
そんなふうにいわれていた、その内情についても描かれている。

面白いだけでなく、興味深いマンガでもある。
その「バクマン。」を読んでいて、編集者は読者の代表なのか、ということを考えていた。

Date: 9月 9th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(その59)

ステレオサウンド 208号では柳沢功力氏の「オーディオファイル訪問記」が始まっている。
柳沢功力氏には、すでに「ぼくのオーディオ回想」という連載がある。
そこに今号からもう一本連載が加わるわけだ。

一人の筆者が二本の連載は、あまりなかった、と記憶している。
しかもどちらもカラーページである。異例といえる。

和田博巳氏。
「続・ニアフィールドリスニングの快楽」と、
音楽欄の「SS NEW MUSIC GUIDE & ESSAY for audiophiles」とで、
二本の連載といえば確かにそうなのだが、
「SS NEW MUSIC GUIDE & ESSAY for audiophiles」はご存知のように五人の筆者による連載でもある。

ステレオサウンドの読み手は、ステレオサウンドが面白ければそれでいい──、
そのことはわかっているけれど、どうしても勘ぐりたくなる、というか、
勘ぐらせようと編集部がしているのか、(その58で書いたことを含めて)何も隠そうしていないのか、
何かの伏線のように感じてしまう。

もしかすると次号(209号)の「オーディオファイル訪問記」に登場するのは、
avcat氏なのではないか、と思ってしまう。
avcat氏はYGアコースティクスのスピーカーを鳴らされているはずだ。

だからこそ一回目の「オーディオファイル訪問記」には、
柳沢功力氏にとって対照的なスピーカーの鳴らし手の訪問だったのか。
そんな見方もできなくはない。

そうだとしたら、209号は期待できる。
209号は冬号だから、毎年恒例の企画で、私にとっては一年四冊のなかで、
もっともつまらなく感じる号だけれども、avcat氏が「オーディオファイル訪問記」に登場するのであれば、
全体のページ数からすればわずかであっても、ぴりっとさせる存在になる可能性もある。

209号の「オーディオファイル訪問記」、どんな人が登場するのか。

Date: 9月 8th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(その58)

ステレオサウンド 208号は、まだ読んでいない。
書店で手にとって、サッと眺めただけだ。

表紙は、オーディオリサーチの新製品、Reference 160Mである。
208号から始まった「オーディオファイル訪問記」に登場する酒井敏行氏のスピーカー、
特集記事のあとだったか、アナログディスクのテストレコードの広告がある。
読んだ人のなかには、記事だと勘違いしている人もいるようだが、
ノンブルの位置にPRとあるから、広告である。

これらに共通していることに気づいている人は、どれだけいるだろうか。
すべて同じ輸入元である(あえてどこかは書かない)。

Date: 9月 8th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(その57)

書店に、ステレオサウンド 208号が置かれている。
買おうかな、と思ったけれど、買わなかった。

avcat氏に謝罪したことについては、何も載っていなかった。
そうだろうな、と思っていたから、意外でもない。

208号は9月4日発売だった。
買わなくなってしまった雑誌の発売日は、なんとなくでしかなく、
その日も、帰りの電車の中でfacebookを眺めていて、今日、発売日なんだ、と気づいた。

駅を出たら、途中にある書店に寄って……、と思っていたら、
乗っていた電車は台風の影響による強風のせいで、
通常なら30分程度の乗車ですむのに、二時間ほどかかってしまい、
書店も早じまいしていた。

今回の台風の怖ろしさは、直撃しなかった東京にいても感じた。
熊本に住んでいたから、夏は台風の季節でもあった。
それでも、ここまでの台風は、記憶にない。

約二時間の電車の中でも、帰宅してからも台風のニュースを読んでいた。
その凄まじさで思い出すことがあった。

ステレオサウンド 178号の発売日は2011年3月11日だったことだ。
染谷一氏が編集長になって最初のステレオサウンドが、178号である。
今号も、末尾の数字は8である。

偶然なのだろう。
それでも怖い偶然である。

Date: 8月 24th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(理解についての実感・その15)

ステレオサウンド 207号での柳沢功力氏のYGアコースティクスのHailey 1.2の試聴記、
その見出しは、次の通り。

《「ベイシー」では居並ぶブラスの金属色を
 最高の輝きで盛り上げ、音の抜けもよく鳴りも闊達》

私も見出しはよくつけていた。
特集が総テストの場合、一機種ごとの試聴記に見出しをつけていく。

基本的には試聴記から、できるだけいいところを拾い出してまとめるわけだが、
ローコストのモデルだと、なかなかそれが難しかったりする。

しかも文章を書くのと、見出しをつけていくのとでは、どこかでスイッチを切替えるようなところもある。
総テストの試聴記に見出しをつけていく場合、
つけやすいのからやっていくのが効率がいいように思えるのだが、
私は必ず低価格のモデルから、つまり登場順に見出しをつけていっていた。

見出しをつけはじめの数機種は、意外に時間をくう。
切替えがスムーズにいかないのと、試聴記の内容がやや厳しかったりするからだ。
それでも数本つけていくと、あとはかなりのスピードで処理していける。

今回のHailey 1.2の柳沢功力氏の試聴記の見出しは、あまりいい出来とは思わない。
試聴記が厳しいものだから、とはいえ、ベイシーのディスクのところだけの抜き書きでしかない。
しかも柳沢功力氏の、その部分を読むと、そこでも決してよく鳴っていた、とは読めない。

《ギンギンの再生》とあるし、
《強打するドラムスは最低域だけを「ドン!」と鳴らした》とある。

チクリチクリとしたところのある試聴記であり、
見出しはその部分の、さらなる抜き書きである。

見出しは、編集者の仕事である。
それはいまも同じはずだ。

ステレオサウンド編集部の誰かがつけた見出し。
それに染谷一編集長はOKを出しているから、誌面に載っている。

いまのステレオサウンドの見出しは、ネガティヴなことは少しでも除外しているように思える。

そのことを考慮して私が見出しをつけるなら、こうなる。
(かなり遠慮気味なので、いい出来とは思っていないし、五分以内と制約つきでのもの)

《木の音のような膨らみはなく、克明な音がする。
 表情は繊細にして緻密で、特有のリアリティを生む》

Date: 8月 9th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(理解についての実感・その14)

ステレオサウンド 207号の試聴で、
YGアコースティクスのHailey 1.2がどのレベルで鳴っていたのかは部外者にはわからないが、
ひどい音で鳴っていたわけではないはずだ。

柳沢功力氏といっしょに試聴している小野寺弘滋氏の試聴記からも、それは読みとれる。
少なくともHailey 1.2らしい音で鳴っていたのだろう。

その音を他の人が聴いたとしよう。
柳沢功力氏の試聴記に、まったく同感、と頷く人もいれば、
それほど金属的な音には感じない、という人もいるだろうし、
小野寺弘滋氏とほほ同じ感想、という人もいよう。

YGアコースティクスの、どこが金属質なのだ、という人だっているかもしれない。

金属質な音だけに関しても、聴く人それぞれの閾値がある、ということだ。
自分と違う閾値の意見(試聴記)に腹を立てたところで、どうなるというのか。

いまはSNSがあるから、そこでそう発言することで、同意する人も現れよう。
そこで二人(もしくは数人)で、頷き合っていても、何かの理解に発展していくわけではない。

avcat氏の一連のツイートを、私は特に批判しない。
くり返しになるが、avcat氏はアマチュアなのだから、
そのアマチュアに、あれこれ理解を求める方が愚かである。

これもくり返し書いているが、問題なのは、avcat氏にステレオサウンドの染谷一編集長が、
《ステサンとして本位でなかった旨》を伝え、
さらに《これからこのようなことがないように対策します》と謝罪していることである。

染谷一氏は、ステレオサウンドの編集長である。
編集者はプロフェッショナルであり、編集長はさらなるプロフェッショナルのはずだ。

プロフェッショナルとしての理解が、どうにも見えてこない。

Date: 8月 9th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(理解についての実感・その13)

金属的な音ということで私がすぐに思い浮べるのは、
ステレオサウンド 56号特集で瀬川先生が書かれていたことだ。
     *
 JBLの音を嫌い、という人が相当数に上がることは理解できる。ただ、それにしても♯4343の音は相当に誤解されている。たとえば次のように。
(中略)
 誤解の第二。中~高音が冷たい。金属的だ。やかましい。弦合奏はとうてい聴くに耐えない。ましてバロックの小編成の弦楽オーケストラやその裏で鳴るチェンバロの繊細な音色は、♯4343では無理だ……。
 これもまた、たしかに、♯4343はよくそういう音で鳴りたがる。たとえばアルテックやUREIのあの暖い音色と比較すると、♯4343といわずJBLのスピーカー全体に、いくぶん冷たい、やや金属質の音色が共通してあることもまた事実だ。ある意味ではそこがJBLの個性でもあるが、しかしそのいくぶん冷たい肌ざわりと、わずかに金属質の音色とが、ほんらいの楽器のイメージを歪めるほど耳ざわりで鳴っているとしたら、それは♯4343を鳴らしこなしていない証拠だ。JBLの個性としての最少限度の、むしろ楽器の質感をいっそう生かすようなあの質感さえ、本当に嫌う人はある。たぶんイギリス系のスピーカーなら、そうした人々を納得させるだろう。そういう意味でのアンチJBLはもう本格派で、ここは本質的な音の世界感の相異である。しかし繰り返すが、そうでない場合に♯4343の中~高音域に不自然さを感じたとすれば、♯4343は決して十全に鳴っていない。
     *
4343を、瀬川先生のレベルで鳴らしていたとしても、
中高域二つのユニットの振動板はアルミであって、そこには金属的といわれる音色が、
どう鳴らし込んだとしても、完全になくなるわけではない。

《JBLの個性としての最少限度の、むしろ楽器の質感をいっそう生かすようなあの質感》、
JBLのドライバーユニットをうまく鳴らしたときの、こういう音であっても、
そこにひそんでいる金属質の音を拒絶する人はいる。

これはもう、聴く人の閾値の違いとしかいいようがない。
金属的な音、金属質の音に関しても、
他の音色、たとえば振動板が紙の場合によくいわれる紙臭い音もそうなのだが、
それぞれに閾値が違うことを忘れてしまっては、話はずっと噛み合わないままだ。

素材の固有音は、いまのところどうやってもなくすことはできない。
最終的に残ってしまう性質のものである。

もちろんあるところまで抑えること、コントロールすることはできる。
その結果、ある人は気にならない、と感じても、別の人はどうしても気になる。

これは聴き方が古いとか新しいとか、そういうことではなく、
その人の、ある種の音に対する閾値があるからだ。

Date: 8月 8th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(理解についての実感・その12)

ステレオサウンド 207号の特集に登場したYGアコースティクスのHailey 1.2は、
多くの人がハイ・フィデリティ・リプロダクションのスピーカーシステムと認めよう。

誤解なきよう書いておくが、
すべてのスピーカーシステムが、
ハイ・フィデリティ・リプロダクションか、
グッド・リプロダクションのどちらかに分類できるというわけではない。

けれど(その11)で指摘したように、
グッド・リプロダクションのフランコ・セルブリンのKtêmaが、
ハイ・フィデリティ・リプロダクションの定義「原音を直接聴いたと同じ感覚を人に与えること」、
これにより聴く人によっては、ハイ・フィデリティ・リプロダクションのスピーカーへとなりうる。

では逆はあるのか。
Hailey 1.2がグッド・リプロダクションのスピーカーと感じる人がいるのか。
そういう人はなかなかいないだろう(まったくいないわけではないだろうが)。
けれど、柳沢功力氏は207号の試聴記で、Hailey 1.2の金属的な音を指摘されている。

そのことがavcat氏のツイートにつながっていき、
ステレオサウンドの染谷一編集長の不用意な謝罪にまでいったわけだが、
柳沢功力氏は、207号の試聴記に
《「モーツァルト」も「春の祭典」も「ロイヤル・バレエ」も、アコースティックな音をベースとするクラシック曲は、まったく別物の音楽に仕上げてしまうと言っていい》
とまで書かれている。

こうなると、柳沢功力氏にとって、Hailey 1.2は、
原音を直接聴いたと同じ感覚を人に与える」スピーカーではないわけだ。
つまりHailey 1.2は、柳沢功力氏にとっては、
ハイ・フィデリティ・リプロダクションのスピーカーでもないし、
もちろんグッド・リプロダクションのスピーカーでもない。

Date: 8月 6th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(価値か意味か)

価値か意味か。

意味を求める人もいる。
価値(資本主義的・商業主義的な価値)を求める人もいる。

意味を求めない人もいる。

そういうことも、今回の件は関係しているようだ。

Date: 8月 6th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(理解についての実感・その11)

ハイ・フィデリティ・リプロダクションとグッド・リプロダクション。
ステレオサウンド 207号の特集に登場したスピーカーシステムの中で、
YGアコースティクスのHailey 1.2、アヴァロンのIndra Diamond、
マジコのS2 Mk2、B&Wの800D3などはハイ・フィデリティ・リプロダクションで、
フランコ・セルブリンのKtêma、KISOアコースティックのHB-G1、
ハーベスのSuper HL5 Plusなどはグッド・リプロダクションというふうに分ける人はいよう。

けれどハイ・フィデリティ・リプロダクションの定義をもう一度思い出してほしい。
原音再生ではないということだ。

ハイ・フィデリティ・リプロダクションは日本語にすれば高忠実度再生。
ハイ・フィデリティ・リプロダクションを定義したM.G.スクロギイもH.F.オルソンも、
ハイ・フィデリティ・リプロダクションとは、
「原音を直接聴いたと同じ感覚を人に与えること」としている。

ステレオサウンド 24号、瀬川先生の「良い音とは、良いスピーカーとは?」にそうある。
瀬川先生も書かれているように、ハイ・フィデリティ・リプロダクションとは、
物理的命題であるよりも心理的命題だということで、
ここを忘れての、ハイ・フィデリティ論は薄っぺらすぎる。

つまりハイ・フィデリティ・リプロダクションは、聴く人によって違ってくる。
人によってはKtêmaがハイ・フィデリティ・リプロダクションのスピーカーシステムになってくる。
Ktêmaだけではなく、一般的にグッド・リプロダクションと思われているスピーカーも含めて、である。

ここのところを理解せずに、
Ktêmaを選ぶ人を、好き嫌いでスピーカーを選んでいる、
と決めつけてしまうのははなはだ危険なことだし、
理解に欠けた行為でしかない。自分の薄っぺらさを公表しているものだ。