Archive for category 複雑な幼稚性

Date: 8月 9th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(理解についての実感・その14)

ステレオサウンド 207号の試聴で、
YGアコースティクスのHailey 1.2がどのレベルで鳴っていたのかは部外者にはわからないが、
ひどい音で鳴っていたわけではないはずだ。

柳沢功力氏といっしょに試聴している小野寺弘滋氏の試聴記からも、それは読みとれる。
少なくともHailey 1.2らしい音で鳴っていたのだろう。

その音を他の人が聴いたとしよう。
柳沢功力氏の試聴記に、まったく同感、と頷く人もいれば、
それほど金属的な音には感じない、という人もいるだろうし、
小野寺弘滋氏とほほ同じ感想、という人もいよう。

YGアコースティクスの、どこが金属質なのだ、という人だっているかもしれない。

金属質な音だけに関しても、聴く人それぞれの閾値がある、ということだ。
自分と違う閾値の意見(試聴記)に腹を立てたところで、どうなるというのか。

いまはSNSがあるから、そこでそう発言することで、同意する人も現れよう。
そこで二人(もしくは数人)で、頷き合っていても、何かの理解に発展していくわけではない。

avcat氏の一連のツイートを、私は特に批判しない。
くり返しになるが、avcat氏はアマチュアなのだから、
そのアマチュアに、あれこれ理解を求める方が愚かである。

これもくり返し書いているが、問題なのは、avcat氏にステレオサウンドの染谷一編集長が、
《ステサンとして本位でなかった旨》を伝え、
さらに《これからこのようなことがないように対策します》と謝罪していることである。

染谷一氏は、ステレオサウンドの編集長である。
編集者はプロフェッショナルであり、編集長はさらなるプロフェッショナルのはずだ。

プロフェッショナルとしての理解が、どうにも見えてこない。

Date: 8月 9th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(理解についての実感・その13)

金属的な音ということで私がすぐに思い浮べるのは、
ステレオサウンド 56号特集で瀬川先生が書かれていたことだ。
     *
 JBLの音を嫌い、という人が相当数に上がることは理解できる。ただ、それにしても♯4343の音は相当に誤解されている。たとえば次のように。
(中略)
 誤解の第二。中~高音が冷たい。金属的だ。やかましい。弦合奏はとうてい聴くに耐えない。ましてバロックの小編成の弦楽オーケストラやその裏で鳴るチェンバロの繊細な音色は、♯4343では無理だ……。
 これもまた、たしかに、♯4343はよくそういう音で鳴りたがる。たとえばアルテックやUREIのあの暖い音色と比較すると、♯4343といわずJBLのスピーカー全体に、いくぶん冷たい、やや金属質の音色が共通してあることもまた事実だ。ある意味ではそこがJBLの個性でもあるが、しかしそのいくぶん冷たい肌ざわりと、わずかに金属質の音色とが、ほんらいの楽器のイメージを歪めるほど耳ざわりで鳴っているとしたら、それは♯4343を鳴らしこなしていない証拠だ。JBLの個性としての最少限度の、むしろ楽器の質感をいっそう生かすようなあの質感さえ、本当に嫌う人はある。たぶんイギリス系のスピーカーなら、そうした人々を納得させるだろう。そういう意味でのアンチJBLはもう本格派で、ここは本質的な音の世界感の相異である。しかし繰り返すが、そうでない場合に♯4343の中~高音域に不自然さを感じたとすれば、♯4343は決して十全に鳴っていない。
     *
4343を、瀬川先生のレベルで鳴らしていたとしても、
中高域二つのユニットの振動板はアルミであって、そこには金属的といわれる音色が、
どう鳴らし込んだとしても、完全になくなるわけではない。

《JBLの個性としての最少限度の、むしろ楽器の質感をいっそう生かすようなあの質感》、
JBLのドライバーユニットをうまく鳴らしたときの、こういう音であっても、
そこにひそんでいる金属質の音を拒絶する人はいる。

これはもう、聴く人の閾値の違いとしかいいようがない。
金属的な音、金属質の音に関しても、
他の音色、たとえば振動板が紙の場合によくいわれる紙臭い音もそうなのだが、
それぞれに閾値が違うことを忘れてしまっては、話はずっと噛み合わないままだ。

素材の固有音は、いまのところどうやってもなくすことはできない。
最終的に残ってしまう性質のものである。

もちろんあるところまで抑えること、コントロールすることはできる。
その結果、ある人は気にならない、と感じても、別の人はどうしても気になる。

これは聴き方が古いとか新しいとか、そういうことではなく、
その人の、ある種の音に対する閾値があるからだ。

Date: 8月 8th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(理解についての実感・その12)

ステレオサウンド 207号の特集に登場したYGアコースティクスのHailey 1.2は、
多くの人がハイ・フィデリティ・リプロダクションのスピーカーシステムと認めよう。

誤解なきよう書いておくが、
すべてのスピーカーシステムが、
ハイ・フィデリティ・リプロダクションか、
グッド・リプロダクションのどちらかに分類できるというわけではない。

けれど(その11)で指摘したように、
グッド・リプロダクションのフランコ・セルブリンのKtêmaが、
ハイ・フィデリティ・リプロダクションの定義「原音を直接聴いたと同じ感覚を人に与えること」、
これにより聴く人によっては、ハイ・フィデリティ・リプロダクションのスピーカーへとなりうる。

では逆はあるのか。
Hailey 1.2がグッド・リプロダクションのスピーカーと感じる人がいるのか。
そういう人はなかなかいないだろう(まったくいないわけではないだろうが)。
けれど、柳沢功力氏は207号の試聴記で、Hailey 1.2の金属的な音を指摘されている。

そのことがavcat氏のツイートにつながっていき、
ステレオサウンドの染谷一編集長の不用意な謝罪にまでいったわけだが、
柳沢功力氏は、207号の試聴記に
《「モーツァルト」も「春の祭典」も「ロイヤル・バレエ」も、アコースティックな音をベースとするクラシック曲は、まったく別物の音楽に仕上げてしまうと言っていい》
とまで書かれている。

こうなると、柳沢功力氏にとって、Hailey 1.2は、
原音を直接聴いたと同じ感覚を人に与える」スピーカーではないわけだ。
つまりHailey 1.2は、柳沢功力氏にとっては、
ハイ・フィデリティ・リプロダクションのスピーカーでもないし、
もちろんグッド・リプロダクションのスピーカーでもない。

Date: 8月 6th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(価値か意味か)

価値か意味か。

意味を求める人もいる。
価値(資本主義的・商業主義的な価値)を求める人もいる。

意味を求めない人もいる。

そういうことも、今回の件は関係しているようだ。

Date: 8月 6th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(理解についての実感・その11)

ハイ・フィデリティ・リプロダクションとグッド・リプロダクション。
ステレオサウンド 207号の特集に登場したスピーカーシステムの中で、
YGアコースティクスのHailey 1.2、アヴァロンのIndra Diamond、
マジコのS2 Mk2、B&Wの800D3などはハイ・フィデリティ・リプロダクションで、
フランコ・セルブリンのKtêma、KISOアコースティックのHB-G1、
ハーベスのSuper HL5 Plusなどはグッド・リプロダクションというふうに分ける人はいよう。

けれどハイ・フィデリティ・リプロダクションの定義をもう一度思い出してほしい。
原音再生ではないということだ。

ハイ・フィデリティ・リプロダクションは日本語にすれば高忠実度再生。
ハイ・フィデリティ・リプロダクションを定義したM.G.スクロギイもH.F.オルソンも、
ハイ・フィデリティ・リプロダクションとは、
「原音を直接聴いたと同じ感覚を人に与えること」としている。

ステレオサウンド 24号、瀬川先生の「良い音とは、良いスピーカーとは?」にそうある。
瀬川先生も書かれているように、ハイ・フィデリティ・リプロダクションとは、
物理的命題であるよりも心理的命題だということで、
ここを忘れての、ハイ・フィデリティ論は薄っぺらすぎる。

つまりハイ・フィデリティ・リプロダクションは、聴く人によって違ってくる。
人によってはKtêmaがハイ・フィデリティ・リプロダクションのスピーカーシステムになってくる。
Ktêmaだけではなく、一般的にグッド・リプロダクションと思われているスピーカーも含めて、である。

ここのところを理解せずに、
Ktêmaを選ぶ人を、好き嫌いでスピーカーを選んでいる、
と決めつけてしまうのははなはだ危険なことだし、
理解に欠けた行為でしかない。自分の薄っぺらさを公表しているものだ。

Date: 8月 6th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(理解についての実感・その10)

別項「AXIOM 80について書いておきたい(その6)」で、AXIOM 80について書いている。

AXIOM 80は、はっきりと毒をもつスピーカーである。
だからこそ、瀬川先生はAXIOM 80から
《AXIOM80の本ものの音──あくまでもふっくらと繊細で、エレガントで、透明で、やさしく、そしてえもいわれぬ色香の匂う艶やかな魅力──》
そういう音を抽き出された、と私は確信している。

他の誰もそういう音を出せなかったのではないだろうか。
同じことは五味先生とタンノイのオートグラフにもいえる。

オートグラフも、AXIOM 80とは違う毒をもつスピーカーシステムである。

心に近い音について考える。
心に近い音とは、毒の部分を転換した音の美のように思っている。

聖人君子は、私の周りにはいない。
私自身が聖人君子からほど遠いところにいるからともいえようが、
愚かさ、醜さ……、そういった毒を裡に持たない人がいるとは思えない。

もっとも認めない人はけっこういそうだ。

私の裡にはあるし、友人のなかにもあるだろう。
瀬川先生の裡にも、五味先生の裡にもあったはずだ。

裡にある毒と共鳴する毒をもつスピーカーが、
どこかにあるはずだ。
互いの毒が共鳴するからこそ、音の美に転換できるのではないだろうか。

その音こそが、心に近い音のはずだ。

このことがわからずに、薄っぺらいハイ・フィデリティ論をかざす複雑な幼稚性の人がいる。

Date: 8月 6th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(理解についての実感・その9)

このことはavcat氏だけではなく、
ハイエンドオーディオを標榜している人たちの中にも感じていることなのだが、
どうも「毒」というものに対して、強い拒絶反応があるのではないか。

このことは若いから、とか、聴く音楽のジャンルに関係している、とか、
そんなこととはほほ無関係に、「毒」を強く拒絶する人がいるし、
増えて来つつあるように感じてもいる。
そういう音の追求もある。

毒をもたない音は、薬にもならない。
そんなふうに考える人(私を含めて)も、当然いる。
「毒」こそが音の美へと転換できる、
それこそが再生音楽(オーディオ)だ、と考えているからだ。

(その7)でリンクした木谷美咲氏の『日本の独自文化「盆栽」と「緊縛」の密接な関係』、
ここで私が興味深いと感じたのは、園芸と盆栽について以上に、
盆栽と緊縛について触れられているところだ。

『日本の独自文化「盆栽」と「緊縛」の密接な関係』を知る数週間前、
電車の中で、小学生二人の会話が聞こえてきた。
マンガの話のようだった。

そのマンガ(タイトルまではわからなかった)には、ヒーローが登場するようなのだが、
いわゆるヒーローものではなく、Hとエロだからこそのヒーローらしい。

ヒーローはheroである。
heroはHとero(エロ)に分けられる。
どうも、これにひっかけての、ちょっと風変わりなヒーローもののマンガのようである。

エッチな人、という、このエッチは変態のローマ字書き(hentai)の頭文字をとったもの。
そこにエロが加わったのがヒーローとするという視点は、少なくとも私は、今回初めて知った。

これだけだったら他愛ないことで終っていただろうが、
『日本の独自文化「盆栽」と「緊縛」の密接な関係』がそれに続いたし、
その前にはavcat氏へのステレオサウンドの染谷一編集長の謝罪の件もあったから、
印象に残ることになった。

Date: 8月 2nd, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(その56・追補)

ステレオサウンドの染谷一編集長の謝罪の件について、ほぼ毎日書いてきていているが、
続きとなる(その57)を書くのは、9月発売のステレオサウンド 208号まで控えておく。

本項から枝分れした「わかりやすさの弊害」と「理解についての実感」は書いていく。

Date: 8月 1st, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(その56)

今回の、ステレオサウンド染谷一編集長の謝罪の件は、
くり返し書いているようにavcat氏のツイートが発端である。

そのavcat氏の一連のツイートなのだが、
これをクレームと受けとっている人もいるようだ。

けれど、avcat氏のツイートは、クレームなのだろうか。
個人的なぼやきのように、私には思える。

この項ではfacebookでいくつかのコメントをもらっている。
そのひとつに、クレームについてのコメントがあった。

クレーム(claim)とは、原語では、正当な主張、もしくは請求の意味であり、
正当な、肯定的な応酬や積み重ねであれば、全体が望ましい状態に向うはず……、とあった。

調べて、確かに正当な主張、とあり、
いまの日本で一般的に通用しているクレーム、
つまり英語のclaimではなく、日本語のクレームは、英語のコンプレイント(complaint)ともある。

コンプレイント(complaint)は、苦情、不平である。
ということは、avcat氏のツイートは、
クレーム(claim)ではなくコンプレイント(complaint)だ、といえる。

今回の謝罪の件が、ここまで書くほどに興味深いのは、
染谷一編集長が、コンプレイント(complaint)なavcat氏のツイートを読んで、
謝罪し、そのことをavcat氏がツイートしたからである。

それでも誰も、謝罪したことを問題視しなければ、
avcat氏のツイートは、ずっとコンプレイント(complaint)のままだった。

けれど、私だけでなくブログやツイートで、今回の謝罪の件を取り上げている人たちがいる。
私のブログでも、ふだんはほとんどコメントがないのに、
染谷一編集長の謝罪の件に関しては、そうではない。

つまり、avcat氏のツイートが、クレーム(claim)になっていくのかもしれない。
そのために染谷一編集長がなすべきことは? である。
沈黙したままでは、avcat氏のツイートはコンプレイント(complaint)でしかない。

9月発売のステレオサウンド 208号で、それははっきりする。

Date: 8月 1st, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(わかりやすさの弊害・その8)

雑誌の売行きを安定にする。
特集の企画によって、売れたり売れなかったりをできるだけなくしたい、とするのは、
経営者の判断であり、それを編集部が忠実に実行していくのは、どういうことを自ら招くのか。

気に入られようとする。
そのための幕の内弁当であり、さらに進んだマス目弁当。
弁当は食べてしうまと、目の前に残るのは弁当箱だけである。

オーディオ雑誌は読み終ったからといって、ページが消失してしまうわけではない。
すべてのページを読んでしまったら、表紙だけが残ってしまうわけではなく、
一冊まるごと残っている。

最新号も残っていれば、捨てないかぎり、それ以前に読み終えた号も残っている。
それらが本棚に並んでいく。

一年で四冊、二年で八冊……、
増えていけば、一冊読んだだけでは気づきにくいことにも気づく。
気づかないまでも、なんとなく感じてくるようになる。

己の裡にある毒を転換してのオーディオの美だと、別項で以前書いた。
オーディオ機器、特にスピーカーは毒をもつ。

毒と毒。
だからこそ美へと転換できるとさえ、私は思っている。

私が熱心に読んできたオーディオ評論は、そのことを暗に語っていた。
いまは、それがなくなっていることに気づく。

だからなのか、毒に対しての拒絶反応が、
一部のオーディオマニアのあいだに出てきているようにも感じる。

Date: 7月 30th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(その55)

ステレオサウンドの記事は、どういう読み方であっても、
すべての読者に対してまったく同じ記事である。

今回の207号にしても、私が買った207号と別の人が買った207号とで、
記事の一部が、書いてあることが微妙に違っているということは絶対にない。

同じ内容の記事を読んでいても、読む人によって受けとめ方は違ってくるということは、
今回の染谷一編集長の謝罪の件については、
人によって読んでいるものが違っているのだから、受けとめ方はさらに違っているのではないか。

私以外にも、今回の謝罪の件を取り上げている人はいる、と聞いている。
twitterでツイートしている人もいるようだし、
自身のブログで書いている人もいる。

私はある人から教えてもらったブログをひとつだけ読んでいる。
そこにリンクしようかと思ったけれど、そのブログを書かれている人は、
あえて固有名詞を出さずの書き方なので、リンクはしない。

でもステレオサウンド 207号の写真は載っているから、
わかる人には、今回の謝罪の件だとわかる。

おそらく、この人以外に書いている人はいるだろう。
ということは、人によって、今回の染谷一編集長の謝罪の件は、
読んでいることに違いが生じている。

すべての人がavcat氏のツイートを遡って読んでいるとはかぎらない。

雑誌掲載の同じ記事を読んでもそうなのに、
読んでいるものが微妙に違ってきては、受けとめ方は記事以上に違ってきても不思議ではない。

読み手がどれを信じ信じないのか、どれに共感するのかしないのか、
そういったことが微妙に違ってきていることの怖さを、編集者ならば想像してみてほしい。

今回の件に沈黙してしまうということは、そういうことなのだ。

Date: 7月 28th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(わかりやすさの弊害・その7)

ステレオサウンド 207号の試聴記を見て(読んで、ではなく)、
twitter的といったのは、つまみ食いならぬつまみ読みができるからでもある。

このスピーカーの試聴記のを頭から終りまで通して読むのではなく、
オーディオ評論家の○○さんの、この機種の、このディスクのところだけ、
といった読み方ができるからである。

このことに関連して思い出すのは、
私がステレオサウンドにいたころ、原田勲氏がいわれたことである。

雑誌は幕の内弁当でなければならない、とはっきりといわれたことがある。
私がいたころだから、もう30年も前のことであり、
いまではどう雑誌を捉えているのかは、なんともいえなかったけれど、
207号の試聴記を見るにつれ、いまもまだその考えは変っていない、と確信した。

幕の内弁当は、たとえばとんかつ弁当とは大きく違う。
とんかつ弁当(焼き魚弁当でもいいけれど、別項でとんかつを書いているので)は、
メインとなるおかずは、文字通りとんかつだけである。

とんかつ以外にはキャベツの千切りとちょっとしたサラダ、つけものぐらいか。
どんなに美味しいとんかつであっても、その日、とんかつを食べたくない人、
肉が嫌いな人にとっては、他に食べるものがなくなるのが、とんかつ弁当である。

どんな人であっても、まんべんなくおかずが食べられるのが幕の内弁当であって、
そういうつくりの雑誌にすれば、特集の企画によって売行きが変動することを抑えられるからである。

その幕の内弁当思想が、特集の試聴記にまで及んでいる。
さしずめtwitter的試聴記は、弁当でいえば、
一口サイズにおかずもご飯も区切られているマス目弁当である。

幕の内弁当は、さらに進歩した、といえる。

Date: 7月 27th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(わかりやすさの弊害・その6)

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(その47)』へのfacebookでのコメント。

ひとりの方は、
オーディオ機器選びもSNSの「いいね!」の数を見て選ぶような時代であって、
ステレオサウンドの試聴記のように長いものを読んで、
自分に合ったモノを選ぶという手間のかかることは、
今の若い人たちはやらなくなっている、と。

別の方は、オーディオ機器は、良いモノを長く使いたいと考える人が多いから、
SNSのその場限りに対して、オーディオ雑誌は内容に責任を負っているから、
現在で存在価値を認める、と。

ひとり目の方は、オーディオ雑誌に存在価値を認めているいないではなく、
若い人のモノ選びについて書かれている。
ふたり目の方は、自身のオーディオ機器選びについて書かれている。

若い人のすべてがSNSの「いいね!」の数を見て選ぶわけではないだろうが、
その傾向はあるような気はする。
それに長い文章はSNSでは避けられがちである。

SNSで見かけがちなのが「長くてすみません」ということわり、である。
私の感覚では、特に長くない、と感じるのだが、SNSではそうではないようだ。
長い文章はことわらなければならないのか。

ステレオサウンド 207号の試聴記も、文字数だけでいえば、
SNSでは「長くてすみません」とことわらなければならない。

そういう視点から207号の試聴記をみると、
鉤括弧でディスク名をあげ、その後に続く文章をひとつとして捉えれば、
100文字程度の短文のいくつかが合体しただけ、とも読める。

twitter的でもある。
ディスクごとの印象は、ツイートそのものではないか。

ステレオサウンドの試聴記においても、
さほど長くない試聴記を読ませるための工夫がなされている──、
そんなふうに受けとることもできる。

Date: 7月 27th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(ステレオサウンド 208号でできること・その2)

沈黙を続けていれば、自然と方が付くのだろうか。
人の噂も七十五日という。
二ヵ月半だから、6月の207号のことだから、
三ヵ月後の208号のころには忘れ去られているのか。

二年前に「オーディオと「ネットワーク」(SNS = SESか・その4)」を書いた。
あるオーディオ関係者の沈黙が生んだ結果に触れた。

そのオーディオ関係者は、沈黙を後悔されていた。
そのオーディオ関係者と染谷一編集長は、仕事上でもよく会っている人のはず。

私が聞いている話なのだから、染谷一編集長も、その話を本人から聞いている可能性はある。
ずっと以前なら、日本では沈黙はひとつの対処の仕方といえただろうが、
いまの時代、どうだろうか。

少なくとも染谷一氏は、ステレオサウンドの編集長である。
一編集者ではないのだ。

謝罪、釈明はしたくないのかもしれない。
ならば(その1)に書いたように、積極的に今回の謝罪の件を利用すればいい。

仮に私が編集長で、こんな不用意な謝罪をしてしまったら、
鼎談、往復書簡を含めて、第二特集として記事とする。
16ページくらいはつくれる。

今回の件は、染谷一氏ひとりの問題ではないし、いろいろなことに関係してくる。
だからこそ、他のオーディオ評論家も無関係ではないどころか、
今回の件に沈黙しているオーディオ評論家は、
私からみればオーディオ評論家(商売屋)と自ら認めたようなものだ。

今回の件に関して、きちんと意見を述べたいオーディオ評論家はいるはずだ。
けれど、沈黙していては同じ穴の狢でしかない。

Date: 7月 27th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(ステレオサウンド 208号でできること・その1)

ステレオサウンド 207号の柳沢功力氏の試聴記に端を発する今回の、
ステレオサウンド編集長の染谷一氏の読者であるavcat氏への、不要で不用意な謝罪。

このことにどう対処するのか。
沈黙を貫くようにも思えるが、
ひとつの手として、9月発売の208号で、
「オーディオ評論、編集のあり方を問う」といった記事をつくるという手もある。

柳沢功力氏、avcat氏、染谷一氏で鼎談をやる。
本音での鼎談をやってもらいたい。

それぞれの立場があっての鼎談には、司会が必要となるかもしれない。
司会がいたほうが、より面白くなる可能性はある。
でも、誰が、この鼎談の司会をやるだろうか。

染谷一氏以外の編集部の誰かなのか、
やはり、ここは原田勲氏に登場願うのか。

ステレオサウンドの書き手のなかからの誰かなのか。
となるとオーディオ評論家のなかからよりも、高橋健太郎氏の司会がいいように思ったりする。

おそらく、こんな鼎談は208号には載らないだろう。
ならば柳沢功力氏とavcat氏の往復書簡というかたちでやってほしい。
それを読んでの染谷一氏のおもいも、ぜひ載せてほしい。

起きてしまった(起してしまった)ことに沈黙だけが対処の仕方ではない。
ためらわず積極的に利用することで、
誌面がおもしろくなり、今後に結びついてくることを選択した方がいいのではないか。