Archive for category 複雑な幼稚性

Date: 4月 16th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

SNSが顕にする「複雑な幼稚性」(その4)

以前は行列ができる飲食店は、そうそうなかった。
とんかつ屋でいえば、目黒のとんきは、昔から行列はあった。
けれど行列といっても、それほど長くもなかったし、待った、という記憶もない。

30年ちょっとのあいだに行列があちこちに見られるようになったと同時に、
料理の写真もを撮る人も増えた(というより、昔は見かけたことはなかった)。

携帯電話にカメラ機能がつき、
スマートフォンに、より高画質で、その場で編集できる機能さえつくようになった。

そういうハードウェアの変化もあってのことだとはわかっていても、
行列の数と長さ、写真を撮る人の増えかたは関係しているのではないのか。

誰だって美味しい店を知りたいし、そこに行きたい。
私がオーディオの先輩たちから教わったのは、
そういう店を大事にすることである。

自分だけが知っていて、誰にも教えないわけではない。
私に教えてくれたように、私も誰かに教えることになる。

少数の人だけが知っていても、その店が繁盛しなければつぶれてしまうことだってある。
それは困る。
繁盛しすぎて、長い行列ができてしまうのはまだ我慢できても、
味が落ちてしまうのは我慢できない。

だから、その店を大事におもうわけだ。

インスタ映えするように写真を撮って、SNSで公開する。
身内だけの公開ではなく、不特定多数に向けての公開である。
その行為に、店を大事にするという感覚がまったく感じられない。

Date: 4月 4th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

SNSが顕にする「複雑な幼稚性」(その3)

とんかつは、洋食屋、とんかつ屋、どちらにも共通するメニューである。
洋食屋ととんかつ屋は、どう違うのか。

箸で食すのがとんかつ屋で、ナイフとフォーク、スプーンで、なのが洋食屋という人もいるが、
とんかつ好きの私としては、
とんかつを自分で切って食すのが洋食屋であり、
調理人が包丁で切って客に出すのがとんかつ屋である。

洋食屋のとんかつは、自分で切るのだから、
SNSがこれほど一般的に普及しても変化はないが、
とんかつ屋の場合はそうではない。

インスタ映えという言葉が、SNSとともに広がってきた。
Instagram(インスタグラム)で公開する写真が映えるように、というのが、インスタ映えだ。

とんかつ屋のとんかつは切って出されるが、昔は切って出されるだけだった。
ところがインスタ映えのために、客の中にはとんかつの一切れを90度回転させ、
切った断面を上にして写真を撮る人があらわれてきた。

その影響からなのか、
とんかつ屋側で、最近では一切れ、断面を上に向けて客に出すところがあらわれてきた。
インスタ映えのために、そのことを考えている客にとっては、
そちらのほうが一手間が省けて、すぐに写真がとれる。

客への配慮ともいえるし、
うちはこれだけの良い肉を使っている、揚げ方も自信がある、
そんなことを客に暗に示すためなのかもしれないが、
昭和の洋食屋、昭和のとんかつ屋が好きな私は、
店側はそんなことをしなくてもいいのに……、と思う。

Date: 4月 2nd, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

SNSが顕にする「複雑な幼稚性」(その2)

学生だとそうそう外食はできなかったが、
働くようになると外食の機会は圧倒的に増える。

積極的に外食をするようになった1980年代。
東京の飲食店で行列が出来ていたのは、荻窪のラーメン店ぐらいしか思い浮ばない。

オフィス街のランチタイムでは行列ができるところもあったけれど、
行列といってもそんなに大勢が待っていたわけではない。

けっこう待つな、と感じるくらいの行列は、
やはり荻窪のラーメン店ぐらいだった。

ところがいまはどうだろう。
いたるところに行列ができている。
しかも、その行列が長い。

この30年のあいだに驚く変化である。

誰だって美味しいものを食べたい。
それはいまも昔も変らないはずだ。
なのに、いま東京ではいたるところに行列ができている。

ステレオサウンドにいたときは、隣のサウンドボーイ編集部のOさんに、
都内の美味しい店を教えてもらった。

ステレオサウンドの原稿用紙の裏に、モンブランの万年筆で地図を描いてくれた。
けっこうな枚数になっていた。

描きながらOさんは、簡単に人に教えるんじゃないぞ、とクギを刺す。
美味しいと評判になり、どっと人が押し寄せるようになると、
ほとんどが堕落してしまうからだ、と。

同じことは瀬川先生も書かれている。
     *
 ここ数ヵ月、我家を訪ねる客のあいだで、私の家のごく小さなレストランの、ウインナー・シュニッツェルが評判になっている。散歩の途中で何気なく発見したのだが、そう、ちょうどLP一枚ぶんぐらいの皿を思い浮かべて頂く。この皿いっぱいに、ときにはハミ出るほどに、大型の、仔牛の薄切りカツレツが載って出てくるのをみると、連れて行った人の誰もが、ウワァ! と感嘆の声をあげる。あらかじめ、大きいよ、と説明して行ってなお、である。それで価格は七百円。最初にこれが目の前に出てきたとき、何か間違いじゃないかと思った。行くたびに、これで損をしないのだろうか? と心配になるくらいだ。こういうものを出し続けて、そのたびに客をびっくりさせ、しかもびっくりさせるだけではない、食べてみて十分に美味しいことで満足させる。これはもう、明らかに店の側の勝ちだ。電車賃を払ってでも、こいつを食べに来たいよ、と友人たちも言う。これがベストバイの本ものの見本といえるだろう。おおぜいの人たちが押しかけるようになるとこのての店はたいていダメになるから、悪いけれど場所も店の名も教えられない。編集部に電話があっても、編集の諸君、教えちゃダメだぞ!
(ステレオサウンド 51号「’79ベストバイ・コンポーネントを選ぶにあたって」より)
     *
伊藤先生も同じことを書かれていた。
だから美味しい店、それも大事したい店は、そう簡単には人には教えないものだった。
少なくとも私はステレオサウンドを読んで、そういうものだと思ったし、
ステレオサウンドで働いているうちに、より強くそう思うようになった。

Date: 6月 8th, 2016
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(その3)

知人は私より十近く年上である。友人は私と同じ年。
自身の掲示板で知人を叩いていた人たち(実際は一人のようなのだが)は、
私よりも十近く年下のようだった。

つまり知人と知人を叩いていた人は二十近く年の差がある。

人を傷つけたのであれば年齢差は関係ない。
謝罪すべきだが、この場合はそうなのだろうか。

一方的な妬み・僻みだけを匿名をいいことに書き連ねる。
しかも架空の人物をつくってまで、そういうことをする。

もっとも架空の人物を掲示板に登場させる人だから、
妬み・僻みを書きながらも自身を正当化したかったのかもしれない。

私が知人と同じことになったら、無視するか、
その掲示板に何か書き込むとしても、絶対に謝罪を書いたりはしない。

だから知人に問うた。
返ってきたのは、なんであれ不愉快にしたのは事実だから……、というものだった。
知人は謝罪するのが当たり前、と考えていた。

知人は謝るべきだったのか。
これが「物分りのいい人」のとる態度なのか、と思い、
そのことも知人に問おうとしたけれど、やらなかった。

知人と私の年齢差、このことが起ったのが約十年ほど前だから、
その時の知人と今の私はほぼ同じ年ということになる。

だから、このことを「今」書いている。

Date: 5月 29th, 2016
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(コメントを読んで)

たいていはタイトルを先に書いている。
カテゴリーも先に決めている。
そのうえで本文を書いていく。

この項は、タイトルもカテゴリーも決めていなかった。
書き始めに引用した瀬川先生の文章だけを決めていた。
実を言うと、最先端のオーディオとは? をテーマにして書こうかな、と、
引用する前は考えていた。

なのに引用して、続く言葉を書いていくうちに、こみあげてくるものがあって、
あえて抑えることなくそのまま書いてしまった。

そのあとでタイトルをつけた。

そうやって書いたものだから、顰蹙を買うだろうな、とは思っていた。
なのに(その1)にコメントがあった。
おふたりの方からコメントをいただいた。

私のブログにはほとんどコメントがつかない。
昨夜書いたことにもコメントはつかないものと思っていただけに、
コメントがあったことだけでもうれしかったし、コメントの内容もそうだった。

いまのオーディオのあり方に、なにかを感じている人は少なからずいる、と私は信じている。
やっぱりいてくれた。

もちろん私が書いたことに否定的な人がいてもいるはず。
それでも、私が書いたものを読んでくれて、何かを感じ、
オーディオということについて考えるきっかけになってくれれば、それでいい。

Date: 5月 28th, 2016
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(その2)

10年近く前のことを思い出した。
ある知人がスピーカーを買い換えた。
超高額なスピーカーではなかったけれど、それでもかなり高額なモノだった。
誰もがそう易々と買えるものではないほどに高価なスピーカーだった。

そのスピーカーの見た目はともかく、音は聴けば納得できる。
知人が喜ぶのもわかる。
そのことを自身のウェブサイト内の日記に書いてしまうのも当然だと思う。

そのスピーカーへの憧れと自分のモノとしたときの喜びが、
日記からは伝わってきていた。

数日後、ある友人が教えてくれた。
その知人の書いたことが、別の人のウェブサイトの掲示板で叩かれている、ということだった。

なぜ? と思って、その掲示板を見た。
その掲示板の常連と思われる人たちが皆寄ってたかって、
不愉快だ、とか、こういう自慢話は買えない人を傷つける、とても無神経な行為……、
そんなことがずらずらと並んでいた。

誰一人、知人を擁護する人はいなかった。

自分がとても欲しいと思っているモノを、誰かが買ってウェブサイトで報告しているのを、
自慢話として受けとってしまう。
受けとり方は人さまざまだから、そう受けとめたのを私がとやかくいうことではない。
だが、自分の掲示板で、知人に対して文句を書き連ねるのは、どういう神経の人たちなのだろうか。

しかも後から判明したことだが、
その掲示板の常連のほとんどは、同じ人物の書き込みだった。

私と友人は、その掲示板を一笑した。
こんな妬み・僻みだけの世界をまともに相手にするのはバカらしいからだ。

知人も私たちと同じだろうと思って、「こんな掲示板で、書かれていますよ」と伝えた。

私は知人も「いや〜、書かれてしまいましたよ(笑)」というものだと思っていた。
けれど、知人は問題の掲示板に謝罪を書きこんだ。

欲しいスピーカーを手に入れてうかれて書いてしまった。
読む人の気持を考えていなかった。反省している、と。

掲示板の常連の人たちは、謝罪を受け容れました、そういったことを皆書いていた。

なぜ、知人は謝ったのか。

Date: 5月 28th, 2016
Cate: 複雑な幼稚性
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「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(その1)

書こう書こうと思いつつも、なぜかいまだ書いていないことがいくつかある。
どの項で書こうか決めかねているうちに忘れてしまって書きそびれるわけで、
そんなことのひとつに、
瀬川先生がヴァイタヴォックスCN191 Corner Hornについて書かれた文章がある。

ちょうど別項「ステレオサウンドについて」で、49号についてふれているところ。
瀬川先生の文章は49号に掲載されている。
     *
 つい最近、おもしろい話を耳にした。ロンドン市内のある場所で、イギリスのオーディオ関係者が数人集まっている席上、ひとりの日本人がヴァイタヴォックスの名を口にしたところが、皆が首をかしげて、おい、そんなメーカーがあったか? と考え込んだ、というのである。しばらくして誰かが、そうだ、PA用のスピーカーを作っていた古い会社じゃなかったか? と言い出して、そうだそうだということになった──。どうも誇張されているような気がしてならないが、しかし興味深い話だ。
 ヴァイタヴォックスの名は、そういう噂が流れるほど、こんにちのイギリスのオーディオマーケットでは馴染みが薄くなっているらしい。あるいはこんにちの日本で、YL音響の名を出しても、若いオーディオファンが首をかしげるのとそれは似た事情なのかもしれない。
 ともかく、ヴァイタヴォックスのCN191〝コーナー・クリプシュホーン・システム〟の主な出荷先は、ほとんど日本に限られているらしい。それも、ここ数年来は、注文しても一年近く待たされる状態が続いているとのこと。生産量が極めて少ないにしても、日本でのこの隠れたしかし絶大な人気にくらべて、イギリス国内での、もしかしたら作り話かもしれないにしてもそういう噂を生むほどの状況と、これはスピーカーに限ったことではなく、こんにち数多く日本に入ってくる輸入パーツの中でも、非常に独特の例であるといえそうだ。
     *
これを読んで、どう思うか。
人によっては、CN191なんて古くさいスピーカーをありがたがるのは、
日本のオーディオマニアの一部、懐古趣味の人たちだけ、と、最初から決めてかかるだろう。

私は、この文章を読んだ時、少し誇らしい気持になった。
イギリスのオーディオ関係者が忘れかけているメーカーを、
そのスピーカーシステムを、日本のオーディオマニアと評論家は正しく評価している、と。

1978年、CN191の《主な出荷先は、ほとんど日本に限られているらしい》。
もうこれだけで日本でしか評価されないスピーカー(に限らないオーディオ機器)は、
時代遅れの産物(いまどきの表現でいえばガラパゴスオーディオ)と、
短絡思考の人は決めつける。

ヴァイタヴォックスだけではない、
そういう人たちは、タンノイやJBLといったブランドも、同じに捉えている。
もっといえばホーン型を、同じに捉えている。

アメリカの一部のオーディオ誌で高く評価されたオーディオ機器のみが、
真に優れたオーディオ機器であり、または最先端のオーディオ機器であるかのように思い込んでいる。

昔よりもいまのほうが、そういう人が増えてきたように感じる。
昔からある一定数いたのかもしれないが、目につかなかった。
当時はインターネットがなかったからだ。

いまは違う。
狭い価値観にとらわれてしまっている人が目につくようになってきた。

狭い価値観にとらわれていることは全面悪とは思わないが、
そういう人が狭い価値観の範囲から外れたところにあるモノを、
あしざまに批判する、それも匿名で汚い言葉で批判しているのを見ると、
この人たちをなんといったらいいのだろうか、と考える。

「複雑な幼稚性」はそうして思いついた。

インターネットは、そういう人がいることを気づかせてくれた。
それだけではない、とも思っている。
そういう人を生んでいるのも、またインターネットだ、とも。

インターネットの普及で、情報は驚くほど増えている。
玉石混淆であり、情報と情報擬きがあり、
とにかくなんらかの情報と呼ばれるものは簡単に大量に入手できる。

その結果、知力低下が著しくなったのではないか。
もちろんすべての人がそうなったというわけではない。
一部の人は、インターネットによって知力低下といえる状態になっている。
もっといえば知力喪失といえる人もいる。

こんなことを書くと、自称「物分りのいい人」は眉をしかめることだろう。
自称「物分りのいい人」、そういう「物分りのいい人」を目指している人が、
私は大嫌いである。

知力低下(知力喪失)の「物分りのいい人」が少しずつではあるが、
はっきりと増えてきている。

Date: 5月 11th, 2016
Cate: 複雑な幼稚性

SNSが顕にする「複雑な幼稚性」(その1)

インターネットを始めたのが1997年。
そのころからなんとなく感じていたのが、「複雑な幼稚性」である。

インターネットのサービスも、そのころとはずいぶん変化してきている。
SNSが登場し普及してくるようになって、「複雑な幼稚性」はより顕になってきた、と感じている。

ことにオーディオに関してだけでも、そうだ。
むしろ、オーディオだからこそ、なのかもしれない、と思ってしまう。

Date: 3月 2nd, 2014
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」(その16)

オーディオの世界における「音色」には、大きくふたつのことを指しているといえる。

ひとつは楽器の音色のことであり、もうひとつはオーディオ機器固有の音色のことである。

音色という単語ひとつで語られるとき、どちらの音色のことを指しているのかがはっきりしないことがある。
このふたつのことを一緒くたにしている人もいる。

そうなると話はややこしくなり噛み合わなくなる。

オーディオ機器固有の音色は、これから先もとうぶんの間はなくならないだろう。
というよりもおそらく永遠になくならないであろう。

オーディオを介して音楽を聴くという行為には、
つねにこのオーディオ機器固有の音色とつき合うということでもある。

このオーディオ機器固有の音色は、必ずしも悪とはいえないところがあり、魅力ともなっている。
だからわれわれはそんな音色の美しさに一喜一憂してきている。

話をややこしくしないためにオーディオ機器固有の音色と書いているが、
それだけではなくレコード固有の音色も存在する。

Date: 8月 20th, 2013
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」(虎の威を借る狐)

「虎の威を借る狐ですね」と誰かにいわれたら、たいていの人はむっとする。
「虎の威を借る狐」は他人の権勢をかさに着て威張る小人(しょうじん)のたとえと辞書にはある。

侮辱されているのだから、むっとしたり怒ったりしたり当然なのだが、
この数年、感じているのは、「虎を威を借る狐」はまだましなほうなのだと思うことである。

すくなくとも、この狐は、虎が強いことを知っている。
自分で虎が強いということを判断した上で、「虎の威を借る」わけだ。
この狐は、ある意味賢いし、狡い。
それでも、的確な判断を下している。

私が「虎の威を借る狐」がまだましと感じているか、というと、
「虎の威を借る狐」、この狐の威を借るなにものかがあらわれて増えてきたように感じるからだ。

「虎の威を借る狐」、この狐の威を借るなにものかは、
もうすでに誰が、何が強いのかを判断できなくなっている、そのことがわからなくなっている。
だから、そんな狐の威を借ることになる。

私には、「虎の威を借る狐」にみえるものが、別の人には虎に見えているのかもしれない。
人それぞれといってしまえばそれまでのことなのだが、
オーディオ機器について書かれているものをインターネットで読むときに、
あるときはある販売店のある店員に、
(むしろオーディオ以外のことで感じることが多いのだが)
「虎の威を借る狐」、その狐を威を借るなにものか的な要素を感じてしまうと、
「虎の威を借る狐」はまだストレートだったんだなぁ……、と思い、
これも複雑な幼稚性なのかとも思ってしまう。

Date: 12月 29th, 2012
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」(その15)

大事なことを混同している人たちは、
自分たちの聴き方が新しくて、
JBLやタンノイといった、古くからあるメーカーのスピーカーを選択する人たちの聴き方をも古いとしてしまう。

音の聴き方に古いとか新しいといったことが、はたしていえるのだろうか。
自分の音の聴き方は新しい、という人の多くは、音場の再現こそが大事だという。

音場とは、音楽再生における場であることだから、
音場の再現は大切なことである、ということには反論はしないし、同意する。

聴感上のS/N比を重視するのも、この音楽の演奏される場を整えていくことであるからだ。

それでも音場の再現が音色の再現よりも上位だ、とか、
音色の再現よりも音場の再現を重視することこそが新しい音の聴き方である、
こんなことをいう人は、ほんとうに「音場」ということを認識しているのだろうか、と問いたくなる。

音場の再現と音色の再現(ここでいう音色とは楽器の音色のことである)は、
深く関わり合っていること、というよりも、同じことを違うことばで表していることに気づけば、
音場の再現がほんとうに良くなっていけば、楽器の音色の再現もそれにつれて良くなっていく。

もし楽器の音色の再現に、どこか不備があるのならば、
そこで鳴っている音場にも、どこか不備がある、といえる。
(ここでいう楽器とはアクースティック楽器のことであり、人の声のことである)

Date: 11月 12th, 2012
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」(その14)

アメリカでは、JBLやタンノイのスピーカーはほとんど売れていない、
JBLやタンノイが売れているのは日本ぐらいなものであり、だから日本のオーディオは……、
こんなことは私がステレオサウンドにいた1980年代からいわれている。

いまも、そういうことをいう人はいる。
インターネットという匿名で好き勝手なことを発言できる場が形成されてきたためか、
そういうことをいう人の数は増えてきているようにも感じる。

ほんとうのところ増えていくのかどうかははっきりとしない。
同じ人が、何度も同じことを発言していることだって考えられるから。

でも、実際にJBLやタンノイが日本だけでしか売れていないのかというと、
そんなことはない。

アメリカは日本よりもずっと広い。
国土が広いだけではなく、いくつかの意味で広い。

たしかにアメリカにはアブソリュートサウンドというオーディオ雑誌が以前からあり、
その流れとしてハイエンドオーディオと称されるものがあり、
それがアメリカで高い支持を得ているのは事実であろう。
日本でも、アブソリュートサウンド的ハイエンド志向の人はいる。

だからといって、日本もアメリカも、そういうアブソリュートサウンド的ハイエンドの人たちばかりではない。

日本のオーディオマニアもたったひとつでなく、
人によってオーディオの取組み方は違う。

スピーカーの選択ひとつとっても、その人の考えによってさまざまなスピーカーがそこでは選ばれている。
ウェスターン・エレクトリック時代のスピーカーを探しだしてきて使う人もいる、
JBL、アルテックのホーン型スピーカーによるウェストコーストサウンド、
ボザーク、マッキントッシュ、ハートレーのように
ダイレクトラジェーターを並列使用するイーストコーストサウンド、
1970年代に登場したインフィニティ、マグネパンなどの流れを汲むスピーカー、
などなどアメリカのオーディオマニアのあいだでも日本のオーディオマニアのあいだでも、
じつにさまざまなスピーカーが鳴らされている。

人間だから、新しいスピーカーが登場し、その音が自分にとって好ましいものであれば、
そのスピーカーに惹かれがちになるものだ。
惹かれるのは悪いことではない。

でも、だからといって、それまであったものが色褪せてしまい古くなってしまうわけではない。
新しいスピーカーに魅かれてしまった人には、そうなってしまうこともあるだろうが、
それはあくまでも、その人に限ってことであって、
自分以外の人たちが使っている・鳴らしているスピーカーが色褪せたり古くなるわけでは、絶対にない。

なぜ、この大事なことを混同してしまうのだろうか。
その混同が、その人の中にとどまっていればなんの問題もないことなのだが、
不思議とそういう人にかぎって、「JBLやタンノイは……」という……。

Date: 8月 15th, 2011
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」(その13)

五味先生の著書を、いま真摯に読み直してみるといい。
そこに書かれているのは、音場についてのことがすぐに見つかる。
瀬川先生に関しても同じことがいえる。

なにもこのふたりだけではない。
ステレオサウンドのバックナンバーをきちんと読み返せば、音場に関してもきちんと評価の対象となっている。
ただ音場だけを優先して評価していたのではなく、これは日本語の特性とも関係してのことであろうが、
音色についての表現において言葉がより多く費やされることが多かったのは事実だ。

これは音場が量的表現に近く、共通認識をさほど必要としない、ということも関係してのことであろう。
だからといって日本のオーディオ評論が、アメリカよりも進んでいた、といいたいのでなはい。
それに、そういう問題ではない。
それなのに一部の輩は、すぐに日本をけなし、アメリカこそ、と声高に叫ぶ。
どちらか片方だけがすべて良い、なんてことはない。
なぜこんな当り前すぎることが、オーディオをやっているにも関わらずわからないのだろうか。
これが現代的な幼稚性なのか、とも思ってしまう。

Date: 8月 15th, 2011
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」(その12)

音場は、音を表現する言葉のなかで、もっとも曖昧性の少ない、
いいかえれば書き手と読み手の間に深い共通認識を要求しない、
そして量的表現にも近い──、そういえるところをもつ。

音場の横方向の広がりはどこまでだとか、前後方向に関しては、さらに上下方向は、などと表現される。
いわばそこに主観的な判断は入りこみにくく、
見えない定規を左右のスピーカーシステムのあいだに形成される音場にあてて測るようなものだ。
よほどひねくれた聴き方をしないかぎり、聴く人によって音場の大きさについての判断がくい違うことはまずない。

それに音場は基本的に左右にきれいに広がり、奥に展開してくのを良し、とする。
これも間違えようがない。

日本の一部のオーディオマニアの中には、日本のオーディオ評論家はずっと音場について語ってこなかった。
それは音場よりも音色を重視したためてあったり、音場に対する感度が低かったからだといって貶める。
そんなことをほざく輩は、アメリカの、たとえばアブソリュートサウンドを非常に高い評価する傾向がある。
それに音場についても、アブソリュートサウンドが、
もっとも早くからステレオ再生における重要性を語っていた、とも。

ほんとうに、そうだろうか。
ステレオサウンドのバックナンバーを、おそらくそんなことを平気でいいふらしている輩は、読んでいないのだろう。
読んでいたとしても、ただ文字を目で追っていただけだろう。

日本でもかなり早い時期から、音の広がり、奥行の再現性については注目している。
とくにモノーラル時代からオーディオに取り組んできた人たちにとって、
ステレオになり何が可能になって、どういう可能性が拓かれたのか、もっとも注目すべきことであり、
そこでモノーラル時代の延長線上に留まる聴き方をする人もいたけれど、
むしろ生れた時からステレオ再生が当り前の時代の人たちよりも、音場に対しては敏感であった人も多い。

Date: 7月 15th, 2011
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」(その11)

以前は、オーディオ評論とは、言葉で音を表現して読み手に伝えていくことが、
その仕事のほとんどを占めることだと思っていた。

事実、ステレオサウンドは創刊号からある時期までは、まさにそうだったといえる。
みな、音をいかに文字で表現することに苦心されていることが伝わってきていた。
ある限られた文字数の中で、顔の見えない不特定多数の読み手に向って書いていく行為は困難さは、
書き手側だけが味わっていたことではなく、読み手側ももどかしさのようなものを感じていた。
そうやって試行錯誤しながら、書き手と読み手のあいだに共通認識がつくられることもあれば、
そうでないこともある。

共通認識が形成されていない書き手と読み手の関係の中で、音を伝えていくにはどうしたらいいのか。
たとえば文字数の制限をなくして、ひとつのオーディオ機器に対して、百万語を費やしたところで、
そこで伝えられるのは、そこで鳴っていた音のふるまいのようなものであって、
書き手(つまり聴き手)の感じた印象を伝えるには、どうしても共通認識が必要になり、
共通認識がしっかりと形成されていれば、音の表現は百万語を費やすよりも、
むしろある程度限定された枠の中で表現する短詩のほうが、それがすぐれている書き手によるものならば、
じつのところ、こちらのほうがずっと読み手にとって印象深いものになるはず。

印象深いことが、そこで鳴っていた音を正確に伝えることとイコールにはならない。
だが、オーディオ評論は、そこで鳴っていた音を正確に伝えることが本来の目的ではない。
音が具象的なものであれば、それは可能になるのかもしれない。だが音はどこまでいっても抽象的なものだ。
だから、オーディオ評論は、読み手の印象に刻まれるように表現していくものだと思っている。

日本には短歌や俳句があり、短歌や俳句が伝えられる世界がある。
じつは、その世界とオーディオ評論とは、よく似ているところがあるとも思える。

音は、あくまでも抽象的ではあるものの、具象性らしきをそこに感じられるものがある。
それが、音場と表現されるものである。