「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(理解についての実感・その22)
十年以上前からたびたび思うことがある。
どの分野、どの組織でもそうなのだが、トップに立たなければ見えてない景色(光景)、というか領域がある。
そのことに想像がいなくて、トップの人を引き摺り下ろすような発言を、考えもなしにする人が、とても増えてきた、と感じる。
批判的なことを言うな、ではなく、その人が見ている景色(光景)、領域のことを自分なりでもいいから想像してからではないだろうか。
十年以上前からたびたび思うことがある。
どの分野、どの組織でもそうなのだが、トップに立たなければ見えてない景色(光景)、というか領域がある。
そのことに想像がいなくて、トップの人を引き摺り下ろすような発言を、考えもなしにする人が、とても増えてきた、と感じる。
批判的なことを言うな、ではなく、その人が見ている景色(光景)、領域のことを自分なりでもいいから想像してからではないだろうか。
ステレオサウンドとオーディオアクセサリー(もしくはアナログ)。
二十年ほど前までだったら、比較すればステレオサウンドと思えていた。
けれどオーディオアクセサリーも少しずつ変っていく。
ステレオサウンドも、少しずつ変っていっている。
別項「2024年をふりかえって」で書いているように、オーディオアクセサリー(アナログ)において、読みごたえのある記事が載るようになってきた。
ジャーマン・フィジックスのHRS130の石原俊氏の文章、
フェーズメーションのCM1500の土方久明氏の文章が、そうである。
HRS130、CM1500、どちらもステレオサウンドにも記事が載ったが、通り一遍の紹介記事にとどまっていた。
毎号、オーディオアクセサリー(アナログ)に、そういった記事が載っているわけではないし、いかにも──、と言いたくなる記事もある。
いまオーディオアクセサリー(アナログ)とステレオサウンド、私の中ではどんぐりの背比べぐらいの位置づけになっている。
ステレオサウンドがいまでも上──、
そう言いたい気持はあっても、そうではなくなりつつある。
だからといって、数年後、どうなっているのかはなんとも言えない。
オーディオアクセサリーは、128号の付録CDが発端となった裁判に関する検証記事を載せるのか、
それともだんまりを決め込んでしまうのか。
それによって、今後がずいぶん変っていく。
オーディオ・ジャーナリズムなきオーディオ雑誌にしていくのかどうか、でもある。
Googleで「オーディオ 裁判」で検索すると、アコースティック・リヴァイブ裁判、サーロジック裁判が表示される。
サーロジック裁判は、聞いたような記憶がなんとなくあったけれど、知らなかった。
アコースティック・リヴァイブ裁判は、サーロジックよりも記憶ははっきりとしていて、そういえばそんなことがあったなぁ、ぐらいではある。
アコースティック・リヴァイブ裁判で、今回驚いたのは、第一審がまだ結審していないことである。
アコースティック・リヴァイブ裁判は、2008年2月21日発売のオーディオアクセサリー 128号の付録CDが発端である。
十八年前のことだ。
アコースティック・リヴァイブが原告となって裁判を起こしたことは当時それなりに話題になっていたので、私も記憶している。
とはいえもう随分前のことで、どこかの時点で結審している、もしくは和解しているものと勝手に思っていたのだから、第一審がまだ継続していることに驚いた。
結審しても、そこで決着とはなりそうにない感じを受けるから、最高裁まで争うのかもしれない。そうなったら、後何年かかるのだろうか。
第三者には理解できない、お互いに絶対に譲れないことがあるのだろうし、現時点では被告側からの情報発信が多い。
個人的にいろいろおもうところはあるが、決着がつくまで控えておくつもりだが、それでも一つだけ書けば、
オーディオアクセサリー(音元出版)は、なぜ黙ったままなのかだ。
オーディオアクセサリー 128号の付録のCDから始まっているわけだから、オーディオジャーナリズムをかけらでも持っているのならば、しっかり検証すべきである。
アコースティック・リヴァイブ裁判のこれまでの経緯を細かくみていったわけではないが、
オーディオアクセサリー(音元出版)は、だんまりを決め込んでいるとしか思えない。
十八年前のことだから、当時の編集者がいまも在籍しているのかも、私は知らない。すっかり入れ替っていてもおかしくない年月だ。
時間が経てば経つほど検証は難しくなっていく。
(その1)で書いているゲスなことをする人は、ほんとうにオーディオマニアなのだろか。
五味先生の「フランク《オルガン六曲集》」に、こう書いてある。
*
私に限らぬだろうと思う。他家で聴かせてもらい、いい音だとおもい、自分も余裕ができたら購入したいとおもう、そんな憧憬の念のうちに、実は少しずつ音は美化され理想化されているらしい。したがって、念願かない自分のものとした時には、こんなはずではないと耳を疑うほど、先ず期待通りには鳴らぬものだ。ハイ・ファイに血道をあげて三十年、幾度、この失望とかなしみを私は味わって来たろう。アンプもカートリッジも同じ、もちろんスピーカーも同じで同一のレコードをかけて、他家の音(実は記憶)に鳴っていた美しさを聴かせてくれない時の心理状態は、大げさに言えば美神を呪いたい程で、まさしく、『疑心暗鬼を生ず』である。さては毀れているから特別安くしてくれたのか、と思う。譲ってくれた(もしくは売ってくれた)相手の人格まで疑う。疑うことで──そう自分が不愉快になる。冷静に考えれば、そういうことがあるべきはずもなく、その証拠に次々他のレコードを掛けるうちに他家とは違った音の良さを必ず見出してゆく。そこで半信半疑のうちにひと先ず安堵し、翌日また同じレコードをかけ直して、結局のところ、悪くないと胸を撫でおろすのだが、こうした試行錯誤でついやされる時間は考えれば大変なものである。深夜の二時三時に及ぶこんな経験を持たぬオーディオ・マニアは、恐らくいないだろう。したがって、オーディオ・マニアというのは実に自己との闘い──疑心や不安を克服すべく己れとの闘いを体験している人なので、大変な精神修養、試煉を経た人である。だから人間がねれている。音楽を聴くことで優れた芸術家の魂に触れ、啓発され、あるいは浄化され感化される一方で、精神修養の場を持つのだから、オーディオ愛好家に私の知る限り悪人はいない。おしなべて謙虚で、ひかえ目で、他人をおしのけて自説を主張するような我欲の人は少ないように思われる。これは知られざるオーディオ愛好家の美点ではないかと思う。
*
17の時に読んだ。
まだまだオーディオマニアとしての経験は足りないけれども、
なるほどそういうものか、と感心しながら、何度も読み返した。
ゲスとしか言いようのないメールを送信してくる人は、この五味先生の文章を、どう読むのか。
別項で書いているが、残念なことにオーディオの世界にもゲスは以前からいる。
別項「2017年ショウ雑感(会場で見かけた輩)」で取り上げた人たちがいる。
壊れて破損しているオーディオ機器を隠して配送を依頼して、因縁をつけて損害賠償を要求する人、
スピーカースタンドの重量が、カタログスペックよりも少しだけ重たいことで裁判おこす人──。
私が知らないところでは、こんなふうにして裁判をおこしているのだろうか。
Googleで「オーディオ 裁判」を検索してみた。
検索してみてほしい。
昨年12月に、
アホ、バカ、ゲス。
いちばん始末におえないのは、ゲスだ、と書いた。
このブログではメールアドレスを公開しているから、毎日スパムメールが届く。そのほとんどは海外からと思われる。
今日、届いたメールはひどい。
差出人は、寺本浩平。
件名は、株式会社DIASOUL。
日本からだろう。
DIASOULの寺本浩平氏は、ニュースにもなっているからご存知の方も少なくないように、
ある事件に巻き込まれて亡くなっている。
偶然なのだが、12月のaudio wednesdayは、その事件の初公判でもあった。
いろんなゲスがいる。それはわかっているが、こんなメールを送るのは、どんなゲスなのか。
こんなことをして、何か愉しいのか。
2021年の終りに、
「バカの壁」は、養老孟司氏、
「アホの壁」は、筒井康隆氏。
そろそろ、誰か「ゲスの壁」を書いてくれてもよさそうなのに……、
そんなことを何度か感じた一年でもあった、と書いた。
ここでのタイトルの「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」、
確かにゲスである。
(その17)で、
《読者は雑誌に「私を気持ちよくさせて」ということを求めはじめたのではないのか》
と書いている。
(その17)は四年ほど前だが、いまもそう思っている。
ステレオサウンドもそういう編集方針なのかも──、とも思う。
今回のステレオサウンドの特集「オーディオの殿堂」は、まさしくそういう企画である。
自分が愛用しているオーディオ機器が、「オーディオの殿堂」入りをしたのであれば、
よほど捻くれた人でないかぎり、やはりうれしいはずだ。
苦労して手に入れたモノであれば、よけいにうれしいだろう。
私が以前愛用していたオーディオ機器のいくつかも、
「オーディオの殿堂」入りをしているようだ。
223号を買った友人が、
こんな機種が選ばれているよ、と教えてくれたなかに、
以前使っていた機種がいくつかあった。
サンスイのプリメインアンプ、AU-D907 Limitedも入っている(らしい)。
入っているのか、と思った。
他の機種は選ばれて当然のモノだったから、
AU-D907 Limitedが選ばれているのは意外だったし、それだけにうれしいな、と思ってしまった。
一方で、なぜ、このモデルが選ばれていない、と思う人も当然いるわけだ。
そういう人の気分は害している企画ともいえる。
とにかく殿堂入りした機種を使っている読者の気持をよくさせているのは、
そうであろう。でも、理解を深めようとは考えていないように感じている。
別項「40年目の4343(オーディオの殿堂)」で、
三浦孝仁氏の4343の文章について触れた。
三浦孝仁氏の、この文章は4343についての理解を深めることはまったくなかったし、
4343をいまも鳴らしている人、昔愛用していた人の気持をよくしただろうか。
小林秀雄が語っている。
*
美の鑑賞に標準はない、美を創る人だけが標準を持ちます。人間というものは弱いものだね。標準のない世界をうろつき廻って、何か身につけようとすれば、美と金を天秤にかけてすったもんだしなければならぬ。
*
坂口安吾との対談での発言のはずだ。
《美の鑑賞に標準はない》、
七十年以上前に、すでに語られている。
この項は、『「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」』に、
「理解についての実感」という副題をつけて書き始めた。
そのきっかけとなったのは、
ステレオサウンド 207号の特集はスピーカーシステムのテストだった。
そこでの柳沢功力氏のYGアコースティクスのHailey 1.2の試聴記に関して、
avcat氏がツイートしたことが始まりである。
一年ほど前のことだ。
そしてステレオサウンドの染谷編集長が謝罪した、とavcat氏のツイートにはあった。
『「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(その6)』から、
この件について触れている。
この件については、ずいぶん書いてきた。
一年以上経っている。
染谷編集長は、だんまりだ(少なくとも私が目にした範囲では)。
それにしても……、いまだに思う。
avcat氏は、美の鑑賞に標準はある、と思っているのだろう。
しかも自身の美の鑑賞を標準と思っているようにも思える。
《美の鑑賞に標準はない》、
そういうふうに考えたことは、ないのだろう。
もしかすると染谷編集長も同じなのだろう。
だからこそ、avcat氏のツイートにあるのが事実なら、
avcat氏に謝罪する必要などまるっきりないのに、謝罪という行為を選択した。
だとしたら、けっこうおそろしいことのようにも思えてくる。
ステレオサウンドは、美の鑑賞の標準となろうとしているのか……。
オーディオは、つまるところ感動の再現ではないのか。
いや、生音の再現、原音とおもわれるものの再現という人もいようが、
私は、ここにきて、感動の再現だ、とつくづくおもう。
別項でメリディアンのULTRA DACについて書いているのも、
その理由のひとつ、もっとも大きな理由は、私にとってULTRA DACが、
私が聴きえた範囲では最も感動の再現に近いD/Aコンバーターだからだ。
ULTRA DACよりも、いい音のD/Aコンバーターはある、という人がいる。
あるだろう、とは思っている。
ULTRA DACよりもはるかに高価なD/Aコンバーターはいくつかあるし、
それらとULTRA DACを比較試聴しているわけではないが、
ULTRA DACよりも、一般的にいわれている精度の高い音に関しては、
それらのD/Aコンバーターの方が上だろう。
プログラムソースに含まれている信号の波形再現こそが、最終的なことであるならば、
歪がなくノイズもなく、プログラムソースに記録された信号を、それこそ純粋な形で信号処理して──、
そういうプロセスを感じさせる音、いわゆる精度の高い音こそが正しい──、
そう力説されれば、確かにそれは技術的には正しい、といわざるをえない。
けれど、われわれが音楽を聴くのは家庭において、である。
録音スタジオでもないし、コンサートホールでもない。
音量ひとつとっても、録音の場で鳴っている音とは違う。
これは重要なことだ。
スピーカーもアンプもなにもかも違う条件で、われわれは録音された音楽を再生して聴いている。
そこにおいて、もっとも大事にしたいことはなんなのか。
音楽が美しく響いてくれることであり、
そして感動の再現である。
波形再現の精度をどこまでも追求するのを否定はしない。
けっこうなことだ。
そういう時期は、私にもあった。
けれど、いまはもう違う。
自分に正直になろうとすればするほど、そこからは離れていくような気がする。
十年ほど前からか、KYという略語が流行り出した。
空気を読め、空気が読めない、という意味で使われていた。
誰がいい出したのか、
どうして、こんな略語が流行ったのか。
研究している人はいるのだろうが、
私は、これも「私を不快にさせるな」というところから来ているように感じている。
よかれ、と思って言ったことが、相手を不快にさせることはある。
わたしなんて、しょっちゅうといえるほうだろう。
八年前もあった。
あきらかにおかしな音を聴かされた。
25年のつきあいのある男の音だった。
そのことをやんわりと指摘した。
そのくらい、おかしな音(間違っている音)だったからだ。
彼の出す音は、バランスを欠いた音である。
そのことはわかっていても、その時の音は、バランスのおかしさという範囲を逸脱した音だった。
でも、その音は彼にとって自慢の音だったようで、
彼とのつきあいはそれっきりである。
彼にしてみれば、「私を不快にさせるな」もくしは「私を不快にさせやがって」なのだろう。
それは彼の自尊心を傷つけた(無視した)からなのか。
いまとなってはどうでもいいことなのだが、
それにもかかわらず、こんなことを書いているのは、
時として不快な気持になる誰かの言動は、
己が本当に正直なのか、という確認につながっていくようにも、私は思っている。
本当に私は正直なのか、音楽の聴き手として、
オーディオマニアとして正直なのか、という確認作業は、とても大事なことである。
「複雑な幼稚性性」というタイトルとカテゴリーで(その1)を書いたのは、十年前。
120本以上書いている。
「2018年ショウ雑感」の(その13)へのコメントが、facebookにあった。
そこには、こう書かれていた。
《ある意味、オタク性群れヒエラルキーの幼児性ですね》と。
まさしく、(その13)で書いている人たちは、そうだといえよう。
最近、よく目にする表現で、マウントの取り合い、というのもある。
どちらも、「複雑な幼稚性」だと私は思っている。
だから、この「複雑な幼稚性」のカテゴリーをつくって書きつづけている。
ティラミス(Tiramisù)というイタリアのデザートが、
日本で知られるようになったのは1990年ごろと記憶している。
いまではすっかり定着してしまったティラミスの語源( Tirami su!) は、
イタリア語で「私を引っ張り上げて」である。
これが転じて「私を元気付けて」という意味もあるときいているが、
私がそのころ耳にしたのは、「私を気持ちよくさせて」という意味もある、ということだった。
引っ張り上げては、上に上げるわけで、つまりはそういうことか、と納得した。
「私を気持ちよくさせて」に、そういった性的意味があるのかどうかは別として、
ティラミス(私を気持ちよくさせて)が流行りはじめたころの日本は、
バブル期でもあった。
おもしろい偶然だな、といまになって思っている。
雑誌もこのころから変りはじめたのかもしれない、とも思う。
雑誌が変ったのか、読者も変ったのか。
少なくとも読者は雑誌に「私を気持ちよくさせて」ということを求めはじめたのではないのか。
その要求に、雑誌側も応えるようになってきた──、
少なくともステレオサウンドは、そうであるように感じる。
読者を気持ちよくさせること自体は悪いとはいわないが、
結局、それが読者の「私を不快にさせないで」を生み出すことになっていった──、
そんな気もしている。
ステレオサウンド 207号の柳沢功力氏のYGアコースティクスのHailey 1.2の試聴記に、
読者であるavcat氏がツイートした件は、つまるところ、その程度のことから発している。
ステレオサウンドがつまらない、と書いてきている。
私はそう感じているけれど、
いや、とても面白いじゃないか、という人がいるのは知っている。
先日もSNSで、そういう人たちがいた。
誰が、どれを面白いと感じてもいい。
けれど、その人たちの発言を見ていると、
そういうのを面白い、というのかと、と思う。
ステレオサウンドはオーディオ雑誌である。
雑誌に何を求めるのか。
いまのステレオサウンドを面白い、という人たちは、
気持ちよくさせてくれれば、と思っているように感じた。
自分が鳴らしているスピーカーシステム、アンプ、CDプレーヤーなどが、
ステレオサウンドの誌面で高く評価される。
このことを嬉しく思わない人は、まずいないだろう。
でも、もういい大人なんだから……、ともつぶやきたくなる。
使っているスピーカーシステムが、高く評価される。
さらには新しい音とか、ハイエンドオーディオを代表する、とか、
そんなふうなことが書いてあったら、
そのスピーカーを使っている自分も、
ハイエンドオーディオファイルの一人だ、と思えるのだろうか。
読者を気持よくさせる。
それも雑誌の役目なのだろうか。
気持よくさせてくれる雑誌ならば、面白いというのだろうか。
別項で「オーディオ評論家は読者の代表なのか」を書いている。
(その18)では、編集者は、必要な時は、強く代弁者であるべきだ、と思う、とも書いた。
では、編集者は読者の代表なのか。
実をいうと、編集者だったころに、こんなことは考えたことはほとんどなかった。
まったくなかった、といってもいいかもしれない。
こんなことを考えるようになったのは、ステレオサウンドを離れて、
さらに「バクマン。」というマンガを読んでからだった。
「バクマン。」は2008年から少年ジャンプに連載が始まった。
NHKでアニメになっているし、映画にもなっているから、
「バクマン。」というタイトルだけはみた記憶があるという人もいるだろう。
二人の高校生が、一人は原作、一人は作画という協同作業をすることで、マンガ家となっていく。
少年ジャンプが、物語の舞台としても登場してくる。
マンガ家と編集者とのやりとりも、そうとうに描かれている。
少年ジャンプは、読者ハガキに人気投票欄がある。
その集計が連載を続けるか打ちきりになるかを決定する──、
そんなふうにいわれていた、その内情についても描かれている。
面白いだけでなく、興味深いマンガでもある。
その「バクマン。」を読んでいて、編集者は読者の代表なのか、ということを考えていた。
ステレオサウンド 208号では柳沢功力氏の「オーディオファイル訪問記」が始まっている。
柳沢功力氏には、すでに「ぼくのオーディオ回想」という連載がある。
そこに今号からもう一本連載が加わるわけだ。
一人の筆者が二本の連載は、あまりなかった、と記憶している。
しかもどちらもカラーページである。異例といえる。
和田博巳氏。
「続・ニアフィールドリスニングの快楽」と、
音楽欄の「SS NEW MUSIC GUIDE & ESSAY for audiophiles」とで、
二本の連載といえば確かにそうなのだが、
「SS NEW MUSIC GUIDE & ESSAY for audiophiles」はご存知のように五人の筆者による連載でもある。
ステレオサウンドの読み手は、ステレオサウンドが面白ければそれでいい──、
そのことはわかっているけれど、どうしても勘ぐりたくなる、というか、
勘ぐらせようと編集部がしているのか、(その58で書いたことを含めて)何も隠そうしていないのか、
何かの伏線のように感じてしまう。
もしかすると次号(209号)の「オーディオファイル訪問記」に登場するのは、
avcat氏なのではないか、と思ってしまう。
avcat氏はYGアコースティクスのスピーカーを鳴らされているはずだ。
だからこそ一回目の「オーディオファイル訪問記」には、
柳沢功力氏にとって対照的なスピーカーの鳴らし手の訪問だったのか。
そんな見方もできなくはない。
そうだとしたら、209号は期待できる。
209号は冬号だから、毎年恒例の企画で、私にとっては一年四冊のなかで、
もっともつまらなく感じる号だけれども、avcat氏が「オーディオファイル訪問記」に登場するのであれば、
全体のページ数からすればわずかであっても、ぴりっとさせる存在になる可能性もある。
209号の「オーディオファイル訪問記」、どんな人が登場するのか。