Posts Tagged オーディオ評論家は読者の代表なのか

Date: 11月 27th, 2017
Cate: オーディオ評論, ジャーナリズム

オーディオ評論家は読者の代表なのか(その18)

編集者は、つねに読者の代弁者であるべき──、とは考えていない。
ただ必要な時は、強く代弁者であるべきだ、と思う。
そして書き手に対して、代弁者として伝えることがある、と考えている。

このことは反省を含めて書いている。

オーディオ雑誌の編集は、オーディオ好きの者にとっては、
これ以上ない職場といえよう。

けれど、そのことが錯覚を生み出していないだろうか。

本人たちは熱っぽくやっている、と思っている。
そのことは否定しない。

けれど、その熱っぽさが、誌面から伝わる熱量へと変換されていなければ、
それは編集者の、というより、オーディオ好きの自己満足でしかない。

読み手は、雑誌の作り手の事情なんて知らないし、関係ない。
ただただ誌面からの熱量こそが、雑誌をおもしろく感じさせるものであり、
読み手のオーディオを刺戟していくはずだ。

Date: 11月 27th, 2017
Cate: オーディオ評論, ジャーナリズム

オーディオ評論家は読者の代表なのか(その17)

誌面から伝わってくる熱量の減少は、
オーディオ雑誌だけの現象ではなく、他の雑誌でも感じることがある。

書き手が高齢化すればするほど、
43号のようなやりかたのベストバイ特集は、ますます無理になってくる。

43号は1977年夏に出ている。
菅野先生、山中先生は44歳、瀬川先生は42歳と、
岡先生以外は40代(上杉先生は30代)だった。

いま、ステレオサウンドのベストバイの筆者の年齢は……、というと、
はっきりと高齢化している。

そのことと熱量の減少は、無関係ではない。
書き手の「少しは楽をさせてくれよ」という声がきこえてきそうである。

しかも昔はベストバイは夏の号だった。
それを12月発売の号に変更したのは、
夏のボーナスよりも冬のボーナス、ということも関係している。

しかも賞も同じ時期に行う。
オーディオショウも同じである。

そんなことが関係しての熱量の減少ともいえる。

こうやって書いていて思うのは、編集者は読者の代弁者なのか、である。

Date: 8月 10th, 2017
Cate: オーディオ評論, ジャーナリズム

オーディオ評論家は読者の代表なのか(その16)

私が買った「名曲名盤300」は、
二ページ見開きに三曲が紹介されていた。

評を投ずるのは七人の音楽評論家。
十点の点数を、三点以内に振り分けるというものだった。
評論家によっては、一点に十点をつけている場合もあった。

そして200字ちょっとのコメントをすべての評論家が書いていた。
ステレオサウンド 43号のベストバイのやり方とほぼ同じである。
コメントの中に出てくる演奏者名はゴシックにしてあった。

編集という仕事を経験していると、
200字程度のコメントを、少ない人(評論家)でも数十本、
多い人では二百本くらいは書くことになり、これはたいへんな労力を必要とする作業である。

もう少し文字数が多ければ楽になるだろう。
演奏者名だけでも、少なからぬ文字数をとられる。
残った文字数で、選考理由や演奏の特徴などについてふれていく。

選ぶ作業でも大変なうえに、コメントを書く作業が待っている。
人気のある企画とはいえ、同じやり方で継続していくとなると、
評論家からのクレーム的なものが出てきたであろう。

誰かひとりが代表して書けばいいじゃないか、
そうすることで文字数は増えるし、書く本数もずいぶんと減る。

書き手(評論家)の負担はそうとうに小さくなる。
それでも選ぶだけでもたいへんとは思うけれど。

でも、これは作り手側、書き手側の事情でしかない。
読み手側にしてみれば、なぜ以前のやり方を変えてしまったのか、と思ってしまう。

私もステレオサウンドの読み手だったころ、
なぜ43号のやり方を変えてしまったのか、と不思議に思ったものだ。

作り手側、書き手側の負担を減らすということは、
誌面から伝わってくる熱量の変化としてあらわれる。

編集経験があろうとなかろうと、読み手は敏感に反応する。
熱っぽく読めるのか、そうではないのか、のところで。

Date: 8月 10th, 2017
Cate: オーディオ評論, ジャーナリズム

オーディオ評論家は読者の代表なのか(その15)

レコード芸術別冊「名曲名盤500」。

レコード芸術がいつごろから、この企画をやりはじめたのかはっきりとは知らないが、
私がまだ熱心に読んでいた1980年代には、すでにあった。
そのころは500ではなく200曲少ない300だった。

レコード芸術で数カ月にわたって特集記事で、しばらくすると一冊の本として発売されていた。
もう手元にはないが、あのころ一冊買っている。

持っているレコードにはマーカーで色付けして、
持っているけれど選ばれていないディスクをそこに書きこんだり、
買いたい(聴きたい)ディスクには別の色のマーカーでチェックしたりした。

一年ほどでボロボロになってしまった。

いま書店に並んでいる最新の「名曲名盤500」を買おうとは思わない。
書店で手にとってみた。
いまは、こういうやり方なのか、とがっかりした。

ステレオサウンドのベストバイと同じ道をたどっている、とも思った。
何度も書いているように、ステレオサウンドのベストバイで、
私がいちばん熱心に読んだのは43号である。

43号のやり方が理想的とはいわないが、これまでのベストバイ特集の中ではいちばんいい。
熱心に読んだ。

それは時期的なものも関係してのことではあるが、
いま読み返しても43号のやり方は、評論家の負担は大きくても、
一度43号を読んできた者にとっては、それ以降のベストバイはものたりないだけである。

同じことを最新の「名曲名盤500」にもいえる。
評論家(書き手)の負担を慮ってのやり方なのだろう、どちらのやり方も。

オーディオ評論家は読者の代表なのか(その14)

ステレオサウンドがオーディオの雑誌なのか、オーディオの本だったのかは、
別項で書いている「オーディスト」のことにも深く関係している、と私は感じている。

ステレオサウンドは2011年6月発売の号の特集で、オーディストという言葉を使っている。
大見出しにも使っている。
その後、姉妹誌のHiViでも、何度か使っている。

「オーディスト(audist = 聴覚障害者差別主義者)」。
その意味を調べなかった(知らなかった)まま使ったことを、
おそらく現ステレオサウンド編集長は、何ら問題とは思っていないようだ。

当の編集長が問題と思っていないことを、
こうやって書き続けることを不快と思っている人もいるけれど、
この人たちは、ステレオサウンドをオーディオの雑誌と捉えている人としか、
私には映らない。

オーディオ評論の本としてのステレオサウンド。
そう受けとめ、そう読んできた人たちを「オーディスト(audist = 聴覚障害者差別主義者)」と呼んで、
そのことを特に問題だとは感じていないのは、
もうそういうことだとしか私には思えない。

いまステレオサウンドに執筆している人たちも、誰一人として、
「オーディスト(audist = 聴覚障害者差別主義者)」が使われたことを問題にしようとはしない。
つまりは、問題にしていない執筆者も、
ステレオサウンドをオーディオの雑誌と捉えているわけで、
オーディオ評論の本とは思っていない──、そういえよう。

Date: 6月 23rd, 2016
Cate: オーディオ評論, ジャーナリズム

オーディオ評論家は読者の代表なのか(その13)

これは断言しておくが、
いまのステレオサウンド編集部は、ステレオサウンドをオーディオの雑誌と捉えている。
というよりも、オーディオ評論の本とは捉えていないはずだ。

でも、それは致し方ない、とも一応の理解を示しておく。
私もステレオサウンド編集部にいたころは、そのことに気づかなかった。

なぜ気づかなかったのか。
理由はいくつかあると思っているが、
もっとも大きな理由は、オーディオマニアにとってステレオサウンド編集部は、
とても楽しい職場であることが挙げられる。

もちろん大変なことも少なくないけれど、
オーディオマニアにとって、あれだけ楽しい職場というのは、
他のオーディオ関係の雑誌編集部を含めても、ないといえよう。

このことが、ステレオサウンドは、以前オーディオ評論の本であったこと、
いまはオーディオの雑誌であるということに気づかせないのではないか。

そうはいってもステレオサウンドが、真にオーディオ評論の本であった時代はそう長くはない。
おそらくいまの編集部の人たちはみな、
ステレオサウンドがオーディオ評論の本であった時代を同時代に体験していないはずだ。

そういう人たちに向って、いまのステレオサウンドは……、ということは、
酷なことである、というよりも、理解できないことなのかもしれない。

ステレオサウンド編集部が私のブログを読んでいたとしても、
私がステレオサウンドに対して書いていることは、
「何をいっているだ、こいつは」ぐらいにしか受けとめられていないであろう。

編集部だけではない、
ステレオサウンドがオーディオ評論の本であったことを感じてなかった読者もまた、
「何をいっているだ、こいつは」と感じていることだろう。

ならば書くだけ無駄なのか、といえば、決してそうではない。
私と同じように、
ステレオサウンドが以前はオーディオ評論の本であったことを感じていた人はいるからだ。

Date: 6月 21st, 2016
Cate: オーディオ評論, ジャーナリズム

オーディオ評論家は読者の代表なのか(その12)

ステレオサウンド 26号からある連載が始まった。
わずか四回で、それも毎号載っていたわけではない、
しかも地味な、といえる企画ともいえた。

タイトルは「オーディオ評論のあり方を考える」である。
26号の一回目は岡先生、28号の二回目は菅野先生、30号三回目は上杉先生、
31号が最後の四回目で岩崎先生が書かれている。

瀬川先生、長島先生、山中先生が書かれていないのが残念だが、
この記事(企画)は、どこかで常に読めるようにしてほしいと、ステレオサウンドに希望したい。

そしてできるならば、200号で、
ステレオサウンドに執筆されている方全員の「オーディオ評論のあり方を考える」を載せてほしい。

難しいテーマである。
書けそうで書けないテーマでもあるからこそ、
その書き手のバックグラウンド・バックボーンの厚さ(薄さ)が顕在化してくるはずだ。

華々しい企画で200号の誌面を埋め尽くそうと考えているのならば、
こういう企画は無視させるであろう。

だから問いたいことがある。
ステレオサウンドは何の雑誌なのか、である。

オーディオの雑誌、と即答されるはずだが、
ほんとうにステレオサウンドはオーディオの雑誌なのか、と思う。

私も10代のころ、まだ読者だった頃はそう思っていた。
けれどステレオサウンドで働くようになり、
それも瀬川先生不在の時代になって働くようになってわかってきたのは、
それもステレオサウンドを離れてからはっきりとわかってきたのは、
ステレオサウンドはオーディオ評論の本であった、ということだった。

こういう捉えかたをする人がどれだけおられるのかはわからない。
でも、同じようにステレオサウンドをオーディオ評論の本として捉えていた人、
ステレオサウンドにははっきりとオーディオ評論の本と呼べる時代があった、と感じている人は、
絶対にいるはずだ。

Date: 6月 20th, 2016
Cate: オーディオ評論, ジャーナリズム

オーディオ評論家は読者の代表なのか(その11)

長島先生が、サプリームNo.144(瀬川先生の追悼号)に書かれたことを憶い出す。
     *
オーディオ評論という仕事は、彼が始めたといっても過言ではない。彼は、それまでおこなわれていた単なる装置の解説や単なる印象記から離れ、オーディオを、「音楽」を再生する手段として捉え、文化として捉えることによってオーディオ評論を成立させていったのである。
     *
私はそういう瀬川先生が始められた「オーディオ評論」を読んできた。
菅野先生もステレオサウンド 61号に書かれている。
     *
この彼の純粋な発言とひたむきな姿勢が、どれほどオーディオの本質を多くの人に知らしめたことか。彼は常にオーディオを文化として捉え、音を人間性との結びつきで考え続けてきた。鋭い感受性と、説得力の強い流麗な文体で綴られる彼のオーディオ評論は、この分野では飛び抜けた光り輝く存在であった。
     *
少なくとも、ある時期のステレオサウンドに載っていたオーディオ評論は、
「オーディオは文化」という共通認識の上に成り立っていた。

けれど、どうもいまは違ってきているようだ。
「オーディオは文化」と捉えていない人が、オーディオ評論家と呼ばれ、
オーディオ評論と呼ばれるものを書いている。
それがステレオサウンドに載っている……、そう見ることもできる。

それはそれでもいいだろう。
長島先生がいわれるところの、瀬川先生が始められたオーディオ評論とは違うものだからだ。
別のところから始まったオーディオ評論があってもいいとは思う。

だが、「オーディオは文化」と捉えていない人が、
瀬川先生について書いているのを読むのと、一言いいたくなる衝動が涌いてくる。

Date: 6月 20th, 2016
Cate: オーディオ評論, ジャーナリズム

オーディオ評論家は読者の代表なのか(その10)

約一年前に別項「輸入商社なのか輸入代理店なのか(その10)」で、
「オーディオは文化」と捉える人とそうでない人がいることについて書いた。

「オーディオは文化」なのか。
私はこれまでずっとそう思ってきたし信じてきている。
けれど、世の中にはいろんな人がいるわけで、
オーディオマニアであっても「オーディオは文化」とは捉えない人がいるし、いてもいい。

あくまでも文化といえるのは音楽であって、
それを再生するオーディオ機器は文明とはいえても、文化とは認められない。
そういう考えはあってもいい。

たとえばコンピューターにおけるソフトウェアとハードウェアについて、
コンピューターに詳しくない人に対して、
ある人は「ソフトウェアは文化、ハードウェアは文明」と答えた話を読んだことがある。

同じことはオーディオにもあてはめようと思えば可能である。
だから「ソフトウェア(録音物)は文化、オーディオ機器(ハードウェア)は文明」
という捉えかたを全否定する気はない。

ただ「オーディオは文化」となると、そこには自ずとソフトウェアも含まれると考えられる。
そうなるとどうだろうか。

コンピューターにしてもソフトウェアだけでも、ハードウェアだけでも役に立たない。
両方揃って、はじめて道具として機能することを考えれば、オーディオもまた同じことである。
ならば「オーディオは文化」と捉えるのが道理としか私には思えないのだが、人はさまざまだ。

ステレオサウンドはどうだろうか。
私がいたときは「オーディオは文化」として捉えていた。
ステレオサウンド 49号で当時の編集長であった原田勲氏が、
《オーディオ機器の飛躍は、オーディオ文化の昇華につながる》と書かれている。

「オーディオは文化」としての編集方針があったのは明白である。
いまはどうなのかわからないが、少なくとも以前はそうだった。

ということは、そのころ熱心にステレオサウンドを読んできた人たち(私もその一人)は、
「オーディオは文化」と捉えてきた人たちであるはずだ。

Date: 2月 26th, 2016
Cate: オーディオ評論, ジャーナリズム

オーディオ評論家は読者の代表なのか(主従の契り)

ステレオサウンドについて(その20)」で書いたことを読み返して思ったのは、
瀬川先生がステレオサウンド 44号、Lo-DのHS350の試聴記の冒頭に書かれたこと、
こういうことを書く人はいなくなっている、ということだ。

私は《編集部によって削られることなく》と書いたが、
いまステレオサウンドに書いている人のほとんどは、
ステレオサウンド編集部によって削られる可能性のあることは書かない──、
といっていいだろう。

筆者が編集部の意向をくんで……、ということなのだろうか。
編集部からすれば、そういう文章を書いてくる人のほうが原稿を依頼しやすい、ということになる。

そんなことを思っていたら、
いまのステレオサウンドにおいて、編集部と筆者の関係は、どちらが主で従なのか、と考える。
昔はどうだったのだろうか、とも考える。

なぜ編集部は削るのか。
編集部が削ってしまうのは、クライアントが主であり、編集部が従であるから、といえなくもない。
そうだとしよう。
これは正しいありかたと、削る側の人たちは思っているのか……、ということも考える。

ここで忘れてはならないのは、読者の存在だ。
読者は主なのか、従なのか。

Date: 1月 24th, 2015
Cate: オーディオ評論, ジャーナリズム

オーディオ評論家は読者の代表なのか(その9)

ずっと以前からの私にとっての課題であり、
このブログを始めてからは、よりはっきりとさせなければと考えている課題が、
私自身は、何によってどう影響されてきたのか、である。

オーディオに関することで、何かに対してある考えを持つ。
その考えは、これまでのどういうことに影響されて導き出されてきたのか。

そのことが、こうやって書いていると、以前にもましてはっきりさせたいと思うようになってくる。

それをはっきりさせる意味もあって、私はたびたび引用している。

世の中には、すべて自分自身の独自の考えだ、みたいな顏をしている人がいる。
彼は、誰の影響も受けなかったようにふるまう。
ほんとうにそうであれば、それはそれでいい。
けれど、ほんとうに誰の影響も受けていない、と言い切れるのか。

その精神に疑問を抱く。
私はいろんな人の影響を受けている。
それを明らかにしていくよう努めている。

誰の影響も受けずに、これは自分自身の考えだ、みたいな書き方をしようと思えば、たやすくできる。
でも、それだけは絶対にしたくない。
それは恥知らずではないか、と思うからだ。

誰とはいわない、どの文章がとはいわない。
オーディオ雑誌に書かれたものを読んでいると、
これはずっと以前に、あの人が書いていたこと、と気づく。

それをどうして、この人はさも自分自身の考えのように書いているのだろうか、とも思う。

もちろん、その人は以前に書かれていたことを知らずに書いている可能性はある。
けれど、その人はオーディオ雑誌に原稿料をもらって書いている、
いわばプロの書き手である。アマチュアではない。

アマチュアであれば、そのことにとやかくいわない。
だがプロの書き手であれば、少なくとも自分が書いているオーディオ雑誌のバックナンバーすべてに、
目を通して、誰がどのようなことを書いているのかについて把握しておくべきである。

人は知らず知らずのうちに誰かの影響を受けている。
そのことを自覚せずに書いていくことだけはしたくない。

Date: 1月 24th, 2015
Cate: オーディオ評論, ジャーナリズム

オーディオ評論家は読者の代表なのか(その8)

そんな違いはどうでもいいじゃないか、と思われるようと、
私がここにこだわるのは、
私にとっての最初のステレオサウンドが41号と「コンポーネントステレオの世界 ’77」ということが関係している。

41号の特集は世界の一流品だった。
スピーカーシステム、アンプ、アナログプレーヤー、テープデッキなど紹介されている。
オーディオに関心をもち始めたばかりの中学生の私にとって、
世の中には、こういうオーディオ機器があるのか、と読んでいた。

いわば41号は、現ステレオサウンド編集長がいうところの、
《素晴らしい音楽を理想の音で奏でたい、演奏家の魂が聴こえるオーディオ製品を世に広く知らせたい》
という編集方針の一冊ともいえる。

「コンポーネントのステレオの ’77」は巻頭に、
黒田先生の「風見鶏の示す道を」があることがはっきりと示すように、
これは《素晴らしい音楽を理想の音で奏でたい、演奏家の魂が聴こえるオーディオ製品を世に広く知らせたい》
という編集方針の一冊ではなく、
はっきりと《「聴」の世界をひらく眼による水先案内》の編集方針の一冊である。

私はたまたまではあるが、同じようにみえて実のところ違う編集方針のステレオサウンドを手にしたことになる。
38年前、私が熱心に読みふけったのは「コンポーネントステレオの世界 ’77」だった。

Date: 1月 22nd, 2015
Cate: オーディオ評論, ジャーナリズム

オーディオ評論家は読者の代表なのか(その7)

編集方針が変っていくのが悪いとはいわない。
ステレオサウンドが創刊された1966年と2015年の現在とでは、大きく変化しているところがあるのだから、
オーディオ雑誌の編集方針も変えてゆくべきところは変えてしかるべきではある。

私がいいたいのは、変っているにもかかわらず、創刊以来変らぬ、とあるからだ。
そのことがたいしたことでなければ、あえて書かない。

だが編集方針は、少なくとも活字となって読者に示されたところにおいては、変ってきている。
その変化によって、オーディオ評論家の役目も変ってきている。

《「聴」の世界をひらく眼による水先案内》としてのオーディオ評論家と、
《素晴らしい音楽を理想の音で奏でたい、
演奏家の魂が聴こえるオーディオ製品を世に広く知らせたい》ためのオーディオ評論家、
私には、このふたつは同じとはどうしても受けとられない、やはり違うと判断する。

現ステレオサウンド編集長の2013年の新年の挨拶をそのまま受けとめれば、
どちらもオーディオ評論家も同じということになる。

オーディオ評論家は読者の代表なのか、について考えるときに、
同じとするか違うとするかはささいなことではない、むしろ重要なことである。

Date: 1月 22nd, 2015
Cate: オーディオ評論, ジャーナリズム

オーディオ評論家は読者の代表なのか(その6)

ステレオサウンド 2号の表2の文章は原田勲氏が書かれたものだとしよう。
ほかの人による可能性は低い。

この文章の最後に、
《本誌が「聴」の世界をひらく
眼による水先案内となれば幸いです》
とある。

本誌とはいうまでもなくステレオサウンドのことである。
つまりステレオサウンドが眼による水先案内となることを、
ステレオサウンドを創刊した原田勲氏は、このとき考えていた(目指していた)ことになる。

ステレオサウンド 2号の表2にこう書いてあるのだから、
これがステレオサウンド創刊時の編集方針といっていい。

水先案内とは、目的地に導くことである。

2013年の、ステレオサウンド編集長の新年の挨拶にあった
《素晴らしい音楽を理想の音で奏でたい、演奏家の魂が聴こえるオーディオ製品を世に広く知らせたい》
という編集方針と、
《「聴」の世界をひらく眼による水先案内となれば幸い》という編集方針は、果して同じことなのだろうか。

何も大きくズレているわけではないが、同じとは私には思えない。

けれど現ステレオサウンド編集長は、創刊以来変らぬ編集方針として、
《素晴らしい音楽を理想の音で奏でたい、演奏家の魂が聴こえるオーディオ製品を世に広く知らせたい》
と書いている。

微妙に変ってきているとしか思えない。

Date: 7月 12th, 2014
Cate: オーディオ評論, ジャーナリズム

オーディオ評論家は読者の代表なのか(その5)

ステレオサウンドの創刊号は持っていない。
私が持っているステレオサウンドでいちばん古いのは2号だ。

この2号の表紙をめくる。
そこは表2(ひょうに)と呼ばれるページ。

表1、表2、表3、表4とは、本の表紙の呼び方で、
表1(ひょういち)が表表紙、表4(ひょうよん)が裏表紙、
表2は表1の裏、表3(ひょうさん)は表4の裏のことだ。

表1以外の表2、表3、表4は広告として使われる。
広告料金表を見ればわかるが、これらのページは高い。

ステレオサウンド 2号の表2は広告ではなく、目次でもなく、
こう書いてあるページだ。
     *
STEREO SOUNDは眼で聴く雑誌です
ジムランという文字が眼にはいったら
ジムランの艶やかな音を
シュアーと読んだら
力強いシュアーの響きを耳に描いてください
レコードの話は
ターンテーブルの静かな回転を思い浮べながら
テープの記事は リールに巻きとられてゆく
テープの流れを追いながら
わたくしたちと音楽のつながりは
とくに深いものがあるようです。
本誌が「聴」の世界をひらく
眼による水先案内となれば幸いです
     *
誰の文章なのかはどこにも書いてないが、
ステレオサウンドを創刊した原田勲氏によるものだろう。