「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(理解についての実感・その20)
小林秀雄が語っている。
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美の鑑賞に標準はない、美を創る人だけが標準を持ちます。人間というものは弱いものだね。標準のない世界をうろつき廻って、何か身につけようとすれば、美と金を天秤にかけてすったもんだしなければならぬ。
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坂口安吾との対談での発言のはずだ。
《美の鑑賞に標準はない》、
七十年以上前に、すでに語られている。
この項は、『「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」』に、
「理解についての実感」という副題をつけて書き始めた。
そのきっかけとなったのは、
ステレオサウンド 207号の特集はスピーカーシステムのテストだった。
そこでの柳沢功力氏のYGアコースティクスのHailey 1.2の試聴記に関して、
avcat氏がツイートしたことが始まりである。
一年ほど前のことだ。
そしてステレオサウンドの染谷編集長が謝罪した、とavcat氏のツイートにはあった。
『「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(その6)』から、
この件について触れている。
この件については、ずいぶん書いてきた。
一年以上経っている。
染谷編集長は、だんまりだ(少なくとも私が目にした範囲では)。
それにしても……、いまだに思う。
avcat氏は、美の鑑賞に標準はある、と思っているのだろう。
しかも自身の美の鑑賞を標準と思っているようにも思える。
《美の鑑賞に標準はない》、
そういうふうに考えたことは、ないのだろう。
もしかすると染谷編集長も同じなのだろう。
だからこそ、avcat氏のツイートにあるのが事実なら、
avcat氏に謝罪する必要などまるっきりないのに、謝罪という行為を選択した。
だとしたら、けっこうおそろしいことのようにも思えてくる。
ステレオサウンドは、美の鑑賞の標準となろうとしているのか……。