戻っていく感覚(「風見鶏の示す道を」その20)
黒田先生の「風見鶏の示す道を」は、不思議とずっと印象深く残っている。
そして、なにかあるごとに思い出す。
「風見鶏の示す道を」に登場する乗客は、目的地を駅員に尋ねる。
彼が持っているのはレコードだけ。
そのレコードだけが行き先を告げている。
いま思うのは、そのレコードの中の一枚は、
その人にとっての故郷ともいうべき一枚だということ。
そういう一枚があるからこそ、レコードが告げるところに旅することができる。
黒田先生の「風見鶏の示す道を」は、不思議とずっと印象深く残っている。
そして、なにかあるごとに思い出す。
「風見鶏の示す道を」に登場する乗客は、目的地を駅員に尋ねる。
彼が持っているのはレコードだけ。
そのレコードだけが行き先を告げている。
いま思うのは、そのレコードの中の一枚は、
その人にとっての故郷ともいうべき一枚だということ。
そういう一枚があるからこそ、レコードが告げるところに旅することができる。
2月7日のaudio wednesday (next decade) では、
1月では横長で使ったけれど、スピーカーの性質が大きく違うこともあって、
縦長でのセッティングとなった。
聴いていて、ふと気づいたことがある。
この部屋のプロポーションは、どこか列車(電車)の車輌のようだ、と。
そして私を含めて、その場で聴いている人は、同じ車輌に乗り合わせた乗客だ、と。
現実の電車がそうであるように、乗っている人たちはほぼ見知らぬ人ばかりである。
偶然、その電車(車輌)に乗り合わせた人たちといえる。
そんなことを考えていた。
そして、その行き先は鳴らしている音楽が示していることも。
そんなふうに感じてしまうのは、黒田先生の「風見鶏の示す道を」を読んでいるからだ。
小学生のころは、とにかく喘息の発作から解放されたい──、
ただそれだけだったところがある。
中学三年のときが、前回の発作である。
もうずいぶん喘息とは離れての生活だったのが、
ここにきての発作。
薬のおかげで、かなり楽になっているものの、まだまだである。
それで思い出しているのが、この喘息の発作も、
ある意味、私にとっての「戻っていく感覚」だな、ということ。
小学生のころとくらべると、
中学生になってからの喘息の発作は、かなり少なくなっていた。
そういう時期に「五味オーディオ教室」と出逢っている。
そのことを含めての私にとっての「戻っていく感覚」であるわけだ。
友人の倉庫で預ってもらっているゴトウユニットのSG505TTとホーン。
ユニット単体で見るのは、実は初めてのことだ。
ゴトウユニットのことは、五味先生の書かれたもので知ったし、
高城重躬氏の「音の遍歴」も読んでいるから、
いままで縁のなかったモノだけれども、まったく知らないわけではなかった。
それまでゴトウユニットでシステムを組んでいる人のお宅に伺ったことはあるから、
ゴトウユニットを見ていないわけでもない。
もちろん音も聴いている。
けれど、それはシステムとしてまとめられていて、
ユニット単体を見るという意識は、こちらにはなかった。
今回、ゴトウユニットをユニット単体で眺めて、
もしこのドライバーとホーンを自分で使うとなったら、
このホーンは、どうやって固定するのだろうか──、
そんなことをおもっていた。
カットオフ周波数150Hzのホーンは長いだけでなく、
開口部の直径も大きい。
アルミ製なので重量は想像よりも軽かった。
とはいえ、これだけのホーンとドライバーを組み合わせた状態で、どう固定(設置)するのか。
特にホーンの開口部を、どう固定するのか。
ホーンの開口部には、取りつけやすくするためのなんらかの加工はなされていない。
そのことに今回初めて気づいた。
しかも開口部は丸だから、そのままエンクロージュアの上に置くということはできない。
そんなゴトウユニットを見ていると、
スピーカーユニットというよりも、もっと素材に近いモノという気がしてきた。
そういうことは、すべて自分で工夫しなさい、ということなのか。
そういう仕様だから、ゴトウユニットに惹かれた人はよけいにのめり込むのか。
そこのところを確かめるために、自分で鳴らすのか──と、そういうことではない。
瀬川先生が、《国産の水準を知る最新の標準尺》として、
ヤマハのC2とB3を捉えられていたのは、その音についてであるわけなのだが、
はたして音だけのことなのか、と、
アキュフェーズの2000年ごろの製品四機種を毎日眺めていると、そう思ってしまう。
C2とB3の組合せを《国産の水準を知る最新の標準尺》と評されたのは、
ヤマハのデザインを抜きにしては語れないように、いまは思っている。
私が、二十年ほど前のアキュフェーズの製品を前にして、
《国産の水準を知る最新の標準尺》ということを考えているのは、
そのデザインを抜きにすることはできない。
はっきりいえば、いまのアキュフェーズのデザインを少しもいいとは感じていない。
音だけでいえば、いまのアキュフェーズは、私のところにやって来た二十年ほど前の製品よりも、
ずっと高性能だし、音の優秀なことに違いない。
それでも個人的に、いまのアキュフェーズを《国産の水準を知る最新の標準尺》として見ること、
そして聴くことができるのか、と自問すると、
ここでもくり返しになるが、ステレオサウンドの試聴室という空間ではそうであっても、
自身のリスニング空間においては、無理かも……、としかいえない。
1月19日夜にアキュフェーズがやって来て、今日で五日。
毎日、そのパネルフェイスを眺めているわけだが、
このころのアキュフェーズのデザインが、個人的にはいちばん気に入っている。
木目調に仕上げなかったことはもちろんだが、フロントパネルの処理も悪くない。
フロントパネル下部を傾斜させているのは、
いまのアキュフェーズにつながる処理の仕方なのだが、
同じ手法であっても、このころのアキュフェーズは控えめだ。
いまは違う。かなり傾斜させている。
なぜ、そこまで? と個人的には感じるだけでなく、
エソテリックほどではないにしても、奇妙なデザインとしか思えない。
アキュフェーズは、どうしてウッドパネルや木目調の仕上げを復活させたのか。
おそらくユーザー側からの要求に応じてなのではないだろうか。
以前、そうした仕上げをとってきたブランドが、それをやめてしまっても、
いつのまにかまた以前のやり方に戻ってしまうのは、
それだけそのブランドの人気があること、それだけユーザーの声が強いのかもしれない。
私は何度も書いているように、基本的に木目調仕上げを好まない。
そういう仕上げやパネルはオプションで用意してほしい、と思うほうなのだが、
これまでアキュフェーズを支えてきたユーザーの声は無視できないのは、わかっている。
私なんて、これまで一台もアキュフェーズの製品を購入していない。
アキュフェーズにはなんにも貢献していないオーディオマニアでしかない。
そんな私のいうことはアキュフェーズにとって、どうでもいいことでしかない。
それでもDC330、DP100、A20Vなどの時代のアキュフェーズのデザインを好む者もいる、
そのことだけは忘れないでほしい……。
(その4)で、
アキュフェーズのA級動作のパワーアンプはA50だと記憶している、と書いたけれど、
A100がその前に登場している。
なのにA50の方が記憶に強く残っているのは、
ゴトウユニットとの相性についての話を友人から聞いた時に、
A100ではなくA50だったということが関係している。
A100とA50、どちらが優れているパワーアンプなのか、ということではなく、
友人の知人で、ゴトウユニットを鳴らしている人が、A50を選択しての結果というだけのことだ。
その人が、A100とA50を比較しての選択なのかどうかも知らない。
とにかくA50とゴトウユニットは、その人にとって最良の結果の音を鳴らしている、と聞いている。
《国産の水準を知る最新の標準尺》としてならば、
最新のアキュフェーズの製品を導入すべきなのではないか──、は正しいのだが、
思いがけない大金を手にしたとしても、
最新のアキュフェーズの製品が欲しいかと問われると、うーん、というしかない。
音について、うーんとなってしまうのではなく、
外観に関して、である。
別項「オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(ダストカバーのこと・その10)」で、
ウッドケースやウッドパネルに、あまり魅力を感じない、と書いている。
十年ほど前に書いたことだが、このことに関してもいまも全く同じで、
なぜ木目調に仕上げる? といいたくなることが多い私だ。
木目調の仕上げ、ウッドケース、ウッドパネル、すべてが嫌いなわけではないし、
魅力を感じないわけではないが、
そう感じる製品は、ごくわずかである。
アキュフェーズの製品もサイドにウッドパネルがついていたり、
天板に関してもそうだったりする。
けれど、私のところにやって来たころのアキュフェーズの製品は、
サイドのウッドパネルをやめている。
このことが、小さいことだけど、私にとっては嬉しいことである。
試聴室でリファレンス機器として使う(聴く)分には、
ウッドのサイドパネルがついてたり、木目調の天板であっても、
それほど気になったりはしないが、自分の部屋にやって来るモノとなると、
音も大事なのだが、このことは軽視できることではなくなる。
(その1)で、MP649をひっぱり出して゛ふたたびかけるようにしたことを書いている。
MP649は、私が買った最初の川崎先生デザインのメガネフレームである。
1998年に買っている。
私が買ったMP649は、モノトーンといえる色調なのだが、
ヴァリエーションとして明るい色調、ポップともいえるMP649もあったのだが、
こちらはかけるのが気恥ずかしいと感じて、モノトーンといえるMP649を選んだ。
十年くらいして、両方買っておけばよかった──、と思うようになったけれど、
すでに製造されていない。
二日前の夜おそく、Googleで画像検索していたら、
MP643が表示された。
MP649とMP643は細部に違いはあるが、同じデザインといえるフレームで、
表示されたMP643は、買っておけばよかった──、と思っていた色調のモノだった。
しかも未使用なのに、そこに表示されていた価格は、当時の定価の十分の一。
もちろん即購入した。
今日、郵便ポストに届いていた。
瀬川先生の文章で、
私が惹かれたのは《国産の水準を知る最新の標準尺として使いたいと思わせるほど》のところだ。
1978年は、すでにマークレビンソンのML2も登場していたし、
LNP2との組合せは、当時の私にとって、憧れ中の憧れの存在だった。
いつかはマークレビンソンの、この組合せ、と夢見ていたと同時に、
ヤマハのC2とB3の組合せも欲しい、と思わせたのは、
瀬川先生の《国産の水準を知る最新の標準尺として使いたいと思わせるほど》だった。
憧れのオーディオ機器を手に入れるだけでなく、
なんといったらいいのだろうか、当時の私は、オーディオ全体を知ろうと考えていたし、
そのために必要なオーディオ機器をすべて聴きたい、とも思っていた。
そんな私に、瀬川先生の《国産の水準を知る最新の標準尺として使いたいと思わせるほど》は、
C2とB3の音は、マークレビンソンのLNP2とML2の音のレベルには達していないものの、
聴いておくべきアンプという捉えかたをするようにさせたほどだった。
《国産の水準を知る最新の標準尺》、
その後、そういえるアンプは何があっただろうか。
そう考えた時にまず浮ぶのは、私の場合、アキュフェーズであるのは、
やはりステレオサウンド時代に、常にリファレンス機器として接していたからなのだろうか。
アキュフェーズの製品がやって来たことは、すでに書いている。
いずれの機種も2000年、もしくはそれ以前の機種である。
二十年ほど前に開発された機種である。
最新のアキュフェーズの音は、
インターナショナルオーディオショウで聴ける、といえば、たしかに聴けるわけだが、
試聴室でじっくりと聴いた、というレベルでは当然なくて、
あくまでも聴いた、ということでしかない。
その意味で、私にとって、二十年ほど前のアキュフェーズとはいえ、
じっくり聴けるわけだし、アキュフェーズの音だけというわけでもなく、
手持ちの他のブランドのモデルともじっくり比較できる。
そんなことを思っていたら、
アキュフェーズの製品の音は、私にとって、一つのリファレンス的といえるのか、
そういう自問が生じてきた。
私が働いていたころのステレオサウンドの試聴室で、
アキュフェーズの製品は、CDプレーヤー、コントロールアンプ、パワーアンプ、
いずれもリファレンス機器として使われていた。
自然とこちらの意識も、リファレンス機器として見るように(聴くように)なっていた。
このことが一般的なのかどうかは、私にとってはどうでもいいことで、
私にとってはアキュフェーズの製品の音とは、そういう存在であった──、
そのことが重要なことであり、そういえば──、と思い浮べるのは、
瀬川先生の文章である。
*
以前B2と組み合わせて聴いたC2だが、パワーアンプが変ると総合的にはずいぶんイメージが変って聴こえるものだと思う。少なくともB3の出現によって、C2の本当に良い伴侶が誕生したという感じで、型番の上ではB2の方が本来の組合せかもしれないが、音として聴くかぎりこちらの組合せの方がいい。B2にはどこか硬さがあり、また音の曇りもとりきれない部分があったがB3になって音はすっかりこなれてきて、C2と組み合わせた音は国産の水準を知る最新の標準尺として使いたいと思わせるほど、バランスの面で全く破綻がないしそれが単に無難とかつまらなさでなく、テストソースのひとつひとつに、恰もそうあって欲しい表情と色あいを、しかしほどよく踏み止まったところでそれぞれ与えて楽しませてくれる。当り前でありながら現状ではこの水準の音は決して多いとはいえない。ともかく、どんなレコードをかけても、このアンプの鳴らす音楽の世界に安心して身をまかせておくことができる。
*
「世界のコントロールアンプとパワーアンプ(ステレオサウンド別冊・1978年春発行)」での、
ヤマハのC2とB3の組合せの試聴記である。
先ほどアキュフェーズがやって来た。
CDトランスポートのDP100、
デジタル・コントロールアンプのDC330、
パワーアンプのA20V、
デヴァイディングネットワークのDF35、
この四機種である。
運んできてくれた友人と食事していたこともあって、今日は搬入のみ。
きちんとしたセッティングは週末の予定。
それにしても、と思うことは電源コードが増えたことである。
ステレオサウンドで働いていたころは、
自宅のシステムはCDプレーヤー、アナログプレーヤー、コントロールアンプ、パワーアンプ、
電源を必要とする機器は、これだけだったから、四本で足りていた。
のちにスピーカーをQUADのESLにしたので六本に増えたけれど、それでもこれだけだった。
いまは、というと、ルーター、ハブ、Mac、メリディアンの210と218、
DP100とDC330と、ここまで、つまりデジタル再生系だけで、七本必要となる。
この他にコントロールアンプ、パワーアンプ、
その他の機器(アナログプレーヤー、カセットデッキ、チューナーなど)を含めると、
十本を超えるし、他にもいくつかの機器が待機していて、
これらをすぐに使えるように電源コードだけは挿すようにすれば、二十本ほどになる。
わかっていたことだけれども、こういう時代なのか……、と感じながらも、
iPhoneとヘッドフォンで聴くシステムは、iPhone内蔵のバッテリーのみで動作するから、
電源コードは必要としない聴き方が、一方に厳然としてあることも、
この時代なのか、と感じている。
(その4)で、ゴトウユニットと表記した。
私がオーディオに興味を持ち始めた頃は、後藤ユニットだったような記憶がある。
それがいつのころからか、ゴトーユニットになっていた。
そしてゴトウユニットである。
おぼろげだが、GOTOユニットという表記もあったはずだ。
時代によって違ってきたのか、
いまはゴトウユニットのようである。
友人の倉庫で預ってもらっているSG505TTの木箱には、ゴトウユニットとある。
なのでゴトウユニットと表記している。
(その2)に、facebookでコメントがあった。
そこには、アキュフェーズのエンジニアが、以前、
A級動作にはメリットがないが、あえてラインナップしている──、
そんな趣旨の発言を何かで読んだことがある、と書かれていた。
私は、その記事を読んでいないけれど、
アキュフェーズのエンジニアがそういう発言をしていたとしても不思議ではない。
なのに、なぜA級動作のパワーアンプを開発したのか。
アキュフェーズのA級動作のパワーアンプはA50だと記憶しているが、
このアンプの評価は、きくところによると、
ゴトウユニットで聴いている人のあいだで特に高かった、らしい。
私の周りにゴトウユニットを鳴らしている人は、いない。
けれど、友人の知りあいはゴトウユニットのシステムで、
アキュフェーズのA級動作のパワーアンプについては、絶賛しているとのこと。
ここまで書けば気づかれる人もいるだろう。
アキュフェーズの春日二郎氏もゴトウユニットだった。
私はアキュフェーズのA級動作のパワーアンプで鳴らすゴトウユニットの音を聴いてはいない。
それでも、なんとなくわかるような気はしている。
私の世代ゆえなのか、
それとも個人的なことにすぎないのか、
どちらなのかは自分でもはっきりとしないが、A級動作のパワーアンプというものに、
ある種の憧れがある。
パイオニアのExclusive M4が当時、A級アンプの代名詞的存在だった。
そして1977年にマークレビンソンのML2が登場する。
ML2の登場は、私にとって(すこし大袈裟にいえば)A級神話につながっていく。
けれど、アンプのことを勉強していくと、
A級動作は、すべての点で理想的なのかという疑問ももつようになった。
特に振動面を考慮すると、A級動作は常時大電流が、
出力段のトランジスターに流れているわけで、当然不利である。
それに発熱量の問題もある。
このあたりのことは以前別項で書いているので省略するが、
だからといってA級動作は不利なのかというと、必ずしもそうではない。
三年前に別項「muscle audio Boot Camp」で書いているように、
パワーアンプの出力インピーダンスは、おそらく音楽信号によって変動しているはずである。
その変動の仕方、変動幅も、A級動作かどうかで違ってくるものと推測できる。
実際のところどうなのかは、そこまでの知識がないので実際に測定したわけではないが、
変動していないと考えるほうが無理がある。
そして、これも推測にすぎないのだが、
A級動作のほうが、出力インピーダンスの変動の幅も小さいはずだ。
だからといって、音がいい、ということに直接結びついていくのかどうかは、
いまのところなんともいえないのだが、
動的な出力インピーダンスは安定しているはずである。