Archive for category 戻っていく感覚

Date: 3月 17th, 2017
Cate: 戻っていく感覚

もうひとつの20年「マンガのDNA」と「3月のライオン」(その2)

「3月のライオン」は単行本の一巻だけは読んでいた。
それからNHKで放送されているアニメをみた。

ていねいにつくられているアニメであり、すぐれたアニメである。
一話目冒頭のモノクロのシーンは原作のマンガにはない。
アニメで加えられたシーンであるが、このシーンが静かな迫力を生んでいる。

アニメの監督は新房昭之氏。
「3月のライオン」の作者・羽海野チカ氏が「この人に!」とおもっていた人だそうだ。

アニメ「3月のライオン」に登場する人たちは、みな表情豊かだ。
アニメが画が動くし、音声もつく。
アニメをみなれた後で、
それもすぐれた出来のアニメ(そう多くはないけれど)を見たあとで、原作のマンガ、
つまり音声もなし、動きもなし、色もなしの二次元の領域に留まっている表現に触れると、
その世界に慣れるまでに、わずかな寂しさのようなものを感じることがある。

けれど「3月のライオン」にはそれがない。
むしろ動きも、音声も、色もないマンガの表情の豊かさに気づかされる。

特に川本三姉妹の表情は、じつに豊かだ。
その表情を生み出しているのは線である。
その線をみていると、この人はいったいどれだけの線を描いてきたのか、
そして見てきたのか、ということを考える。

才能をどう定義するか。
そのひとつに、どれだけの圧倒的な量をこなしているかがある、と私は思っている。

Date: 3月 8th, 2017
Cate: 戻っていく感覚

もうひとつの20年「マンガのDNA」と「3月のライオン」(その1)

いまは3月だから、という勝手な理由をつけて「3月のライオン」については、
遠慮することなく書こう、と思っている。
少なくとも私の中では、オーディオと無関係なことではないのだから。

「3月のライオン」を読んでいると、なぜ、こんなにもハマっているのか、と自問することがある。

「3月のライオン」の単行本の巻末には、いわゆるあとがきといえるページがある。
本編とは違うタッチで描かれた短いマンガが載っている。
筆者近況ともいえる内容のこともある。

十巻の、そんなあとがきを読んでいて、
やっぱりそうだったのか、と納得できた。

そのあとがきは入院・手術のことから始まる。
かなり大変だったのだろうと思う。

あとがきに、こんな独白がある。
     *
身体はしんどかったのですが
素晴らしい事もありました

今年(2014年)5月に
朝日新聞社さんの
「手塚治虫文化賞マンガ大賞」
いただく事ができました

「こんなにも何かを欲しがっては
呪われてしまうのでは」と思う程
心を占めていた賞でした

受賞の報せを
きいた時

こんらんして どうようして
30分以上 立ったままで
大泣きしました
     *
作者の羽海野チカは、初めて買ったマンガが「リボンの騎士」で、
小さかったころ夢中になってまねて描いていた、と。

羽海野チカの描き続けてきたのだろう。
私にもそんな時が、短かったけれどあった。

手塚治虫のキャラクターをまねてよく描いていた。
けれどそこで終っている。

そこで終った人間と描き続けている人間とでは、描いた線の数はものすごい差がある。
私に描けたのは、
手塚治虫のキャラクターを表面的にまねるためだけの線でしかない。

羽海野チカの描く線は、そんな域には留まっていない。

Date: 1月 2nd, 2017
Cate: 戻っていく感覚

二度目の「20年」(戻っていく感覚)

「五味オーディオ教室」と出逢ってから40年。
遠くに来た、という感覚がある。
年齢的にも遠くに来た。
他の意味でも遠くに来た。

遠くに来たからこそ、戻っていく感覚が強くなっている。
そのくらい「五味オーディオ教室」は40年前の私にとって遠くにあった。

Date: 12月 26th, 2016
Cate: 戻っていく感覚

二度目の「20年」

二度目の「20年」が今年だ。

NHKで「3月のライオン」というアニメが放映されている。
毎週楽しみにしている。

先日の11話もよかった。
二回見た。
昭和の大晦日、昭和の正月が描かれている。

今年は一週間もない。
年末にも関わらず、あまり、そんな感じがしてこない。

「3月のライオン」11話を見て、
あっ、そうだ、もう今年も終りだ、
そんなあたりまえすぎることを感じていた。

毎回見ている。
だからオープニングとエンディングは、毎回見る必要はない。
そういえないことはない。
でも、毎回見ている。

エンディングの最後のシーンが見たいからかもしれない。
詳しいことは書かない。

二人の少年が描かれている。
私にもいる、と思う。毎回見ていて思っている。

「五味オーディオ教室」で出逢った13歳の少年だった私だ。
このときからオーディオ少年だった。

いまはオーディオマニアと口では言っているが、
心の中ではオーディオ少年だ。

Date: 12月 13th, 2016
Cate: 戻っていく感覚, 書く

毎日書くということ(戻っていく感覚・その6)

一ヵ月ほど前、ラジオから山下達郎の「アトムの子」が流れた。
CDは持っていない。
ラジオから、偶然流れてくるのを何度か聴いている。

聴くたびに、思うことがある。
「アトムの子」という曲そのもののことではない。

ここでのアトムとはいうまでもなく、手塚治虫によるキャラクターであるアトムである。
だからこそおもうことがある。

「アトムの子」よりも「ブラック・ジャックの子」といえるだろうか、と。

「ブラック・ジャック」は連載開始の1973年から読んできた。
まだ小学生だった。
ブラック・ジャックに憧れて医者になろうとは思わなかったけれど、
ブラック・ジャックの生き方に、どこか憧れていた。

アトムのように生きていきたいと思う人もいれば、
私のようにブラック・ジャックのように……、とおもう人もいるだろう。

2008年9月から、このブログを書き始めて、数回「アトムの子」を聴いている。
そのたびに「ブラック・ジャックの子」といえるだけのことを書いているだろうか、と思う。

Date: 10月 22nd, 2016
Cate: 戻っていく感覚, 書く

毎日書くということ(戻っていく感覚・その5)

黒田先生がフルトヴェングラーについて書かれている。
     *
 今ではもう誰も、「英雄」交響曲の冒頭の変ホ長調の主和音を、あなたのように堂々と威厳をもってひびかせるようなことはしなくなりました。クラシック音楽は、あなたがご存命の頃と較べると、よくもわるくも、スマートになりました。だからといって、あなたの演奏が、押し入れの奥からでてきた祖父の背広のような古さを感じさせるか、というと、そうではありません。あなたの残された演奏をきくひとはすべて、単に過ぎた時代をふりかえるだけではなく、時代の忘れ物に気づき、同時に、この頃ではあまり目にすることも耳にすることもなくなった、尊厳とか、あるいは志とかいったことを考えます。
(「音楽への礼状」より)
     *
クラシックの演奏家は、フルトヴェングラーの時代からすればスマートになっている。
テクニックも向上している。
私はクラシックを主に聴いているからクラシックのことで書いているが、
同じことはジャズの世界でもいえるだろうし、他の音楽の世界も同じだと思う。

《あなたの残された演奏をきくひとはすべて、単に過ぎた時代をふりかえるだけではなく、時代の忘れ物に気づき》
と黒田先生は書かれている。

フルトヴェングラーと同じ時代の演奏家の残した録音すべてがそうであるわけではない。
単に過ぎた時代をふりかえるだけの演奏もある。

時代の忘れ物に気づかさせてくれる演奏──、
私がしつこいくらいに五味先生、岩崎先生、瀬川先生のことを書いている理由は、ここにもある。
私自身が時代の忘れ物に気づきたいからである。

オーディオの世界は、いったいどれだけの時代の忘れ物をしてきただろうか。
オーディオ雑誌は、時代の忘れ物を、読み手に気づかせるのも役目のはずだ。

私にとっての「戻っていく感覚」とは、そういうことでもある。

Date: 10月 20th, 2016
Cate: 戻っていく感覚, 書く

毎日書くということ(戻っていく感覚・その4)

オーディオ、音について書かれる文章は、
瀬川先生の時代よりもいまの方が多い、と感じている。

オーディオ雑誌の数は昔の方が多かった。
けれどいまはインターネットがあるからだ。

量は増えているが、
その多くはパッと流し読みして得られる内容(情報)と、
ゆっくりじっくり読んで得られる内容(情報)とに差がなくなっている。

一度読んだだけで得られる内容(情報)と、
くり返し、それも時間を経てのくり返し読んで得られる内容(情報)とにも差がなくなっている──、
そんなふうに感じている。

そういうものをくり返し読むだろうか。
私は読まない。

残念なことに、いまの時代、そういうものだけが溢れ返っている。
だからよけいに「戻っていく感覚」を強く意識するようになっているのかもしれない。

Date: 10月 20th, 2016
Cate: 戻っていく感覚, 書く

毎日書くということ(戻っていく感覚・その3)

私が書いているものには、瀬川先生、岩崎先生、五味先生の名前がかなり登場している。
これから先書いていくことにも登場していく。

そのためであろう、
私が瀬川先生、岩崎先生、五味先生を絶対視していると思われる人もいる。
絶対視はしていないが、そう思われてもそれでいい、と思っている。

私としては、以前書いていることのくり返しになるが、
松尾芭蕉の《古人の跡を求めず、古人の求めたる所を求めよ》と
ゲーテの《古人が既に持っていた不充分な真理を探し出して、
それをより以上に進めることは、学問において、極めて功多いものである》、
このふたつの考えが根底にあってのことである。

そのためには検証していかなければならない、と思っている。
それが他人の目にどう映ろうと、ここでのことには関係のないことである。

これも何度も書いているが、
私のオーディオは「五味オーディオ教室」から始まっている。
もう40年経つ。
それでもいまだに新たに気づくことがある。
五味先生の書かれたものだけではない、
岩崎先生、瀬川先生の書かれたものからも、いまでも気づきがある。
いや、むしろいまだからこその気づきなのかもしれない。

それがあるから書いている。
それは、時として私にとっては発見なのである。

Date: 10月 15th, 2016
Cate: 戻っていく感覚

一度目の「20年」

1991年、初めてMacを手にした。
Classic IIだった。メモリーは8MB、ハードディスクは40MBで、
ディスプレイは9インチのモノクロ。

キーボードは当時アスキーが発売していた親指シフトキーボードを使った。
日本語入力プログラムは、キーボード指定のMacVJE。

その後Macは、SE/30に買い換え、アクセラレーターを載せ、
ビデオボードも装着した。
キーボードは親指シフトキーボードのままで、MacVJEも使い続けていた。

1996年、MacVJEがAI変換搭載ということで、MacVJE-Deltaにヴァージョンアップした。
AI変換がどれだけ賢いのか試してみようと思って、
たまたま取り出していた本の一節を入力してみた。

変換効率は明らかに向上していた。
面白いように変換してくれるので、ついつい次の文節も、その次の文節も、と入力していた。

この時の本が、五味先生の「西方の音」だった。
一ページほど入力し終えて、ついでだから、一冊丸ごと入力してみよう、と思った。

毎日帰宅したら入力という日が続いた。
当時インターネットのことは知っていたけれど、やってはいなかった。
自分でウェブサイトをつくって公開することも考えていなかった。

何か目的があって入力を初めて続けていたわけでもなかった。
ただ電子書籍(VoyagerのExpand Book)にしようかな、ぐらいだった。

入力作業を続けていたのは、「五味オーディオ教室」と出逢って20年、ということに気づいたからだった。
20年という節目だから、とにかく五味先生のオーディオと音楽の本を入力していこう、
ただそれだけで続けていた。

「西方の音」のあとに、
「天の聲」「オーディオ巡礼」「五味オーディオ教室」「いい音いい音楽」と入力していった。
Expand Bookにもした。
SE/30では非常に重たい作業だった。

Expand Bookにしたからといって、誰かに渡したわけではなかった。
そのままにしていた。
しばらくして、ステレオサウンドの原田勲氏に「オーディオ巡礼」をフロッピーにコピーして送った。
それきりだった。

Date: 10月 14th, 2016
Cate: 戻っていく感覚

もうひとつの20年「マンガのDNA」

今年2016年は武満徹 没後20年、
東京オペラシティの20年の他に、
手塚治虫文化賞も「20年」を迎える。

朝日新聞出版から20周年記念ムックとして「マンガのDNA」が出ている。
表紙には「マンガの神様の意思を継ぐ者たち」とある。

マンガの神様とはいうまでなく手塚治虫のことである。

「マンガのDNA」には22本の短篇マンガが載っている。
手塚治虫文化賞を受賞したマンガ家の描き下しである。

手塚治虫のマンガを読んで、マンガ家になりたい、とおもったことが私にもあった。
あっただけで終ってしまったけれど……、
終ってしまったから、いくつかの短篇はそのことを強く憶い出せてくれる。

そのひとつ、森下裕美の「背中」を読んで、気づいたことがある。
私にとってのオーディオの「原点」は、「五味オーディオ教室」以前に、
マンガによって培われていたのかもしれない、と。

Date: 6月 1st, 2016
Cate: 戻っていく感覚, 書く

毎日書くということ(戻っていく感覚・その2)

毎日書いている。
六千本以上書いている。
そのうちのかなりの数、これまでのことを振り返ってのことである。

だから、あいつは過去のことしか書かない、過去にとらわれ過ぎている、
そんなふうに感じている(読んでいる)方がいるのも知っている。

そう思いたい人はそう思ってくれていい。
つい先日の瀬川先生のことを書いた。
これまでにかなりの数、書いてきている。
まだまだこれから先も書いていくし、書きたいことはまだまだある。

瀬川先生のことだけではない。
そうやって書いていくのは、私にとって大切なことをきちんとしまっていく行為のような気がする。

誰にでも大切なことはある。
長く生きていれば、それだけ増えていくはずである。

けれど、その大切なことを、
もう使わないから、とか、古くなったから、
でも捨てるのはしのびない、と理由でダンボールに詰め込んでしまう。

そういうことをいつのまにしてはないないだろうか。
しまうにしても、きちんとしまっておく。
そのために書いている。
そう感じることがある。

Date: 4月 19th, 2015
Cate: 戻っていく感覚, 書く

毎日書くということ(戻っていく感覚・その1)

毎日書くことで、何かが目覚めていくような感覚がある。

これまで読んできたこと、みてきたこと、きいてきたこと、
それらを脳のどこかに記憶されているのだろうけど、思い出せないことは無数にある、ともいえる。

思い出せないことは、つまりは眠っているのかもしれない。
そういった眠っている部分が、書くことによって目覚めていく、
そんな感じがある(つねにとは限らないけれど)。

そして書いたことにコメントをいただくこともある。
ブログではあまりコメントをいただくことはないけれど、
facebookのaudio sharingでは、コメントがある。

コメントを読んで、また別の、眠っていた一部が目覚める。
昨夜もそうだった。
ふたつのコメントを読んで、そうだった、そうだったのか、と思いながら、
何かが目覚めているような感覚があった。

目覚めている感覚とは、つまりは「戻っていく感覚」でもある。

Date: 3月 7th, 2015
Cate: 戻っていく感覚

戻っていく感覚(再会という選択)

戻っていく感覚」というテーマで書いている。
昨年の10月から書き始めた。
今年は、もっと書いていこうと考えている。

昨晩書いた「オーディオ機器を選ぶということ(再会という選択)」も、
やはり戻っていく感覚なのだろうか、といま思っている。

Date: 1月 6th, 2015
Cate: 戻っていく感覚

戻っていく感覚(「風見鶏の示す道を」その12)

旅人がトランクにつめこんだレコードは、いうまでもなく「ききたいレコード」であった。
ききたいレコードが一枚ではなく、何枚もあったから車掌は、
いきたいところがわからなかった旅人の行き先を察することができた。

ききたいレコードは、ききたくないレコードの裏返しでもある。
ならば旅人がトランクにききたくないレコードばかりをいれていたら、
それを見た車掌は、旅人がいこうとしている目的地を察することができただろうか。

38年前には考えなかった、こんなことをいまは考えている。

単純接触効果というのが、すでに実証されている。
くり返し何度も対象と接することで、好意度が高まり印象が良くなる、というものである。
音に関しても、単純接触効果はあるのだろう。

だとすれば……、と思う。
オワゾリール、アルヒーフの録音が好きだったききては、
ほんとうにこれらのレーベルの音が好きだったのか、である。

人の好みは、どうやって形成されていくのか、くわしいことは知らない。
ただ思うのは、嫌いなものを排除することの好みの形成であるはずで、
好きな音がまだつかめていない段階でも、嫌いな音、ききたくない音ははっきりしているのではないだろうか。

人によって、それも異っているのかもしれないが、
とにかく嫌いな音を徹底的に排除することから、
オーディオをスタートさせたききては十分考えられる存在だ。

嫌いな音を徹底排除することによって、ある独特な音が形成される。
その音で、彼はさまざまな音楽をきいてきた。
音楽をきいてきた回数だけ、その音に接している。
そして、いつしか、その音を好きになっている──。

これも単純接触効果といえるだろう。

Date: 1月 4th, 2015
Cate: 戻っていく感覚

戻っていく感覚(「風見鶏の示す道を」その11)

カラヤンは、古楽器について、ひからびた、しなびたといった表現をしている。
これはカラヤンが古楽器を全否定しているから、こういった表現になっているのであり、
古楽器には古楽器ならではの音のよさがあり、古楽器によるすべての演奏がそんな響きだとは思っていない。

それにそんな響きであっても、
人によっては、ストイックな響き、と受けとめる。
一方の、古楽器ではない響きを、堕落した響きと受けとめる人もいても不思議ではない。

古楽器の響きをストイックと受けとめる人は、
古楽器の響きが好きということであり、
オワゾリールやアルヒーフ、このふたつのレーベルの音が好んでいたききても、そうであるといえる。

けれど好きな音と嫌いな音も、また呼応していることを忘れてならない。
オワゾリール、アルヒーフの音を好んでいたききてには、苦手な音・嫌いな音があった。

苦手な音・嫌いな音は、誰にだってある。
私にも、それはある。

どんな音かというと、磁石を砂鉄の中にいれると磁石に砂鉄がけば立つようについていく。
こういう感じの音が、どうしても苦手である。
一部では、こういう音をエッジがはっきりしている音と評価しているようだが、決していい音ではない。

ただ、こういう音は悪い音であるわけだから、苦手・嫌い、というよりも、
こういう音を出してはいけないともいえる。
とすると、いまの私は、はっきりと苦手な音・嫌いな音は、他に思い浮ばないから、ないのかもしれない。

嫌いな音は好きな音と呼応しているのだから、
好きな音がはっきりとしている(そのため狭くなりがちでもある)からこそ、
嫌いな音も、またはっきりと存在している──、のではないだろうか。

オワゾリール、アルヒーフの音を好むききてをみていて感じていたのは、このことである。
彼は好きな音を追い求めていたのだろうか、
それとも嫌いな音を徹底的に排除していたのだろうか。