Archive for category 戻っていく感覚

Date: 8月 31st, 2017
Cate: 戻っていく感覚

二度目の「20年」(続・商売屋か職能家か)

オーディオ評論家(商売屋)は、どういう人たちなのか。
ひとつはっきりいえるのは、怒りを忘れてしまった人、持てなくなった人であること。

おそらく、オーディオ評論家(商売屋)が、怒る時は、
自分の仕事領域を誰かに侵されたり、自分のことをバカにされたときぐらいだろう。

けれど、それらは怒りとはいわない。
そんなことにも気づかなくなっているのが、オーディオ評論家(商売屋)だ。

Date: 8月 29th, 2017
Cate: 戻っていく感覚

二度目の「20年」(商売屋か職能家か)

この項の最初に、
心の中ではオーディオ少年だ、と書いた。

オーディオマニアは、みなオーディオ少年だった。
少年もいつしか大人になる。

オーディオを仕事としていれば、大人にならざるをえない。
どんな大人になるのか。

商売屋という大人になっていったオーディオ少年、
職能家をめざしていくオーディオ少年、
前者があふれ返っている。

Date: 6月 2nd, 2017
Cate: 戻っていく感覚

The farther backward you can look, the farther forward you are likely to see.

名言・格言の類を積極的に調べることはないが、
なにかのきっかけで知ることは意外とある。

ウィンストン・チャーチルの言葉である。
The farther backward you can look, the farther forward you are likely to see.
(過去をより遠くまでふり返ることができれば、未来も同じくらいに遠くまでみることができよう)

そうだと思う。
そしてfartherをdeeperに置き換えても、そうだと思う。
The deeper backward you can look, the deeper forward you are likely to see.

過去をより深くふり返ることができれば、未来も同じくらいに深くみることができるのではないだろうか。

Date: 3月 27th, 2017
Cate: 戻っていく感覚

もうひとつの20年「マンガのDNA」と「3月のライオン」(その3)

マンガ家の原画を見たことが数回ある。
すべてのマンガ家の原画を見たいとは思っていないし、
原画を見たいと思うのは、わずかなマンガ家である。

「3月のライオン」の原画も見たいと思う。

この原画という言葉に相当するのが、
オーディオの世界では原音になるわけだが、
画と音とでは、違う。

原音の「音」に相当するのは、原画ではなく「線」のはずだ。
つまり原音と原線であり、
原画に相当するのは原音ではないことに気づく。

となると原画に相当するのは、オーディオの世界ではなんといったらいいのか。
音ではなく響きか。
そうだとすれば原響なのか。

個々の楽器の音像なのだろうか。
だとすれば原像となるのか。

結局は「場」なのか、とも思う。
ならば原場になるのか。

どれもしっくりこない。
いったい何と呼べばいいのだろうか。

Date: 3月 17th, 2017
Cate: 戻っていく感覚

もうひとつの20年「マンガのDNA」と「3月のライオン」(その2)

「3月のライオン」は単行本の一巻だけは読んでいた。
それからNHKで放送されているアニメをみた。

ていねいにつくられているアニメであり、すぐれたアニメである。
一話目冒頭のモノクロのシーンは原作のマンガにはない。
アニメで加えられたシーンであるが、このシーンが静かな迫力を生んでいる。

アニメの監督は新房昭之氏。
「3月のライオン」の作者・羽海野チカ氏が「この人に!」とおもっていた人だそうだ。

アニメ「3月のライオン」に登場する人たちは、みな表情豊かだ。
アニメが画が動くし、音声もつく。
アニメをみなれた後で、
それもすぐれた出来のアニメ(そう多くはないけれど)を見たあとで、原作のマンガ、
つまり音声もなし、動きもなし、色もなしの二次元の領域に留まっている表現に触れると、
その世界に慣れるまでに、わずかな寂しさのようなものを感じることがある。

けれど「3月のライオン」にはそれがない。
むしろ動きも、音声も、色もないマンガの表情の豊かさに気づかされる。

特に川本三姉妹の表情は、じつに豊かだ。
その表情を生み出しているのは線である。
その線をみていると、この人はいったいどれだけの線を描いてきたのか、
そして見てきたのか、ということを考える。

才能をどう定義するか。
そのひとつに、どれだけの圧倒的な量をこなしているかがある、と私は思っている。

Date: 3月 8th, 2017
Cate: 戻っていく感覚

もうひとつの20年「マンガのDNA」と「3月のライオン」(その1)

いまは3月だから、という勝手な理由をつけて「3月のライオン」については、
遠慮することなく書こう、と思っている。
少なくとも私の中では、オーディオと無関係なことではないのだから。

「3月のライオン」を読んでいると、なぜ、こんなにもハマっているのか、と自問することがある。

「3月のライオン」の単行本の巻末には、いわゆるあとがきといえるページがある。
本編とは違うタッチで描かれた短いマンガが載っている。
筆者近況ともいえる内容のこともある。

十巻の、そんなあとがきを読んでいて、
やっぱりそうだったのか、と納得できた。

そのあとがきは入院・手術のことから始まる。
かなり大変だったのだろうと思う。

あとがきに、こんな独白がある。
     *
身体はしんどかったのですが
素晴らしい事もありました

今年(2014年)5月に
朝日新聞社さんの
「手塚治虫文化賞マンガ大賞」
いただく事ができました

「こんなにも何かを欲しがっては
呪われてしまうのでは」と思う程
心を占めていた賞でした

受賞の報せを
きいた時

こんらんして どうようして
30分以上 立ったままで
大泣きしました
     *
作者の羽海野チカは、初めて買ったマンガが「リボンの騎士」で、
小さかったころ夢中になってまねて描いていた、と。

羽海野チカの描き続けてきたのだろう。
私にもそんな時が、短かったけれどあった。

手塚治虫のキャラクターをまねてよく描いていた。
けれどそこで終っている。

そこで終った人間と描き続けている人間とでは、描いた線の数はものすごい差がある。
私に描けたのは、
手塚治虫のキャラクターを表面的にまねるためだけの線でしかない。

羽海野チカの描く線は、そんな域には留まっていない。

Date: 1月 2nd, 2017
Cate: 戻っていく感覚

二度目の「20年」(戻っていく感覚)

「五味オーディオ教室」と出逢ってから40年。
遠くに来た、という感覚がある。
年齢的にも遠くに来た。
他の意味でも遠くに来た。

遠くに来たからこそ、戻っていく感覚が強くなっている。
そのくらい「五味オーディオ教室」は40年前の私にとって遠くにあった。

Date: 12月 26th, 2016
Cate: 戻っていく感覚

二度目の「20年」

二度目の「20年」が今年だ。

NHKで「3月のライオン」というアニメが放映されている。
毎週楽しみにしている。

先日の11話もよかった。
二回見た。
昭和の大晦日、昭和の正月が描かれている。

今年は一週間もない。
年末にも関わらず、あまり、そんな感じがしてこない。

「3月のライオン」11話を見て、
あっ、そうだ、もう今年も終りだ、
そんなあたりまえすぎることを感じていた。

毎回見ている。
だからオープニングとエンディングは、毎回見る必要はない。
そういえないことはない。
でも、毎回見ている。

エンディングの最後のシーンが見たいからかもしれない。
詳しいことは書かない。

二人の少年が描かれている。
私にもいる、と思う。毎回見ていて思っている。

「五味オーディオ教室」で出逢った13歳の少年だった私だ。
このときからオーディオ少年だった。

いまはオーディオマニアと口では言っているが、
心の中ではオーディオ少年だ。

Date: 12月 13th, 2016
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毎日書くということ(戻っていく感覚・その6)

一ヵ月ほど前、ラジオから山下達郎の「アトムの子」が流れた。
CDは持っていない。
ラジオから、偶然流れてくるのを何度か聴いている。

聴くたびに、思うことがある。
「アトムの子」という曲そのもののことではない。

ここでのアトムとはいうまでもなく、手塚治虫によるキャラクターであるアトムである。
だからこそおもうことがある。

「アトムの子」よりも「ブラック・ジャックの子」といえるだろうか、と。

「ブラック・ジャック」は連載開始の1973年から読んできた。
まだ小学生だった。
ブラック・ジャックに憧れて医者になろうとは思わなかったけれど、
ブラック・ジャックの生き方に、どこか憧れていた。

アトムのように生きていきたいと思う人もいれば、
私のようにブラック・ジャックのように……、とおもう人もいるだろう。

2008年9月から、このブログを書き始めて、数回「アトムの子」を聴いている。
そのたびに「ブラック・ジャックの子」といえるだけのことを書いているだろうか、と思う。

Date: 10月 22nd, 2016
Cate: 戻っていく感覚, 書く

毎日書くということ(戻っていく感覚・その5)

黒田先生がフルトヴェングラーについて書かれている。
     *
 今ではもう誰も、「英雄」交響曲の冒頭の変ホ長調の主和音を、あなたのように堂々と威厳をもってひびかせるようなことはしなくなりました。クラシック音楽は、あなたがご存命の頃と較べると、よくもわるくも、スマートになりました。だからといって、あなたの演奏が、押し入れの奥からでてきた祖父の背広のような古さを感じさせるか、というと、そうではありません。あなたの残された演奏をきくひとはすべて、単に過ぎた時代をふりかえるだけではなく、時代の忘れ物に気づき、同時に、この頃ではあまり目にすることも耳にすることもなくなった、尊厳とか、あるいは志とかいったことを考えます。
(「音楽への礼状」より)
     *
クラシックの演奏家は、フルトヴェングラーの時代からすればスマートになっている。
テクニックも向上している。
私はクラシックを主に聴いているからクラシックのことで書いているが、
同じことはジャズの世界でもいえるだろうし、他の音楽の世界も同じだと思う。

《あなたの残された演奏をきくひとはすべて、単に過ぎた時代をふりかえるだけではなく、時代の忘れ物に気づき》
と黒田先生は書かれている。

フルトヴェングラーと同じ時代の演奏家の残した録音すべてがそうであるわけではない。
単に過ぎた時代をふりかえるだけの演奏もある。

時代の忘れ物に気づかさせてくれる演奏──、
私がしつこいくらいに五味先生、岩崎先生、瀬川先生のことを書いている理由は、ここにもある。
私自身が時代の忘れ物に気づきたいからである。

オーディオの世界は、いったいどれだけの時代の忘れ物をしてきただろうか。
オーディオ雑誌は、時代の忘れ物を、読み手に気づかせるのも役目のはずだ。

私にとっての「戻っていく感覚」とは、そういうことでもある。

Date: 10月 20th, 2016
Cate: 戻っていく感覚, 書く

毎日書くということ(戻っていく感覚・その4)

オーディオ、音について書かれる文章は、
瀬川先生の時代よりもいまの方が多い、と感じている。

オーディオ雑誌の数は昔の方が多かった。
けれどいまはインターネットがあるからだ。

量は増えているが、
その多くはパッと流し読みして得られる内容(情報)と、
ゆっくりじっくり読んで得られる内容(情報)とに差がなくなっている。

一度読んだだけで得られる内容(情報)と、
くり返し、それも時間を経てのくり返し読んで得られる内容(情報)とにも差がなくなっている──、
そんなふうに感じている。

そういうものをくり返し読むだろうか。
私は読まない。

残念なことに、いまの時代、そういうものだけが溢れ返っている。
だからよけいに「戻っていく感覚」を強く意識するようになっているのかもしれない。

Date: 10月 20th, 2016
Cate: 戻っていく感覚, 書く

毎日書くということ(戻っていく感覚・その3)

私が書いているものには、瀬川先生、岩崎先生、五味先生の名前がかなり登場している。
これから先書いていくことにも登場していく。

そのためであろう、
私が瀬川先生、岩崎先生、五味先生を絶対視していると思われる人もいる。
絶対視はしていないが、そう思われてもそれでいい、と思っている。

私としては、以前書いていることのくり返しになるが、
松尾芭蕉の《古人の跡を求めず、古人の求めたる所を求めよ》と
ゲーテの《古人が既に持っていた不充分な真理を探し出して、
それをより以上に進めることは、学問において、極めて功多いものである》、
このふたつの考えが根底にあってのことである。

そのためには検証していかなければならない、と思っている。
それが他人の目にどう映ろうと、ここでのことには関係のないことである。

これも何度も書いているが、
私のオーディオは「五味オーディオ教室」から始まっている。
もう40年経つ。
それでもいまだに新たに気づくことがある。
五味先生の書かれたものだけではない、
岩崎先生、瀬川先生の書かれたものからも、いまでも気づきがある。
いや、むしろいまだからこその気づきなのかもしれない。

それがあるから書いている。
それは、時として私にとっては発見なのである。

Date: 10月 15th, 2016
Cate: 戻っていく感覚

一度目の「20年」

1991年、初めてMacを手にした。
Classic IIだった。メモリーは8MB、ハードディスクは40MBで、
ディスプレイは9インチのモノクロ。

キーボードは当時アスキーが発売していた親指シフトキーボードを使った。
日本語入力プログラムは、キーボード指定のMacVJE。

その後Macは、SE/30に買い換え、アクセラレーターを載せ、
ビデオボードも装着した。
キーボードは親指シフトキーボードのままで、MacVJEも使い続けていた。

1996年、MacVJEがAI変換搭載ということで、MacVJE-Deltaにヴァージョンアップした。
AI変換がどれだけ賢いのか試してみようと思って、
たまたま取り出していた本の一節を入力してみた。

変換効率は明らかに向上していた。
面白いように変換してくれるので、ついつい次の文節も、その次の文節も、と入力していた。

この時の本が、五味先生の「西方の音」だった。
一ページほど入力し終えて、ついでだから、一冊丸ごと入力してみよう、と思った。

毎日帰宅したら入力という日が続いた。
当時インターネットのことは知っていたけれど、やってはいなかった。
自分でウェブサイトをつくって公開することも考えていなかった。

何か目的があって入力を初めて続けていたわけでもなかった。
ただ電子書籍(VoyagerのExpand Book)にしようかな、ぐらいだった。

入力作業を続けていたのは、「五味オーディオ教室」と出逢って20年、ということに気づいたからだった。
20年という節目だから、とにかく五味先生のオーディオと音楽の本を入力していこう、
ただそれだけで続けていた。

「西方の音」のあとに、
「天の聲」「オーディオ巡礼」「五味オーディオ教室」「いい音いい音楽」と入力していった。
Expand Bookにもした。
SE/30では非常に重たい作業だった。

Expand Bookにしたからといって、誰かに渡したわけではなかった。
そのままにしていた。
しばらくして、ステレオサウンドの原田勲氏に「オーディオ巡礼」をフロッピーにコピーして送った。
それきりだった。

Date: 10月 14th, 2016
Cate: 戻っていく感覚

もうひとつの20年「マンガのDNA」

今年2016年は武満徹 没後20年、
東京オペラシティの20年の他に、
手塚治虫文化賞も「20年」を迎える。

朝日新聞出版から20周年記念ムックとして「マンガのDNA」が出ている。
表紙には「マンガの神様の意思を継ぐ者たち」とある。

マンガの神様とはいうまでなく手塚治虫のことである。

「マンガのDNA」には22本の短篇マンガが載っている。
手塚治虫文化賞を受賞したマンガ家の描き下しである。

手塚治虫のマンガを読んで、マンガ家になりたい、とおもったことが私にもあった。
あっただけで終ってしまったけれど……、
終ってしまったから、いくつかの短篇はそのことを強く憶い出せてくれる。

そのひとつ、森下裕美の「背中」を読んで、気づいたことがある。
私にとってのオーディオの「原点」は、「五味オーディオ教室」以前に、
マンガによって培われていたのかもしれない、と。

Date: 6月 1st, 2016
Cate: 戻っていく感覚, 書く

毎日書くということ(戻っていく感覚・その2)

毎日書いている。
六千本以上書いている。
そのうちのかなりの数、これまでのことを振り返ってのことである。

だから、あいつは過去のことしか書かない、過去にとらわれ過ぎている、
そんなふうに感じている(読んでいる)方がいるのも知っている。

そう思いたい人はそう思ってくれていい。
つい先日の瀬川先生のことを書いた。
これまでにかなりの数、書いてきている。
まだまだこれから先も書いていくし、書きたいことはまだまだある。

瀬川先生のことだけではない。
そうやって書いていくのは、私にとって大切なことをきちんとしまっていく行為のような気がする。

誰にでも大切なことはある。
長く生きていれば、それだけ増えていくはずである。

けれど、その大切なことを、
もう使わないから、とか、古くなったから、
でも捨てるのはしのびない、と理由でダンボールに詰め込んでしまう。

そういうことをいつのまにしてはないないだろうか。
しまうにしても、きちんとしまっておく。
そのために書いている。
そう感じることがある。