老いとオーディオ(若さとは・その2)
むき出しの才能、
むき出しの情熱、
むき出しの感情、
これらをひとつにしたむき出しの勢いを、
持っていただろうか……、とふりかえる。
むき出しの才能、
むき出しの情熱、
むき出しの感情、
これらをひとつにしたむき出しの勢いを、
持っていただろうか……、とふりかえる。
若さとは、
むき出しの才能、
むき出しの情熱、
むき出しの感情、
なのかもしれない。
囲碁や将棋、
ほんとうに強くなるためにはライバルの存在が不可欠のように思う。
囲碁に関してはまったく知らないし、
将棋に関しても駒の動かし方をなんとなく憶えている程度の者のいうことだから、
あてにならないのかもしれないが、
それでもたったひとりだけで勉強していって、ほんとうに強くなれるものだろうか。
囲碁、将棋の才能に恵まれた人がいたとする。
けれど、彼のまわりには彼と同程度の実力をもつ、
つまりライバルとなり得る存在がいなかったとしたら……。
将棋や囲碁の世界には、名人といわれる存在の人たちが、
上の世代にいるわけだから、たとえライバルがいなくともその人たちを目指していけば、
強くなれるはず──、そう思えなくもないが、それでも……、とやはり思う。
オーディオはひとりで完結しようと思えばできなくはない趣味である。
オーディオ仲間をいっさいつくらずに、趣味として楽しむことができる。
誰かと対戦するわけではないから、
将棋や囲碁とは違いライバルは必要としない趣味、と果していえるだろうか。
ライバルなんて、プロの世界だけのものでしょ、という意見もあるだろう。
それに生の演奏がライバルだ、という意見もあるはずだ。
そう思える人はそう思っていればいい。
「虚」の純粋培養器としてのオーディオ、というタイトルをつけてしまってから考えているのが、
ライバルの存在に関して、である。
まだ結論に近いものが見えているわけではない。
ヤマハのNS5000のことを書くにあたって、
ダイヤトーンのDS10000のことを比較対象としている。
そのためステレオサウンド 77号、
ステレオサウンド創刊20周年記念別冊「魅力のオーディオブランド101」を読み返している。
77号には特集Components of The yearの、
JBLのDD55000とマッキントッシュXRT18のところも併せて読んでいる。
この年、ゴールデンサウンド賞として三機種のスピーカーシステムが選ばれている。
ひとつは大型ホーンを使ったフロアー型、そして高能率のスピーカーシステム、
ふたつめはソフトドーム型トゥイーターを複数使用したトゥイーターアレイが特徴であり、
能率は低めの、やや小さめのフロアー型。
みっつめは国産オーディオメーカー独自の3ウェイ・ブックシェルフという形態を、
最大限まで磨き上げたモノである。
まさに三者三様のスピーカーシステムが、
1985年のComponents of The yearのゴールデンサウンド賞になっている。
だからこそ、そこでの座談会がおもしろい。
77号にはダイヤトーンのDS10000の記事が9ページ載っている。
菅野先生が書かれている。
「魅力のオーディオブランド101」で、これらの記事と併せて読んでほしいのは、
ダイヤトーンのところである。
菅野先生と井上先生が郡山のダイヤトーンの試聴室を訪ねて、
2S305とDS10000を聴かれての座談会が載っている。
「魅力のオーディオブランド101」では、オーディオ評論家三氏が、
国内オーディオメーカーの試聴室を訪ねたものを中心に構成されている。
ただダイヤトーンでは、柳沢功力氏が都合が悪く参加できなかった、とある。
このことが、ダイヤトーンの記事をより面白くしていると感じている。
聞き手としての柳沢氏がいい。
柳沢氏が参加されていたら、違うまとめになっていたはずだし、
もちろんその方がよりおもしろくなるかもしれないが、
少なくともダイヤトーンの訪問記は、読み手が知りたいと思っていることを、
柳沢氏が、菅野先生、井上先生にストレートにきかれている。
いまステレオサウンドでは、過去のバックナンバーから記事を集めたムックを出している。
私は、ステレオサウンド 77号のComponents of The yearの座談会、
菅野先生のDS10000の記事、
「魅力のオーディオブランド101」のダイヤトーンの記事。
この三つの記事をひとつにまとめてほしいと思う。
スピーカーというモノをどう捉えるのか。
そのためのヒントが、これら三つの記事をまとめて読むことで得られるからだ。
2月のaudio sharing例会は、3日(水曜日)です。
同じメーカーのスピーカーシステムで、開発年代が大きく離れているモノを比較試聴すると、
いろいろなところが変っていることがわかると同時に、
聴感上のS/Nvv比が向上していることは、明らかである。
少なくとも名のとおったスピーカーメーカーのフラッグシップモデル、
それに類するモデルでは、聴感上のS/N比はほぼ間違いなく向上しているといえる。
それでは旧いスピーカーシステムは聴感上のS/N比が低いとはいいきれない。
たとえばJBLのコンプレッションドライバーをみればすぐに理解できることだが、
どこを叩いても雑共振をするところがない。
すべてのメーカーのコンプレッションドライバーがそうだとはいえないけれど、
JBLの375(376)、2440(2441)の実物に触れたことのある人ならば、理解されるはずだ。
けれどコンプレッションドライバーは基本的にドライバー単体では使えない。
必ずなにがしかのホーンとの組合せが必要となり、
このホーンが、場合によっては聴感上のS/N比を劣化させている。
ホーンの形状、ホーンの材質、ホーンの取りつけ方などによって、
聴感上のS/N比は変ってくる。
同じドライバーでもホーンの形状によって出力音圧レベルもわずかながら変化する。
ドライバーに限らない。
高能率のドライバーに合せるために能率を高くすることを第一としたコーン型ウーファーに関しても、
潜在的な聴感上のS/N比の高さを認められるモノがある。
聴感上のS/N比をよくする、とよくいうし、いわれている。
けれど実際には聴感上のS/N比を劣化させている要因をひとつずつ(少しずつ)排除していった結果として、
本来の聴感上のS/N比が活きてくるわけだ。
場所もいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。
ハイテク(high-tech)。
ハイテクノロジー(high technology)の略であり、
1980年代はよく使われた言葉だったが、いまではあまりみかけることもなくなっきた。
以前はハイテク・オーディオ機器はアンプだっただろうし、
CDプレーヤー登場以降は、CDプレーヤーを始めとするデジタル機器であり、
いまではハイレゾリューション対応であることが、
一般的にはハイテク・オーディオ機器ということになるであろう。
けれどスピーカーこそがハイテク・オーディオ機器という捉え方も可能である。
1980年代にはいり、新素材の積極的な活用が目立ってきた。
それ以前にも新素材の採用に、オーディオ業界は積極的であった。
スピーカーの振動板に限らず、カートリッジのカンチレバーやトーンアームの分野でも、
新素材の採用は活発だった。
1970年代、スピーカーシステムにおいてはウーファーに関しては、紙の振動板が大半だった。
それが’80年代からウーファーへも新素材が採用されることになる。
この新素材の採用という点からスピーカーをとらえれば、
スピーカーシステムこそがハイテク・オーディオ機器ともいえることになる。
もっともこのことは1980年代にダイヤトーンの技術者によって指摘されていることである。
1986年のステレオサウンド創刊20周年記念別冊「魅力のオーディオブランド101」で、
ダイヤトーンのスピーカーエンジニアの結城吉之氏が語られている。
*
結城 ハイテク時代といわれていますが、素材のほうから見れば、いまやスピーカーはハイテク商品なんですね。
菅野 ある点では一番原始的ですけど、確かにハイテク商品です。
*
新素材を採用しただけでハイテク・オーディオ機器となるわけではない、もちろんない。
新素材の特質を活かした形状、構造、使い方を吟味した上で、はじめてハイテクと呼べる。
ダイヤトーンの結城氏の発言はいまから30年前のもの。
けれど、いまもう一度、考えてみるべき価値のある発言だと思っている。
調教といってしまうと、
暴馬、じゃじゃ馬を力づくでおとなしくさせて訓練する、というイメージがもたれがちである。
けれど調教は、そのことひとつではない。
暴れがちな馬を強制的におとなしくさせたところで、
その馬の良さはいきてこないどころか、殺してしまうことになる。
悪さも殺させるけれども……、である。
いわゆる角を矯めて牛を殺すことになってしまう。
スピーカーに関しても、まったく同じことがいえる。
使いこなしが難しい、いわゆる暴馬的なスピーカーの使いこなしには、
大きくふたつの方法(というか方向)がある。
ひとつはいまあげた、良さも悪さも殺してしまう鳴らし方であり、
これもまた調教といえる。
もうひとつは、とにかく良さも悪さもすべて出して切ってしまう、という鳴らし方である。
長島先生がジェンセンのG610Bの使いこなしにおいてとられたのは、
いうまでもなく後者の鳴らし方(調教)である。
どちらをとるかは人によって違う。
前者を調教とイメージする人もいれば、後者こそ調教と考えている人もいる、ということだ。
長島先生と同世代、
つまりステレオサウンドの初期から関わってこられた方たちは、
後者の調教をとられてきた人たち、ともいえる。
ステレオサウンド 77号のComponents of The yearのゴールデンサウンド賞には、
ダイヤトーンのDS10000の他に、
JBLのDD55000とマッキントッシュのXRT18という対照的なモデルも選ばれている。
そのDD55000について、井上先生が次のように語られている。
*
使いこなしが難しいという話が出たけど、このスピーカーの使いこなしには、ぼくは二つの方法があると思うんです。悪さもよさも殺して鳴らすのと、とにかく鳴らし放題鳴らしてしまう方法のふたつが。ぼくは後者をとりますね。鳴らすだけ鳴らして、このスピーカーの音の世界に自分が入ってから、どうするか考える。個人のシステムだから、それでいいと思うんです。最初からいい音、というよりも聴きやすい音を出す必要はない。リファレンス機器じゃないんだから。まずこのスピーカーの音の世界の中に入って、どんな鳴り方をし、どんな素性を持っているスピーカーなのか探って、それからいろいろ苦労したほうがいい。外野にいて、調教しようとしても、鳴ってくれるスピーカーじゃありませんよ、これは。
*
この井上先生の発言にも、調教という言葉が出てくる。
調整ではなく、やはり調教が、である。
マガジンハウス発行の雑誌ku:nel(クウネル) が全面刷新している。
そのことでamazonのレヴュー欄がたいへんなことになっているというニュースをインターネットの記事でみかけた。
創刊号から2010年までの編集長は岡戸絹枝氏。
岡戸絹枝氏は現在「つるとはな」をつくられている。
ku:nel(クウネル) の記事を読みながら、新潮社の「考える人」のメールマガジンのことを思い出した。
五年前のことだ。
冒頭に、こう書いてある。
*
他の出版社の雑誌を見ていて、これは絶対に自分ではできないと、これはもうほとんどすべての雑誌についてそう思うのですが、どういう人がこの雑誌を考え出して、何を譲らぬようにしながらこれをつくっているんだろう、と想像したくなるものは数えるほどしかありません。私にとってそのような雑誌の筆頭にあがるのが、マガジンハウスの「クウネル」でした。
「クウネル」があみだした新しい編集スタイルは、その後いろいろな雑誌がとりこんでいったので、ひょっとすると「他の雑誌も同じようなことやってるじゃないですか?」と言い出す人が出て来かねないのですが、とんでもございません。
(全文は新潮社のサイトで読める。)
*
「考える人」の編集長が、こう言っているのだ。
ただ残念なことは、
このメールマガジンの時点で《それぐらいオリジナルな雑誌でした。》と過去形で書かれていたことだ。
このメールマガジンは2010年のものだから、
岡戸絹枝氏がku:nel(クウネル) を離れられたあとだったのかもしれない。
「考える人」のメールマガジンを読んでいて羨ましいと感じたのは、このところだ。
*
「クウネル」のアートディレクターは有山達也さんです。有山さんの果たした役割もはかり知れぬほどおおきい。「考える人」のアートディレクターは創刊以来、ずっとひとりで(!)全ページを(!)デザインしてくださっている島田隆さんなのですが、私も島田さんには頭があがりません。必ず原稿をきちんとすみずみ読んでくださった上で、しかるべくデザインをする。もはや「考える人」に欠かせない編集部員のひとりといっていい存在です。余談になりますが、「クウネル」の有山さんと「考える人」の島田さんは、若い頃、中垣信夫デザイン事務所で机を並べていた仲でした。
*
私が羨ましいと思ったのは、
《必ず原稿をきちんとすみずみ読んでくださった上で、しかるべくデザインをする》、ここである。
ダイヤトーンのふたつのスピーカーシステム、DS1000とDS10000は、
前者をベースに、まるで別モノとおもえるレベルまで磨き上げたのが後者である。
ステレオサウンド 77号には、
菅野先生による「日本的美学の開花」と題されたDS10000についての詳細な記事が載っていて、
そこには囲みで、「DS10000誕生の秘密をダイヤトーンスピーカー技術陣に聞く」もある。
ダイヤトーンの技術陣は、
DS1000と10000は別モノといえるから新規でまったく別の製品を開発したほうがよかったのではないか、
という質問に対して、こう語っている。
*
ダイヤトーン DS1000は、システムの基本構成の上で非常に高い可能性を持っていると、我々は確信していたのです。基本構成においてもはや動かし難いクリティカルポイントまで煮詰めた上で完成されたDS1000のあの形式で、どこまで音場感が出せるかという技術的な興味もありました。また、システムを再検討するにあたって、ベースとなるデータが揃っているということも大きな理由のひとつでした。まったく別ものにしたとすると、その形態の問題が加速度的に表れてきて、本質を見失ってしまう可能性が出てくる。そこで、既製のものでいちばん可能性の高いものとしてDS1000を選んだのです。
*
このことはヤマハがNS5000において、
ごく一般的といえる日本独特の3ウェイ・ブックシェルフ型のスタイルをとった理由も、同じのはずだ。
まったく新しい形態のスピーカーシステムの開発に取り組むのもひとつの手であり、
むしろその方が購買層には歓迎されるであろうが、オーディオ雑誌も喜ぶであろうが、
だからといっていいスピーカーシステムになるとは限らない。
「日本的美学の開花」は、そのへんのところも含んでのものといえる。
ダイヤトーンのDS10000の評価は高かった。
DS10000には、それまでのダイヤトーンのスピーカーシステムからは感じとりにくかった響きの良さがあった。
ベースとなったDS1000は、優秀なスピーカーシステムではあった。
けれどその優秀性は、悪い意味での優等生のような面ももっていた。
融通がきかないというか、ふところが浅い、とでもいおうか、
そういいたくなるところがあって、システムのどこかの不備をそのまま鳴らしてしまう。
それゆえ当時、DS1000は低音が出ない、といわれることがあった。
それは一般ユーザーだけの話でなく、オーディオ評論家のあいだでもそういわれていた。
DS10000はステレオサウンドのComponents of The yearのゴールデンサウンド賞に選ばれている。
77号の座談会をみてみよう。
*
柳沢 これだけチェロが唄うように鳴るスピーカーは、いままでのダイヤトーンにはなかったと思う。
菅野 低音がフワッとやわらかくていいですからね。いいチェロになるんですよ。
上杉 同じダイヤトーンのスピーカーでも、他のものは低音が出にくいですからね。
柳沢 たしかに、出ない。というよりも、ぼくには、出せなかったというべきかもしれない。井上さんが鳴らすと出るという話はあるけどね(笑い)。
井上 きちんとつくってあるスピーカーなんですから、正しい使い方さえしてやれば、低音は出るはずなんですけれどね。
*
77号は1985年だから、いまから30年前のことだ。
いまなら、ここまで低音が出ない、とはいわれないかもしれない、と思いつつも、
でもやっぱり……、とも思ってしまうが、ここではそのことは省略しよう。
低音に関してだけでも、DS1000とDS10000の評価は違っていたし、
スピーカーシステム全体としての音の評価においては、さらに違っていた。
ヴィシェイ(Vishay)の抵抗のことを知ったのは、無線と実験でだった。
1980年ごろだっただろうか。
ヴィシェイの抵抗もMIL規格だったはずだが、
それだけにとどまらず宇宙開発にも使われている、ということだった。
それまでの一般的な抵抗の形が円筒状で両端からリード線が出ていたが、
ヴィシェイの抵抗は大きく違っていた。
価格も高価だった。
箔抵抗ということもあって、小さな四角形のプレート状であり、リード線は下部から出ていた。
抵抗本体は完全な四角形ではなく、下部の両端に小さな出っ張りがある。
この出っ張りがあることでプリント基板にヴィシェイの抵抗を取りつけると、
プリント基板との間に隙間が出来る。
出っ張りがなければ、抵抗とプリント基板とがくっつくように取り付けられるし、
浮かすことも出来る。
抵抗とプリント基板とをくっつけたほうが、なんとなく安定しそうな気がするが、
実際には小さな出っ張りによって浮かすこと(出っ張りは基板と接触している)で、
ロケット打ち上げ時にかかる高Gに耐えられるということだった。
つまり出っ張りまでプリント基板から浮かして取りつけるのは間違った使い方、
間違ったがいいすぎならば、メーカー指定から外れた使い方ということになる。
当時、このことに関する記事を読んで、高い信頼性の実現のためには、
抵抗体そのものだけでなくパッケージも同じように重要であるだけでなく、
指定された通りの使い方をしなければならないことの大事さを学んだ。
昨日のKK塾の前日に、「表」論なるもの、と題された文章を読んでいた。
浅井佳氏という方が書かれた文章だ。
《つまり評論ではなく「表」論なのだ。》と書かれている。
浅井氏自身、《我ながらうまい》と書かれている。
確かに、うまいと思った。
評論ではなく表論。
そうとしかいえないものを、いやというほどいまは読める。
読まされる、といってもいいだろう。
評論といえるものはどこにいってしまったのか。
そう嘆きたくなるほど、表論が増えているのは何もオーディオだけのことではないようだ。
そんなことを思っていた翌日に、KK塾の四回目だったから、
講師の長谷川秀夫氏の話をきいていて、この表論のことも思い出していた。
評価も、「表」価になっているのではないだろうか。
それはなにもオーディオ機器の評価にとどまらないのではないか。
安全、信頼の分野でも、評価が「表」価になってしまっているところがあれば、
そこに気づかずにいれば、どうなるのか。
そんなことも考えていた。
1970年代後半、アメリカ製アンプの謳い文句のひとつに、
MIL規格、MILスペックのパーツを使用、というのがあった。
MIL規格とはMilitary Standardのこと。
アメリカの国防総省で制定するアメリカ軍が調達する物資の規格のことである。
抵抗、コンデンサーといった電子部品にも、MIL規格がある。
日本ではプロフェッショナル機器が、時として高く評価されることがある。
アナログプレーヤーでいえばEMTの930st、927Dstがあり、
オープンリールデッキでは、
コンシューマー仕様のルボックスに対してプロフェッショナル仕様のスチューダーがあり、
アメリカ製ではアンペックスやスカーリーなどのプロ用機器の評価は高い。
JBLのスピーカーも、コンシューマーモデルとプロフェッショナルモデルとが用意されることが多かったし、
日本ではプロフェッショナルモデルの方が高く評価されがちでもあった。
物理特性、音が仮に同じであったとしても、
プロフェッショナル仕様ときくと、そこには信頼性の高さと寿命の長さが保証されている──、
そう受け取る人が多かったからであろう。
私もそうだ。
930stに憧れていたのは、音の良さだけではなく、信頼性の高さもあったからだ。
MIL規格の部品も同じように受けとめられていた感がある。
アメリカ軍の仕様を満たしているのだから……、誰だってそう思うだろう。
部品としての精度の高さと高信頼性を併せ持つ部品のように思えた。
それでいて実際のMIL規格がどういうものなのかはまったくしらなかった。
MIL規格の部品を使っているアンプは増えていった。
そうなると今度はアメリカ軍ではなく宇宙開発という謳い文句が出てきた。
つまりはNASAで認められた部品ということである。
KK塾、四回目の講師は、長谷川秀夫氏。
今回の講演で、もっとも印象深かったのは、知見だった。
知見の蓄積と活用ということだった。
長谷川秀夫氏の話は、専門のロケットを含む宇宙開発に関するものであり、
直接的にはオーディオとは何の関係もないように思われるかもしれないが、
知見の話は、オーディオの、まさに使いこなしの話といえた。
そして品質保証という話もあった。
オーディオで品質保証といえば、それはメーカー側の話であるように考えがちだが、
このことも使いこなしに関係してくる。
家電、炊飯器や掃除機、洗濯機などは、
メーカーが保証する品質そのままが家庭でも再現される。
ところがオーディオは、アンプ、スピーカー単体では用をなさないわけで、
つねにコンポーネント(他社製品との組合せが大半である)において、
その性能(音)が問われる。
しかも使い手の技倆によって、例え同じシステムであったとしても出てくる音に違いが出てくる。
ここでの品質保証(音)は、誰によってなされるのか。
そのために必要なことは何なのか。
そういったことを考えていた。
そしてシステマティックという言葉もあった。
これこそが使いこなしに必要不可欠といえるものであり、
井上先生がもっとも得意とされていた。
そのことを思い出していたから、今回の長谷川秀夫氏の話は、
私にとってオーディオの使いこなしに結びつくものだった。
黒田先生の文章に関連することで思い出すことがもうひとつある。
レコード芸術1976年1月号に載っている瀬川先生の文章だ。
*
わたしの♯4341は、まだその片鱗をみせたにすぎないが、その状態で、もうすでに只物でないと明らかに思わせる。それがわたしの求めていた音であることを別としても、この音には怖るべき底力を内に秘めた凄みがある。どんなに多忙な日でも、家にいるかぎりほんの十数分でもこの音を聴くことが、毎日楽しくてしかたない。
*
多忙であれば、疲れてもいる。
その疲労の度合は、黒田先生が「「ミンミン蝉のなき声が……」を書かれたころと、
瀬川先生の《どんなに多忙な日》とでは、同じではないのかもしれない。
それでもあえて考えてみたいのは、
瀬川先生は「この音を聴くことが、毎日楽しくてしかたない」と書かれているところである。
このころの瀬川先生のシステムは、ステレオサウンド 38号でのシステムと同じである。
アナログプレーヤーはEMTの930st、コントロールアンプはマークレビンソンのLNP2、
パワーアンプはSAEのMark2500は登場したばかりで、まだ導入されていない。
パイオニアExclusuve M4で鳴らされていた。
いまとなっては瀬川先生に直接訊ねることはできない。
自分で考えるしかない。
なぜ、「この音で音楽を聴くことが」とされなかったのだろうか。
あえて「この音を聴くことが」とされたような気がする。
「この音」を聴くためには、レコードをかけることになる。
レコードには音楽がおさめられている。
レコードをかけるということは音楽を聴くことと同義である。
そういう前提なのだから、「この音を聴くことが」は、「この音で音楽を聴くことが」と同じである。
とはいうものの、「この音を聴くことが」と「この音で音楽を聴くことが」は、
微妙なところで完全に同じ意味を持っているとはいいがたいところがある。