「いい音を身近に」(その21)
黒田先生の文章に関連することで思い出すことがもうひとつある。
レコード芸術1976年1月号に載っている瀬川先生の文章だ。
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わたしの♯4341は、まだその片鱗をみせたにすぎないが、その状態で、もうすでに只物でないと明らかに思わせる。それがわたしの求めていた音であることを別としても、この音には怖るべき底力を内に秘めた凄みがある。どんなに多忙な日でも、家にいるかぎりほんの十数分でもこの音を聴くことが、毎日楽しくてしかたない。
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多忙であれば、疲れてもいる。
その疲労の度合は、黒田先生が「「ミンミン蝉のなき声が……」を書かれたころと、
瀬川先生の《どんなに多忙な日》とでは、同じではないのかもしれない。
それでもあえて考えてみたいのは、
瀬川先生は「この音を聴くことが、毎日楽しくてしかたない」と書かれているところである。
このころの瀬川先生のシステムは、ステレオサウンド 38号でのシステムと同じである。
アナログプレーヤーはEMTの930st、コントロールアンプはマークレビンソンのLNP2、
パワーアンプはSAEのMark2500は登場したばかりで、まだ導入されていない。
パイオニアExclusuve M4で鳴らされていた。
いまとなっては瀬川先生に直接訊ねることはできない。
自分で考えるしかない。
なぜ、「この音で音楽を聴くことが」とされなかったのだろうか。
あえて「この音を聴くことが」とされたような気がする。
「この音」を聴くためには、レコードをかけることになる。
レコードには音楽がおさめられている。
レコードをかけるということは音楽を聴くことと同義である。
そういう前提なのだから、「この音を聴くことが」は、「この音で音楽を聴くことが」と同じである。
とはいうものの、「この音を聴くことが」と「この音で音楽を聴くことが」は、
微妙なところで完全に同じ意味を持っているとはいいがたいところがある。