再生音に存在しないもの(その6)
再生音に存在しないものについて考えるということは、
再生音にだけ存在するものについて考えることでもあり、
こんなことを考えなくても、
スピーカーから鳴ってくる音を聴くことはできる。
むしろこんなこと考えずに聴いた方がいいに決まっている。
そんなことはわかっていても、
それでいいのかとも、また思ってしまう。
再生音に存在しないものについて考えるということは、
再生音にだけ存在するものについて考えることでもあり、
こんなことを考えなくても、
スピーカーから鳴ってくる音を聴くことはできる。
むしろこんなこと考えずに聴いた方がいいに決まっている。
そんなことはわかっていても、
それでいいのかとも、また思ってしまう。
自己模倣という純化の沼にはまってしまったら、
心に近い音には近づかないだけでなく、
気づきもしないかもしれない。
しかも、自己模倣という罠は、
案外心地よいのかもしれないから、やっかいだと思う。
ステレオサウンド 127号のレコード演奏家訪問は、長島先生だった。
ここで、菅野先生と長島先生が語られていることは、
まだ読んでいないという人はぜひ読んでほしいし、
オーディオを介して音楽を聴くという行為で、
大事なことはなんなのかを感じとれるはずだ。
とはいえ、ここで書きたいのはそういうことではなく、
アナログプレーヤーに取り付けられているトーンアームのことだ。
以前別項で、SMEのSeries Vは、
長島先生のアイディアだろう、と書いた。
だからこそ長島先生は、すぐにSeries Vを導入された。
なのに127号の写真をみると、
トーンアームがSeries Vではなく、3012-Rだった。
なぜSeries Vではないのか、
なぜ3012-Rなのか。
いまとなっては、その答をきくことはできない。
それでも問い続けているからこそ、いまこれを書いている。
2月に届く予定だった「「“盤鬼”西条卓夫随想録」が、
ようやく届いた。
遅れた、といえばそうなのだが、
隔月刊となったラジオ技術が、
ほとんど不定期刊行になってしまっているのだから、
6月に届いたのだから、
予想よりも早かったぐらいに受け止めている。
「随想録」と「私の終着LP」は、
ラジオ技術掲載時に読んでいる。
それでも、こうやってまとめて、そしてあらためて読めるのは、
やはりありがたいことである。
昨年、休刊になったレコード芸術が、
今年、オンラインで復活する。
時代が違う、
レコード芸術とラジオ技術という掲載誌の性格の違い、そんなことよりも感じるのは、書き手の覚悟の有無である。
いま別項で「純度と熟度」について書いている。
そこで触れている高い純度と高い熟度のバランス、
これを実現している(私がそう思っているだけにしても)モデルは、
そう多くはない。
SME 3012-R Specialは、唯一の例とまではいわないものの、
数少ないモデルの一つである。
なぜ、そうなのかを説明はしない。
3012-R Specialを、きちんと使ったことのある人ならば、
納得されるはず。
自転車(ロードバイク)のフロントフォークも、
いまやストレートフォークばかりになっている。
ストレートフォークを最初に採用したのは、
イタリアのコルナゴのはず。
1990年代の半ばごろから登場してきた、と記憶している。
ストレートフォークが登場したばかりのころ、あんまり美しくないなぁ、と思っていた。
それまでのロードバイクのスタイルとのあいだに違和感を覚えていた。
なんだろう、この違和感は……、と、
なぜそう感じるのだろうか、
とあれこれ考えていた時期があった。
従来の、先端がカーヴしているベンドフォークは、
いまでは限られたモデルのみである。
いまではストレートフォークであっても、登場まもないころの違和感は、ほとんど感じなくなった。
こちら側が慣れてしまっただけなのかそう思うことはない。
ベンドフォークのロードバイクを見ると、
やっぱりベンドフォークだ、と思うからだ。
ストレートフォークのロードバイクは、乗ったことがない。
乗れば、やっぱりストレートフォークだな、と、
ころっと変ってしまうかもしれないが、
そうなったとしても、ベンドフォークは美しい。
このことにかわりはない。
プロの自転車乗りならば、勝利が求められているのだから、
どちらが美しい、とかは関係ない。
勝てる機材としてのロードバイクであって、
そのためのストレートフォークなのだろう。
細身のベンドフォークと3012-R Special。
決して懐古趣味からそう感じるわけではない。
十一年ぶりの引越しだった。
一つのところに十年以上住んだのは、
東京で暮らすようになってからでは、ここだけだった。
十一年前の引越しはさほど大変ではなかった。
でも今回は大変だったのは、
少しずつ、いろんなモノがたまって、増えていっていたからなのは、
最初からわかっていたけれど、それでも多かった。
とにかく今日は部屋に収めただけという状況で、
これもiPhoneで書いている。
なので、まだスピーカーから音は鳴っていない。
ラルキブデッリによるブラームスの弦楽六重奏曲が聴けるようになるのは、
もう少し先になる。
昔からいわれていることを、実感していた。
モノーラル録音は、モノーラル再生すること、である。
つまりスピーカーを片側一本だけにして聴く。
そのことの重要性を、あらためて感じていた。
左右のスピーカーシステムの特性が、どの項目においても完全に一致していて、
聴いた印象においても、まったく同じ鳴り方をするのであれば、
さらに部屋の条件も、左右のスピーカー周りにおいてまったく同一であり、
とにかく部屋を含めて左右の特性、条件がすべてにおいて完全一致している、
そんな理想的な状態ならば、モノーラル録音を、左右のスピーカー二本で鳴らしても、
今回のような結果が得られるのかもしれないが、
それだけのことを実現するのは、まず無理といっていい。
ならばどちらか片方のスピーカー、もしくはモノーラル録音専用に、
一本だけのスピーカーを用意するか。どちらかである。
モノーラル録音を、左右二本のスピーカーで再生した場合、
左右のスピーカーから発せられた音は空間合成されるわけだが、
左右のスピーカーの音が完全に一致していることはまずありえない。
部屋の条件が、そこに加わるわけで、そういった状況下では空間での音の合成は、
打ち消される、もしくは弱まるところも生じているはずだ。
それはほんのわずかなことなのかもしれないが、
こうやってモノーラル録音を一本のスピーカーだけで聴いた時の、
演奏の表情の豊かさは、やはり二本のスピーカーでの再生は、
なにかが打ち消されている──、そうとしか思えない。
ヌヴーのヴァイオリンも素晴らしかったし、
カスリーン・フェリアーの歌も素晴らしかった。
菅野先生もモノーラル録音を聴かれるときは、片方のスピーカーだけで鳴らされていた。
今日からOTOTENなのだが、今年は行けそうにない。
引っ越しの準備もあるけれど、引っ越しがなかったとしても無理。
オーディオショウなんて──、という人は少なくない。
行ったところで、いい音が聴けるわけでもないし──、
そんなことを言う。
その気持もわからないでもないが、行けば楽しい(というか楽しめる)わけで、
たとえ二時間程度であっても、時間がとれれば行くようにしていたけれど、
今年はそれすら無理。
(その2)で書いているが、
ハーベスの輸入元がエムプラスコンセプトからサエクコマースにかわっている。
ハーベスも、聴きたかったモノの一つだったけれど、聴けずじまい。
今度の月曜日(6月24日)に引っ越す。
新しい部屋で最初に鳴らすのは、
ラルキブデッリによるブラームスの弦楽六重奏曲かな、とおもっている。
それに7月3日のaudio wednesdayでも、かけようとおもっている。
「神を視ている」
五味先生の「マタイ受難曲」に、「神を視ている」は出てくる。
行間を読む前に、まずは活字になっているところをきちんと読む。
そのことがとても大事なことのはずなのに、
世の中は、行間を読むことが、
書いてある文字を読むことより高尚なことみたいに思われがちのようだし、
そう言われているように感じることがある。
行間を読んでいるから──、
なんと都合のよい言い訳だろう。
そういってしまえば、マウントがとれるとでも思っているのだろうか。
五味先生の「オーディオ愛好家の五条件」を読んで、
「真空管を愛すること」を「マッキントッシュを愛すること」に変換してしまった人は、
マッキントッシュ信者ともいえる人だった。
それはそれでいいのだが、怖いのは思い込みである。
思い込みの激しさである。
その人は、マッキントッシュというブランドを信じている(いた)。
おそらくマッキントッシュの製品ならば、どれも素晴らしいと思っていたに違いない。
信じることは、悪いことではない。
スピーカーの使いこなしにおいて、目の前にあるスピーカーを信じないことには、
何も始まらないといえるし、信じずにはじめたところで、中途半端な鳴らし方しかできない。
そして、そのスピーカーとながいつきあいもできない。
ゆえに、信じることは大事であっても、その人の場合は、何が違っていた。
五味先生は、「メーカー・ブランドを信用しないこと」を第一に挙げられている。
音の毒、そんなものまったく不要だし、
そんなもの求めていないし、害だけだろ! という意見もあるだろう。
音の毒といっても、そこに美がなければ、何の意味もない。
よく「毒にも薬にもならない」という。
音でも、そういえることがある。
毒にも薬にもならない音。そんな音があるのも事実だし、
そういう音を好む人、それをいい音と感じる人も、またいる。
毒にも薬にもならない音について、以前、別項でも書いている。
毒にも薬にもならない音もあれば、毒にも薬にもならない音楽(演奏)も、
やはり世の中にはある。ゴマンとあるといってもいいだろう。
結局、どちらにしても大事なのは、美がそこにあるかどうかのはずだ。
毒にも薬にもならない音であっても、
むしろ、そういう音だからこそ、美を感じる人もいることだろうし、
音の毒を求める私でも、ただ単に毒だけの音、美が存在しない毒まみれの音は、
聴くに耐えない音でしかないし、おどろおどろしいだけにしかすぎない。
ここまで書いてきて、ふとポリーニのことを思い出した。
ポリーニの演奏とは、いったいなんだったのか、と最近、ふと考えることがある。
五味先生は、ポリーニのベートーヴェン(旧録音)に激怒されていた。
*
ポリーニは売れっ子のショパン弾きで、ショパンはまずまずだったし、来日リサイタルで彼の弾いたベートーヴェンをどこかの新聞批評で褒めていたのを読んだ記憶があり、それで買ったものらしいが、聴いて怒髪天を衝くイキドオリを覚えたねえ。近ごろこんなに腹の立った演奏はない。作品一一一は、いうまでもなくベートーヴェン最後のピアノ・ソナタで、もうピアノで語るべきことは語りつくした。ベートーヴェンはそういわんばかりに以後、バガテルのような小品や変奏曲しか書いていない。作品一〇六からこの一一一にいたるソナタ四曲を、バッハの平均律クラヴィーア曲が旧約聖書なら、これはまさに新約聖書だと絶賛した人がいるほどの名品。それをポリーニはまことに気障っぽく、いやらしいソナタにしている。たいがい下手くそな日本人ピアニストの作品一一一も私は聴いてきたが、このポリーニほど精神の堕落した演奏には出合ったことがない。ショパンをいかに無難に弾きこなそうと、断言する、ベートーヴェンをこんなに汚してしまうようではマウリッツォ・ポリーニは、駄目だ。こんなベートーヴェンを褒める批評家がよくいたものだ。
(「いい音いい音楽」より)
*
私には、五味先生がそこまで激怒される理由が、はっきりとは聴きとれなかった。
それでも十数年前に、ポリーニのバッハの平均律クラヴィーア曲集を聴いて、
音が濁っている、と感じた。
音が濁っている、といっても、オーディオ的な意味、録音が濁っているではない。
ポリーニの平均律クラヴィーア曲集の録音は、2008年9月、2009年2月である。
優秀な録音といえる。
なのにひどく濁っているように感じてしまった。
五味先生の《汚してしまう》とは違うのかもしれないが、
五味先生の激怒の理由は、こういうことなのかもしれない、とも感じていたわけだが、
それではオイロダインでポリーニの弾くベートーヴェンやバッハを聴いてみたら、
いまの私は、どう感じるのだろうか。
五味先生の「オーディオ愛好家の五条件」。
①メーカー・ブランドを信用しないこと。
②ヒゲのこわさを知ること。
③ヒアリング・テストは、それ以上に測定器が羅列する数字は、いっさい信じるに足らぬことを肝に銘じて知っていること。
④真空管を愛すること。
⑤金のない口惜しさを痛感していること。
ここでは④の「真空管を愛すること」について書きたい。
もう三十年ちょっと前の話になるが、あるオーディオマニアと話していた。
その人は私よりも五つぐらい上の人で、有名私大を出ている。
なのに、この人は、唐突に「五味先生もマッキントッシュを愛すること」と、
「オーディオ愛好家の五条件」で書かれているでしょ、と言ってきた。
この人のいうマッキントッシュとは管球式アンプのマッキントッシュではなく、
トランジスター化されたマッキントッシュなのである。
開いた口がふさがらない、とはこういう時のためのものなのか。
ほんとうにそう思ってしまった。
言った本人は大真面目である。
「オーディオ愛好家の五条件」のなかに、マッキントッシュのMC275のことが出てくる。
けれど、だからといって、「真空管を愛すること」がどうすれば、その人のなかでは、
「マッキントッシュを愛すること」に変換されていくのか。
あまりにもアホすぎて、何も言わなかったが、
仮にそうしたら、その人はどう返してきただろうか。
行間を、私は読んでいる──、おそらくそう言ってきただろう。
どんなに何度も読み返しても、
行間から「マッキントッシュを愛すること」を読みとるのは無理である。
7月24日で、TIDALはMQAでの配信を終える。
それほど驚きはなかった。
4月にTIDALは値下げしている。
その時から、MQAをやめるのではないのか──、
そういうコメントをソーシャルメディアで目にしていたし、
ここ三ヵ月ほどのTIDALでの新譜のMQAの割合がかなり低くなってもいたからだ。
なんとなく終りが近づいている、そんな感じが漂っていた。
それでも四日前に書いているように、
MQAを買収したLenbrookとHDtracksが協同で、 あらたなストリーミングサービスを始める。
このニュースがなかったら、かなりの衝撃だったはず。
それでもしばらくはTIDALは使っていく。