「異相の木」(岩崎千明氏のこと)
三日前の「はっきりと書いておく」を書いていて、
岩崎先生はオーディオ評論における異相の木だったのではないか。
そんなことを考えていた。
私は瀬川先生にとってライバルは岩崎先生だった、と認識している。
それは岩崎先生にとってのライバルもまた瀬川先生ということである。
同相の木として、そして異相の木として、そうだった。
三日前の「はっきりと書いておく」を書いていて、
岩崎先生はオーディオ評論における異相の木だったのではないか。
そんなことを考えていた。
私は瀬川先生にとってライバルは岩崎先生だった、と認識している。
それは岩崎先生にとってのライバルもまた瀬川先生ということである。
同相の木として、そして異相の木として、そうだった。
facebookで、オーディオについて語り合われているものを見ていると、
オーディオには正しい音はなく、あるのは好きな音か嫌いな音である、といったことに出会すのが、増えた。
私が今年目にしたそれらの発言のほとんどは10代、20代の若い人たちではなく、
40代より上、私よりも上の世代も含めて、オーディオをやってきた時間の長い人たちが、そう言っている。
つい先日見かけた発言には、こんなことが書かれていた。
気に入ったオーディオ機器で、好きな音楽をかけつづけていれば、音は自分好みになっていく、とあった。
好きな、とか、好みの、とかいったものこそが個人において優先されることなのといっていいのだろうか。
たしかに気に入ったオーディオ機器(デザインも音も含めて)を手に入れ、
時間をかけて好きな音楽をかけて鳴らしこんでいくことで、そこから得られる音は好みに寄り添ってくれる。
だがそんな音楽の聴き方をしていれば、狭いところにいつづけることになっていく。
だから、こんなオーディオのやり方、音楽の聴き方はだめだとはいわないけれど、
それだけでいいともいわない。
それに、正しい音はオーディオには存在しない、ともいわない。
はっきりいう。
正しい音はある。
カートリッジ専門メーカーであるオルトフォンも、一時期スピーカーを手がけていた。
1970年代なかばごろである。
type 225、type 335、type 445というモデルが輸入されていた。
type 225が2ウェイで48000円,type 335が3ウェイで79000円、
type 445が3ウェイでダブルウーファー仕様で140000円(価格はいずれも一本)。
type 445はフロアー型となっていた。
とはいえ高さ68cmのエンクロージュアだから、
日本の感覚ではブックシェルフに分類されてもおかしくはない。
三機種ともスピーカーユニットはオルトフォン自社製ではなく、
オルトフォンと同じデンマークのスピーカーユニット製造メーカー、Scan Speak製。
オルトフォンのスピーカーシステムは1978年ごろには製造中止になっている。
後継機種も出てこなかった。
type 225はステレオサウンド 36号の特集「スピーカーのすべて」で取り上げられている。
あまり成功しなかったのだろう。
オルトフォンからはアンプも出ていた。
MC20と同時期に登場したヘッドアンプMCA76は、
デンマークの測定器メーカーとして知られるBrüel & Kjærのエンジニアが協力している、と聞いたことがある。
そうかもしれないし違っているかもしれない。
いまも昔もオルトフォンはカートリッジおよびカートリッジ関連以外の製品も作っている。
けれどいまも昔もオルトフォンはカートリッジの専門メーカーである。
だからこそ、もしJBLがカートリッジを手がけていたら……、と想像する時に、
こういうメーカーであるオルトフォンが参考になる気がしている。
それにオルトフォンがハーマン傘下にあった時期、試聴用のスピーカーはJBLの4343であり、
試聴レコードの多くはドイツ・グラモフォンのレコードだったことを、つけ加えておく。
JBLが、もしカートリッジをつくっていたら、どんなものだっただろうか。
JBLのスピーカーシステムのラインナップと共通するカートリッジのラインナップを用意していた、
と仮定して、あれこれ想像してみる。
JBLのスピーカーシステムには、家庭用スピーカーシステムとしてハークネス、ハーツフィールド、
オリンパス、パラゴンといったフロアー型があり、
アクエリアスという、あの時代としては実験的な性格の強いスピーカーシステムもつくっている。
そして4300シリーズ、4400シリーズに代表されるプロ用スピーカーシステムも手がけている。
基本的にほぼ同じ設計のスピーカーユニットを組み合わせながらも、
家庭用とプロ用とではスピーカーシステムとしてのデザインが大きく異る。
JBL好きの人にとって、
家庭用に惚れ込む人もいるし、プロ用に惚れ込む人、
両方とも好きな人もいる。
家庭用もプロ用もどちらも明確にJBLのスピーカーシステムでありながらも、
家庭用とプロ用を比較すると、そこにははっきりとした違いを感じるのは、
カートリッジの世界でいえば、
オルトフォンが近い存在のようにも思える。
オルトフォンには伝統的なSPUがあり、
SPUがロングセラーを続けながらも、SPUとは違うカートリッジも積極的に開発した。
私はすべてのオルトフォンのカートリッジを聴いているわけではないが、
ステレオサウンドの古いバックナンバーやステレオサウンドで働いていたころに聞いた話からもわかるように、
オルトフォンもすべてのカートリッジが成功してきたわけではない。
オルトフォンにとって、SPUと並ぶラインナップが生れるきっかけとなったのは、
1976年のMC20の誕生だと思う。
MC20に続きMC30が登場、そのMC30の技術がMC20に活かされMC20MKIIとなり、
ローコストのMC10へとラインナップは充実してきた。
このMCシリーズは、オルトフォンの新世代のカートリッジのはじまり、といえる。
カートリッジの話に戻そう。
カートリッジに、異相の木はあるのだろうか。
「異相の木」、それもオーディオにおける異相の木について書こう、と思ったときから、
私の頭の中では、スピーカーの中から異相の木を探そうとしていた。
そして、私にとっての「異相の木」はJBLのD130ということに気がついた。
いま、どうしてそうしたんだろう、と振り返っている。
スピーカー以外のジャンルでも、
アンプにしてもアナログプレーヤーにしてもカートリッジにしても、
これらに較べると歴史の浅いCDプレーヤーにしても、
衝撃をこちらに与えてくれたモノはいくつもある。
でも、それらが異相の木なのか、というと、違う。
なぜ、違う、と感じるのだろうか。
JBLはアンプは手がけていた。
けれどスピーカーと同じ変換器であるカートリッジは手がけていない。
イギリスにはスピーカー専門メーカーとして、JBLとよく比較されるタンノイがある。
タンノイもアンプを一時期手がけていたことがある。
タンノイのカートリッジは存在しない、と思われている方も少なくないようだが、
私も実物は見たことはないのだが、一時期カートリッジを手がけていた。
きちんとしたコンディションのモノであれば、ぜひ聴いてみたいカートリッジのひとつである。
タンノイのカートリッジだから、
タンノイの同軸型ユニットに匹敵するような技術がそこに投入されていたのではない、と思う。
そうであってもスピーカー専門メーカーのつくるカートリッジは、
そのメーカーのスピーカーに対して関心をもっていれば、やはり興味深い存在である。
だがJBLは、いちどもカートリッジをつくっていない。
CDプレーヤーの天板の上に、CDのプラスチックのケースを置く。
それだけで音は変化する。
この場合の変化する、は、悪い方への変化である。
たった一枚のケースを置いただけでも、間違いなく音は悪くなる。
機種によっては、その出方(量)に多少の差はあっても、音は悪くなる。
まったく音が変らない、ということはない。
プラスチックのケースを置いたことによる、
ほんの少しの雑共振の発生が音が悪くするわけで、
だからステレオサウンドの試聴のとき、
井上先生にこのことを指摘されて以降は、CDプレーヤーの天板の上はもちろんのこと、
原則としてCDプレーヤーを置く台(私がいた頃はヤマハのGTR1Bだった)の上にも中にも置かなかった。
こんなことで音が変るなんてことはあり得ない、という人がきっといるはず。
変らないのではなくて、その人の耳に変化が感知できないのであって、
それは必ずしもその人の聴き方が未熟だとは限らない。
聴いているシステムの使いこなしのレベルが低いこともある。
頭でっかちになって理屈だけをふり回して、
そんなことで音は変らない、と決めつけてしまう前に、
いちど徹底的に自分の使いこなし、ひいてはいま鳴っている音のレベルを疑ってみてほしい、と思う。
音は、どんな些細なことによっても必ず変る。
何かを変えて変らない、ということはない。
変らない、のではなく、変らないといっている人が聴きとれていないだけのことである。
オーディオを科学するために、まず必要なのは観察力である。
オーディオにおける観察力は、聴くことであり、
もっともしんどいことが、聴くことである。
だから、このしんどいことから逃げるために、理屈をつけて音は変らない、という逃げ道をつくり、
そこにひきこもってしまうのは、その人の自由ではあるが、
音が変る現象を、オカルトだと決めつけ、攻撃的になるのはやめてほしい。
オーディオにおける「異相の木」は、
すべてのジャンルについて存在するのだろうか。
私にとっての「異相の木」はJBLのD130であることは、(その6)に書いた。
他に、どんな異相の木が私にはあるのか、と考えていた。
スピーカーだけに限らず、アンプ、CDプレーヤー、アナログプレーヤー、カートリッジにおいて、
異相の木と呼べるモノが、私にはあるのだろうか。
私に限ることはない。
他の人でいい。
私以外の人の場合、その人にとっての異相の木は、
私と同じようにスピーカーになるのか、それともアンプだったりするのだろうか。
黒田先生が「異相の木」を書かれたのは、ステレオサウンド 56号(1980年)だから、
まだCDは登場していなくてアナログディスク全盛の時代だった。
アナログディスクを再生するカートリッジも、実に豊富だった。
カートリッジもまた、スピーカーと同じく変換器である。
しかもスピーカーとは違い、場所をとらない。
それに同じ部屋に複数置いていても、特に音に影響はない。
スピーカーの場合、同じ空間に鳴らさないスピーカーがあれば、
それが鳴っている音に影響を与えるわけだが、カートリッジには原則としてそういうことはない。
あえて「原則として」と書いたのは、
複数のカートリッジ所有している人で、
それらの複数のカートリッジをアナログプレーヤーの置き台に並べている。
あまりいないけれど、プレーヤーの、空きスペースに置いている人も、何かの雑誌の写真で見かけたこともある。
井上先生が散々いわれたことだが、
こんなふうにカートリッジを無造作に置くのは、音質上影響を与える。
わずかとはいえ、台の上、プレーヤーの上に置いたカートリッジが共振してしまうためである。
だからプレーヤーまわりは、つねに片づけておかなければならない。
ステレオサウンドでの試聴の時も、
アナログプレーヤーを使わないときは、
プレーヤーの置き台はカートリッジやクリーナーなどアクセサリーの置き場所になっている。
けれどアナログプレーヤーを使う試聴にはいると、台の上には何一つ置かない。
置いていた方が便利であっても、だ。
この項の(その2)でも書いているように、(その1)を書いてから(その2)までを書くのに三年以上あいている。
(その2)を書こうと思ったのは、別項でJBLのD130について書き始めたからである。
D130は、私がこれまで使ってきたスピーカーとは異る。
私が聴く音楽、求めている音、そして理想とするスピーカー像からしても、D130はぴったりくるモノではない。
それでも、昔からD130の存在は気になっていた。
気になっていた、といっても、ものすごく気になる存在というレベルではなく、
なんとなく、すこし気になる程度の存在であったD130が、
ここにきてすごく気になる存在になってきた。
これはD130が、私のなかで「異相の木」として育ってきたからなのかもしれない。
最初は芽がでたばかり、という存在のD130が、D130の存在を知って30年以上経て、
いつしか、どうしても視界にはいってくる気になる木になっていた。
これまでは、いままで使ってきたいくつかのスピーカーシステムという木の陰にかくれていたからか、
ここにくるまで気がつかなかったのだろう。
でも、いまははっきりと視界のなかにいるD130は、私にとっては「異相の木」だという確信がある。
だから、欲しい、という気持ではなく、
一度本気で使ってみなければならない、という気持が日増しに強くなっている。
黒田先生が「異相の木」をステレオサウンド 56号に書かれて、読んだ時から30年以上経ち、
私にとっての、オーディオにおける「異相の木」をやっと見つけることができた──。
というよりも気づくことができた、というべきかもしれない。
複数のスピーカーシステムを所有して鳴らしていても、
そのスピーカーシステムの数が多かろうが、そこに「異相の木」があることにはならない。
スピーカーシステムはつねに1組しか所有しない、という人も一方にいる。
こういう人に「異相の木」と呼べるスピーカーシステムがないか、というと、必ずしもそうではない。
たしかに鳴らしているのは1組のスピーカーシステムであっても、
オーディオに興味をもち始めてこれまでずっと同じスピーカーシステムを使ってきた、
鳴らしてきたという人はまずいないだろう。
何度かはスピーカーシステムを交換している。
その過程の中で、異相の木があったかもしれないからだ。
そして異相の木は、サブスピーカーではない。
メインのスピーカーシステム、メインのシステムとは別に、
もうすこし気軽にゆったりと音楽を聴きたいときのためのシステム(スピーカーシステム)は、
あくまでもサブスピーカーシステム、サブシステムであって、
サブスピーカーシステムが、異相の木であることは、まずない。
黒田先生は、異相の木として、ヴァンゲリス・パパタナシウの音楽をあげられている。
ヴァンゲリスの音楽を、異相の木としてうけとめる聴き手もいれば、そうでない聴き手もいる。
すべての聴き手にあてはまる「異相の木」は存在しないものだろう。
スピーカーシステムの異相の木も同じく、すべての聴き手によって「これが異相の木です」といえるモノはない。
私にとって異相の木であるスピーカーシステムは別のひとにとっては、
ごく当り前のスピーカーシステムであったりするし、その反対もある。
黒田先生が「異相の木」を書かれたステレオサウンド 56号は1980年9月に出ている。
ヴァンゲリスの最初のソロ・アルバムは1968年に出ていて、
約10年の間、16枚のアルバムがつくられ、黒田先生は聴いてこられている。
そして、こう書かれている。
*
ただ、この木は、ほかの木とのつりあいがとれない。その意味では、あいかわらず、いまも異相の木である。どこかちがう。この庭になじもうとしない。庭木であることをみずから拒んでいるかのようである。しかし、であるからといって、この木をうえておくことをあきらめようとは思わない。木と庭の主との間の力学が、そこに生じる。一種の緊張関係である。
*
黒田先生にとって、ヴァンゲリスは1968年からずっと「異相の木」であるわけだ。
ひとつの空間(リスニングルーム)には1組のスピーカーシステム。
複数のスピーカーシステムを鳴らしたいのであれば、スピーカーシステムの数と同じだけの部屋を用意する。
ひとつの空間に複数のスピーカーシステムを置く。
どちらも複数のスピーカーシステムを所有しているわけだが、
それだけでは「異相の木」と呼べるスピーカーシステムがあるわけではない。
1970年代には、ジャズはJBLのスピーカー、クラシックはタンノイのスピーカー、といったことがいわれていたし、
そのころのオーディオ雑誌のリスニングルーム訪問記事をみると、
JBLとタンノイの両方を所有されている人は珍しくなかった。
タンノイとJBLとでは、片方はクラシック向き、もう片方はジャズ向きと当時はいわれていたように、
音の傾向は大きく異っていた。
ならば1970年代当時、タンノイとJBLの両方のスピーカーシステムを使っていれば、
そしてどちらかをメインのスピーカーシステムとしていれば、もう片方は「異相の木」と呼べるのだろうか。
スピーカーの方式にはいくつもある。
コーン型、ホーン型、ドーム型、コンデンサー型、リボン型などがあり、
振動板の材質にしても紙、金属、布、樹脂などいくつもあり、それぞれに物性が違う。
タンノイとJBLでは、どちらもウーファーはコーン型で、中高域はホーン型という共通性があるから、
タンノイ、JBLのところに、たとえばコンデンサー型のスピーカーシステムをもってきたら、
それは異相の木だろうか。
古いスピーカーシステムを愛用してきた人が、最新のスピーカーシステムを加えた。
反対につねに最新のスピーカーシステムばかりを選択してきた人が、古いスピーカーシステムを加えた。
新しいスピーカーシステムと古いスピーカーシステムの両方を所有して鳴らす。
この場合、新しい(古い)スピーカーををメインとすれば、古い(新しい)スピーカーは異相の木なのか。
オーディオにおける「異相の木」はそういうものではないはずだ。
ステレオサウンド 56号に掲載されている黒田先生の文章は「庭がある。」からはじまる。
「庭」ということでは、1つの部屋に複数のスピーカーシステムを、
それも2つや3つではなく、10を超える数のスピーカーシステムを置く人がいて、
その人のリスニングルームは、さしずめ「庭」的雰囲気といえなくもない。
こういうオーディオの楽しみ方を、どちらかといえば軽蔑する人がいる。
若いとき、私もそういうところがあった。
いい音を求めようとすれば、他のスピーカーシステムを置くのは間違っている、
そんなふうに思い込んでいたから、これだけのスピーカーシステムを揃えるだけの財力があるのなら、
スピーカーシステム、さらにはこれだけのスピーカーシステムの他にも、
アンプやプレーヤーもそれこそいくつもあるのだから、その数を半分に減らせば、
それぞれのスピーカーシステムにあった部屋を用意できるだろうに……、なぜそうしないのか、と思っていた。
たしかに同じ空間に鳴らさないスピーカーシステムがあれば、
スピーカーシステムは共鳴体、共振体であるのだから、音は確実に変化する。
これはスピーカーシステムに限らない。
リスニングルームにピアノがあれば、スピーカーシステムから出た音がピアノにあたり、
ピアノが振動することで、その共振音、共鳴音をふくめて聴くことになる。
だから、昔、ピアノをうまく鳴らしたければ、部屋にピアノを置くのもひとつの手法だという話をきいた。
ピアノだけではない、チェロが好きならチェロを置いておけば、それもいい楽器であれば、
スピーカーシステムからの音に、同じ空間にある楽器の音がわずかとはいえのることになるのだから、
うまく作用してくれれば、ある種の演出効果も得られよう。
そう考えれば、同じ空間にスピーカーシステムが複数あるのは音を悪くするともいえる反面、
たとえば性格の正反対の音のスピーカーシステムであれば、
それぞれのスピーカーシステムの音が似通ってくる、ということも考えられる。
好きなスピーカーシステムをひとつの空間に置いておくことも、そうやって考えれば、
好きな音、それも少しずつ異っている良さをもつ好きな音がブレンドされた状態でもあるのだから、
オーディオの楽しみ方として、ひとつのやり方だと、いつしか思うようになっていた。
それに好きなモノがつねに視界にある、ということだけでも楽しい。
このオーディオのやり方・楽しみ方だけでは、やはり異相の木がある、とはいえない。
ききての、感覚も、精神も、当人が思っているほどには解放されていないし、自由でもない。できるだけなにものにもとらわれずきこうとしているききてでさえ、ききてとしての完全な自由を自分のものにしているわけではない。
*
ステレオサウンド 56号に、黒田先生が、こう書かれていた文章のタイトルは「異相の木」。
ヴァンゲリスの音楽について書かれている。
つまり黒田先生が「異相の木」として書かれているのは音楽についてである。
「異相の木」はレコードだけにとどまらず、オーディオ機器にもあてはまる。
ここまでのことは、この項の(その1)のくり返しである。
(その1)を書いたのが2008年9月のことだから、3年以上経っているのでくり返した。
オーディオ機器はレコードのコレクションのようにはなかなかいかない。
CD、 LPをふくめてレコードのコレクションは数千枚という人は、いまや珍しくない。
そういう時代になっている。
数万枚という人はさすがに珍しい、凄い、と言われるだろうが、
オーディオ機器のコレクションとなると、
金額的にもスペース的にもレコードのコレクションとは違う困難さがある。
それに同じ空間にスピーカーシステムは1組のみ、鳴らしていないスピーカーシステムが置いてあれば、
その影響によって音が悪くなる、とずっと以前から言われていることで、
部屋には1組のスピーカーシステムのみ、という人もいれば、
欲しい! と思ったスピーカーシステムは買えるのであれば買う。
そしてひとつの空間にすべて並べて置いておく人もいる。
前者の場合、部屋をいくつも所有してそれぞれの部屋に異る傾向のスピーカーシステムを鳴らしていれば、
オーディオ機器における異相の木ということが語れるかもしれない。
とはいえ、そういう人はごく一部の人だけだろう。
部屋がたとえば4つあったとして、それぞれにスピーカーシステムを置いて鳴らす。
ただそれだけでは異相の木があるとはいえない。
オーディオ機器(これはスピーカーシステムと限定してもいい)の異相の木は、それだけでは呼べない。
好きなスピーカーシステムを置いているだけでは不充分である。
異相の木とは、冒頭に引用した黒田先生の文章が語っているように、
ききての感覚、精神を解放することにつながっていくモノであるのだから。
ただ部屋がいくつもありスピーカーシステムがいくつもあって、というだけでは、異相の木がある、とはいえない。
「異相の木」は、黒田(恭一)先生が、
ステレオサウンドに以前連載されていた「さらに聴きとるもののとの対話を」のなかで、
ヴァンゲリスを取りあげられたときにつけられたタイトルである。
おのれのレコードコレクションを庭に例えて、
そのなかに、他のコレクションとは毛色の違うレコードが存在する。
それを異相の木と表現されていたように記憶している。
この号の編集後記で、KEN氏は、
自分にとっての異相の木は八代亜紀の「雨の慕情」だ、と書いている。
異相の木は、人それぞれだろう。自分にとっての異相の木があるのかないのか。
その異相の木は、ずっと異相の木のままなのかどうか。
そして異相の木は、レコードコレクションだけではない。
オーディオ機器にもあてはまるだろう。