「異相の木」(その2)
ききての、感覚も、精神も、当人が思っているほどには解放されていないし、自由でもない。できるだけなにものにもとらわれずきこうとしているききてでさえ、ききてとしての完全な自由を自分のものにしているわけではない。
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ステレオサウンド 56号に、黒田先生が、こう書かれていた文章のタイトルは「異相の木」。
ヴァンゲリスの音楽について書かれている。
つまり黒田先生が「異相の木」として書かれているのは音楽についてである。
「異相の木」はレコードだけにとどまらず、オーディオ機器にもあてはまる。
ここまでのことは、この項の(その1)のくり返しである。
(その1)を書いたのが2008年9月のことだから、3年以上経っているのでくり返した。
オーディオ機器はレコードのコレクションのようにはなかなかいかない。
CD、 LPをふくめてレコードのコレクションは数千枚という人は、いまや珍しくない。
そういう時代になっている。
数万枚という人はさすがに珍しい、凄い、と言われるだろうが、
オーディオ機器のコレクションとなると、
金額的にもスペース的にもレコードのコレクションとは違う困難さがある。
それに同じ空間にスピーカーシステムは1組のみ、鳴らしていないスピーカーシステムが置いてあれば、
その影響によって音が悪くなる、とずっと以前から言われていることで、
部屋には1組のスピーカーシステムのみ、という人もいれば、
欲しい! と思ったスピーカーシステムは買えるのであれば買う。
そしてひとつの空間にすべて並べて置いておく人もいる。
前者の場合、部屋をいくつも所有してそれぞれの部屋に異る傾向のスピーカーシステムを鳴らしていれば、
オーディオ機器における異相の木ということが語れるかもしれない。
とはいえ、そういう人はごく一部の人だけだろう。
部屋がたとえば4つあったとして、それぞれにスピーカーシステムを置いて鳴らす。
ただそれだけでは異相の木があるとはいえない。
オーディオ機器(これはスピーカーシステムと限定してもいい)の異相の木は、それだけでは呼べない。
好きなスピーカーシステムを置いているだけでは不充分である。
異相の木とは、冒頭に引用した黒田先生の文章が語っているように、
ききての感覚、精神を解放することにつながっていくモノであるのだから。
ただ部屋がいくつもありスピーカーシステムがいくつもあって、というだけでは、異相の木がある、とはいえない。