Date: 1月 25th, 2012
Cate: 快感か幸福か
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快感か幸福か(その12)

とにかくグッと前のめりになって意識を集中していけば、
不思議なことに、ステレオサウンドの試聴室で感じていた山中先生の音のエッセンスと呼べるものが、
より濃密に、より高い次元で鳴っている、と感じられてくる。

このとき鳴っている音、私が聴いている音は、いったいなんなのか。

山中先生の音といえるし、そうでないともいえる。

音を聴かせてもらうことは、その音の持主といっしょに音を聴くということである。
けれど、その音の持主は、その音を実現するためにはひとりで音を聴き、調整し、その音を判断し……、
という行為のくり返しをたゆむことなく行っている。
ときにはオーディオの仲間に聴いてもらったり、家族に聴いてもらったりすることはあっても、
基本的には調整し音を判断するのは、ひとりである。

その音を聴かせてもらうときは、最低でもふたり。ときにはもっと多くなる。
そうなると、その時の音は、その音の持主がひとりで聴いている音とは、まったく同じというわけではない。
リスニングルームの広さや何人で聴くかによって程度の違いはあるものの、ひとりで聴く音とは違ってくる。
バランスを崩してしまうことさえある。
こんなふうに考えていくと、誰かの音を聴かせもらったとしても、
その音の持主がひとりで聴いている音を聴いているわけではない。

では、そこで音の持主にリスニングルームから出てもらって、ひとりで聴かせてもらうことが、
果して、その人の音を聴いた、といえるのであろうか。

私が山中先生のリスニングルームで体験したのと同じように、ひとりで聴いたとしても、
厳密には、物理的には同じにはならない。
人の体格によって音の吸収率はわずかとはいえ違ってくる。
体格差があれば、そのへんのところが微妙に変化しているはずだから、
ふたりで聴くよりはまだいいとはいうものの、それでも細かいことをいえば、
決してその音の持主がひとりで聴いているときの音と同じ条件とならないわけだ。

堂々巡りしてしまう。

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