Archive for 8月, 2013

Date: 8月 31st, 2013
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(長岡鉄男氏のこと・その4)

「オーディオA級ライセンス」に「重量は、筆者の製品選びの最重要ポイント」ではなく、
「重量は、筆者の製品選びの重要ポイント」と長岡鉄男氏が書かれていたのであれば、
ここにこういうことを書いたりはしていない。

最重要と重要とでは、ずいぶん重みが違ってくる。

文章は時として勢いで書いてしまうことがある。
書いてしまったことを読みなおさずにそのまま出してしまえば、
それが活字になるし、インターネットではすぐさま公開となる。

未熟な書き手であれば、つい勢いで「最重要」と書いてしまうことはある、だろう。
だが長岡鉄男氏は書き手としてはベテランである。
そんな長岡鉄男氏が、意図せずに「最重要」と書かれるとは考えにくい。

最重要と重要の重みの違いもわかったうえで、
「オーディオA級ライセンス」では最重要のほうを使われたとみるべきだろう。

そうだとすると、どこで、いつ、なぜ、
長岡鉄男氏は「重量は、筆者の製品選びの重要ポイント」と書かれるようになったのか。

ここで混同してはならないのは、
長岡鉄男氏は「重量は、筆者の製品選びの最重要ポイント」と書かれてはいるが、
「重量は、筆者の製品選びの最重要ポイント」と考えられていたのかについては、はっきりとしないことだ。

ほんとうは「重量は、筆者の製品選びの重要ポイント」と考えていて、
トータルバランスの重要性を考えながらも、
「重量は、筆者の製品選びの最重要ポイント」と書かれたのではないのか──。

Date: 8月 31st, 2013
Cate: デザイン

オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(整理と省略・その3)

1993年のことだと記憶している。
知人とふたりで、彼の家の近くにある中華屋さんに食事に行った。
老夫婦がふたりでやっている、ちいさな店で、特に有名な店でもなく、
地元の人のための、その店は路地を入ったところにあった。

夕食の時間帯ということもあって、満員ではなかったものの混んでいた。
老夫婦ふたりでの店だから、そういう時には、水がすぐには出てこない。
なので冷水器のところに行き、コップを取り冷水を注いだ。

私たちのすぐ後に入ってきた人も、
そんな私たちを見て、自分も、と思われたのだろう、
冷水器のところに行きコップを手にされた。

ここの冷水器は昔からあるタイプで、
コップをレバーに押し当てれば冷水が出てくる。
いわば冷水器としては、もっとも多いタイプだと思う。

ほとんどの人は使い方をあらためて考えることなく,コップをレバーに押し当てる。

けれど私たちのすぐ後に入ってきた人は、
おそらく70過ぎくらいの女性の方だった。
コップをとってみたものの、それから先、どうしたらいいのか迷われていた。

立ち上って冷水器のところに行こうとしたら、店の人が気づいた。

70も過ぎれば視力もかなり落ちてくるだろう。
そういう人にとって、冷水器のレバーは目につきやすいのだろうか、とまず思った。
そしてレバーにコップを当てる動作は、はじめて冷水器を使う人にとって、
当り前の行為となり得るのだろうか、とも思った。

Date: 8月 30th, 2013
Cate: 「オーディオ」考

「音は人なり」を、いまいちど考える(その6)

ジュリアードの演奏盤はなかなかCDにならなかった。
国内盤が最初に出た。1990年ごろだったはずだ。

1GBのメモリーを用意して、そこに一端A/D変換したデータを記憶させて処理を行った、
とブックレットの最後には書いてあった。
いまでこそ1GBのメモリーの価格はそう高価ではないけれど、
いまから20年以上前における1GBのメモリーの価格がどれだけしていたのか、想像がつかない。

気合のはいったCD化だったようだ。

このジュリアードの演奏盤のCDを、ある友人に貸したことがある。
私よりひとつ年下、音楽の仕事(作曲、編曲、演奏など)をしている女性である。
彼女はクラシックの聴き手ではなかった。
彼女の夫(彼も友人)も、クラシックは聴かない。

そんな友人の感想は、
「暗い森の中の妖精」──、たしかそんなことを彼女は言っていた。

1990年にはバルトークの音楽は、もう現代音楽ではなかった。
バルトークについても、ジュリアード弦楽四重奏団についても、
それにこの演奏盤についても、なんの知識(先入観)をもたずに聴いた人の感想がそれだった。

これはひとつの例にしか過ぎない。
けれど、これほど聴き手によって、その音楽の在り方は変ってくることは頭ではわかっていても、
実際に身近でそういう例に接すると、音楽の抽象性の深さ、広さに驚くだけでなく、
ときとしてとまどうことすらある。

五味先生には「精神に拷問をかけるための音楽」であったバルトークの演奏盤が、
年齢も性別も仕事もまるで違う聴き手にとっては、そういう要素はかけらもない音楽となっているし、
私にとっても、すくなくともこれまでは「精神に拷問をかけるための音楽」とまではいえなかった。

だが、もう10数年以上(20年近いかもしれない)、
ジュリアード弦楽四重奏団の1963年の演奏盤は聴いていない。
それだけ歳をとった。
いま聴くとどうなのか──、これはもう聴いてみるしかない。

最初にバルトークの演奏盤を聴いたときとスピーカーも、システム全体もまるっきり違う。
出ている音も同じといえば同じところはあるけれど、違うといえば違ってきている。

Date: 8月 30th, 2013
Cate: 「オーディオ」考

「音は人なり」を、いまいちど考える(その5)

こうやって毎日、複数のテーマで書いていると、
書き始めたころには意識していなかった事柄がつながっていくときがある。

はだしのゲン」というタイトルで書き始めた項で、
バルトークの弦楽四重奏曲と五味先生のことについて書いているところである。

五味先生にとって、ジュリアード弦楽四重奏団によるバルトークの演奏盤こそは、
そういう一枚──つまり己の愚かなところ、醜いところを容赦なく映し出す──だった、
いまそう思えてならない。

だから「バルトークは精神に拷問をかけるために聴く音楽としか思えなかった」と書かれた。
いまはそう思っている。

音楽の聴き手すべての人にとって、ジュリアード弦楽四重奏団による1963年録音のバルトークが、
「精神に拷問をかけるための音楽」ではないはず。

ジュリアード弦楽四重奏団のバルトークの演奏盤をはじめて聴いたとき、
その気魄に圧倒されはしても、
残念ながら、というべきかどうかはわからなかったが、「精神に拷問をかける音楽」ではなかった。

聴き終えるのにものすごいエネルギーを要求される感じはあったけれど、
それは精神の拷問とまではいかなかった。

Date: 8月 29th, 2013
Cate: 「オーディオ」考

「音は人なり」を、いまいちど考える(その4)

オーディオから(スピーカーから、と置き換えてもいいのだが)音を出すには、
なんらかのプログラムソースがいる。

アナログディスクでも、CDでも、FM放送、AM放送、インターネットによる配信、
とにかく種類は問わず、音源となるソースがなければ、
電源をいれたところでスピーカーから音は鳴ってこない。
(レベルを上げていけば、システム全体のノイズは多少なりとも聞こえてくるだろうが)

こんな当り前すぎることを書くのは、
己のオーディオから愚かな音、醜い音を出すのにも、
なんからのプログラムソース、つまり音楽が必要となる、ということであり、
愚かな音、醜い音を出す上で、実は最も重要で、注意深くならなければならないのは、
そういう音を求めるとき、出すときにかける音楽が、なんなのか、ということである。

Date: 8月 29th, 2013
Cate: デザイン

オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(整理と省略・その2)

セブンカフェのドリップマシンのボタン配置が気になるのは、
私がオーディオマニアであることも理由として大きいと思うが、
実際にセブン・イレブンに設置されている、このドリップマシンの現場を見ると、
どうもそれだけが理由ではないことがはっきりしてくる。

けっこうあちこちに行く。
セブン・イレブンだけに行くわけではないが、
コンビニエンスストアに寄ることは多い方だと思う。

セブンカフェのドリップマシンはレジの近くに置いてあるところが多いので、
自然と視界に入ってくる。
気づくのは、ほとんどの店舗で、このドリップマシンにその店舗によるシールが貼ってあることだ。

日本語で、熱いコーヒー、サイズ・普通とか冷たいコーヒー、サイズ・大きい、といった具合にだ。
この表記も店舗によって違っている。

このことは一ヵ月ほど前にtwitterで話題になっていた。
最初から、こんなシールを貼ったわけではないはず。

操作の間違いが頻繁するからこそ、店員がすこしでもわかりやすしようと思ってのシールであろう。

このドリップマシンのデザイナーは、
デザインに関心が少しでもある人ならばほとんどの人が知っている著名な人である。
調べれはすぐにわかることだから、誰なのかは書かない。

この人は、著書も出していて、その中に整理術というタイトルのついたものがある。
その本を読んでいない。
それだけでなく、このデザイナーについて、多くを知っているわけでもないし、
他の著書も読んでいない。

だからこの人についてあれこれ、ここで書きたいのではなく、
デザインにおける「整理」とは何か、ということについて、
セブンカフェのドリップマシンを見て操作して感じたことを書いていこうと思っている。

Date: 8月 28th, 2013
Cate: デザイン

オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(整理と省略・その1)

コンビニエンスストアのセブン・イレブンが今年にはいり、
セブンカフェというセルフ式のコーヒー販売を始めている。

レジの横にはコーヒーのドリップマシンが置いてある。
これまで三回ほど利用しているけど、
このドリップマシンのデザインには、どこか違和感をおぼえていた。

今日気づいたことがある。
たとえばカップのサイズが二種類ある。
regularとlargeで、regularは頭文字をとってRと表示されたボタン、
largeは頭文字のLと表示されたボタンが左右に並んでいる。

この配置が、オーディオにおける左(L)チャンネルと右(R)チャンネルと逆になっている。
Rのボタンが左に、Lのボタンが右に配置されている。

スピーカーでいえば、左右チャンネルを間違えて配置しているのと同じになる。

しかもこれだけではなく、セブンカフェのドリップマシンはアイスとホットも選べ、
上段のボタンがホットで、下段のボタンがアイスである。
この部分は色づけされている。
ホットが赤で、アイスが青。つまり上段が赤で、下段が青となっている。

これもオーディオにおけるアンプの端子の配置と逆である。
RCAの入力・出力端子を左チャンネル・右チャンネルを上下にわけて配置する場合、
左チャンネルが上段、右チャンネルが下段となる。

通常、左右チャンネルの色分けは、赤が右で、白または青が左を示す。
つまり白(または青)が上段で、下段が赤が一般的である。
オーディオリサーチだけは、ずっと以前から右チャンネルを上に持ってきているけれど。

つまりセブンカフェのドリップマシンのホットとアイスの色分けも、
オーディオの色分け(左右チャンネルの区別)と逆になっている。

おそらく、セブンカフェのドリップマシンのデザイナーは、
オーディオには関心のない人なのだとおもう。
オーディオマニアであれば、こういうボタン配置、色分けはしないはずだからだ。

Date: 8月 28th, 2013
Cate: 「オーディオ」考

「音は人なり」を、いまいちど考える(その3)

愚かな音、醜い音を出すことは、
それも意図的に出すことはできるのだろうか。

意図せずに、そのオーディオの聴き手である己の愚かさや醜さが音として出てしまうことはあるだろう。
でも、それすらも、オーディオとのつき合いが長く、
それなりに使いこなしのテクニック、スキルを身につけてしまうと、
表面的には覆い隠してしまうことはできる。

意図せずに表面化してしまった愚かさや醜さを感じさせる音を、
いわゆる悪い音と判断してしまえば、それをどうにかすることはできないわけではない。

意図せずに出てきてしまった、そういう音だけに聴き手の意識としては、
悪い音、ひどい音と判断してしまう。
そういう音はどうにかしたい、ということになる。

だからこそ、意図的に愚かな音、醜い音を出すことができるのだろうか──、
と考えている。

性能の低いオーディオ機器を集めて組み合わせたところで、
そんな音が出るわけではない。それは悪い音、ひどい音である。
そうではなく、いまのメインのシステムから、愚かな音、醜い音を出さなければならない。

となると、何が愚かな音なのか、醜い音なのかをはっきりと把握しなければならない。
そうすることで、美しい音も、またはっきりと姿をあらわしてくれそうな気がする。

Date: 8月 28th, 2013
Cate: 「オーディオ」考

オーディオとは……(その2)

演奏会場に出向いて聴く音楽と、
オーディオを介して聴く音楽、
このふたつをわれわれは楽しめる時代に生きている。

どちらも同じ音楽なのだが、
聴き手の聴き方は、演奏会場に出向いて聴くときとオーディオを介して聴くときとでは、
同じところもあれば、そうでないところもある。

オーディオを介して聴くという行為は、
確認という行為でもある、と思う。

Date: 8月 27th, 2013
Cate: 型番

型番について(その26)

ステレオサウンド 80号は1986年に出ている。

ESL63が登場した1981年にまだ10代だった私も、1986年には20代になっていた。
ESl63もESL63Proという派生モデルを生み出している。
1982年にはCDが登場している。

いくつもの変化が、周囲にも私自身にもあって、
ESL63Proの音の良さを、それまで頭で理解していたところがあったのが、
素直に、いいなぁ、と思えるようになってきていた。

ESL63よりもESL63Proのほうを、私はとる。
ただ外観に関してはESL63Proは、いかにも仕事用のスピーカー然としていて気にくわないところはある。
けれど、なによりも型番の63が、1963年生れの私にとっては、
無視できない魅力として、このスピーカーが登場したときから続いている。

このころになると、ESL63Pro、たぶんいつかは手に入れるんだろうな、とも思うようになった。
でもできればESL63の外観で、ESL63Proの音であってほしい、という希望つきでもあったけれど。

これは決意ではなかった。
予感、といったほうがいい。
そんな予感は、いつの日か現実になるようだ。

1986年から10数年以上経ったころ、ESL63Proを譲ってくれる人がいた。
ESL63Proの中でも、古いロットのモノであったが、相場からするとずいぶんと安く譲ってもらった。

全面的に修理が必要な状態なため、いまは押入れの中で眠ったままになっている。
いつの日か、きちんと鳴らしたい。

音だけでいえば、現行のESL2912、2812の方がいいに決っている。
でも、両スピーカーの型番には63の文字がないから、このESL63Proを鳴らす。
それに、このESL63Proは小林悟朗さんのモノだったのだから、なおさらだ。

いまふりかえると、63という数字は、私にとってひとつの縁だった。
小林悟朗さんから譲られたESL63Proも縁である。

Date: 8月 27th, 2013
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(編集部とは・その8)

これまで書いてきたことを読まれた方の中には、
私が、そのベテラン筆者に対して怒っている、と誤解、勘違いされている方もいるような気がする。

くどくなるのはわかっていても書いておくと、
そのベテラン筆者を批判したり、怒っているというわけではない。
それはもちろん、もう少し注意をはらってほしかった、という気持はある。
けれど、私の怒り(というよりもやや失望に近い)は、編集部に対してのものであることを、
もう一度はっきりさせておく。

今回のことは防げたことである。
それは難しいことでもなんでもない。
編集部が編集部として機能していれば、防げて当然のことが、
そのまま活字になってしまったことに対して、私は書いている。

誰にでも勘違いはある。
私も毎日ブログを書いていると、いくつかは勘違いがあり、
コメント欄で指摘をもらって訂正したことがある。

なぜ勘違いが起るのか、その発生のメカニズムが完全にわかればいいけれど、
勘違いが発生する理由は、その時によってさまざまである。

筆者の勘違いが編集部が編集部として機能していないから、活字になってしまう。
誰かひとりでよかった、そのひとりが気づいて筆者にすぐさま連絡していれば、
筆者も自分の勘違いに気づき、原稿を訂正する。

こういう地味で細かなことを筆者との関係において重ねていくことが大事だということに、
その関係が生むものに気づいていれば、
原稿を受けとったとき、最初に原稿を読むときの姿勢に変化があらわれる。

Date: 8月 26th, 2013
Cate: 進歩・進化

拡張と集中(その1)

技術の進歩という言い方をする。
時には、進化ともいうことがある。

私も、これらを使う。
使い(書き)ながら、ここで、進歩と使っていいのかと考えてしまうことはある。

技術は進歩しているように見える。
見えるだけでなく、確実に進歩しているのはわかっている。
それでもことオーディオに関しては、
こと音に関しては、本当に進歩しているのか判断が微妙なところがあるのもまた事実である。

となると安易に進歩といっていいのだろうかと思うし、
他の表現があるようにも思えてくる。
けれどぴったりとくる言葉を思いつかず、少し安易に進歩という言葉を使ってしまうことがある。

いったい、そういうときに、どういうことばを持ってくれば、
違和感を感じることなく、自分の安易さに気づきながら、それをごまかすことなく書けるのだろうか。

Date: 8月 25th, 2013
Cate: 音の毒

「はだしのゲン」(その9)

「無音はあらゆる華麗な音を内蔵している」

五味先生の言葉だ。
これを「五味オーディオ教室」で読んだ。

それ以来、「無音はあらゆる華麗な音を内蔵している」は私にとって、
オーディオについて迷ったとき、これを思い出すようにしている。

五味先生は、バルトークの弦楽四重奏曲を聴かれたからこそ、
この「無音はあらゆる華麗な音を内蔵している」という真理にたどり着かれたのではないのか。

私の勝手な想像でしかないのだが、
あるひとつのきっかけ、出来事でこの「無音はあらゆる華麗な音を内蔵している」にたどり着かれたとは思えない。
いくつかのことから、ここにたどり着かれたのだとおもう。

そのひとつが、ジュリアード弦楽四重奏団によるバルトークの演奏盤での体験だったはずだ。

この項の(その4)で引用したところから、一部くり返す。
     *
バルトークに限って、その音楽が歇んだとき、音のない沈黙というものがどれほど大きな慰藉をもたらすものかを教えてくれた。音楽の鳴っていない方が甘美な、そういう無音をバルトークは教えてくれたのである。他と異なって、すなわちバルトークの音楽はその楽曲の歇んだとき、初めて音楽本来の役割を開始する。人の心をなごめ、しずめ、やわらげ慰撫する。
     *
この体験なくして、どうして「無音はあらゆる華麗な音を内蔵している」にたどり着けるだろうか。

Date: 8月 25th, 2013
Cate: 型番

型番について(その25)

ステレオサウンド 80号での「フィガロの結婚」の試聴でのESL63Proのセッティングは、
通常の試聴におけるセッティングとは異り、フィリップスの録音チームがやっているのと同じようにしている。

ESL63Proの中心が聴き手の耳の高さと合せるためにまず通常よりも高いスタンドを用意し、
さらにここがもっとも特徴的なのだが、スピーカーを110度ほどに、思いっきり振っている。
実際の配置の詳細は80号の476ページに写真と図が掲載されているので、そちらを参照してほしい。

こういうセッティングとすることで、低音の音圧感は減るものの、
このセッティングならではの音場感が浮び上ってくる。

黒田先生はこう語られている。
     *
よく音がこちらにくるという表現を使いますが、このスピーカーの配置で聴くと、音は、絶対にこちらにきません。幹スピーカーの右端と左スピーカーの左端の線のむこう側に音場があって、むこう側で終わっている感じがするから、いちいち首をつっこんで、あすこにおまえがいるというふうに聴いてしまう聴こえかたなんですね。音を大きくすると、それがあまってくる。この中で形成する音量で、音場があったところを確かめるという聴こえかたですね。今度はオペラではなくて、楽器は動いたりしないから、よけいにそれが鮮明にでた。
     *
この発言で「オペラではなくて」は、「フィガロの結婚」を聴いた後で、
同じフィリップス録音の、ハイティンク指揮アルプス交響曲を聴いてのものであるからだ。

この時の試聴は、個人的に興味深く、いまでも憶えている。
黒田先生の「この中で形成する音量で」の発言にもあるように、
ヨーロッパのクラシック・レーベルの録音モニター時の音量は、
日本で想像されているよりもずっと低い、ということを、
このときのESL63Proの独特のセッティングと、そこでの音量が如実に語っていた。

Date: 8月 25th, 2013
Cate: 型番

型番について(その24)

QUADのESL63は、その後ESL63Proという、いわば録音モニター用のモデルも出している。

ESL63は早い時期からフィリップスの録音エンジニアたちモニタースピーカーとしてつかわれていて、
そのときから高域のリニアリティを少しでもよくするためにネットを外していたのが、
QUADがフィリップスの録音チームの、そういう要望をきき、
ESL63のパンチングメタルの孔を大きくしている。
その他保護回路の働き(設定)が通常モデルとは異る。

ESL63Proが出る、ときいて、それでも少し期待していた。
もっとも冷静に考えれば、型番の末尾にProとつくのだから、
ESLのしっとり感を、このモデルに期待するのは無理だというのは聴く前からわかってはいた。

それでも、もしかするという、わずかな希望をもっていた……。

ESL63ProはESL63のシックな外観から、いかにも可搬型として使いやすいように変っていた。
音はESL63よりも、モニター的性格を聴き取ろうと思えば聴きとれるような、そういう変化だった。

このESL63Proを使って、フィリップスの最新録音を聴くという企画が、
ステレオサウンド 80号に載っている。
黒田先生、諸石幸生氏、草野次郎氏で、
ネヴィル・マリナー指揮のモーツァルトの「フィガロの結婚」を聴くというものだった。

タイトルは、
フィリップスのモニターサウンドで聴く最新録音『マリナー/フィガロの結婚』。