Date: 8月 30th, 2013
Cate: 「オーディオ」考
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「音は人なり」を、いまいちど考える(その6)

ジュリアードの演奏盤はなかなかCDにならなかった。
国内盤が最初に出た。1990年ごろだったはずだ。

1GBのメモリーを用意して、そこに一端A/D変換したデータを記憶させて処理を行った、
とブックレットの最後には書いてあった。
いまでこそ1GBのメモリーの価格はそう高価ではないけれど、
いまから20年以上前における1GBのメモリーの価格がどれだけしていたのか、想像がつかない。

気合のはいったCD化だったようだ。

このジュリアードの演奏盤のCDを、ある友人に貸したことがある。
私よりひとつ年下、音楽の仕事(作曲、編曲、演奏など)をしている女性である。
彼女はクラシックの聴き手ではなかった。
彼女の夫(彼も友人)も、クラシックは聴かない。

そんな友人の感想は、
「暗い森の中の妖精」──、たしかそんなことを彼女は言っていた。

1990年にはバルトークの音楽は、もう現代音楽ではなかった。
バルトークについても、ジュリアード弦楽四重奏団についても、
それにこの演奏盤についても、なんの知識(先入観)をもたずに聴いた人の感想がそれだった。

これはひとつの例にしか過ぎない。
けれど、これほど聴き手によって、その音楽の在り方は変ってくることは頭ではわかっていても、
実際に身近でそういう例に接すると、音楽の抽象性の深さ、広さに驚くだけでなく、
ときとしてとまどうことすらある。

五味先生には「精神に拷問をかけるための音楽」であったバルトークの演奏盤が、
年齢も性別も仕事もまるで違う聴き手にとっては、そういう要素はかけらもない音楽となっているし、
私にとっても、すくなくともこれまでは「精神に拷問をかけるための音楽」とまではいえなかった。

だが、もう10数年以上(20年近いかもしれない)、
ジュリアード弦楽四重奏団の1963年の演奏盤は聴いていない。
それだけ歳をとった。
いま聴くとどうなのか──、これはもう聴いてみるしかない。

最初にバルトークの演奏盤を聴いたときとスピーカーも、システム全体もまるっきり違う。
出ている音も同じといえば同じところはあるけれど、違うといえば違ってきている。

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