Archive for category High Fidelity

Date: 4月 1st, 2024
Cate: High Fidelity

手本のような音を目指すのか(その9)

別項「真空管アンプの存在」の(その50)、(その51)で書いている。
1980年代の、ある国産のパワーアンプのことだ。

当時としてはけっこう高価格のパワーアンプであり、
その会社のフラッグシップモデルでもあった。

造りも良かった。回路も意欲的だった。物量も投入されていた。
滑らかで音の透明度も高い。
安定度も高いから、パワーを上げてもまったく不安を感じさせない。

こう書いていくと素晴らしいアンプのように思われるだろう。
実際に優秀なアンプといえたし、そういう評価を得ていた。

けれど、決定的に、ピアニシモ(ローレベル)においての力を感じさせなかった。
ローレベルでの力のなさゆえに、このアンプでスピーカーを鳴らしていると、
ついボリュウムを上げてしまう。

力のないローレベルの領域をできるだけ使わないように、無意識で上げていたようだ。

このことを持ち出しているのは、
時計の秒針の音が気になる音、
パワーアンプの空冷ファンの音が気になる音というのも、
実のところ、この高級国産アンプの音と同じだから、といえる。

ローレベルの力のない音で聴いていると、周囲のもろもろの音が気になってしまう。
これは人によって違うのだろう。

この項の(その6)で書いているように、
私と同じように感じていた人もいるし、そうでない人もいる。

そうでない人は、上にあげた高級国産アンプの音を聴いても、
私と同じような不満は感じないであろう。

Date: 3月 13th, 2022
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(原音→げんおん→玄音)

玄音──、弦音ではなく玄音。

玄を辞書で引くと、
(1)黒い色。黒。
(2)天。「黄に満ち──に満てり/三教指帰」
(3)老荘思想の根本概念。万物の根源としての道。
(4)奥深くて微妙なこと。深遠な道理。「──を談じ理を折(ヒラ)く/太平記 1」
とある。

こんな「げんおん」の当て字もあっていいように思う。

Date: 11月 25th, 2021
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(違う意味での原音・その3)

その1)と(その2)で、UREI 813を例の一つとして挙げた。
813は、(その1)の冒頭で触れた、原色の意味の三つのうちの一つにあたる。

辞書に、原色の意味は、次のようになっている。

色の世界で原色といえば、辞書には三つの意味が書かれている。
①混合することによって最も広い範囲の色をつくり出せるように選んだ基本的な色。絵の具では赤紫(マゼンダ)・青緑(シアン)・黄,光では赤・緑・青。
②色合いのはっきりした強い色。まじり気のない色。刺激的な,派手な色。
③絵画や写真の複製で,もとの色。

813の音は、二番目の意味での原色の音であり、
原色と原音ということでいえば、二番目の意味の原音となる。

813という実際のスピーカーがあって、
そのスピーカーについて語られていることがあるから、わかりやすい例として挙げた。

私がここで考えたいのは、一番目の意味の原色的原音である。
混合することによってもっとも広い範囲の音をつくり出せる基本的な色、
光では三原色といわれる赤・緑・青がある。

二番目の意味での原色的原音に、三原色ならぬ三原音というものがあるのだろうか。
あるのかどうかも、いまのところなんともいえない。
あるとしたら、どんな音なのか。

そして、その音だけを聴くことができるのだろうか。

Date: 4月 29th, 2021
Cate: High Fidelity

手本のような音を目指すのか(その8)

空冷ファンをもつパワーアンプがある。
よほど広い空間をもてないかぎり、空冷ファンはないほうがいいし、
単に空冷ファンが発するノイズだけでなく、
仮にそういったノイズが発生しなかったとしても、
ファンが廻るだけで音は影響を受けてしまう。

ファンはないほうがいいわけだが、
A級パワーアンプだと、ファンがついてたりする。
このファンの音も、時計の秒針のようにひじょうに気になる場合と、そうでない場合とがある。

常に気になるという人もいるだろうし、
まったく気にならないという人もいるだろう。
なので、気になる場合とそうでない場合とがあるというのは、
私の場合ということでもある。

なぜ、そうなのだろうか。
私は20代のころ、SUMOのThe Goldを使っていた。
A級動作、125W+125Wのパワーアンプで、
ファンはフロントパネルのすぐ後に二基あった。

しかもフロントパネルには空気を取り込むための四角い開口部が二つあったため、
ファンの音はけっこう大きかった。

AB級、400W+400WのThe Powerには、フロントパネルの開口部はなかったため、
ファンの音の聞こえ方はけっこう違う。

音を鳴らしていないと、The Goldのファンの音は、けっこう大きなと感じていた。
けれど音を鳴らし始めると、まったくとはいわないまでも、さほど気にならない。

一方で、パイオニアのExclusive M4は、A級50W+50Wで、
やはり空冷ファンを一基備えている。

音を鳴らしていないときのファン・ノイズは明らかにExclusive M4のほうが小さい。
国産アンプらしい、といえば、そうである。

なのに音を聴いていると、意外にもExclusive M4のほうが、
ファン・ノイズが気になったりしていた。

同じ場所での比較ではないから、厳密な比較なわけではないが、
それでも、この二つのA級パワーアンプのファン・ノイズに気になり方の違いは、
私にとっては時計の秒針の音と同じ存在のように感じられる。

Date: 4月 28th, 2021
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(ふたつの絵から考える・その11)

ルチア・アルベルティのCDを初めて手にしたのは、
オルフェオ・レーベルから出ていたオペラ・アリア集だった。

ベルリーニやドニゼッティを歌っている、このCDはなかなか素敵な一枚なのだが、
ルチア・アルベルティのCDは、そう多くない(むしろ少ない、といったほうがいいくらいだ)。

ルチア・アルベルティは、「カラスの再来」といわれていた。
クラシックの世界で、「カラスの再来」は、よく使われる。
多くの場合、そんなふうにいわれていたなぁ……留まりでしかない。

黒田先生は、《ルチア・アルベルティの明日にカラスを夢みたくなる》と書かれていた。
けれど、くり返すがルチア・アルベルティの録音は少ない。

それだけの歌手にすぎなかったのであれば、納得できることなのだが、
ルチア・アルベルティはそうではなく、このことも黒田先生が書かれているのだが、
ルチア・アルベルティは大手音楽マネージメントと契約を結んでいない。

そのためルチア・アルベルティはマネージャーもつけずに仕事をしている、
と黒田先生の「ぼくだけの音楽」に書いてあった。

そして、黒田先生の「あなたは結婚しないんですか?」というぶしつけな質問に、
ルチア・アルベルティは、「だって、わたしはベルリーニと結婚しているから」と答えている。

なのにルチア・アルベルティの「清らかな女神よ」を、これまで聴いたことがなかった。
それこそ大手音楽マネージメントと契約していれば、
大手のレコード会社から、間違いなく出ていたはずだ。

でも出てこなかった(はずだ)。
いつしかルチア・アルベルティの新録音を待つことをやめてしまっていた。

そんなこともあって、私の手元にはオルフェオ盤だけだった。
いまもそのことに変りはないが、TIDALには、オルフェオ盤以外に三枚ある。
“A Portrait”のなかに、「清らかな女神よ」がある。

オルフェオ盤を聴いてから、三十年以上経って,
ようやくルチア・アルベルティの「清らかな女神よ」を聴いている。

Date: 2月 20th, 2021
Cate: High Fidelity

音の断捨離(その1)

音の断捨離。
昨晩、オーディオのこと、音のことを話していて、
ふと思いついたことばだ。

何を書いていこうか、ほとんど考えていない。
これからぽつぽつ書いていくつもりだ。

Date: 1月 20th, 2021
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(ふたつの絵から考える・その10)

マリア・カラスの歌う「清らかな女神よ」が、
マリア・カラスの自画像という結論をもってしまった私にとって、
スピーカーを選ぶということは、
そして、選んだスピーカーをどう鳴らすかということは、
このことに深く関ってくる。

少なくともマリア・カラスによる「清らかな女神よ」が、
マリア・カラスの自画像とはまったく感じさせない(感じられない)スピーカーを選ぶことは、
この先絶対にない、といえる。

そのスピーカーがどれだけこまかな音を再現しようと、
優れた物理特性を誇っていようと、
オーディオ雑誌においてオーディオ評論家全員が絶賛していようと、
ソーシャルメディアにおいて多くのオーディオマニアが最高のスピーカーと騒いでいようと、
欲しい、とは思わない。

結局、スピーカー選びとは、それまでどういう音楽をどう聴いてきたかである。
マリア・カラスは、私だって聴いてきた──、という人であっても、
私と同じ聴き方、同じような聴き方をしてきたのかどうか。

マリア・カラスの歌う「清らかな女神よ」が、
マリア・カラスの自画像という聴き方をするほうが少数派なのかもしれない。

多くの人はそんな聴き方はしないのかもしれない。

ハイ・フィデリティとは、音楽に誠実であることだ。
ならば選ぶべきモノはおのずとさだまってくる。

そして、さだまる、ということはさだめへとつながっているようにもおもう。

Date: 11月 10th, 2020
Cate: High Fidelity

原音に……(コメントを読んで・その5)

約二年前の(その1)は、facebokkでのコメントに、
惚れ込めるオーディオ機器との出あいは、
過去に較べると減ってきていると感じていますか、というものがあったからだった。

ここ数年、ソーシャルメディアで目にすることが何度かあったのは、
スピーカーは○○を買ったら、あがりだ、という内容のものだ。

○○には、あるブランドが入る。
私が目にした範囲では、YGアコースティクスかマジコのどちらかだった。
どちらも世評の高いスピーカーである。

マジコのスピーカーは聴く機会がないのでなんともいえないのだが、
YGアコースティクスは聴けば、なるほど優秀なスピーカーだな、と感心する。

でも惚れ込めるスピーカーではない。
この感想は、あくまでも私個人のものであって、
優秀なスピーカーだからこそ惚れ込める、という人もいよう。

惚れ込んで、これらのスピーカーを買う人のことを書きたいのではなく、
YGアコースティクスを買ったら、スピーカーに関してはあがりだ、
マジコを買ったら、スピーカーに関してはあがりだ、という人について、
もやもやとしたものを感じている。

私が若いころ、JBLの4343に憧れていた。
4350の音は、4343よりも、もっとスゴい、と感じていた。
JBLのこれらのスピーカー以外にも、すごいと感じた音のスピーカーはあったし、
欲しい、とおもったモノはいくつかある。

けれど、それらを買ったからといって、
それでスピーカーに関して、あがりだ、と考えたことは一度もなかった。

少なくとも、あのころ、これを買ったらあがり、ということは、まず見かけなかった。
あのころはソーシャルメディアなんてなかったのだから、
もしあったら、いまと変らないのかもしれない。

そう思いながらも、私の周りのオーディオマニアに限ってなのだが、
あがり、という言葉を、スピーカーを手に入れた時に使っていた人はいない。

Date: 6月 24th, 2019
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(ふたつの絵から考える・その9)

マリア・カラスの歌う「清らかな女神よ」が、
マリア・カラスの自画像というのは、私の手前勝手な聴き方ゆえの結論であり、
これが正しいマリア・カラスの「清らかな女神よ」の聴き方であるとか、
そう感じないのは間違っている、などという気はさらさらない。

ただ私には、いまそう聴こえるわけで、
この歳で、そう聴こえてくるという、この結論は、将来、大きく変ることはないように思われる。

「清らかな女神よ」は、いうまでもなく、
ベルリーニのオペラ「ノルマ」のなかのアリアである。

マリア・カラスのために書かれた曲でもない。
第一、作曲の時点でマリア・カラスは生まれていない。

ベルリーニが生きていたころ、マリア・カラスがオペラ歌手として全盛を迎えていて、
ベルリーニが、そのマリア・カラスのための「ノルマ」を作曲した、
「清らかな女神よ」を書いた──、というのであれば、
マリア・カラスにとって、「清らかな女神よ」は自画像といえるのか。

でも、それは自画像というより、肖像画のような気もしなくはない。
肖像画的アリアを、マリア・カラスが歌唱によって自画像といえる域にまで持ってくるのかだろう。

「清らかな女神よ」(Casta Diva, カスタ・ディーヴァ)の録音が、
これまでどれだけなされたのかを数えたわけでもないし、すべてを聴いているわけでもない。

マリア・カラスの「清らかな女神よ」が、最高の「清らかな女神よ」なのかは、
そんなわけだから私にはいえない。

私がいいたいのは、「清らかな女神よ」が、マリア・カラスの自画像であるということだ。

黒田先生は、オペラにおいて、
マリア・カラスだけ聴いていればそれでいい、という考え方・聴き方には賛成できないが、
それでも「ノルマ」に関してだけはカラスに尽きる──、
そんなことを、三十年ほど前に書かれていた。

私がこれまで聴いてきたオペラの数は、黒田先生が聴かれてきたのとくらべると、
ほんのわずかといわれてもしかたないくらいである。

なので「ノルマ」に関してだけはカラスに尽きる──、とはいえないが、
「清らかな女神よ」に関してだけはカラスに尽きる、
そういえるのは、「清らかな女神よ」がマリア・カラスの自画像ときこえるからである。

これから先、どれだけの「清らかな女神よ」が演奏されたり、録音されていくことだろう。
そのすべてを聴くことはできない。
それでも、マリア・カラスのように歌える歌手は、もう現れないのではないか。

Date: 6月 19th, 2019
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(ふたつの絵から考える・その8)

マリア・カラスによる「清らかな女神よ」(Casta Diva, カスタ・ディーヴァ)。
マリア・カラスによる、この歌を聴くたびに、特別な何かを感じる。

マリア・カラスによる「清らかな女神よ」よりも、
シルヴィア・シャシュによる「清らかな女神よ」を先に聴いていた。

そのころ、シルヴィア・シャシュは「マリア・カラスの再来」と期待されていた。
マリア・カラスの「清らかな女神よ」を聴いたのは、一年くらい経っていただろう。

もちろん、それまでにマリア・カラスの歌は聴いていた。
「カルメン」はもちろん、その他のオペラも、すべてとはいえないが、そこそこ聴いていた。

マリア・カラスの「清らかな女神よ」は、初めて聴いた時から、特別な何かを感じていた。
マリア・カラスが特別な歌手だから、そう感じたというよりも、
マリア・カラスの歌ってきたもののなかでも、「清らかな女神よ」はひときわ特別な感じがする。

昨年12月に映画「私は、マリア・カラス」を観た。
そこでも、マリア・カラスが「清らかな女神よ」を歌うシーンがある。

この映画でも、「清らかな女神よ」は、やはり特別だな、と感じていた。
映画を観終って数ヵ月が経って、やっと気づいた。

「清らかな女神よ」(Casta Diva, カスタ・ディーヴァ)は、
マリア・カラスの自画像そのものだ、ということに、やっと気づいた。

ここに気づいて、
映画「私は、マリア・カラス」の原題、MARIA BY CALLASにも納得がいった。

Date: 6月 12th, 2019
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(ふたつの絵から考える・その7)

十数年前くらいからだろうか、
スピーカーシステムの音の精度、精確さは確実に向上してきている。

インターナショナルオーディオショウで聴くだけなのだが、
それでもYGアコースティクスののスピーカーシステムの音には、
ここ数年、感心するばかりだ。

B&Wのスピーカーシステムもそうだ、といえよう。
あくまでも聴いた範囲であって、
他にも精度の高さ、精確さをほこるスピーカーシステムはあるだろう。

とはいっても、一般には精度の高い音と高く評価されていても、
聴いてみると、この音のどこが? と思うスピーカーもないわけではない。

どこのメーカーなのかは書かないけれど、一社ではない。
インターナショナルオーディオショウ、オーディオ店で鳴っている音での印象であって、
愛情をもって鳴らしているユーザーの音を聴いての印象ではない。

でも二十年くらい前か、
知人があるメーカーのスピーカーシステムを購入した。

そのメーカーの音を、それまで一度もいいと思ったことがなかった。
ひどい音だ、と聴く度に思っていた。

なのにハイエンドユーザーのあいだでの世評は高かった。
そのスピーカーを知人が買ったわけだ。

聴きに来ませんか、という誘いがあった。
期待はしていなかったけれど、やっぱりひどかった。

知人もそう感じていたようで、すぐに売っぱらってしまった。
愛情をもって鳴らしてこそ──、というけれど、
それはあくまでもまともなスピーカーに関してであって、
そのスピーカーのように欠陥スピーカーといいたくなる場合は、例外というしかない。

どこかが間違っているとしかいいようのない音のスピーカーは、確かに存在する。
そういうスピーカーまでも、精度の高い音といわれているのをみていると、
精度の高い音、精確な音とはいったいなんだろう、と、
次元の低いところで考えなくてはならないのかと思ったりもするが、
そんなスピーカーをきちんと聴き分けて除いていけば、
確かにスピーカーの音の精度、精確さは確実に向上している。

Date: 6月 12th, 2019
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(ふたつの絵から考える・その6)

二十年くらい前からだろうか、
写真と見紛わんばかりの絵を描く人が現れはじめた。

私が、そういう人を最初に見た(知った)のは、インターネットだったか。
世の中には、すごい人がいるもんだ、と感心した。

それからぽつぽつとそういう人が現れてきている。
インターネット、それもSNSを眺めていると、
そういう人の絵がタイムラインに流れてきて、
さらにはどうやって描いているのかも動画もあったりする。

写実性の技術は向上している──、といえるだろう。
と思いながらも、私はここでも五味先生が書かれてきたことを思い出す。
     *
 画家なら、セザンヌは無論のこと、ゴッホもゴーガンもあのピカソさえ、信じ難いほどの写実性で自画像を描いている。どんな名手が撮った写真よりそれはピカソその人であり、ゴッホの顔と私には見える。音楽作品にはしかし、そういう自画像は一人として思い当たらない。バルトークの師だったというヤノーシュ・ケスラーという作曲家は、優れたアダージョを書けるには音楽家は実際の経験を経ねばならぬと教えたそうで(ただし何を? おそらく恋愛、もしくはそれにともなう失望や恍惚、悲哀だろうか? それならもうぼくはずいぶん経験ずみだし、よいアダージョが書けねばならないのに)、とバルトークは二十歳ごろ母への手紙に書いている。バルトークの作品にその苦悩の生涯を彷彿するのはたやすいことだが、どれを取上げても彼の肖像は浮かんでこないだろう。ケスラーの説が当たっているなら、ベートーヴェンは体験でたしかに比類ないアダージョを作っているが、いかなる他の音楽も到達しなかったとケンプの称えるそのアダージョの幽玄の趣、崇高でけざやかな美しさにもっとも不似合いなのがベートーヴェン自身のあの(醜い)マスクの印象になる。
 いまさら言うまでもないが、音楽は聴くもので見るものではない、肖像画が声を出すか? といった反論はわかりきっているので、音楽に自画像を求めるのが元来無理なら、自画像と呼ぶにふさわしい作品をたずねてみるまでである。ブルーノ・ワルターは、『交響曲第一番』をマーラーのウェルテルと呼びたいと言っている。
 音楽家は、自分の体験を音で描写はしないものだとも言う。ワルターがこれを言った事由はわからないが、体験を描写しないで自画像を描ける道理がない。しかしたとえば『ドン・ジョバンニ』を、フロイトが『ハムレット』をそう理解したように、モーツァルトの無意識の自伝と見ることはできるだろう。
(「五味オーディオ教室」より)
     *
《セザンヌは無論のこと、ゴッホもゴーガンもあのピカソさえ、信じ難いほどの写実性で自画像を描いている。どんな名手が撮った写真よりそれはピカソその人であり、ゴッホの顔と私には見える》
とある。

ここにも写実性が出てくる。
セザンヌ、ゴッホ、ゴーガン、ピカソの自画像は、
写真を思わせるような絵ではない。

けれど《信じ難いほどの写実性》と、五味先生は表現されている。
《信じ難いほどの写実性》とは、高精度のカメラで撮影した写真のもつ写実性とは、
何が違うのか、ということは、すでに五味先生が書かれている。

《体験を描写しないで自画像を描ける道理がない》、
と書かれている。

Date: 2月 3rd, 2019
Cate: High Fidelity

原音に……(コメントを読んで・その4)

その1)で挙げている機種のいくつかは、
私がオーディオに興味を持ち始めたときに、すでに登場していた。

そういうオーディオ機器と、
登場と同時にほぼリアルタイムで聴いてきたオーディオ機器とがある。

惚れ込めるオーディオ機器との出あいが、
以前よりも減ってきているのかどうかは、このへんも考慮しなければならない。

そのうえでコメントに答えれば、惚れ込んだ、ということでは、
現在も昔も、そう変らないのではないか、と思うとともに、
こちらの年齢もあがってきていることによって、変ってきているかも……、
そんなふうにも思っている。

つまり、自分でもはっきりと答がでないのが本音である。

惚れ込んだ、ではなく、惚れたオーディオ機器ということでは、どうか。
ここでも考え込む。

惚れ込んだも惚れたも、どちらもきわめて主観的な評価である。
主観的であるだけに、こちらの変化もその評価には深く関ってくる。

それでも惚れ込んだ、惚れたオーディオ機器には、共通点がないのか、と自問する。
あるともいえるし、あまりないようにも感じている。

オーディオに関心をもち始めたときに出あい、惚れ込んだオーディオ機器は、
オーディオの世界を広さ、深さを垣間見せてくれた、ということでも、
ひときわ印象的であるのも事実だ。

もうここでは出あった順番を無視できない。
聴いた順番が違っていれば、別の機種に惚れ込んでいたかもしれない──、
そんなふうにも考えられる。

それとも、そんなことはないのか。

こんなふうに考えていくと、コメントに答えることが意外に難しいことに気づかされた。

Date: 2月 2nd, 2019
Cate: High Fidelity

原音に……(コメントを読んで・その3)

たとえばメリディアンのULTRA DAC。
こちらはLNP2とは正反対の惚れ込みかたである。

素直に惚れ込んでいるし、
多くの人にULTRA DACの音を一度聴いてもらいたい、と思っている。
聴いてもULTRA DACの良さがまったく理解できない人も少なからずいるはずだが、
それ以上に、きちんと理解できる人が多くいるはずだと思っている。
(思っているというよりも、そう信じたい)

ULTRA DACのついては昨秋からずっと書いてきている。
読んでいる方のなかには、ULTRA DACのことばかり……、と感じている人がいようが、
まだまだ書きたいことがある。

書けば書くほど、書きたいことが湧いてくるような感じすらある。
そうやって書きながら感じているのは、
瀬川先生がJBLの4343、マークレビンソンのLNP2のことを、
あれほど書かれていたのも、同じ気持だったからなのかもしれない、とおもうようになってきた。

口さがない輩は、輸入元からたんまり貰っているんだろう──、
そんなことをいう。

何もわかっていない輩でしかない。
ほんとうに惚れ込んだオーディオ機器がある。
そのことの嬉しさ。
そして、惚れ込んだオーディオ機器のことを誰かに伝えたいという気持。
そういうことがまったく理解できない輩が、いつの時代にも、どの世代にもいる。

おそらく、これまで惚れ込んだオーディオ機器がひとつもないんだろう、そういう輩は。

ただジャーマン・フィジックスのUnicornは、
ULTRA DACと同じくらいの惚れ込みだし、素直に惚れ込んでいても、
ULTRA DACほど、その良さを誰かに積極的に伝えたいという気持はあまりない。

Unicornの音を聴いたばかりのころは、確かにあった。
もうその時から十数年が経っている。

Date: 1月 31st, 2019
Cate: High Fidelity

原音に……(コメントを読んで・その2)

たとえばマークレビンソンのLNP2。
このコントロールアンプに惚れ込んでいる、という人はいまでも多くいることだろう。
私も惚れ込んでいる一人である。

けれど、私の惚れ込み方は、少しいびつともいえるし、ひねくれた惚れ込み方でもあろう。
メリディアンのULTRA DACへの惚れ込み方とは、微妙に違うといわざるをえない面を、
私自身がいちばん感じている。

そういうLNP2だから、
1970年代後半、10代前半だった私ではなく、
50をすぎた私だったら、惚れ込むことはなかったかもしれない。

あの時代、LNP2は優秀なコントロールアンプであった。
そのことは素直に認めただろうし、惚れたであろう。
でも惚れ込むまでいくとは、50すぎの私は思えないのだ。

あの時代に、10代の若造だったからこそのLNP2との出あいであり、
そこには瀬川先生という存在もあってのことだ。

別項で書いているように、一時期LNP2への関心はすっかり薄れてしまった。
なのにふたたび盛り返してきた。

LNP2が現行製品だったころに聴く機会がなく、
近ごろになって聴いた、という人もいるであろう。
それでLNP2に惚れた(惚れ込んだ)という人もきっといるだろう。

そういう人の惚れ込み方と私の惚れ込み方は、違う。
かなり違うといってよい。

そのころのマークレビンソンのML2に関しては、
LNP2よりもずっと素直に惚れ込んでいる。