Archive for category High Fidelity

Date: 7月 30th, 2017
Cate: High Fidelity

原音に……(ミロのヴィーナス像)

オーディオにおける原音とは、
ミロのヴィーナス像の両腕のようなものかもしれない。

Date: 5月 18th, 2017
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(テクニクスの広告)

現在のオーディオ雑誌に掲載されているオーディオの広告については、
あれこれ書きたいことはあるが、ここでは控えておこう。

また昔の話を書くことになるが、
1978年のテクニクスの広告。
「テクニクスカセットデッキ物語」という9ページのカラーページから成るものがあった。

この「テクニクスカセットデッキ物語」の第四章。
リモートコントロールという見出しがついている。

カセットデッキRS-M85の写真もあるが、第二章でとりあげられていて、
ここ第四章ではRP070というリモートコントロールユニットがメインである。

キャッチコピーは、こうある。
《技術が進歩すると、オーディオ機器はハイ・フィデリティになる。
 音楽に対してだけでなく、人間に対しても……。》

ボディコピーの最後には、こうある。
《この機器に込められた「技術の進歩はリスナーに対してのフィデリティに貢献する」という哲学。テクニクスがオーディオに心を燃やす理由が、ここにある。》

いまのテクニクスは、どうなのか、そのことに触れたいわけではない。
人間に対してのハイ・フィデリティ、
リスナーに対してのハイ・フィデリティ、
意外に見落しがちなことのように思う。

約40年前の広告を見て、考えている。

Date: 1月 31st, 2017
Cate: High Fidelity

手本のような音を目指すのか(その7)

時計の秒針の音も、生活音のひとつである。

スタジオの様に高い遮音性のリスニングルームでもないがぎり、
音楽を聴いているときに、なんらかの生活音が耳に入ることはある。

生活音にはいろいろある。
人が発する音もあれば、機械が発する音もある。

その中で、時計の秒針は規則正しく音を発している。
この「規則正しく」が、私にとっては生活音から生活雑音へと、
そんなふうに意識してしまうところがある。

もちろん常に、というわけではないが、何かの拍子にひどく気になりはじめる。
なぜなんだろう? と昔から考えている。
けれど、これといった答らしきものは見つかっていない。

それでも今回Aさんとの会話の中で、このことが出てきて、
あらためて考えている。
いま書いていることと関係しているようにも感じているからである。

そんなのは単なる偶然でしかなくて、
にも関わらず私が何らかの意味を求めてのこじつけのようなことかもしれない。
読まれている方の中には、そう思われている人もいよう。

でも私はそうは思っておらず、
時計の秒針の音と記録のような音との関係性について考えているところだ。

Date: 1月 29th, 2017
Cate: High Fidelity

手本のような音を目指すのか(その6)

木曜日に会っていたAさんとの会話に、ある人の音のことが出た。
Bさんとしておこう。

Aさんも私もBさんの音を聴いている。
一緒にではなく、別の機会にである。

Aさんと知りあったばかりのころだったか、
AさんにBさんの音のことをきかれて、「時計の音が気になった」と答えたことがある。
もう十年くらい前の話だ。

Aさんは、その話を憶えていて、木曜日に、そのことが会話に出た。
そういえば、確かにそう話した。
話した本人も忘れかけていたことを憶い出せてくれた。

Bさんは、私が伺ったときは、別のスピーカーを鳴らされていた。
その後、(その5)で書いている世評の高いスピーカーにされている。
その音は、私は聴いていない。

私が時計が気になったのは、以前のスピーカーでのことではあるが、
おそらくスピーカーを入れ替え後であっても、同じように時計の音が気になったであろう。

時計の秒針が動く音。
規則正しくカチッ、カチッ、と動く音が、どちらかといえば苦手だ。
かすかな音であっても、何かの拍子に気になると、ひどく耳障りに感じる。

この時計の音が気になる音とそうでない音とがあるように感じている。
Bさんの音は、はっきりと、私にとっては時計の音が気になるものだった。

時計がリスニングルームにあって、秒針の音がしていても気にならないこともある。
そういう音と、秒針の音が気になる音とは、私にとっては大きな違いのある音だ。

これは「「音楽性」とは(映画性というだろうか)」で書こうとしていることにも関係してきそうだ。
つまり記録のような音と記憶のような音、
この違いが、秒針の音が気になり、気にならないにつながっていくようなきがしている。

Date: 1月 29th, 2017
Cate: High Fidelity

手本のような音を目指すのか(その5)

昨晩もまたオーディオ仲間であり友人のAさんと呑んでいた。
Aさんといっても、木曜日に会っていたAさんとは別のAさん。

昨晩はAさんの友人のIさんも一緒だった。
Iさんとは初対面だった。

17時過ぎから日付が変るころまで呑んでいた。

Iさんもまたオーディオマニアである。
話の中に、あるスピーカーのことが出た。

世評の高いスピーカーである。
ステレオサウンドでも高く評価されているし、
このブランドの新製品が出るたびに、多く取り上げられる。

勘のよい方ならば、どのブランドなのかは察しがつくであろう。
あえてブランド名は出さないが、
このスピーカー、優秀ではあるが、まったく欲しいという気が起きない。

それは私だけでなく、AさんもIさんも同じだった。
木曜日に会っていたAさんも同じだ。

二人のAさん、Iさん、私、ほぼ同じ歳である。
だからといって世代的な理由から意見が一致するのかといえば、そうではない。

同じ世代であっても、われわれ四人が欲しくないと思っているスピーカーを購入している人は、
けっこう世の中にはいる。
だからこそ世評が高いだけでもある。

ならばこの四人が、なぜこのブランドのスピーカーを拒否するのだろうか。
ひとつ思いあたるのは、血の気の多さかもしれない。

Date: 12月 4th, 2016
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(ふたつの絵から考える・その4)

造花は花弁も葉も茎も、本来の植物とはまったく異る素材によるものだ。
その造花を描いた絵も、キャンパスの上に絵具で描かれたもので、
本来の植物とはまったく異る存在といえる。

ふたつの絵がある。
どちらも造花を描いているが、
一枚はその絵をみるものに、対象が造花だとわからせる、
もう一枚はほんものの花を見て描いたとおもわせる、としたら、
どちらがHigh Fidelityなのかということについて、ここでは書いている。

絵描きの目の前にある造花を原音と捉えれば、
造花とわからせる絵がHigh Fidelityということになり、
造花もまた絵と同じで、ほんものの花そのものではないわけだから、
絵とは違う手法で描いたものと捉えれば、
本物の花を見て描いたとおもわせる絵がHigh Fidelityとなる。

絵は平面であるが、造花は立体である。
その意味では、平面の絵よりも立体の造花が、
ほんものの花に、よりHigh Fidelityということになるのだろうか。

ここではあくまでも造花を見ての絵という前提に立っている。
絵の前に造花が存在し、造花の前にほんものの花がある。

しかも造花はほんものの花と同じ大きさにつくられている。
絵は必ずしもそうではなかったりする、時には小さかったり大きかったりすることもある。

こんな堂々めぐりしそうなことを考えていると、あたりまえすぎることに気づく。
録音と再生音。
どちらも音という漢字がついているが、録音は音ではないということだ。

再生音はスピーカー、ヘッドフォンなどから発せられた音なのだから、
音である。

高音、低音も音がつく単語で、こちらも高い音、低い音ということで、音そのものである。

けれど録音は音がついている単語であっても、音そのものではない。
マイクロフォンが捉えた音(空気の振動)が、
なんらかの形で記録されたものであって、
これをプログラムソースとするからわれわれは家庭で好きな音楽を聴けるわけだが、
音そのものではない。

この、当り前すぎることを、ここでは改めて考え直している。

Date: 7月 9th, 2016
Cate: High Fidelity

手本のような音を目指すのか(その4)

マランツのModel 7のデザインは完全な左右対称ではなく、
電源スイッチ側にある四つのツマミの径は、反対側にある四つのツマミよりも小さい。

ほんのわずかだが左右対称を崩してある。
DEQXが自動補正した音から、ほんのわずかな違和感のようなものをとりのぞくには、
同じ作業が必要ということだった。

バランスを崩す、といってしまうと正確な表現ではなくなってしまうし、
間違って伝わる可能性も出てくるのだが、
感覚的には、それはほんのわずか崩す、といったものであることは確かだ。

小学校のころ、こんなことが少し流行った。
正面写真のセンターに鏡を置き、
左半分の顏だけの顏、右半分だけの顏をつくる。
どちらの顔も、写真の顏とは違ってくる。

つまり人の顔は一見左右対称のようであって、完全な左右対称ではない。
美男美女といわれる人の顔は、より左右対称である、ともいえる。
それでも完全な左右対称な顔の人はいない。

もし完全な左右対称の顏をもつ人が現れ、
しかも左右対称の表情をしたら、それをわれわれはどう感じるのだろうか。

DEQXを始め、同種の機器の自動補正のプログラムは、人間が作ったものではあるけれど、
けれどいまのところは、どこか左右対称のような自動補正をしているのではないか、
そんな気がしないでもない。

どの機器も使ったことがないので、友人の感想を聞いてそう感じているだけにすぎない。
そして思うのは、自動補正で得られた音は、完璧なバランス、
もしくは完璧なバランスに近いものなのか、ということだ。

Date: 7月 9th, 2016
Cate: High Fidelity

手本のような音を目指すのか(その3)

1981年にdbxの20/20が登場した。
10バンドのグラフィックイコライザーであり、
それまでのグラフィックイコライザーになかったマイクロフォンが付属していた。

10バンド分割イコライザー/アナライザーと呼ばれていた20/20は、
マイクロフォンでの測定が可能なだけではなく、
20/20搭載のアナライザーによる自動補正が可能だった。

20/20以降、自動補正のイコライザーがぽつぽつと登場するようになってきた。
20/20は信号処理はアナログだんだが、いまではデジタル信号処理を行うようになり、
20/20のよりも精度も高く、バンド幅も狭くなり、
より細かな自動補正が可能な機器がいくつも登場するようになった。

それらの中にDEQXがある。
現行の、この種の製品の中では早くから登場していた。
私は試したことがないが、友人がDEQXの音を聴いている。

DEQXの効果は、非常に大きいものだ、ということだった。
そうだろう、と思う。

ただDEQXの自動補正のまましばらく聴いていると、
違和感のようなものを感じはじめるようになるそうだ。

ここでことわっておくが、DEQX固有の問題ではない、と思っている。
おそらく同じことは、他の同種の機器でも起ると思われる。
DEQXの名をここで出しているのは、たまたま友人が試聴する機会を得ていたからだけだ。

友人はDEQXを高く評価している。
これもそうだろうと思う。
ただ、DEQXの音をそのままでの評価ではなく、自動補正が行われた後、
細かな微調整を施した音は、ほんとうに素晴らしいということだった。

このDEQXの話を聞きながら思っていたことがいくつかある。
そのひとつはマランツのModel 7のデザインについて、
瀬川先生(もっと以前には岩崎先生)が書かれていたことである。

Date: 5月 20th, 2016
Cate: High Fidelity

手本のような音を目指すのか(その2)

不気味の谷。
この言葉を昨年あたりからよく目にしたり、耳にしたりすることが増えたように感じている。
つい先日も、テレビドラマでの台詞に「不気味の谷」が出てきていた。

ロボット工学者の森政弘・東京工業大学名誉教授が1970年に提唱した、とある。
そんなに以前からあった言葉が、広く使われ始めているのは、
技術の進歩が「不気味の谷」に近づきつつあることを、
技術者でない人もなんとなく感じつつあるからかもしれない。

私がここで考えたいのは、
もちろんオーディオ(音)における「不気味の谷」についてである。

本項の「手本のような音を目指すのか」を思いついたときは、
不気味の谷と関連づけるつもりはなかったのが、
別項の『アンチテーゼとしての「音」』、「muscle audio Boot Camp」を書き始めて、
不気味の谷のことを意識していてのことではないか、と思い始めている。

オーディオ(音)における不気味の谷はあるはずだ。
その不気味の谷と感じる音は、
オーディオマニアとオーディオに関心を持たない人とでは違ってくるのだろうか。
同じとは、いまのところ思えない。

不気味の谷は法則であるわけだが、反論があるのは知っている。
それでもないとは断言できない、と思っている。
すくなくともオーディオ(音)に関しては。

Date: 5月 14th, 2016
Cate: High Fidelity

手本のような音を目指すのか(続・感服できる音こそ)

感心できる音、
感激できる音、
感動できる音、

それから感謝できる音、
感服できる音。

これを書きながら、
「音は人なり」なのだから、
そこでの、感心できる音、感激できる音、感動できる音、
さらには感謝できる音、感服できる音にしても、
その「音」は己ということであり、己自身に感心したり感激したり、できるというのか。

そんなことも、実は考えながら書いていた。

もちろん「音は人なり」であっても、聴くのは音楽であり、
音楽に感心したり、感動したり、ときには感謝したり、するのだから、
矛盾はないだろう、ともいえる。

でも、これはどこまでも消極的である。
そういうのなら、感心を損なわない音、感動を損なわない音……、
こんなふうに書かなければならない。

こんなことを考えながらも、あえて、
感心できる音、
感激できる音、
感動できる音、
感謝できる音、
感服できる音。
と書いたわけだ。

Date: 5月 12th, 2016
Cate: High Fidelity

手本のような音を目指すのか(感服できる音こそ)

このブログを始めたころに、こんなことを書いている。
     *
20代のころ、音の表現として、
感心できる音、
感激できる音、
感動できる音、があると思ってきた。

30代のころ、感動の先にもうひとつあると思ってきた。
40になって、気づいた。
感謝できる音、があることに。

感心と感激は、快感の域、
感動、感謝が幸福の域、と言い切る。
     *
いま思うのは、感服できる音、である。

Date: 5月 1st, 2016
Cate: High Fidelity, 再生音

ハイ・フィデリティ再考(現象であるならば……)

High Fidelity Reproductionは高忠実度再生であり、
何に対して高忠実度なのかというこで、原音に、というこで原音再生でもある。

ここでの原音の定義は人により違うこともある。
高忠実度再生とは原音に高忠実度であることを目指しているわけだが、
高忠実度再生とは原音の追求なのだろうか、それとも原音を模しているだけなのか。

そんなことを考える。
原音を高忠実度に模す──、
高忠実度再生ではない、とはいえない。

ならば……、と考える。
音楽の理想形ということを。

音楽の理想形を追求しているのか、それと模しているのか。
音楽の理想形を模すこともまた高忠実度再生といえるのではないのか。

このブログを始めたころに「再生音とは……」を書いた。
そこに「生の音(原音)は存在、再生音は現象」とした。
直感による結論であり、この結論が間違っていなければ、
再生音は現象であり、それは模すことのはずだ。

Date: 11月 24th, 2015
Cate: High Fidelity

手本のような音を目指すのか(その1)

誰なのかはあえて書かない。
オーディオの仕事をしていた人がいた。
彼はスピーカーを買おうとしていた。

彼は気に入っているスピーカーをすでに鳴らしていた。
それでも彼はスピーカーを買おうとしていた。
つまり買い足そうとしていたのだ。

彼自身の音の好みを無視してでも、
オーディオを仕事としている以上、仕事にふさわしいスピーカーを買おうとしていたわけだ。

心がけとして立派と言えるかもしれない。
彼は何にすべきか、少し迷いがあった。
彼はある人に相談した。

相談を受けた人は、オーディオの世界の大先輩である。

彼は候補を二、三あげた。
いずれも世評の高いスピーカーであった。

どれを選んだとしても、
彼の要求に応えてくれるだけの性能の高さを持っていた。

相談を受けた人は言った。
どれも仕事の音だ、と
音楽を聴いて楽しい音のスピーカーではない、と。

七、八年前の話だ。
相談をした人も受けた人も知っている。

相談をした人から直接聞いた話だ。
なぜ彼はこんな相談をしたのか。

どんな答が返ってくるのか、おそらく彼はわかっていたはずだ。
彼自身も同じように感じていたのだと私は思っている。

私もそんなことを相談されたら同じことを答えたはず。
彼が候補としたスピーカーは、確かに優秀なモノだ。ケチをつけられるようなところは、ほとんどない。

細かな点を疎かにせずひとつひとつクリアーにしていくという開発をとっていて、それが音にも結実している。

だがそれは手本のような音だ、といえるように思っている。

Date: 9月 5th, 2015
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(ふたつの絵から考える・その3)

ふたりの絵描きは、アンプにもたとえられよう。

マッキントッシュの真空管式パワーアンプ、MC3500とMC275。
このふたつのアンプのことを「五味オーディオ教室」を読んで知った。

MC3500は、 
《たっぷりと鳴る。音のすみずみまで容赦なく音を響かせている、そんな感じである。
絵で言えば、簇生する花の、花弁の一つひとつを、くっきり描いている。》
MC275は、
《必要な一つ二つは輪郭を鮮明に描くが、簇生する花は、簇生の美しさを出すためにぼかしてある、そんな具合だ。》

MC3500は、ここでの花が造花であれば、造花として忠実に描くことだろう。
《音のすみずみまで容赦なく音う響かせている》のだから。

MC275は、たとえ造花であっても《簇生の美しさを出す》、そんな鳴り方をしてくれることだろう。

このふたつのアンプは、ずいぶん前のこと。
いまのアンプの多くは、世の趨勢はMC3500の側にある。

どんな音であっても、些細な音であっても、
音のひとつひとつを大事にするのであれば、つまりおろそかにしないのが正しいのであれば、
MC3500はMC275よりも優秀なアンプということになる。

事実、優秀なアンプといえるだろうし、
そういう意味では、現代にはもっともっと優秀なアンプが存在している。

情報量が多くなることで、ときとして人は音を「聴こえる」としか感じなくなるのかもしれない。
もしくは「聴かされている」となるかもしれない。

音はきくものである。
スピーカーから出てくる「音」は、聴く対象である。
ならば「聴こえる」、「聴かされている」としか感じなくなる音は、正しいといえるのだろうか。

石井幹子氏の言葉」を読み返した。
かわさきひろこ氏の言葉」も読み返した。

Date: 7月 16th, 2015
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(差延 différance)

以前から読もうと思っていた本、ジャック・デリダの「声と現象」を手に取っている。
差延という、デリダによる造語が出てくる。

私がいま読みはじめたちくま学芸文庫の訳註には、差延について次のように書かれてある。
訳者は林好雄氏。
     *
差延(ディフェランス)「差異 différence」に対して「差延」は différance と綴られるが、フランス語の発音上は区別できない。フランス語の動詞 différer には、(異なる、同一ではない」という意味と「延期する、遅らせる」という意味があるが、その名詞である「差異 différence」には後者の意味がないことから、この両者の意味を生かすために考え出されたダリダの造語。
     *
訳註はまだまだ続くし、訳註だけを読んでも……、というわけですべては引用しない。
それに私自身、差延の意味を完全に把握していない。

それでも「差延 différance」は、ハイ・フィデリティを考えていくうえで、
とても重要なことにつながっていく予感がしている。

差異ではなく差延。

「声と現象」を読み終り、しばらく時間をおいたら、この続きを書いていきたい。