Archive for category High Fidelity

Date: 6月 24th, 2019
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(ふたつの絵から考える・その9)

マリア・カラスの歌う「清らかな女神よ」が、
マリア・カラスの自画像というのは、私の手前勝手な聴き方ゆえの結論であり、
これが正しいマリア・カラスの「清らかな女神よ」の聴き方であるとか、
そう感じないのは間違っている、などという気はさらさらない。

ただ私には、いまそう聴こえるわけで、
この歳で、そう聴こえてくるという、この結論は、将来、大きく変ることはないように思われる。

「清らかな女神よ」は、いうまでもなく、
ベルリーニのオペラ「ノルマ」のなかのアリアである。

マリア・カラスのために書かれた曲でもない。
第一、作曲の時点でマリア・カラスは生まれていない。

ベルリーニが生きていたころ、マリア・カラスがオペラ歌手として全盛を迎えていて、
ベルリーニが、そのマリア・カラスのための「ノルマ」を作曲した、
「清らかな女神よ」を書いた──、というのであれば、
マリア・カラスにとって、「清らかな女神よ」は自画像といえるのか。

でも、それは自画像というより、肖像画のような気もしなくはない。
肖像画的アリアを、マリア・カラスが歌唱によって自画像といえる域にまで持ってくるのかだろう。

「清らかな女神よ」(Casta Diva, カスタ・ディーヴァ)の録音が、
これまでどれだけなされたのかを数えたわけでもないし、すべてを聴いているわけでもない。

マリア・カラスの「清らかな女神よ」が、最高の「清らかな女神よ」なのかは、
そんなわけだから私にはいえない。

私がいいたいのは、「清らかな女神よ」が、マリア・カラスの自画像であるということだ。

黒田先生は、オペラにおいて、
マリア・カラスだけ聴いていればそれでいい、という考え方・聴き方には賛成できないが、
それでも「ノルマ」に関してだけはカラスに尽きる──、
そんなことを、三十年ほど前に書かれていた。

私がこれまで聴いてきたオペラの数は、黒田先生が聴かれてきたのとくらべると、
ほんのわずかといわれてもしかたないくらいである。

なので「ノルマ」に関してだけはカラスに尽きる──、とはいえないが、
「清らかな女神よ」に関してだけはカラスに尽きる、
そういえるのは、「清らかな女神よ」がマリア・カラスの自画像ときこえるからである。

これから先、どれだけの「清らかな女神よ」が演奏されたり、録音されていくことだろう。
そのすべてを聴くことはできない。
それでも、マリア・カラスのように歌える歌手は、もう現れないのではないか。

Date: 6月 19th, 2019
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(ふたつの絵から考える・その8)

マリア・カラスによる「清らかな女神よ」(Casta Diva, カスタ・ディーヴァ)。
マリア・カラスによる、この歌を聴くたびに、特別な何かを感じる。

マリア・カラスによる「清らかな女神よ」よりも、
シルヴィア・シャシュによる「清らかな女神よ」を先に聴いていた。

そのころ、シルヴィア・シャシュは「マリア・カラスの再来」と期待されていた。
マリア・カラスの「清らかな女神よ」を聴いたのは、一年くらい経っていただろう。

もちろん、それまでにマリア・カラスの歌は聴いていた。
「カルメン」はもちろん、その他のオペラも、すべてとはいえないが、そこそこ聴いていた。

マリア・カラスの「清らかな女神よ」は、初めて聴いた時から、特別な何かを感じていた。
マリア・カラスが特別な歌手だから、そう感じたというよりも、
マリア・カラスの歌ってきたもののなかでも、「清らかな女神よ」はひときわ特別な感じがする。

昨年12月に映画「私は、マリア・カラス」を観た。
そこでも、マリア・カラスが「清らかな女神よ」を歌うシーンがある。

この映画でも、「清らかな女神よ」は、やはり特別だな、と感じていた。
映画を観終って数ヵ月が経って、やっと気づいた。

「清らかな女神よ」(Casta Diva, カスタ・ディーヴァ)は、
マリア・カラスの自画像そのものだ、ということに、やっと気づいた。

ここに気づいて、
映画「私は、マリア・カラス」の原題、MARIA BY CALLASにも納得がいった。

Date: 6月 12th, 2019
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(ふたつの絵から考える・その7)

十数年前くらいからだろうか、
スピーカーシステムの音の精度、精確さは確実に向上してきている。

インターナショナルオーディオショウで聴くだけなのだが、
それでもYGアコースティクスののスピーカーシステムの音には、
ここ数年、感心するばかりだ。

B&Wのスピーカーシステムもそうだ、といえよう。
あくまでも聴いた範囲であって、
他にも精度の高さ、精確さをほこるスピーカーシステムはあるだろう。

とはいっても、一般には精度の高い音と高く評価されていても、
聴いてみると、この音のどこが? と思うスピーカーもないわけではない。

どこのメーカーなのかは書かないけれど、一社ではない。
インターナショナルオーディオショウ、オーディオ店で鳴っている音での印象であって、
愛情をもって鳴らしているユーザーの音を聴いての印象ではない。

でも二十年くらい前か、
知人があるメーカーのスピーカーシステムを購入した。

そのメーカーの音を、それまで一度もいいと思ったことがなかった。
ひどい音だ、と聴く度に思っていた。

なのにハイエンドユーザーのあいだでの世評は高かった。
そのスピーカーを知人が買ったわけだ。

聴きに来ませんか、という誘いがあった。
期待はしていなかったけれど、やっぱりひどかった。

知人もそう感じていたようで、すぐに売っぱらってしまった。
愛情をもって鳴らしてこそ──、というけれど、
それはあくまでもまともなスピーカーに関してであって、
そのスピーカーのように欠陥スピーカーといいたくなる場合は、例外というしかない。

どこかが間違っているとしかいいようのない音のスピーカーは、確かに存在する。
そういうスピーカーまても、精度の高い音といわれているのをみていると、
精度の高い音、精確な音とはいったいなんだろう、と、
次元の低いところで考えなくてはならないのかと思ったりもするが、
そんなスピーカーをきちんと聴き分けて除いていけば、
確かにスピーカーの音の精度、精確さは確実に向上している。

Date: 6月 12th, 2019
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(ふたつの絵から考える・その6)

二十年くらい前からだろうか、
写真と見紛わんばかりの絵を描く人が現れはじめた。

私が、そういう人を最初に見た(知った)のは、インターネットだったか。
世の中には、すごい人がいるもんだ、と感心した。

それからぽつぽつとそういう人が現れてきている。
インターネット、それもSNSを眺めていると、
そういう人の絵がタイムラインに流れてきて、
さらにはどうやって描いているのかも動画もあったりする。

写実性の技術は向上している──、といえるだろう。
と思いながらも、私はここでも五味先生が書かれてきたことを思い出す。
     *
 画家なら、セザンヌは無論のこと、ゴッホもゴーガンもあのピカソさえ、信じ難いほどの写実性で自画像を描いている。どんな名手が撮った写真よりそれはピカソその人であり、ゴッホの顔と私には見える。音楽作品にはしかし、そういう自画像は一人として思い当たらない。バルトークの師だったというヤノーシュ・ケスラーという作曲家は、優れたアダージョを書けるには音楽家は実際の経験を経ねばならぬと教えたそうで(ただし何を? おそらく恋愛、もしくはそれにともなう失望や恍惚、悲哀だろうか? それならもうぼくはずいぶん経験ずみだし、よいアダージョが書けねばならないのに)、とバルトークは二十歳ごろ母への手紙に書いている。バルトークの作品にその苦悩の生涯を彷彿するのはたやすいことだが、どれを取上げても彼の肖像は浮かんでこないだろう。ケスラーの説が当たっているなら、ベートーヴェンは体験でたしかに比類ないアダージョを作っているが、いかなる他の音楽も到達しなかったとケンプの称えるそのアダージョの幽玄の趣、崇高でけざやかな美しさにもっとも不似合いなのがベートーヴェン自身のあの(醜い)マスクの印象になる。
 いまさら言うまでもないが、音楽は聴くもので見るものではない、肖像画が声を出すか? といった反論はわかりきっているので、音楽に自画像を求めるのが元来無理なら、自画像と呼ぶにふさわしい作品をたずねてみるまでである。ブルーノ・ワルターは、『交響曲第一番』をマーラーのウェルテルと呼びたいと言っている。
 音楽家は、自分の体験を音で描写はしないものだとも言う。ワルターがこれを言った事由はわからないが、体験を描写しないで自画像を描ける道理がない。しかしたとえば『ドン・ジョバンニ』を、フロイトが『ハムレット』をそう理解したように、モーツァルトの無意識の自伝と見ることはできるだろう。
(「五味オーディオ教室」より)
     *
《セザンヌは無論のこと、ゴッホもゴーガンもあのピカソさえ、信じ難いほどの写実性で自画像を描いている。どんな名手が撮った写真よりそれはピカソその人であり、ゴッホの顔と私には見える》
とある。

ここにも写実性が出てくる。
セザンヌ、ゴッホ、ゴーガン、ピカソの自画像は、
写真を思わせるような絵ではない。

けれど《信じ難いほどの写実性》と、五味先生は表現されている。
《信じ難いほどの写実性》とは、高精度のカメラで撮影した写真のもつ写実性とは、
何が違うのか、ということは、すでに五味先生が書かれている。

《体験を描写しないで自画像を描ける道理がない》、
と書かれている。

Date: 2月 3rd, 2019
Cate: High Fidelity

原音に……(コメントを読んで・その4)

その1)で挙げている機種のいくつかは、
私がオーディオに興味を持ち始めたときに、すでに登場していた。

そういうオーディオ機器と、
登場と同時にほぼリアルタイムで聴いてきたオーディオ機器とがある。

惚れ込めるオーディオ機器との出あいが、
以前よりも減ってきているのかどうかは、このへんも考慮しなければならない。

そのうえでコメントに答えれば、惚れ込んだ、ということでは、
現在も昔も、そう変らないのではないか、と思うとともに、
こちらの年齢もあがってきていることによって、変ってきているかも……、
そんなふうにも思っている。

つまり、自分でもはっきりと答がでないのが本音である。

惚れ込んだ、ではなく、惚れたオーディオ機器ということでは、どうか。
ここでも考え込む。

惚れ込んだも惚れたも、どちらもきわめて主観的な評価である。
主観的であるだけに、こちらの変化もその評価には深く関ってくる。

それでも惚れ込んだ、惚れたオーディオ機器には、共通点がないのか、と自問する。
あるともいえるし、あまりないようにも感じている。

オーディオに関心をもち始めたときに出あい、惚れ込んだオーディオ機器は、
オーディオの世界を広さ、深さを垣間見せてくれた、ということでも、
ひときわ印象的であるのも事実だ。

もうここでは出あった順番を無視できない。
聴いた順番が違っていれば、別の機種に惚れ込んでいたかもしれない──、
そんなふうにも考えられる。

それとも、そんなことはないのか。

こんなふうに考えていくと、コメントに答えることが意外に難しいことに気づかされた。

Date: 2月 2nd, 2019
Cate: High Fidelity

原音に……(コメントを読んで・その3)

たとえばメリディアンのULTRA DAC。
こちらはLNP2とは正反対の惚れ込みかたである。

素直に惚れ込んでいるし、
多くの人にULTRA DACの音を一度聴いてもらいたい、と思っている。
聴いてもULTRA DACの良さがまったく理解できない人も少なからずいるはずだが、
それ以上に、きちんと理解できる人が多くいるはずだと思っている。
(思っているというよりも、そう信じたい)

ULTRA DACのついては昨秋からずっと書いてきている。
読んでいる方のなかには、ULTRA DACのことばかり……、と感じている人がいようが、
まだまだ書きたいことがある。

書けば書くほど、書きたいことが湧いてくるような感じすらある。
そうやって書きながら感じているのは、
瀬川先生がJBLの4343、マークレビンソンのLNP2のことを、
あれほど書かれていたのも、同じ気持だったからなのかもしれない、とおもうようになってきた。

口さがない輩は、輸入元からたんまり貰っているんだろう──、
そんなことをいう。

何もわかっていない輩でしかない。
ほんとうに惚れ込んだオーディオ機器がある。
そのことの嬉しさ。
そして、惚れ込んだオーディオ機器のことを誰かに伝えたいという気持。
そういうことがまったく理解できない輩が、いつの時代にも、どの世代にもいる。

おそらく、これまで惚れ込んだオーディオ機器がひとつもないんだろう、そういう輩は。

ただジャーマン・フィジックスのUnicornは、
ULTRA DACと同じくらいの惚れ込みだし、素直に惚れ込んでいても、
ULTRA DACほど、その良さを誰かに積極的に伝えたいという気持はあまりない。

Unicornの音を聴いたばかりのころは、確かにあった。
もうその時から十数年が経っている。

Date: 1月 31st, 2019
Cate: High Fidelity

原音に……(コメントを読んで・その2)

たとえばマークレビンソンのLNP2。
このコントロールアンプに惚れ込んでいる、という人はいまでも多くいることだろう。
私も惚れ込んでいる一人である。

けれど、私の惚れ込み方は、少しいびつともいえるし、ひねくれた惚れ込み方でもあろう。
メリディアンのULTRA DACへの惚れ込み方とは、微妙に違うといわざるをえない面を、
私自身がいちばん感じている。

そういうLNP2だから、
1970年代後半、10代前半だった私ではなく、
50をすぎた私だったら、惚れ込むことはなかったかもしれない。

あの時代、LNP2は優秀なコントロールアンプであった。
そのことは素直に認めただろうし、惚れたであろう。
でも惚れ込むまでいくとは、50すぎの私は思えないのだ。

あの時代に、10代の若造だったからこそのLNP2との出あいであり、
そこには瀬川先生という存在もあってのことだ。

別項で書いているように、一時期LNP2への関心はすっかり薄れてしまった。
なのにふたたび盛り返してきた。

LNP2が現行製品だったころに聴く機会がなく、
近ごろになって聴いた、という人もいるであろう。
それでLNP2に惚れた(惚れ込んだ)という人もきっといるだろう。

そういう人の惚れ込み方と私の惚れ込み方は、違う。
かなり違うといってよい。

そのころのマークレビンソンのML2に関しては、
LNP2よりもずっと素直に惚れ込んでいる。

Date: 1月 30th, 2019
Cate: High Fidelity

原音に……(コメントを読んで・その1)

(その4)にfacebookでコメントがあった。

惚れ込めるオーディオ機器との出あいは、
過去に較べると減ってきていると感じていますか、というものだった。

最初はfacebookのコメント欄で返事をしようと思っていた。
でも書きたいことを思っていたら、コメント欄に書くには少し長くなりそうなので、
ここでこうやって書くことにした。

オーディオ歴は40年以上になる。
惚れ込んだオーディオ機器は、いくつかある。
思いつくままにあげていけば、
JBLの4343、マークレビンソンのLNP2とML2、
EMTの930stと927Dst、トーレンスのReference、ノイマンのDST、
SUMOのThe Gold、スレッショルドの800A、
ロジャースのLS3/5AとPM510、スペンドールのBCII、QUADのESL、
フィリップスのLHH2000、SMEの3012-R Specialなどが、すぐに頭に浮ぶ。

惚れ込んだオーディオ機器ということであって、
優れたオーディオ機器、いい音を聴かせてくれたオーディオ機器ということになると、
一つ一つ挙げていくのは面倒なくらいにある。
といっても百はいかないくらいの数だ。

惚れ込んだオーディオ機器というのは、私の場合、
私が優れたオーディオ機器と判断したモノよりも、さらに優れているというわけではなかったりする。

たとえばSMEのトーンアーム。
私が惚れ込んだのは3012-Rであり、Series Vではない。
Series Vは、ほんとうに優れたトーンアームである。
その音を聴いて、驚いた。
その驚きは、いまでもはっきりと思い出せるほどだ。

欲しい、と思った。
その時使っていたプレーヤーがトーレンス101 Limitedでなければ買っていたであろう。
トーンアームはSeries Vで終着点かとも思わせた。

その後、さまざまなトーンアームが登場してきていて、
Series Vよりもずっと高価なトーンアームもいくつかある。
その中にあっても、いまでもSeries Vはもっとも優れたトーンアームだと信じている。

けれど、惚れ込んだということではSeries Vではなく、やはり3012-Rなのである。

Date: 1月 28th, 2019
Cate: High Fidelity

原音に……(その4)

別項でメリディアンのULTRA DACのことを書いている。
まだまだ書きたいことがある。
そのくらい惚れ込んでいる。

ULTRA DACと同じくらいに惚れ込んだオーディオ機器は、
ジャーマン・フィジックスのUnicornがある。
2002年のインターナショナルオーディオショウで聴いてからだ。

だから16年後にULTRA DACに出逢って、惚れ込めるオーディオ機器が一つ増えたことになるし、
その16年のあいだに、いいなぁと思うオーディオ機器はいくつかあったけれど、
惚れ込んだ、と心からいえるオーディオ機器となると、残念なことになかった。

なかっただけにULTRA DACを熱をあげている、ともいえる。

惚れ込んだオーディオ機器は、音がいいだけにとどまらない。
こちらにさまざまなことを考えさせてくれるところがある。

ULTRA DACの音もまさしくそうである。
ULTRA DACの音を聴いて、こうやって書きながら、その音を思い出すと、
この項のはじめに書いたように、
原音を目指すのではなく、原音に還ることが、
私にとってのハイ・フィデリティであることを、つよく実感できる。

とはいえ、その理由については、いまだはっきりしない。
はっきりしないからこそ、書いている。

Date: 7月 27th, 2018
Cate: High Fidelity

原音に……(その3)

ミロのヴィーナスは大理石に彫られている。
失われている腕も大理石である。

木でも金属でも、その他の材質ではないことは、はっきりしている。

「原音を目指す」と「原音に還る」。
そのことを(その1)で少しだけ書いた。

うまく考えはまとまっていないところもあが、
ミロのヴィーナスの腕が大理石であることと、
「原音を目指す」のではなく「原音に還る」ことが、私にとってのハイ・フィデリティであることは、
無関係ではない、とはっきりといえる。

Date: 5月 7th, 2018
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(ふたつの絵から考える・その5)

数日前、実に興味深い記事があった。
このセレブたち15人の写真は、実は「本物」ではない』、
リンク先の記事をぜひ読んでほしい。
読むのが面倒という人でも、そこの写真だけは見てほしい。

マダム・タッソー館の蝋人形を撮影した写真が、15枚公開されている。
黙って見せられたら、本人を撮影した写真だ、と誰もが思うであろう。

マダム・タッソー館の蝋人形の実物を見たことはない。
間近で見れば、どれほど本人に似せてつくられていても、なんらの違和感を覚えるであろうが、
そこに写真が介在することで、まず見分けがつかなくなるとは、
こちらの想像をこえていた。

この項で書いてきた造花を蝋人形に、
絵を写真に置き換えた実例が、すでにあったわけだ。

Date: 7月 30th, 2017
Cate: High Fidelity

原音に……(その2)

オーディオにおける原音とは、
ミロのヴィーナス像の両腕のようなものかもしれない。

Date: 5月 18th, 2017
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(テクニクスの広告)

現在のオーディオ雑誌に掲載されているオーディオの広告については、
あれこれ書きたいことはあるが、ここでは控えておこう。

また昔の話を書くことになるが、
1978年のテクニクスの広告。
「テクニクスカセットデッキ物語」という9ページのカラーページから成るものがあった。

この「テクニクスカセットデッキ物語」の第四章。
リモートコントロールという見出しがついている。

カセットデッキRS-M85の写真もあるが、第二章でとりあげられていて、
ここ第四章ではRP070というリモートコントロールユニットがメインである。

キャッチコピーは、こうある。
《技術が進歩すると、オーディオ機器はハイ・フィデリティになる。
 音楽に対してだけでなく、人間に対しても……。》

ボディコピーの最後には、こうある。
《この機器に込められた「技術の進歩はリスナーに対してのフィデリティに貢献する」という哲学。
 テクニクスがオーディオに心を燃やす理由が、ここにある。》

いまのテクニクスは、どうなのか、そのことに触れたいわけではない。
人間に対してのハイ・フィデリティ、
リスナーに対してのハイ・フィデリティ、
意外に見落しがちなことのように思う。

約40年前の広告を見て、考えている。

Date: 1月 31st, 2017
Cate: High Fidelity

手本のような音を目指すのか(その7)

時計の秒針の音も、生活音のひとつである。

スタジオの様に高い遮音性のリスニングルームでもないがぎり、
音楽を聴いているときに、なんらかの生活音が耳に入ることはある。

生活音にはいろいろある。
人が発する音もあれば、機械が発する音もある。

その中で、時計の秒針は規則正しく音を発している。
この「規則正しく」が、私にとっては生活音から生活雑音へと、
そんなふうに意識してしまうところがある。

もちろん常に、というわけではないが、何かの拍子にひどく気になりはじめる。
なぜなんだろう? と昔から考えている。
けれど、これといった答らしきものは見つかっていない。

それでも今回Aさんとの会話の中で、このことが出てきて、
あらためて考えている。
いま書いていることと関係しているようにも感じているからである。

そんなのは単なる偶然でしかなくて、
にも関わらず私が何らかの意味を求めてのこじつけのようなことかもしれない。
読まれている方の中には、そう思われている人もいよう。

でも私はそうは思っておらず、
時計の秒針の音と記録のような音との関係性について考えているところだ。

Date: 1月 29th, 2017
Cate: High Fidelity

手本のような音を目指すのか(その6)

木曜日に会っていたAさんとの会話に、ある人の音のことが出た。
Bさんとしておこう。

Aさんも私もBさんの音を聴いている。
一緒にではなく、別の機会にである。

Aさんと知りあったばかりのころだったか、
AさんにBさんの音のことをきかれて、「時計の音が気になった」と答えたことがある。
もう十年くらい前の話だ。

Aさんは、その話を憶えていて、木曜日に、そのことが会話に出た。
そういえば、確かにそう話した。
話した本人も忘れかけていたことを憶い出せてくれた。

Bさんは、私が伺ったときは、別のスピーカーを鳴らされていた。
その後、(その5)で書いている世評の高いスピーカーにされている。
その音は、私は聴いていない。

私が時計が気になったのは、以前のスピーカーでのことではあるが、
おそらくスピーカーを入れ替え後であっても、同じように時計の音が気になったであろう。

時計の秒針が動く音。
規則正しくカチッ、カチッ、と動く音が、どちらかといえば苦手だ。
かすかな音であっても、何かの拍子に気になると、ひどく耳障りに感じる。

この時計の音が気になる音とそうでない音とがあるように感じている。
Bさんの音は、はっきりと、私にとっては時計の音が気になるものだった。

時計がリスニングルームにあって、秒針の音がしていても気にならないこともある。
そういう音と、秒針の音が気になる音とは、私にとっては大きな違いのある音だ。

これは「「音楽性」とは(映画性というだろうか)」で書こうとしていることにも関係してきそうだ。
つまり記録のような音と記憶のような音、
この違いが、秒針の音が気になり、気にならないにつながっていくようなきがしている。