Date: 6月 12th, 2019
Cate: High Fidelity
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ハイ・フィデリティ再考(ふたつの絵から考える・その6)

二十年くらい前からだろうか、
写真と見紛わんばかりの絵を描く人が現れはじめた。

私が、そういう人を最初に見た(知った)のは、インターネットだったか。
世の中には、すごい人がいるもんだ、と感心した。

それからぽつぽつとそういう人が現れてきている。
インターネット、それもSNSを眺めていると、
そういう人の絵がタイムラインに流れてきて、
さらにはどうやって描いているのかも動画もあったりする。

写実性の技術は向上している──、といえるだろう。
と思いながらも、私はここでも五味先生が書かれてきたことを思い出す。
     *
 画家なら、セザンヌは無論のこと、ゴッホもゴーガンもあのピカソさえ、信じ難いほどの写実性で自画像を描いている。どんな名手が撮った写真よりそれはピカソその人であり、ゴッホの顔と私には見える。音楽作品にはしかし、そういう自画像は一人として思い当たらない。バルトークの師だったというヤノーシュ・ケスラーという作曲家は、優れたアダージョを書けるには音楽家は実際の経験を経ねばならぬと教えたそうで(ただし何を? おそらく恋愛、もしくはそれにともなう失望や恍惚、悲哀だろうか? それならもうぼくはずいぶん経験ずみだし、よいアダージョが書けねばならないのに)、とバルトークは二十歳ごろ母への手紙に書いている。バルトークの作品にその苦悩の生涯を彷彿するのはたやすいことだが、どれを取上げても彼の肖像は浮かんでこないだろう。ケスラーの説が当たっているなら、ベートーヴェンは体験でたしかに比類ないアダージョを作っているが、いかなる他の音楽も到達しなかったとケンプの称えるそのアダージョの幽玄の趣、崇高でけざやかな美しさにもっとも不似合いなのがベートーヴェン自身のあの(醜い)マスクの印象になる。
 いまさら言うまでもないが、音楽は聴くもので見るものではない、肖像画が声を出すか? といった反論はわかりきっているので、音楽に自画像を求めるのが元来無理なら、自画像と呼ぶにふさわしい作品をたずねてみるまでである。ブルーノ・ワルターは、『交響曲第一番』をマーラーのウェルテルと呼びたいと言っている。
 音楽家は、自分の体験を音で描写はしないものだとも言う。ワルターがこれを言った事由はわからないが、体験を描写しないで自画像を描ける道理がない。しかしたとえば『ドン・ジョバンニ』を、フロイトが『ハムレット』をそう理解したように、モーツァルトの無意識の自伝と見ることはできるだろう。
(「五味オーディオ教室」より)
     *
《セザンヌは無論のこと、ゴッホもゴーガンもあのピカソさえ、信じ難いほどの写実性で自画像を描いている。どんな名手が撮った写真よりそれはピカソその人であり、ゴッホの顔と私には見える》
とある。

ここにも写実性が出てくる。
セザンヌ、ゴッホ、ゴーガン、ピカソの自画像は、
写真を思わせるような絵ではない。

けれど《信じ難いほどの写実性》と、五味先生は表現されている。
《信じ難いほどの写実性》とは、高精度のカメラで撮影した写真のもつ写実性とは、
何が違うのか、ということは、すでに五味先生が書かれている。

《体験を描写しないで自画像を描ける道理がない》、
と書かれている。

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