続・無題(その13)
「五味オーディオ教室」を読む、
そこにある言葉を読んで行くうちに、
言葉が音に変ろうとしている、
その音が音楽に変ろうとしている。
そんな気配を感じていたのかもしれない、と、
いまごろ気づく。
「五味オーディオ教室」を読む、
そこにある言葉を読んで行くうちに、
言葉が音に変ろうとしている、
その音が音楽に変ろうとしている。
そんな気配を感じていたのかもしれない、と、
いまごろ気づく。
コイルの性質には、いくつかある。
まず挙げたいのがレンツの法則と呼ばれているもので、コイルは、電流の変化を安定化する働きをもつ。
それまで無信号状態のところに信号が流れようとすると、それを流させまいと働くし、
反対に信号が流れていて、信号がなくなる、もしくは減ろうとすると、流しつづけようとする。
この現象は、中学か高校の授業で習っているはず。
つまり定常状態を保とうと働く。
このとき何が起こっているかというと、コイルからパルスが発生している。
音楽信号はおよそ定常状態とはいえない。
つねに激しく変動している信号なのだから、
コイルからはけっこうなパルスが発生していることだろう。
このパルスは、ある種のノイズでもあり、CR方法はこのパルスに対して有効なのだろう。
いまのところ、私自身もCR方法をあれこれいろんなところで試している段階で、
スピーカーユニットにおいて、どこまで細かく値を調整してみる、ということはまだやっていない。
いまのところはコイルの直流抵抗を測ってのコイルと抵抗の値決めである。
この点である。
なぜ、コイルの直流抵抗の値をそのままコンデンサー(pF)、抵抗(Ω)の値になるのか。
これは目安だと考えているが、それにしても不思議である。
小山雅章氏によるCZ回路は発明といえばそうなのだが、
むしろ発見といったほうがいい。
発見なのだから、小山雅章氏も理論的に照明されているわけだ。
だからこそ、CR方法を試した人は、私の周りだけとはいえ、みな不思議がる。
私もその一人だ。
私が試している(実践している)のは、再生系のみだが、
CR方法はまちがいなくマイクロフォンにも効果がある(はずだ)。
ダイナミック型のマイクロフォンはもちろんだが、
コンデンサー型においても、
その電源のトランスの一次側、二次側巻線に対してだけでなく、
真空管式であれば、ヒーター用の巻線にも行える。
どこかのレーベルが、同じマイクロフォンでCR方法をしていない録音、
している録音を比較できるディスクを出してくれれば、
CR方法を試してみようと思う人も増えてくるだろう。
CR方法は確かに効果がある。
けれど、CR方法だけでオーディオの問題点がすべて解決できるわけではない。
もう十年くらい前になるだろうか、
ケーブルでオーディオの悩みの90%は解決する──、
そんなことを謳っていたウェブサイトがあった。
こういう人は、CR方法でオーディオの悩みの90%は解決する──、
とかいったりするだろうが、オーディオはそういうものではない。
それでも、ケーブルよりも安価に試せるCR方法に関心をもってほしい。
CR方法は、いったいどう作用しているのか。
誰にもわかっていない、ということしかいえない。
おそらくだが、コイルの発生するノイズに対して有効なのだろう。
ネットワークのコイル(ウーファー用)にCR方法をやってみたことがある。
以前書いているので詳細は省くが、やはり効果はあった。
スピーカーユニットに対しておこなうのと同じ方向の音の変化である。
ネットワークのコイルに効果があるのか。
それまで試してきたのはトランスにしてもボイスコイルにしても、
コイルの中心に磁性体がある。
ネットワークのコイルは空芯。
鉄芯入りならば同じように効果があると思えるのだが、空芯ではどうなのか。
結果は上に書いたように同じである。
“ECHOES”を聴いていて思い出すのは、五味先生の文章だ。
「日本のベートーヴェン」を思い出す。
*
カペーによる後期弦楽クヮルテットの復刻盤を聴いて、私がつかんだこれは絶望的な確信だ。絶望の真因を、遠くベートーヴェンの交響曲に見出したというのである。
溝の音を、針で拾うメカニズムは、ステレオもモノーラルもかわりはない。かわったのは驚異的な再生音の高忠実度だが、この進歩はかならずしも演奏(レコードによる)の進歩をもたらしたとは限らない。断っておくが、録音・再生技術が進歩したから、ヴィオラや第二ヴァイオリンの質的低下が鮮明に聴き分けられるというのではない。そんなことはない。むしろ分業的に——音の分離が良くなった賜物で——かえって巧みにすらきこえる。そのくせ、ちっともおもしろくないのは、ジュリアードやプダペスト弦楽四重奏団をステレオで聴いていて気がついたが、緩徐楽章のせいである。アダージョが聴えてこないのだ。
ベートーヴェンの音楽を支えているのは、言うまでもなくアダージョであり、重要なアレグロ楽章においてさえ、その大多数は、よりふかい意味でアダージョの性格に属する基本旋律によっている。これは少しベートーヴェンを聴き込めばわかることである。ところで、もっとも純粋なアダージョとはいかなるものか。しろうと考えだが、その基底をなすものは持続音に違いない。したがって真のアダージョなら、いかにテンポを緩やかにとっても緩やかすぎることはない。音の弛緩が恍惚に変ったのが、アダージョだろう。モーツァルトの場合、アレグロはいかに早く演奏しても早すぎることがないと同様に、ベートーヴェンでアダージョが遅すぎたら、そいつは、下手な演奏にきまっている。ステレオからアダージョが聴えて来なくなったというのは、こういう意味である。
では、こんなことになった理由は、どこにあるか。弦のひびきの違いにある。わかり易く言えば、レコードが再現してくれる弦と管の音の違いによる。
弦楽四重奏曲に管の音がする道理はむろんないが、本当の弦の音を、昔のレコードで聴いたと言える人はいないだろう。むかしは、どうかすればヴァイオリンの高音はラッパかピッコロにきこえたものだ。あの竹針というやつをサウンド・ボックスに付けて鳴らせば、少なくとも松脂がとぶ(弓で弦をこする)生々しい擦音はきこえない。ところでピッコロは、すぐれた奏者の口にかかれば朗々たる余韻を湛えて鳴るが、いつか呼吸がきれてしまう。かならず休止がくる。これに反してヴァイオリンやヴィオラは、弓の端から端まで、弓の上げ下げによって或る旋律を、途切れることなく鳴らしつづけることはできる。
このことから、これはワグナーが言っていることだが、旋律のテンポをゆるやかにとるべきアダージョは、本来管楽器のものなのである。ところが、オーケストラの実際において、均等な強さで音を持続させるのが管楽器では呼吸的に困難のため、作曲者はその代役を弦楽器にさせた。結果、滑稽にも弦楽器奏者たちはわがドイツでは管楽器への均衡をはかって、半強音以外の演奏ができなくなったとワグナーは言う。したがって真のフォルテも、真のピアノも、ドイツのオーケストラは出せなくなったと。
ステレオとモノの弦楽四重奏曲を聴き比べて私の合点したのはここのところである。独断かも知れないが、オーケストラを聴いているわれわれの耳のほうも、いつの間にかドイツのオーケストラに似た過ちを犯してきたのではあるまいか。アダージョがフォルテが鳴らされるためしはない。したがって、それは弦においては嫋々たる旋律につづられる。ところが弱音の持続となれば、弦は管楽器の反響にかなわない。あまたの作曲家のアダージョを聴き慣れたわれわれの耳が、そこで、アダージョになると無意識に管の音をなつかしむ。つまり弦楽四重奏曲においては、ベートーヴェンの場合は特に、再生音の忠実でない弦音のほうにアダージョを聴くのである。
むかしの、と言っても昭和初期にサウンド・ボックスで拾った弦音を聴き込んだ音楽愛好家ほど、クヮルテットに限っては往年の演奏のほうが良かったと口を揃えて言っているのも、あながち、演奏のためばかりではないことがわかる。今の若者たちには見当もつくまいが、われわれはサウンド・ボックスでベートーヴェンの弦楽クヮルテットを聴いた。聴きふけったのである。
*
“ECHOES”を聴いていると、
まずサクソフォンが木管楽器だということを思い出す。
そのことを思い出したからこそ、「日本のベートーヴェン」のことを思い出した。
思い出しただけではない。
最近考えていることにも関係している。
オーディオマニアは、美を守っていくべき、ということに、だ。
“ECHOES”。
TIDALで知った一枚だ(一枚といっていいのかと思うけれど、つい一枚と書いてしまう)。
シグナム・サクソフォン四重奏団(Signum Saxophone Quartet)も、
今日はじめて知った。
サクソフォンによる四重奏。
ちょっとだけキワモノ的かな、と思ってしまった。
収録曲をながめていたら、
フォーレのレクィエムの第四曲 ピエ・イェズ(Pie Jesu)があった。
興味半分だった。
それで聴き始めたら、最後まで聴いてしまっただけでなく、
もう一度聴いていた。
それから“ECHOES”を一曲目から聴いていた。
なぜだかTIDALでは全曲の再生ができなかったけれど、いいアルバムだ。
サクソフォンの四重奏が、こんなにも心に沁みてくるとは予想してなかった。
OTOTENの中止が発表になった。
中止は予想されていたことだから、驚きはない。
昨年は、中止の発表がなされたのは、4月13日だった。
今回の決定は早かった。
そのことがちょっと驚きといえばそうだった。
二年続けての中止。
出展社のなかには、これを機に出展そのものを考え直すところがあってもおかしくない。
オーディオショウに出展することのメリットとデメリット。
これまではあまり深く考えてはいなかった出展社もあったのではないだろうか。
コロナ禍前といまとでは、曖昧にしたままではいけないと考えているところがある、と思う。
そういう会社が出てきたときに、日本オーディオ協会はどう対応するのだろうか。
クリストフ・エッシェンバッハが「バイエル」を録音したことは知っていた。
知っていたけれど、買いはしなかった。
買っていないから、聴いてもいなかった。
エッシェンバッハは、「バイエル」だけでなく、「ブルグミュラー」、「ツェルニー」を録音している。
どれも聴いてこなかった。
TIDALで、エッシェンバッハのこのシリーズ(Piano Lessons)のすべてが聴けるようになった。
まだすべては聴いていない。
「バイエル」のいくつかと「ツェルニー」のいくつかを聴いただけである。
聴いていて、黒田先生の文章を思い出した。
*
周囲の人たちにどう思われたか、などということは、さしあたって、どうでもいい。できることであれば、父か母に、「よくやったね」、といわれたかった、と思うことが、この歳になってもまだ、ときおりある。別に誰かにほめられたくてしたわけではなかった。しかし、ぼくはぼくなりに、ほんのすこし頑張った。そこで、もし、「よくやったね」のひとことがきければ、「いやあ、それほどのことでもないけれどね」などといいつつ、一応は苦笑いで照れ臭さを誤魔化し、そのために味わった辛さもなにもかも吹き飛ばすことができる。
親孝行といえるほどのこともできないうちに、父も母も他界してしまった。今となっては、「よくやったね」のひとことは、いかに頑張っても、きけない。やはり、ちょっと寂しい。残念である。くやしい気もする。叱れる人にほめられたときが一番嬉しいということに、生まれながらの呑気者は、両親を失って初めて気づいた。
しかし、彼のことを考えた途端に、そんな感傷もたちどころに消えた。少なくともぼくは、これといった親孝行はできなかったものの、ほとぼとのところまでは自分の成長を親に見てもらえた。そのうえ、甘えたことを考え、愚痴をいったりしたら、罰があたる。
*
もっとながく引用したい、
すべてを書き写しておきたくなる。
「彼」は、クリストフ・エッシェンバッハのことである。
エッシェンバッハは第二次世界大戦で両親を失っている。
戦争孤児である。
そのエッシェンバッハが「バイエル」、「ツェルニー」などを録音している、
そのことについて黒田先生が書かれた文章は、思い出した。
黒田先生のエッシェンバッハについての文章は、こう結ばれている。
*
幼い頃に両親をなくしたエッシェンバッハは、「バイエル」や「ブルグミュラー」、それに「ツェルニー」とか「ソナチネ・アルバム」をレコーディングすることによって、彼がききたくともきけなかった、「よくやったね」のひとことを、小さなピアニストたちに伝えたかったのである。おそらく、このレコードは、あちこちの家庭で、ピアノを習い始めたばかりの子供たちによって、手本としてきかれているはずであるが、彼らが、もし、ピアノの響きにそっとこめられているエッシェンバッハの思いを感じとったら、「よくやったね」のひとことをきかずに育ったエッシェンバッハの寂しさをも理解するのかもしれない。
*
エッシェンバッハのこれらの録音がTIDALで聴ける。
素晴らしいことだ。
続きを書くつもりは全くなかった。
コメントがあった。
そこには「焚き火効果」とあった。
この場合の焚き火効果は、
アナログディスクのパチパチというスクラッチノイズが焚き火を連想させる、ということのようだ。
焚き火を連想するから、心が温かくなるのか。
朝日新聞の記事で紹介されている永井公さんは16歳である。
焚き火をしたことはないのかもしれない。
私の世代、しかも田舎育ちだと焚き火はよくやっていた。
家の庭でもやっていたし、学校の中庭でもやった記憶がある。
それこそ焚き火の中にサツマイモをくべて焼き芋にしたことも何度かある。
日常的であった焚き火も、私が高校生になったころには、
火事と間違えられるということもあって、やらなくなっていったし、周りもそうだった。
東京に住むようになって、今年の春でちょうど四十年になるが、
東京で焚き火をしたことは一度もない。
16歳の高校生、横浜市に住んでいる若者は焚き火をやったことがあるのだろうか。
こんなことを書いているのは、彼のなかにある焚き火のイメージは、
実際の焚き火によってつくられたものではなく、
マンガでの焚き火のパチパチと表現される効果音や、
テレビドラマやアニメーションでの効果音などによって形成されたのではないのか。
私も焚き火を最後にやったのはそうとうに昔のことだ。
しかも日常的なことだけに記憶に強く残っているわけでもない。
そんな私は、アナログディスクのスクラッチノイズのパチパチによって、
焚き火を連想することはない。
朝日新聞の記事に登場する高校生が、心が温かくなるのは、
焚き火効果によるものかどうかは、記事だけでは判断できない。
それでも、パチパチという音で、とあるくらいなのだから、焚き火効果なのだろう。
そうだとして、そのアナログディスクにおさめられている音楽、音が、
温かさとは無縁のものであっても、パチパチという音で心が温かくなるのか。
仮にそうだとしたら、音への感受性はそうとうに違うところがあるように思える。
少なくとも私とは、はっきりと違うわけだ。
(その8)で、クラングフィルムのオイローパジュニアの励磁用のコイルに、
CR方法をやったら、どうなるのか、と書いたばかりだ。
励磁型スピーカーを持っていればすぐにでも試しているところだが、
持っていないし、周りのオーディオマニアにも持っている人はいない。
でも、(その8)を読まれたからなのか、さっそく試された方からのメールがあった。
オイローパジュニアにCR方法を試された方からだった。
実験として、手持ちのコンデンサーと抵抗で、
片チャンネルのみ励磁用のコイルにやってみた、とのことだった。
良い結果が得られた、とあった。
そうか、やっぱり励磁用のコイルでも効果はあるのか、と、
予想通りの結果にはなっているものの、
なぜそのように変化するのかは、わかっているようでわかっていないところがある。
片チャンネルだけなので、
さっそく海神無線にDALEの無誘導巻線抵抗とディップマイカコンデンサーを、
両チャンネル分注文した、とも書いてあった。
「レコード・オーディオの革命」には「オーディオ以外でのCZ」がある。
そこには、テレビやFM放送のアンテナ、螢光灯、イヤフォン、モーターなどが挙げられている。
「レコード・オーディオの革命」、24ページの図で重要なのは、
Z1とZ2の極性である。
Z2とZ1に対して逆相になるように接続してある。
どういう理由になるものなのか、
なぜか本文中に記述は見当たらない。
図をみて、気づく人だけわかればいい、ということなのだろうか。
これに気づくと、小山式CZ回路(1)をいつかは試してみたい、と思うようになる。
この図はfacebookで公開している。
肝心のCR方法が、どう作用しているのか。
なぜ、これほど音が変るのかに関しては「レコード・オーディオの革命」を読んでもはっきりとはしない。
「レコード・オーディオの革命」には「CZの説明」という章がある。
少し長くなるが引用しておく。
*
私たちが使用している電磁器は磁気とコイルで出来ています。マイクロフォン・テレコ用ヘッド・トランス・カッターヘッド等の録音系、カートリッジ・スピーカー等の再生系、すべてが電磁器です。
この電磁器の共通の欠点を探しました。答は過渡現象による歪みでした。
私の持っている本の中に、電機大出版局発行の大熊栄作先生の『交流回路と過渡現象』という本があります。その中にわかりやすい文章で過渡現象について解説されていますので転載させていただきます。
「回路に流れる電流,あるいは電圧が時間に対して常に同じ状態の変化をくり返し、回路では一定時間に一定の電力を消費する場合について学んできた。このような状態を定常状態という。
これに対して、LやCを含む回路では、スイッチの開閉、あるいは回路状態に移るときに、磁気あるいは静電エネルギーの変化を妨げる逆起電力を生じ、電流や電圧は瞬時に定常状態に変化することができず、定常値に落ちつくまである時間を要する。
この定常値に落ちつくまでの状態を過渡状態といい、この現象を過渡現象という。
この過渡現象のうち、R−LあるいはR−C回路では磁気的あるいとは静電的エネルギーの一種類だけが回路に出入することによって生ずるので、これを単エネルギー回路の過渡現象という。これに対してR−L−C回路では、磁気および静電エネルギーが重なって出入することによって生ずるので、これを複エネルギー回路の過渡現象という。」
*
小山雅章氏によれば、小山式CZ回路は、《この過渡現象の解決方法と信じます》とある。
つまり小山雅章氏自身も、小山式CZ回路による音の変化に関しては、
はっきりと理論立てて説明されているわけではない。
そうだと思う。
何にどう作用しているのか。
はっきりとしたことは何もいえない。
「レコード・オーディオの革命」を読むと、
私がCR方法と呼んでいるのは、小山式CZ回路の(3)にあたる。
「レコード・オーディオの革命」の24ページに図がある。
Z1がある。
これがスピーカーユニットだったり、カートリッジだったり、テープヘッドだったりする。
このZ1にZ2とコンデンサーを直列にした回路を並列に接続したのが、
小山式CZ回路(1)である。
この小山式CZ回路(1)でのZ2とは、Z1と同じモノということになる。
つまりスピーカーユニットの場合、
ユニットを二つ用意して、一つは音を鳴らすスピーカーとして、
もう一つのユニットは小山式CZ回路(1)のZ2として使う。
そんな使い方をすればZ2のユニットからも音が出るのでは──、と思われるだろうが、
数pFのコンデンサーが直列になっているため、実際には鳴らないといっていいレベルだろう。
実際に小山式CZ回路(1)をやるのであれば、
二つ目のユニットからボイスコイルを取り出して、Z2を使うということなのだろう。
つまり小山式CZ回路(1)とはZ1=Z2どなる。
小山式CZ回路(2)は、Z2にZ1に近い特性のモノを使うということだ。
Z1≒Z2となる。
実際には、Z1のインダクタンスを測って、同じか近い値のコイルを使うことになるはずだ。
小山式CZ回路(3)は、Z2を用意するの大変だから、Z2を抵抗で置き換える。
私がCR方法と呼んでいるのは、小山式CZ回路(3)のことである。
「レコード・オーディオの革命」によれば、
Z1のインピーダンス特性が直線である場合に、効果大とある。
となるとスピーカーユニットの場合、効果大にはならない理屈になるが、
実際に試してみると効果大である。
ただし私は小山式CZ回路(1)と小山式CZ回路(2)は試していなので、
これらと比較すると小山式CZ回路(3)は効果小なのかもしれないが、
実用性でいえば小山式CZ回路(3)しかないといっていい。
(その1)で、メリディアンの扱いはどうなるのか、と書いた。
私はオンキョーのオーディオ機器への思い入れは、ほとんどない。
それでもオンキヨーという会社が気になるのは、
e-onkyoとメリディアンのことがあるからだ。
昨晩遅くに、オンキヨーのウェブサイトを見ていた。
取り扱い海外ブランドのところに、クリプシュの名はあるけれど、メリディアンの名はない。
メリディアンの本国のウェブサイトをみると、
昨日現在、日本の取り扱いはオンキヨーになっている。
どうなるのだろうか。
オンキヨーはメリディアンの取り扱いを、結局やらないままやめてしまうのか。
だとしたら、今後はどうなるのか。
新しい輸入元に移るのか、
それともオンキヨーの前にやっていたハイレス・ミュージックに戻るのか。
最悪なのは、どこも扱わなくなることである。
十日前の(その6)にkmさんという方からコメントがあった。
私がCR方法と呼んでいるのは、小山式CZ回路ではないかという指摘だった。
そこには本も出ていた、とあった。
さっそく調べてみたら、小山雅章氏の「レコード・オーディオの革命」が見つかった。
小山式CZ回路だから、おそらくこの本のことだろう、と注文した。
1984年に出た本で、すでに絶版。
私はamazonで480円で購入できた。
今日帰宅したら届いていた。
私がCR方法と呼んでいる、この手法は、以前別項で書いているように、
1970年代の後半、電波科学で読んだ出原眞澄氏(記憶違いでなければ)のコラムで知った。
そこに小山式CZ回路とあったのどうかは記憶にない。
出原氏は以前からある、というふうに書かれていたから、
小山式CZ回路のことなのだろう。
国会図書館に行き、電波科学のバックナンバーをたどっていけば、
詳細がはっきりするけれど、
「レコード・オーディオの革命」を読んでいえるのは、
私がCR方法と呼んでいる手法の活用例のほとんどは、小山雅章氏も試されていたことだ。
ずいぶん前に読んでいたことなのだが、正しく理解していたことが、
「レコード・オーディオの革命」を読んではっきりした。
そして「レコード・オーディオの革命」には、
電磁歪を除くCZ回路とある。
ステレオサウンドの新製品紹介の記事が大きく変ったのは56号からだ。
カラーページが使われるようにもなり、
カラーページには「Best Products 話題の新製品を徹底解剖する」、
モノクロページには「Pick Up 注目の新製品ピックアップ」とそれぞれタイトルがつけられている。
「Best Products 話題の新製品を徹底解剖する」の扉には、こう書いてあった。
*
あたらしい、すぐれた製品との出会いは、私たちにとって、いつもドラマティックな体験です。心おどろせ、胸はずませて、あたらしい出会いを待ち受け、そして迎えるさまは、とうていマニアでない人びとには理解してもらえないでしょう。
そのマニアの中のマニアともいうべき、本誌筆者の方々に、毎号いちばんあたらしい、いちばん感動的な出会いについて書いていただこうというのが、このあたらしいページです。
やがて月日が経つとともに、それぞれの方々の出会いの歓びの鮮度は色あせていくかもしれません。あるいは、使いこんでいくうちに、日ましにその製品がもたらす歓びは色濃くなっていくかもしれません。
でも、それぞれ筆者自身にとっての、いまの真実は、ここに記されているとおりです。
*
新製品にふれるということは、確かにそういうことだ。
このころと違って、いまは実物にふれる前に、
インターネットで新製品情報を知ることができるようになった。
それぞれのオーディオメーカーのウェブサイトにて新製品の情報が公開される。
海外メーカーの新製品の場合、いつ日本に入ってくるのか、
どんな音がするのか、とあれこれ想像する。
楽しい時間である。
けれど、マッキントッシュのMCD85やMHA200の写真を眺めると、
マッキントッシュという老舗オーディオメーカーの衰退(終焉)の始まりを、
もしかすると見ているのではないか、という気もしてくる。
インターネット普及以前、
海外のオーディオ情報がいまのように誰もが知ることができなかった時代は、
輸入元の判断で日本に輸入されない機種があった。
そのメーカーのブランドイメージを損うという判断からなのが大半だった。
いまはそういう時代ではない。
そういう時代に、マッキントッシュはMCD85やMHA200のようなデザインを出してきた。
なぜ? とおもう。
どの世代にも、自称オーディオに詳しい、という人はいる。
だから「誰かオーディオに詳しい人、知らない?」と周りにきけば、
「オレ、詳しいよ」という人がいたり、
「○○さんは詳しかったはず」となったりするであろう。
そういう人に相談したとして、答が得られるのだろうか。
たとえばアンプを買いたい、と相談したとしよう。
自称オーディオに詳しい人は、自分が買うんだったら、と判断しがちのところがある。
自分で欲しくないモノを人にすすめることはできない──、
それは確かにそうなのだが、自分の好きなモノ、使いたいモノだけをすすめて、
相談している人にとって、いい結果となるのだろうか。
自称オーディオに詳しい人と相談している人の違いがあるにもかかわらず、
このアンプがいいよ、と、海外製の個性的なアンプをすすめたりする例を、
いくつか知っている。
そのアンプをすすめたくなる気持はわからないでもない。
でも、そのアンプを使う人がどういう人なのかを、ほんとうに考えての推薦機種なのか。
故障した場合のことを考えての機種なのか、と思うことがけっこうあった。
アンプを複数台持っている人にすすめるのであれば、そういうアンプでもかまわないことがある。
そのアンプが故障したとしても、代用のアンプがあるのだから。
しかし、相談している人は、これからアンプを買おうとしている。
ほかのアンプなんて持っていない。
そういう人に海外製のアンプをすすめることは、私はよほどのことがないかぎりしない。
故障した際のアフターサービスの体制の違いが、
国産アンプと海外アンプでは、やはりあるからだ。
海外製のアフターサービスのすべてが国産のそれよりも劣っているわけでなはい。
それでも時間がかかることが多いケースを知っているからだ。
それに輸入元がなくなってしまったらどうするのか。