Piano Lessons(その1)
クリストフ・エッシェンバッハが「バイエル」を録音したことは知っていた。
知っていたけれど、買いはしなかった。
買っていないから、聴いてもいなかった。
エッシェンバッハは、「バイエル」だけでなく、「ブルグミュラー」、「ツェルニー」を録音している。
どれも聴いてこなかった。
TIDALで、エッシェンバッハのこのシリーズ(Piano Lessons)のすべてが聴けるようになった。
まだすべては聴いていない。
「バイエル」のいくつかと「ツェルニー」のいくつかを聴いただけである。
聴いていて、黒田先生の文章を思い出した。
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周囲の人たちにどう思われたか、などということは、さしあたって、どうでもいい。できることであれば、父か母に、「よくやったね」、といわれたかった、と思うことが、この歳になってもまだ、ときおりある。別に誰かにほめられたくてしたわけではなかった。しかし、ぼくはぼくなりに、ほんのすこし頑張った。そこで、もし、「よくやったね」のひとことがきければ、「いやあ、それほどのことでもないけれどね」などといいつつ、一応は苦笑いで照れ臭さを誤魔化し、そのために味わった辛さもなにもかも吹き飛ばすことができる。
親孝行といえるほどのこともできないうちに、父も母も他界してしまった。今となっては、「よくやったね」のひとことは、いかに頑張っても、きけない。やはり、ちょっと寂しい。残念である。くやしい気もする。叱れる人にほめられたときが一番嬉しいということに、生まれながらの呑気者は、両親を失って初めて気づいた。
しかし、彼のことを考えた途端に、そんな感傷もたちどころに消えた。少なくともぼくは、これといった親孝行はできなかったものの、ほとぼとのところまでは自分の成長を親に見てもらえた。そのうえ、甘えたことを考え、愚痴をいったりしたら、罰があたる。
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もっとながく引用したい、
すべてを書き写しておきたくなる。
「彼」は、クリストフ・エッシェンバッハのことである。
エッシェンバッハは第二次世界大戦で両親を失っている。
戦争孤児である。
そのエッシェンバッハが「バイエル」、「ツェルニー」などを録音している、
そのことについて黒田先生が書かれた文章は、思い出した。
黒田先生のエッシェンバッハについての文章は、こう結ばれている。
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幼い頃に両親をなくしたエッシェンバッハは、「バイエル」や「ブルグミュラー」、それに「ツェルニー」とか「ソナチネ・アルバム」をレコーディングすることによって、彼がききたくともきけなかった、「よくやったね」のひとことを、小さなピアニストたちに伝えたかったのである。おそらく、このレコードは、あちこちの家庭で、ピアノを習い始めたばかりの子供たちによって、手本としてきかれているはずであるが、彼らが、もし、ピアノの響きにそっとこめられているエッシェンバッハの思いを感じとったら、「よくやったね」のひとことをきかずに育ったエッシェンバッハの寂しさをも理解するのかもしれない。
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エッシェンバッハのこれらの録音がTIDALで聴ける。
素晴らしいことだ。