オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる(その6)
《オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる》
思いつめた表情のときもあっただろうが、遠いまなざしの表情へなっていったろうか。
《オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる》
思いつめた表情のときもあっただろうが、遠いまなざしの表情へなっていったろうか。
(その4)への友人からのコメントがfacebookにあり、
またダイレクトメッセージでも届いた。
ビートルズ(The Beatles)ではじまり……でおわる。
Sさんは、The BeatlesではじまりLed Zeppelinでおわる、と。
OさんはThe BeatlesではじまりFrank Zappaでおわる、と。
おもしろい。
この思考は、人によって違ってくるはず。
私はたまたまパッと思い浮かんだビートルズを最初にもってきただけであって、
人によっては、いやビートルズではなくて……、だったりするだろう。
はじまりもおわりも人によって違ってくるし、
はじまりが同じでもおわりは違う(その逆もある)。
五味先生は
《しばらくして群小音楽に超越したモーツァルトにめぐり会う。ほぼこれが(モーツァルトが)カタログの中央に位置するピーク》
とも書かれている。
ロック・ポップスで、モーツァルトの位置にいるのは誰なんだろうか。
何もMにこだわることはないわけだが、ロック・ポップスにあまり明るくない私は、
マイケル・ジャクソンが浮ぶ。
レッド・ツェッペリン、フランク・ザッパはラストネームがZなのに、
マイケル・ジャクソンはファーストネームがMである。
でもいいじゃないか。マイケル・ジャクソンは、マイケルで通用しているし、
父親との関係において、モーツァルトとマイケル・ジャクソンは、
共通するところがないわけでもない(そんなふうに感じている)。
ここで、ではジャズでは、と考える。
ここではMが最初に浮ぶ。
中央に位置するピークは、マイルス・デイヴィスではないのか。
はじまりは、チャーリー・パーカーが浮ぶ。
彼もまたBだ。バード(Bird)だから。
英断とは、思いきりよく物事をきめること、すぐれた決断、
と大辞林にはある。
今回の、ステレオサウンドの染谷一編集長の謝罪は、
だからまったく英断とは言えない。
それでも……、と思うことがある。
今回の謝罪の件を書き始めてすぐに友人から電話があった。
そこで話したことなのだが、
染谷一編集長は、あえて謝罪をしたうえで、
avcat氏にツイートしてもらうようにしたのかもしれない。
そうすることで私のような者が、そのことについて何かを書く。
今回の謝罪の件が、それによってさらに拡がり、ステレオサウンドを廃刊の一歩手前まで堕とす。
オーディオ業界からも、読者からも、筆者からもソッポを向かれる。
そして、これかもっとも重要なことだが、ステレオサウンド内の広告営業部も見向きもしなくなる。
そういう状況を自らつくりだすことで、
ステレオサウンドを根底から生れ変らせよう──、
そういう戦略があってことだったら、それは英断といいたい。
創刊から50年。
想像で書くことだが、さまざまなしがらみでがんじがらめになっていて、
ステレオサウンドを変えていこうとしても、それは表面的なところでの変化に留まってしまう。
本質的なところで、根幹から変える必要があると感じていても、
無理なのかもしれない。
ならばどうするか。
もう徹底的にダメにしてしまうのも手のひとつと、私は考える。
それでavcat氏に協力を請い、ああいうツイートをしてもらう。
そしてアナログオーディオフェアという、多くの人があつまる場所で謝罪する。
そのうえでavcat氏に、謝罪の件もツイートしてもらう。
だとしたら立派な策略だ。
(その2)で書いたこと。
聖書とシェイクスピア全集。
レコード(ディスク)で、この二つに相当するものはあるだろうか。
ロック・ポップスを中心に聴く人たちにとっては、
ビートルズとあとひとつ何かなのだろうか。
あまり考えなしに書いてしまった。
今朝(その3)を書いて気づいた。
ビートルズもまたBからはじまる。
クラシックのバッハと同じである。
ならばクラシックはワーグナーのWで、一応おわる。
ロック・ポップスも、ここもまた同じなのか。
Wのあとにもアルファベットは、XYZと続くから、Wに限らなくてもいい。
《バッハではじまりワグナーでおわる》のように、
ビートルズではじまり……でおわる、となるのか。
だとしたら、何が来るのか。
(その29)へのコメントがfacebookであった。
(その29)の冒頭「ステレオサウンドの染谷一編集長のavcat氏への謝罪は英断ではないか」、
最後の「avcat氏のツイートは筋が通っている」のコメントの方からだった。
(その29)への、皮肉を込めたコメントであった。
くり返し読んでも、私はそのコメントには納得できない。
それはそれでいい。
コメントの方も、私の書いているものに納得されていないようだから。
文章の読み方というか、受けとめ方は、あらためていうまでもないことだが、
人それぞれだ。
どんなに言葉を尽くしても、「えっ、そんなふうに受けとるの?」と思うこともあるし、
言葉を省略した文章であっても、こちらの意図を読み取ってくれる人もいる。
さらには(まれではあっても)、こちらの意図以上のものを読みとってくれる人もいる。
これもある種の誤読なのかもしれないが、
そういう人のコメントには、大いに刺戟されるし、意欲もわいてくる。
私の文章だけが誤読されているのではない。
五味先生の書かれたものだって、誤読している人を少なからず知っている。
もう、そういう世の中なのだ、と諦観している。
それでも書いている。
書かなければならないと、私がひとり感じていることを優先して書くようにつとめている。
この項で書いていることを、ステレオサウンドの染谷一編集長のavcat氏への謝罪行為を、
ひたすらくり返す非難することに対して、別の見方もあり得る、ということでの、
「ステレオサウンドの染谷一編集長のavcat氏への謝罪は英断ではないか」だったそうだ。
これを読んでも、別の見方をしても、英断では、絶対にない。
絶対にやってはいけないことを、染谷一編集長はやってしまった。
このことをコメントの方に納得してもらう気も、私にはまったくない。
英断だと思われるならば、それでいい。
それだけのことだ。
「avcat氏のツイートは筋が通っている」のコメントも、
avcat氏のあるツイートに関してものであって、
どのツイートかの指摘は、先のコメントにはなかったものだから、
私はavcat氏の一連のツイートに対して、筋が通っている、と受けとった。
ここでも、私は、その特定のツイートのほうが、筋が通っていない、と思う人間だ。
(その30)以降で、一連のツイートに関係してくことを書く。
ただし、これは先のコメントで私が感じたことを書いていく。
正直、後出しじゃんけんのようなコメントに感じた。
こう書くと、そんなつもりはない、あなたが勝手にそう解釈しただけ、
といわれるだろうが、そういう人はそういう人だ、と思うしかない。
そして、この項はまだまだ続く。
どんなに書いたところで、染谷一編集長は、なんとも感じてないのかもしれないし、
これから先、ステレオサウンドがよくなっていくとも思えない。
それでも書いていく。
facebookへのコメントで、
YGアコースティクスは優秀な製品であって、
柳沢功力氏の試聴記が不適切であるならば、
ステレオサウンドの染谷一編集長のavcat氏への謝罪は英断ではないか、と。
YGアコースティクスのスピーカーを、
私はインターナショナルオーディオショウでしか聴いていない。
その精度の高い音に感心するし、なるほど優秀な製品ではある。
YGアコースティクスのスピーカーを、だから欲しいかと問われれば、
欲しい、とは一度も思ったことはない。
Hailey 1.2を買えるだけの余裕があるならば、私は別のブランドのスピーカーを選ぶ。
よくオーディオの世界では、個人の好みではなく、高忠実性を重視すべきだ、という意見がきかれる。
わからないわけではないし、エンジニア側であれば、それはもっともな理屈である。
けれど、そのもっともな理屈を、オーディオマニア側に求める、
というよりも、中には押しつけているのではないか、と感じさせる人もいる。
これもずっと以前からさんざんいわれていることだが、
われわれオーディオマニアが聴くのは、なにも最新録音、優秀録音ばかりではない。
そういう録音を、その録音がなされたときと同じ音量での再生が可能であり、
常にそういう再生を求めている人ならば、いわゆる忠実性を重視したスピーカーを選択するのもわかる。
けれどわれわれが聴くのは、そういった録音ではない。
むしろ、そういう録音を聴くことはキャリアを重ねるとともに減ってくるのではないか。
古い録音も聴く。
優秀録音とはお世辞にもいえない録音も聴く。
音量も、大きな音を出せる環境にいても、好む音量は別である。
──こんなことは昔、よくいわれてきた。
それが家庭で音楽を聴く、という行為である。
facebookのコメントでは、avcat氏のツイートは筋が通っている、とあった。
それは否定しない。
でも筋が通っている、ということは、どういうことなのか。
「無人島に……」という質問では、イギリスでは持っていく本に限っては、
聖書とシェイクスピア全集は除外される。
つまりこのふたつは必ず持っていくものの中に最初から含まれている。
それ以外、何を持っていくのかが問われている。
クラシック音楽好きにとっての、聖書とシェイクスピア全集にあたる音楽作品。
(その2)で、マタイ受難曲か、と書いた。
マタイ受難曲を聖書とすれば、シェイクスピア全集はワーグナー楽劇すべて、となるのか。
そこまでいかなくとも「ニーベルングの指環」、
それから「パルジファル」、「トリスタンとイゾルデ」は加えておきたい。
マタイ受難曲とワーグナーの楽劇。
マタイ受難曲はバッハである。
そこで思い出すのが、五味先生の「シュワンのカタログ」である。
*
シュワン(Schwan)のカタログというのは大変よくできていて、音楽は、常にバッハにはじまることを私達に示す。ベートーヴェンがバッハに先んずることはけっしてなく、そのベートーヴェンをブラームスは越え得ない。シュワンのカタログを繙けば分るが、ベートーヴェンとヘンデル、ハイドンの間にショパンと、しいて言えばドビュッシー、フォーレがあり、しばらくして群小音楽に超越したモーツァルトにめぐり会う。ほぼこれが(モーツァルトが)カタログの中央に位置するピークであり、モーツァルトのあとは、シューベルト、チャイコフスキーからビバルディを経てワグナーでとどめを刺す。音楽史一巻はおわるのである。
こういう見方は大へん大雑把で自分勝手なようだが、私にはそう思えてならぬ。今少し細分について言えば、ラフマニノフはプロコフィエフを越え得ないし、シューマンはひっきょうシューベルトの後塵を拝すべきだとシュワンはきめているように私には思える。
ことわるまでもないが、シュワンのカタログは単にアルファベット順に作曲家をならべてあるにすぎない。しかしバッハにはじまりワグナーで終るこの配列は、偶然にしてもできすぎだと私は思うのだ。いつもそうだ。月々、レコードの新譜で何が出たかをしらべるとき、まずバッハのそれを見ることをカタログは要求する。バッハに目を通してから、ベートーヴェンの欄に入るのである。これは何者の知恵なのか。アイウエオ順で言えば、さしずめ、日本は天照大神で始まるようなものなのか。高見順氏だったと思うが、人生でも常に辞書は「アイ」(愛)に始まり「ヲンナ」でおわると冗談を言われていたことがある。うまくできすぎているので、冗談にせざるをえないのが詩人のはにかみというものだろうが、そういう巧みを人生上の知恵と受け取れば、羞恥の余地はあるまい。バッハではじまりワグナーでおわることを、音楽愛好家はカタログをひもとくたびに繰り返し教えられる。
*
《バッハではじまりワグナーでおわる》、
たんなるアルファベット順の偶然でしかないのだが、
五味先生も指摘されているように《偶然にしてもできすぎ》である。
クラシック音楽をながく聴いてきた人ならば、同じに感じている人もいるはずだ。
ならば、これでいいではないか。
クラシック音楽好きが無人島に流されることになって、何を持っていくのか。
ここではマタイ受難曲とワーグナーの楽劇を持っていくことはいわずもがなの前提である。
そのうえで無人島に何を持っていくのか。
(その8)に、試聴記は聴いた音の解釈であるべき、と書いた。
試聴記を、聴いた音の印象記ぐらいに思っている人が、どうも多いようだ。
多いからこそ、オーディオ評論なんて、自分にもできる、と思うのではないのか。
しかもいまは簡単に、手軽に情報発信ができるものだから、
印象記にしかすぎない試聴記を、オーディオ評論と勘違いして、公開する人がいる。
だからといって、オーディオ雑誌に載っている試聴記すべてが、
解釈といえるレベルにあるとは思っていない。
音の解釈を書くというとは、
結局は美について書くことだ。
ここでの「美」とは、英語でのbeautyではない。
別項「デコラゆえの陶冶(音楽に在る死)」で書いている。
美という漢字は、羊+大である。
形のよい大きな羊を表している、といわれても、
最初は、なかなか実感はわかなかった。
まず、なぜ羊なのか、と多くの人が思うだろう、私も思った。
大きな羊は、人間が食べるものとしてではなく、
神に捧げられる生贄を意味している──。
神饌としての無欠の状態を「美」としている、ときけば、
美という字が羊+大であることへの疑問は消えていく。
羊+大としての「美」。
それは英語のbeautyとイコールではない。
柳沢功力氏の試聴記が、そこまでのレベルにある、とはいわないし、思っていない。
それでも柳沢功力氏の試聴記、そして「試聴を終えて」を読めば、
柳沢功力氏なりの音の美について書こうとされていることは感じとれるはずだ。
私は、このブログで、柳沢功力氏のことを柳沢先生とは書いていない。
そんな私でも、柳沢功力氏なりの音の美にこめる想いは読みとれる。
そこに気づかずに、低次元と言い放つ人こそが、実は低次元である。
(その6)では、YGアコースティクスのHaileyを鳴らされている人からのコメントがあった。
柳沢功力氏の試聴記は気にならない、とある。
そうだろう、と思う。
YGアコースティクスのHaileyユーザーすべてが、
柳沢功力氏の試聴記で不愉快になるわけではない。
なのにavcat氏は、YGユーザーさん、という表現を使われている。
最初、avcat氏のツイートを読んだ時、
YGユーザーというハンドルネームのオーディオマニアがいるんだな、と思った。
YGユーザーさんは、特定の個人ではなく、
YGアコースティクスのスピーカーのユーザーを指している。
これは、おかしな話だ。
YGアコースティクスのスピーカーに惚れ込んで鳴らしている人でも、
それぞれ感性は違うし、感じ方、鳴らし方も違う。
共通するところはあっても、違う。
なのに十把一絡げ的に捉えての「YGユーザーさん」の使い方である。
柳沢功力氏の試聴記を読んで不愉快になるYGアコースティクスのユーザーもいれば、
そうでないYGアコースティクスのユーザーがいるということは、
すぐにわかることなのではないか。
YGアコースティクスのユーザーはみんな同じだ、と思い込めることこそ、
低次元の話ではないだろうか。
五年前に(その1)を書いた。
選ばなかった途について、少し書いた。
いまおもうのは選ばなかった途ではなく、結局は選べなかった途なのかもしれない、だ。
選択肢はある。
つねにいくつかある──、
誰だってそう思っていることだろう。
だから、あの時、違う途を選んでいれば……、と後悔までいかなくとも、
ついそんなことを思う瞬間が、どんな人にだってあるのかもしれない。
選べる途もある、とは思う。
それでも選べない途もあるはず、とおもう。
ステレオサウンド 207号をひさしぶりに買ったことは、別項に書いている通り。
207号掲載の広告で、ちょっと驚いたのは、ダイナミックオーディオの広告だった。
カラー見開きで、Accuphaseのロゴの下に、
「アキュフェーズ はじめました」とある。
アキュフェーズについては、書くまでもないだろう。
オーディオマニアならば誰もが知っているブランド(メーカー)であり、
アキュフェーズのアンプ、CDプレーヤーの音を一度も聴いたことのない、
そんなオーディオマニアは初心者以外いないのではないか──、
そういえるくらいの知名度をもつ。
そのアキュフェーズを、いまごろダイナミックオーディオが取り扱いを始める。
ダイナミックオーディオは、東京だけのオーディオ店ではあるが、
オーディオマニアならば、その名前は見て聞いて知っている。
今回の広告で、ダイナミックオーディオを利用したことのない人は、
アキュフェーズを取り扱っていないことを知ったわけだ。
ダイナミックオーディオがアキュフェーズの取り扱いを始める、というのは、
春ごろにfacebookで知っていた。
その後、別の人も知らせてくれた。
つまり、そのくらいニュースともいえる。
だからダイナミックオーディオも、広告でそのことを、カラーで謳っているのだろう。
ダイナミックオーディオがアキュフェーズをいままで取り扱っていなかった、
というよりアキュフェーズがダイナミックオーディオと取引をしてこなかった、
そのいきさつはなんとなく聞いて知っているくらいだ。
こまかなところ、ほんとうのところがどうなのかまでは知らない。
それでも、いろんなことをつい考えてしまう。
今回のことが意味するところを、あれこれ考えてしまう。
そのことを、ここでは書かないけれども、だ。
7月4日のaudio wednesdayでは、グッドマンのAXIOM 401を鳴らす。
アンプはこれまで使ってきたマッキントッシュではない。
PASSのAleph 3が用意できる。
8Ω負荷で出力30WのA級アンプである。
一部で、ウニと呼ばれているスタイルのパワーアンプだ。
喫茶茶会記の店主、福地さんからは真空管アンプというリクエストもあったが、
あえて無視してAleph 3を選択した。
実例は、おそらくほとんどない組合せだと思っている。
どんな音が響いてくれるのか、いまから夢想している。
場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。
二週間前から、今回の件について書いている。
書き続けていくことで、アクセス数は減るだろうな、と思っていた。
ところが書き始めて数日して、アクセス数は増えてきた。
アクセス数は日によって多少は上下動する。
今回の増え方は、はっきりとした増え方であって、
昨日のアクセス数は、今年最高となっている。
アクセス数が増えているだけでなく、
平均セッション継続時間(つまりアクセスした人がどれだけの時間、滞在しているか)は、
アクセス数以上にはっきりと長くなっている。
アクセス数は数割程度の上昇だが、
滞在時間のほうは、時間帯によっては二倍から三倍程度に長くなっている。
つまり遡って読んでくれている方が少なくない、ということを数字が示している。
正直、意外だった。
読んでくれている人が、どういう感想をもっているのかまでは、
数字からは読みとれない。
私と同じように感じている人もいれば、そうでない人もいるだろうが、
無関心な人が少ないのではないだろうか。
この無関心の人が少ない、ということが、
こうやって書いている者にとっては嬉しいことである。
それに今回の件に関しては、
facebookへのコメントもある、
ブログへのコメントもきている。
それに私へ直接メール、メッセージを送ってくださる人、
電話を掛けてくる人もいる。
掲示板のことを忘れるところだった。
audio sharingをつくる以前からオーディオの掲示板はいくつかあった。
ときどきアクセスするくらいだったが、
掲示板を自分のサイトに設けようとは最初から思っていなかった。
人がそれほど集まっていない掲示板ならそれほどではないが、
人が多く集まっている掲示板では、その管理者の苦労は想像するだけでしかなかったが、
かなり大変だったはずだ。
活発な掲示板は、急に人気が出始めるときがある。
そうなると、それまでの常連の人たち以外にも、
多くの、さまざまな人たちが書き込みをするようになる。
そのことは基本的には歓迎すべきことなのだろうが、
実情はそうとはいえない例をいくつも見てきている。
オーディオの個人サイトの掲示板は、大変なだけではないか、と私の目には映っていた。
掲示板で記憶に残っているのは、déjà vu(デジャヴ)というサイトのそれである。
Mさんという若い方がやられていた。
当時のステレオサウンドにも読者代表のような形で登場されたこともある。
詳しく調べたわけではなく、単なる印象にすぎないが、
2005年ごろが、インターネットにそれまであまり関心をもっていなかった、
やっていなかった世代が、急にやりはじめた時期にあたるような気がしている。
déjà vuの掲示板にも、そういう世代のオーディオマニアと思われる人たちが、
多く集まるようになった。
当時、オーディオ雑誌に書いていた人も数人参加していたし、
ステレオサウンドに登場したことのあるオーディオマニアの人たちもいたようだ。
déjà vuの掲示板は、賑わっていた。
けれど、長くは続かず、サイトごと閉鎖している。
当時の口コミは、文字通りの口コミであり、
友人知人のあいだでなされる範囲にとどまっていた、といえる。
あるオーディオ機器をモニター試聴したオーディオマニア全員が、
モニター機に対し、肯定的な感想をもつと限らないし、
否定的な感想をもって、友人知人にそのことを伝える人だっていたはずだ。
それでも、当時の口コミは、いわば非公開ともいえる。
狭い範囲内においてのそれは、互いに相手を知っている、ということが前提となっている。
この人が、こういう評価をするということは、
私にとっては、少し修正して、おそらくこんな評価になるだろうな、
──そんなことが友人知人のあいだでの口コミでは、自然と行われていたのではないだろうか。
そこでは、誤解は生じなかったように思う。
その口コミは、ずっとそういう感じで行われてきたのが、
インターネットの普及によって、変りはじめている。
個人サイトの制作・公開が比較的に簡単になって、
オーディオの個人サイトは、いったいどれだけあるのだろうか、と、
数え切れないほどある。
私がaudio sharingを公開した2000年は、ヤフーの検索はディレクトリだった。
そこに登録されるかどうかは、サイトのアクセス数に大きく関係していた。
Googleの登場・躍進が、そこを大きく変えた。
そしてブログが普及して、より簡単に個人の情報発信が行えるようになった。
次はSNSの普及である。
日本ではmixiがまずあった。
私も一時期やっていた。
それからtwitter、facebookの普及。
これにはスマートフォンの普及も絡んでいる。
いまや電車の中からでも、それこそトイレの個室からでも、
やろうと思えば情報発信はできる。
これだけの変化によって、口コミも変っていった。
これからもさらに変っていくのかもしれない。