Date: 6月 29th, 2018
Cate: 終のスピーカー
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無人島に流されることに……(その3)

「無人島に……」という質問では、イギリスでは持っていく本に限っては、
聖書とシェイクスピア全集は除外される。

つまりこのふたつは必ず持っていくものの中に最初から含まれている。
それ以外、何を持っていくのかが問われている。

クラシック音楽好きにとっての、聖書とシェイクスピア全集にあたる音楽作品。
その2)で、マタイ受難曲か、と書いた。

マタイ受難曲を聖書とすれば、シェイクスピア全集はワーグナー楽劇すべて、となるのか。
そこまでいかなくとも「ニーベルングの指環」、
それから「パルジファル」、「トリスタンとイゾルデ」は加えておきたい。

マタイ受難曲とワーグナーの楽劇。
マタイ受難曲はバッハである。
そこで思い出すのが、五味先生の「シュワンのカタログ」である。
     *
 シュワン(Schwan)のカタログというのは大変よくできていて、音楽は、常にバッハにはじまることを私達に示す。ベートーヴェンがバッハに先んずることはけっしてなく、そのベートーヴェンをブラームスは越え得ない。シュワンのカタログを繙けば分るが、ベートーヴェンとヘンデル、ハイドンの間にショパンと、しいて言えばドビュッシー、フォーレがあり、しばらくして群小音楽に超越したモーツァルトにめぐり会う。ほぼこれが(モーツァルトが)カタログの中央に位置するピークであり、モーツァルトのあとは、シューベルト、チャイコフスキーからビバルディを経てワグナーでとどめを刺す。音楽史一巻はおわるのである。
 こういう見方は大へん大雑把で自分勝手なようだが、私にはそう思えてならぬ。今少し細分について言えば、ラフマニノフはプロコフィエフを越え得ないし、シューマンはひっきょうシューベルトの後塵を拝すべきだとシュワンはきめているように私には思える。
 ことわるまでもないが、シュワンのカタログは単にアルファベット順に作曲家をならべてあるにすぎない。しかしバッハにはじまりワグナーで終るこの配列は、偶然にしてもできすぎだと私は思うのだ。いつもそうだ。月々、レコードの新譜で何が出たかをしらべるとき、まずバッハのそれを見ることをカタログは要求する。バッハに目を通してから、ベートーヴェンの欄に入るのである。これは何者の知恵なのか。アイウエオ順で言えば、さしずめ、日本は天照大神で始まるようなものなのか。高見順氏だったと思うが、人生でも常に辞書は「アイ」(愛)に始まり「ヲンナ」でおわると冗談を言われていたことがある。うまくできすぎているので、冗談にせざるをえないのが詩人のはにかみというものだろうが、そういう巧みを人生上の知恵と受け取れば、羞恥の余地はあるまい。バッハではじまりワグナーでおわることを、音楽愛好家はカタログをひもとくたびに繰り返し教えられる。
     *
《バッハではじまりワグナーでおわる》、
たんなるアルファベット順の偶然でしかないのだが、
五味先生も指摘されているように《偶然にしてもできすぎ》である。

クラシック音楽をながく聴いてきた人ならば、同じに感じている人もいるはずだ。
ならば、これでいいではないか。

クラシック音楽好きが無人島に流されることになって、何を持っていくのか。
ここではマタイ受難曲とワーグナーの楽劇を持っていくことはいわずもがなの前提である。

そのうえで無人島に何を持っていくのか。

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