「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(その29)
facebookへのコメントで、
YGアコースティクスは優秀な製品であって、
柳沢功力氏の試聴記が不適切であるならば、
ステレオサウンドの染谷一編集長のavcat氏への謝罪は英断ではないか、と。
YGアコースティクスのスピーカーを、
私はインターナショナルオーディオショウでしか聴いていない。
その精度の高い音に感心するし、なるほど優秀な製品ではある。
YGアコースティクスのスピーカーを、だから欲しいかと問われれば、
欲しい、とは一度も思ったことはない。
Hailey 1.2を買えるだけの余裕があるならば、私は別のブランドのスピーカーを選ぶ。
よくオーディオの世界では、個人の好みではなく、高忠実性を重視すべきだ、という意見がきかれる。
わからないわけではないし、エンジニア側であれば、それはもっともな理屈である。
けれど、そのもっともな理屈を、オーディオマニア側に求める、
というよりも、中には押しつけているのではないか、と感じさせる人もいる。
これもずっと以前からさんざんいわれていることだが、
われわれオーディオマニアが聴くのは、なにも最新録音、優秀録音ばかりではない。
そういう録音を、その録音がなされたときと同じ音量での再生が可能であり、
常にそういう再生を求めている人ならば、いわゆる忠実性を重視したスピーカーを選択するのもわかる。
けれどわれわれが聴くのは、そういった録音ではない。
むしろ、そういう録音を聴くことはキャリアを重ねるとともに減ってくるのではないか。
古い録音も聴く。
優秀録音とはお世辞にもいえない録音も聴く。
音量も、大きな音を出せる環境にいても、好む音量は別である。
──こんなことは昔、よくいわれてきた。
それが家庭で音楽を聴く、という行為である。
facebookのコメントでは、avcat氏のツイートは筋が通っている、とあった。
それは否定しない。
でも筋が通っている、ということは、どういうことなのか。
REPLY))
オーディオはシステム的に矛盾を多く抱えていますがそういうところを意識する人の中で清濁併せ呑む方針の人もいれば曖昧さを一つずつ排除していく方向の人もいて考え方の違いでトラブルになる感じがありますね。
まだシステム的な矛盾を理解していればよいのですがあまりにも無理解で無邪気な人もいるので話が通じなくなる。