Archive for category 音の良さ

Date: 1月 2nd, 2023
Cate: 音の良さ

完璧な音(その7)

すでに何度か引用していることを、ここでもまたしておこう。

ステレオサウンド 49号、
「体験的に話そう──録音と再生のあいだ」という対談で、
菅野先生が語られている。
     *
菅野 一つ難しい問題として考えているのはですね、機械の性能が数十年の間に、たいへん変ってきた。数十年前の機械では、物理的な意味で、いい音を出し得なかったわけです。ですがね、美的な意味では、充分いい音を出してきたわけです。要するに、自動ピアノでですよ、現実によく調整されたピアノを今の技術で録音して、プレイバックして、すばらしいということに対して、非常に大きな抵抗を感ずるということです。
 ある時、アメリカの金持ちの家に行って、ゴドウスキイや、バハマン、それにコルトーの演奏を自動ピアノで、ベーゼンドルファー・インペリアルで、目の前で、間違いなくすばらしい名器が奏でるのを聴かしてもらいました。
 彼が、「どうですか」と、得意そうにいうので、私は、ゴドウスキイやバハマン、コルトーのSPレコードの方が、はるかによろしい、私には楽しめるといったわけです。
 すると、お前はオーディオ屋だろう、あんな物理特性の悪いレコードをいいというのはおかしい、というんですね。そこで、あなた、それは間違いだと、果てしない議論が始まったわけです。つまり、いい音という意味は、非常に単純に捉えられがちであって……。
     *
菅野先生が、ベーゼンドルファーの自動演奏ピアノをアメリカで聴かれたのがいつなのかは、
この対談でははっきりとしない。

49号は1978年12月に出ているから、それ以前であるわけで、
菅野先生が聴かれたベーゼンドルファーの自動演奏ピアノと、
スタインウェイの自動演奏ピアノSPIRIOはのあいだには、六十年ほどの隔たりがある。

同じレベルの自動演奏ピアノではないことは容易に想像できる。
再現の精度の高さの進歩は、どれほどなのだろうか。
そうとうなものであろうが、それでも、菅野先生が語られていることは、
そのままスタインウェイのSPIRIOにあてはまるはずだ。

ここを無視して、完璧な音についての判断は下せない。

Date: 1月 2nd, 2023
Cate: 音の良さ

完璧な音(その6)

ソーシャルメディアに、ときどきスタインウェイの広告が表示される。
スタインウェイの自動演奏ピアノSPIRIOである。

SPIRIOは、スタインウェイの自動演奏ピアノだから、
きちんと調律、調整がなされていれば、
いつ聴いても、どこで聴いてもスタインウェイのピアノの音が聴けるわけだ。

SPIRIOでの自動演奏を聴いて、これはベーゼンドルファーのピアノだ、とか、
ヤマハのピアノだ、という人はいないはずだ。

SPIRIOは、その意味では完璧な音に近い、といえる。
SPIRIOには、音源も用意されている。

SPIRIOのページには、
《クラシック、ポップス、ジャズ、映画音楽など様々なジャンルの楽曲が収録されているこのSPIRIOでは、ビル・エヴァンスやガーシュウィン、ユジャ・ワンやホロヴィッツなどの著名アーティストが、まるで目の前で生演奏しているかのように、お楽しみいただくことができます。》
とある。

これがどのレベルの再現なのか、
SPIRIOを聴いたことがないのでなんともいえないのだが、かなりのレベルに達しているとは思う。
そうであれば、SPIRIOはスタインウェイによる演奏の再現においても、完璧な音といえるのか。

考えたいのはここである。

Date: 1月 9th, 2020
Cate: 音の良さ

完璧な音(その5)

具体的に考えてみる。
たとえばスタインウェイのピアノによる演奏があった、とする。
その演奏を録音する。

いかなる装置で、いかなる音で聴かれるのかは制作側にはわからない。
それでも、どんな装置、どんな音であっても、
その録音はスタインウェイのピアノだ、ということが聴き手に伝われば、
完璧な音の最低条件は満たされた、といえるのか。

ただし、ここでの完璧な音とは、完璧な録音、ということになる。
完璧な録音というものが、もしあるとすれば、そういうことではないのか。
どんな装置で、どんな音でかけられても、
スタインウェイのピアノが、ヤマハのピアノやベーゼンドルファーのピアノに聴こえたりしたら、
それはどんなにいい音で録音されていたとしても、完璧な音(録音)とはいえない。

ここでもう一つ考えなければならないのは、聴き手のことだ。
世の中にはさまざまな装置、音があるように、
聴き手もまったく同じである。

聴き手が違えば、同じ音を同じ時に聴いても、印象が違うことは誰だって経験していよう。
つまりは、どんな装置、どんな音でかけられても、
さらにどんな聴き手がスピーカーの前にいようと、
その聴き手に、スタインウェイのピアノだ、ということを認識させられる音が、
完璧な音(録音)ということになる。

そんな録音があるのだろうか。
装置によっては、グランドピアノがアップライトピアノに聴こえることだってある。
スタインウェイのピアノが、ヤマハのピアノに聴こえたり、
さらにはメーカー不明のピアノの音に聴こえたりすることだってある。

そういえば、菅野先生はオーディオラボでベーゼンドルファーの録音も残されている。
菅野先生によれば、本来のピアノの音よりも、
大きめの音量で鳴らした時にベーゼンドルファーらしく鳴るようにしている──、
そんな話を聞いたことがある。

Date: 12月 21st, 2019
Cate: 音の良さ

音の良さとは(好みの音、嫌いな音・その6)

帯域バランスを、誰が聴いてもはっきりとくずれているとわかるほどまでに、
グラフィックイコライザーをいじって、嫌いな音を無理にでも抑えていく。

そうやって、彼にとって、到底がまんできないたぐいの音を出さない(抑える)ことで、
その音は、彼にとっての良い音ということになるのか。

私が知っている知人の例では、そうなっていた。
あきらかにバランスが崩れてしまっていても、
彼の耳にはバランスよく聴こえているのかもしれない──。

仮にそうであったとしても、
そうやって得られた音は、音楽の表現力に大きな制約をつくりだしてしまっている。

そうなると、そんな音で聴きたくなる音楽は狭まっていく。
オーディオで音楽を聴く、ということは、
自分の音によって、聴く音楽が影響を受けることでもある。

だからこそ、システム(音)が変れば、聴く音楽も変ってくる、とは昔からいわれている。
けれど私が知っている音の場合は、違う。

システムが変っても、そうやって音を強引にいじってしまうために、
どんなスピーカーであっても、すぐさま彼の望む音になってしまう。

なにも、このことは私だけが感じていたわけでなく、
彼の音を何度も聴いている人も、まったく同じ印象をもっていた。

嫌いな音をできるかぎり排除していく方向での、いきつく音。
それを良い音と信じ込めれば、周りがとやかくいうことではない──、
そうわかっていても、それははっきりと間違った音でしかない。

間違った音が、良い音なわけはない。

Date: 12月 9th, 2019
Cate: 音の良さ

完璧な音(その4)

くわえて完璧な録音というのが世の中には存在していない、ともいえる。
優秀録音は、その時代時代である。
いま聴いても優れた録音と感じるものが、どの時代にもある。

それでも、それらの優秀録音が完璧な録音であるかといえば、それは違ってくる。
では完璧な録音とは何か。

ナマの演奏そのままを録音したもの、という人はいる。
でも、それが本当の意味での完璧な録音なのか、となる。
完璧な文章という意味での完璧な録音は、
ナマの演奏そのままの録音なのだろうか。

こんなふうに考えていくと、
結局のところ、完璧な人間はどこにもいない、というところに帰着する。

聴き手が完璧でないからこそ、完璧な音が必要となるのか。
そうともいえるし、そうではないともいえる。

Date: 12月 7th, 2019
Cate: 音の良さ

完璧な音(その3)

その1)で、完璧な文章とは、
どんな読み手であっても、
そこに書かれたことを曲解せずに、正しく受け止めることができる文章なのか──、
そう書いた。

そういう文章が世の中に存在したことがあるのか。
私にはわからないが、
仮にそういう文章こそが完璧な文章だとすれば、
完璧な音もまた、そういう音ということになる。

ここでの、そういう音とは、誰一人として誤解しない、曲解しない音ということになるのか。
完璧な音を複数の人が聴いたとしたら、
皆が同じに受け止める音になるのか。

けれど、音が伝えるのは、
そしてここで述べている完璧な音とは、スピーカーから鳴ってくる音であり、
それはあくまでも音楽を鳴らすための音である。

とすれば、完璧な音とは、たとえばベートーヴェンの交響曲第九番を鳴らしたら、
その音を聴いている人みなが、ベートーヴェンの第九を正しく捉えられる音ということになる。

けれども、世の中に完璧な演奏があるのか、ということを今度は考えることになる。
ベートーヴェンの第九の完璧な演奏があって、
完璧に聴き手に伝えられる音こそが完璧な音ということになる。

ここが完璧な文章と完璧な音との違いということでもある。

ベートーヴェンの第九の素晴らしい演奏はいくつかある。
よく知られるところでは、フルトヴェングラーのバイロイトの第九がある。

フルトヴェングラーの第九以外にも、人それぞれ素晴らしいと感じる第九がある。
私にとっては、ジュリーニ/ベルリンフィルハーモニー、
ライナー/シカゴ交響楽団の第九は素晴らしい演奏であるが、
だからといって完璧な演奏とは思っていない。

Date: 10月 19th, 2019
Cate: 音の良さ

完璧な音(その2)

ヨゼフ・ホフマンが語っている。

Perfect sincerity plus perfect simplicity equals perfect achievement.
完璧な誠実さに完璧な単純さを加えることで、完璧な達成にいたる。

十年前に別項『「音楽性」とは(その5)』でも引用している。

完璧な誠実さ、完璧な単純さ、とある。
この二つに関して考えるだけでも容易ではない。

完璧な誠実さとは、どういうことなのか。
完璧な単純さに関しても同じで、どういうことなのか。

これ以上削る要素がないほどに達していれば、
それは完璧な単純さ(perfect simplicity)ということになるのか。

アンプで考えてみれば、ネルソン・パスが発表しているZen Ampは、
この完璧な単純さを実現しようとしている、と考えることもできる。

それを製品化したのが、First WattのSIT1、SIT2である。
これらのパワーアンプは、完璧な単純さのパワーアンプということになるのか。

そうだ、としよう。
では、ここに完璧な誠実さがあれば、完璧な達成となるのか。

けれどホフマンは、
《完璧な誠実さに完璧な単純さを加える》としている。

完璧な単純さに完璧な誠実さを加えるのでは、完璧な達成とならないのか。

“Perfect sincerity plus perfect simplicity equals perfect achievement.”を、
Perfect sincerity + perfect simplicity = perfect achievementとすれば、
完璧な誠実さと完璧な単純さを足せば、となる。

日本語訳の《完璧な誠実さに完璧な単純さを加える》にこだわりすぎているのか。

Date: 10月 13th, 2019
Cate: 音の良さ

完璧な音(その1)

完璧な音とは?
どういう音なのだろうか、ふと考える。

美しい音が完璧な音とイコールとはいえない。
いい音イコール完璧な音なのか、といえば、これも違う。

プログラムソースに収録されている音そのままを再現できれば、
そこに歪もノイズも加わることなく、
何らかの情報欠落もなく、何かが加えられることなく音が、
聴き手の耳まで到達できれば、それが完璧な音なのか。

完璧な音ではなく、完璧な文章だったら、どうだろか。
どんな文章が完璧な文章なのか。

完璧と評されている文章はあるのだろうか。
プロの書き手は、完璧な文章を目指しているのだろうか。

そんなことを考えていた。

素晴らしい文章といわれても、読み手によって受け止め方が違う。
どうしてこんな読み方をするのだろうか、といいたくなる読み方をする人もいる。
どんな文章であれ、曲解されるもの、といっていいだろう。

どれだけ優れた文章であっても、わずかな人が曲解すれば、
それはもう完璧な文章とはいえないのではないか──、
こんなふうに考えてみた。

だとすれば、どんな読み手であっても、
そこに書かれたことを曲解せずに、正しく受け止めることができる文章こそが、
完璧な文章となるのか。

そうだとすれば、完璧な音も、そういう音ということになるのか。

Date: 7月 1st, 2016
Cate: 音の良さ

音の良さとは(好みの音、嫌いな音・その5)

誰だって嫌いな音、苦手な音はできれば聴きたくない。
けれど、ここで考えたいのは、嫌いな音、苦手な音が音の良し悪しとどう関係しているか。

嫌いな音、苦手な音がすべて、いわゆる悪い音であったのならば、
さまざまな手段で、嫌いな音、苦手な音を排除すればいい。

この項の(その1)で書いているかつての同僚のように、
チャーハンに入っているグリンピースを取り除くように……。

チャーハンからグリーンピースを取り除くことは、さほど難しいことではない。
米や具材と融合しているわけではないから、ひとつひとつ取り出せる。

けれど音となると、そうはいかない。
グリーンピースをチャーハンの中から取り除くようには、完全にはできない。
いわば抑える、といったほうがより正確である。

たとえば中高域が強く張り出した音が苦手な男がいたとする。
彼はグラフィックイコライザーを使って、
彼にとって張り出していると思える帯域のレベルをぐっと下げる。

けれど実際には張り出していると感じた帯域は、音圧レベル的に高いというわけではなかった。
別の要因で、張り出したように聴こえることもある。

そういう場合でも、彼はその帯域のレベルを下げる、というよりも、
削ぎ落とすくらいにグラフィックイコライザーを調整する。

そうすることで張り出していた音は、いくぶんか、かなり抑えられることになる。
でも、張り出していると感じさせる要因だけを抑えたわけではない。

同時にグラフィックイコライザーでそこまでレベルを変動させてしまえば、
帯域バランスはくずれてしまう。はっきりとくずれてしまう。

Date: 5月 28th, 2015
Cate: 音の良さ

音の良さとは(その4)

このブログを書き始めたころ、「木村伊兵衛か土門拳か」というタイトルで書いている。

週刊文春に載っていた福田和也氏の 「ハマってしまったアナタに ──木村伊兵衛か土門拳か──」から引用した。
もう一度引用しておく。
     *
土門は被写体に真っ向勝負を挑み、理想の構図、ピントを求めて大きなカメラを何百回とシャッターを切りつづけた。学生時代に絵描きを志した土門にとって、写真は映画同様、自己の世界観を存分に投影しうる、人間主体の芸術でした。
 ところが、土門がその存在を終生意識し続けた木村伊兵衛にとって、写真はもっと不如意なものでした。カメラを使いこなすことは、カメラという機械のメカニズムを受け容れ、自らを合わせていくこと。写真は人間主体の芸術ではなく、むしろその主体性の限界を示してくれる存在で、その限界から先はカメラに結果を委ねるしかない。(中略)
 一眼レフであり、コンパクトであれ、木村のようにその性能に意思を委ねるもよし、土門のようにすべてのパラメーターと格闘して意思の実現を目指すもよし。いずれにせよ、写真は自己認識に関わる豊饒な遊び。だから愉しいのです。
     *
この項の(その3)で書いた、
「オーディオは自己表現だから」ということで、
オーディオを完全な支配下におきたいという人は、
木村伊兵衛か土門拳か、でいえば、後者ということになる。

けれど写真と音は似ているともいえるし、まったく違うともいえる。
同一には語れない。
それでも、彼はオーディオにおいて土門拳であろうとしたのか。

人は人であり、干渉しようとは思わない。
と書きながらも、オーディオにおいて土門拳であろうとするのは、やはり傲慢であると私はいいたい。

その傲慢さが「オーディオは自己表現だから」に顕れているのではないか。
福田和也氏は写真を「自己認識に関わる豊饒な遊び」とされている。

自己表現とは書かれていない。
自己認識に関わる豊饒な遊びという視点での「木村伊兵衛か土門拳か」である。

「木村伊兵衛にとって、写真はもっと不如意なもの」とある。
音もそうである。
写真以上に音は不如意なもの(現象)であるから、
オーディオを使いこなすことは、
オーディオという機械のメカニズムを受け容れ、自らを合わせていくことが求められている。
私はそう考えている。

だからここで、使いこなしといっても、
オーディオを自己の支配下におき完全にコントロールしたい人は、
私とはまったく違うということになるわけだ。

音の良さということに関してもだ。

Date: 4月 5th, 2015
Cate: 音の良さ

音の良さとは(好みの音、嫌いな音・その4)

あばたもえくぼ、という。
惚れてしまうと、欠点まで好ましく見えてしまう、という意味である。
痘痕(あばた)が靨(えくぼ)に見えてしまうのだから、そうである。

だが時として、えくぼもあばたとなってしまうことだってあるだろう。
嫌いになってしまうことで、いままで好ましく思えていたことが欠点に思えてしまう。
同じようなことが音に対しての反応としてあるような気がする。

つまり好きな音に対して敏感であるのか、嫌いな音に対して敏感であるのか。
好きな音に対して敏感であれば、多少欠点があったとしても、さほど気にならなくなる。
けれど反対に嫌いな音に対して敏感でありすぎると、
その部分にのみ耳の意識が集中してしまい、良さもあったとしても、そこに意識がいかない、
その音全体も否定しまうことになるのではないか。

どちらがよくてどちらが悪いというわけではないが、
嫌いな音に対して過剰なくらい敏感であるために、
音のバランスを失ってしまった例を、よく知っている。

彼には嫌いな音がある。
それは嫌いな音ともいえるし、苦手な音でもある。
それがどんな音であるのかは書かないが、その種の音に対して彼の耳は過剰なまでに敏感だった。
その種の音が出ていると、音を聴くのも苦痛であったようだ。

彼が、嫌いな音・苦手な音を出さないために、
グラフィックイコライザーの力を借りて大胆に調整を行ってしまうのは、だから理解できないわけではない。

だが、それでも……、というおもいがある。

Date: 4月 3rd, 2015
Cate: 音の良さ

音の良さとは(好みの音、嫌いな音・その3)

音の好みがまったくない、という人はいるのだろうか。
好みとは、好きな音もあれば嫌いな音もある、ということで、
つまりは音の好みがまったくないということは、
嫌いな音・苦手な音もなければ、好きな音もないということになる。

音の好みが激しい・極端な人もいれば、さほどでもない人もいるけれど、
まったくないという人には、いまのところお目にかかったことがない。

すくなくともオーディオマニアを自認する人は、必ず好みの音というものがあるし、
音の好みをわかっているからこそオーディオマニアなのではないだろうか。

味覚も聴覚も、その領域を拡げていくことが大事である。
子供のころ苦手だった味も、大人になるにつれて苦手ではなくなり、おいしい、と感じるようになるように、
音に関しても、同じことはきっとある。
それがオーディオマニアとしての成長である、といえる。

私にしても、中学生のころからすれば、受け入れられる音の範囲は確実に拡がっている。
拡げてきたともいえる。

それであっても、どうしても受けつけられない音はある。
以前書いているように、ダメな音はやっぱりあって、これはもう死ぬまで受けつけないであろう。

ただ、この手の音は、音の輪郭線を強調しすぎるため、
エッジがたつ、とか、鮮明になった、とう表現する人がいるようだが、
冷静に聴けば、支配的な音色がかなり強く存在していて、
どう聴いても音の良さにつながるものではない、と思っている。

Date: 8月 10th, 2013
Cate: 音の良さ

音の良さとは(好みの音、嫌いな音・その2)

私の目の前で、かつては嫌いだったグリーンピースをおいしそうに頬張る元同僚を見ながら、
私が考えていたのは、やはりオーディオのこと、音のことだった。

人の感覚の中で、味覚がもっとも早い時期から好みが生まれてくるのではないだろうか。
私は、こういうことを専門的に勉強しているわけではないので、
あくまでも私自身の経験、それに周りの人たちを眺めて感じていることだけにすぎないのだが、
味覚と同時か、その次にくるのが嗅覚であり、
聴覚に関しては、つまり音の好みということに関して当人が目覚めるのは、最後になるのではないだろうか。
もしくは、食べ物の好き嫌いはあっても、音に関しては、意識していない、特にない、という人もいる気がする。

食事は基本的には一日三回、毎日摂る。
生れたばかりのころは母乳で育ち、離乳食を経て、
親と同じものを少しずつ食べるようになっていく。

どこまで真実なのかは私にはわからないけれど、
味覚で最初に目覚めるのは甘さを感じるところだと何かの本で読んだことがある。
だから小さいうちは、甘いものを欲するのだ、と。

子供の頃は好き嫌いがある。
好き嫌いが激しい子供もいる。
私も好き嫌いは激しい方だった。

だからといって、この時期に好きなものばかりを口にしていたら、
味覚の好き嫌いはひどく偏ってしまうのかもしれない。

親が適度に、うまく味の領域を広げるようにしてくれないと、いびつな味覚となってしまうのだろうか。

元同僚が頭を事故で打ち、それ以前は食べられなかったグリーンピースをおいしそうに食べ、
嫌いだったことすら忘れているのは、
味覚の記憶が、どの程度なのかはわからないけれどリセットされたと考えていいだろう。

Date: 8月 3rd, 2013
Cate: 音の良さ

音の良さとは(好みの音、嫌いな音・その1)

以前の仕事場の同僚が、バイクで交通事故を起した。
単独事故で、被害者はいなくて、彼だけが怪我を負った。
たいへんな怪我だったときいている。
家族が呼ばれたほどだ、と。

いま彼はぴんぴんしている。
元気である。
事故から二年後ぐらいにたまたま会う機会があった。
近くの中華店に入った。
どこにでもある町の中華屋さんといった感じであって、
彼はチャーハンを頼んでいた。

チャーハンにはグリーンピースが入っていた。
事故以前の彼ならば、グリーンピースをレンゲでひとつひとつ取り除いていた。
とにかくグリーンピースが大嫌いだ、と彼はいっていたのに、
その日、彼はおいしそうにグリーンピースもご飯、ほかの具材とともに口に運んでいる。

グリーンピース、嫌いじゃなかったっけ? ときいた。
彼の返事は「そうだっけ?」だった。

私の記憶違いではなく、そのとき他の同僚も一緒で、
みんな「えっ?」という顔をしていた。
彼のグリーンピース嫌いは、そのくらい徹底したものだったから。

そのグリーンピースをおいしそうに食べている。
彼は事故の時、頭を強く打ち意識を失っていた。
本人も言っていたけれど、少し記憶がとんでいる、とのこと。

ということは事故後グリーンピースをおいしそうに食べているということは、
食べ物の好き嫌いは、記憶に強く影響されている、ともいえるわけだ。
記憶だけ、とはいえないのかもしれないが、それにしても彼のグリーンピースへの反応の違いは、
音の好みについても、考えさせられることであった。

Date: 7月 25th, 2013
Cate: 音の良さ

音の良さとは(その3)

私はオーディオを、完全なコントロール下におきたいわけではない、
支配したいわけではない。

それを心がけている。

ある人に、そのことについて話したことがある。
彼から返ってきたのは、「それじゃ、自分の音じゃないでしょ!」だった。
彼は、私とは違い、スピーカーから出てくる音、どんなにささいな音であっても、
すべての音をコントロールした音でなければならない、そうでなければ自分の音とはいえない、
そういうスタンスの人だということが、そのときわかった。

つづけて彼はいう。
「オーディオは自己表現だから」

自己表現だから、オーディオのシステムの自発性的な要素で鳴ってくる音は自分の音とはいえない。
そういうことだった。

その理屈がわからないわけではない。
彼の考え、つまり「オーディオは自己表現」に立てば、彼のいうことが正しい、といえなくもない。

だが私は「オーディオは自己表現」とは、彼ほど強くは思っていない。
自己表現であらねばならない(彼の口調だとそう感じられる)、そこからスタートした音と、
私の考えによってスタートした音とでは、
「音は人なり」の解釈に、大きな違いが生れてくる。

こんなことを含めての「音は人なり」ということにもなる。