Archive for category 音の良さ

Date: 7月 1st, 2016
Cate: 音の良さ

音の良さとは(好みの音、嫌いな音・その5)

誰だって嫌いな音、苦手な音はできれば聴きたくない。
けれど、ここで考えたいのは、嫌いな音、苦手な音が音の良し悪しとどう関係しているか。

嫌いな音、苦手な音がすべて、いわゆる悪い音であったのならば、
さまざまな手段で、嫌いな音、苦手な音を排除すればいい。

この項の(その1)で書いているかつての同僚のように、
チャーハンに入っているグリンピースを取り除くように……。

チャーハン中からグリーンピースを取り除くことは、さほど難しいことではない。
米や具材と融合しているわけではないから、ひとつひとつ取り出せる。

けれど音となると、そうはいかない。
グリーンピースをチャーハンの中から取り除くようには、完全にはできない。
いわば抑える、といったほうがより正確である。

たとえば中高域が強く張り出した音が苦手な男がいたとする。
彼はグラフィックイコライザーを使って、
彼にとって張り出していると思える帯域のレベルをぐっと下げる。

けれど実際には張り出していると感じた帯域は、音圧レベル的に高いというわけではなかった。
別の要因で、張り出したように聴こえることもある。

そういう場合でも、彼はその帯域のレベルを下げる、というよりも、
削ぎ落とすくらいにグラフィックイコライザーを調整する。

そうすることで張り出していた音は、いくぶんか、かなり抑えられることになる。
でも、張り出していると感じさせる要因だけを抑えたわけではない。

同時にグラフィックイコライザーでそこまでレベルを変動させてしまえば、
帯域バランスはくずれてしまう。はっきりとくずれてしまう。

Date: 5月 28th, 2015
Cate: 音の良さ

音の良さとは(その4)

このブログを書き始めたころ、「木村伊兵衛か土門拳か」というタイトルで書いている。

週刊文春に載っていた福田和也氏の 「ハマってしまったアナタに ──木村伊兵衛か土門拳か──」から引用した。
もう一度引用しておく。
     *
土門は被写体に真っ向勝負を挑み、理想の構図、ピントを求めて大きなカメラを何百回とシャッターを切りつづけた。学生時代に絵描きを志した土門にとって、写真は映画同様、自己の世界観を存分に投影しうる、人間主体の芸術でした。
 ところが、土門がその存在を終生意識し続けた木村伊兵衛にとって、写真はもっと不如意なものでした。カメラを使いこなすことは、カメラという機械のメカニズムを受け容れ、自らを合わせていくこと。写真は人間主体の芸術ではなく、むしろその主体性の限界を示してくれる存在で、その限界から先はカメラに結果を委ねるしかない。(中略)
 一眼レフであり、コンパクトであれ、木村のようにその性能に意思を委ねるもよし、土門のようにすべてのパラメーターと格闘して意思の実現を目指すもよし。いずれにせよ、写真は自己認識に関わる豊饒な遊び。だから愉しいのです。
     *
この項の(その3)で書いた、
「オーディオは自己表現だから」ということで、
オーディオを完全な支配下におきたいという人は、
木村伊兵衛か土門拳か、でいえば、後者ということになる。

けれど写真と音は似ているともいえるし、まったく違うともいえる。
同一には語れない。
それでも、彼はオーディオにおいて土門拳であろうとしたのか。

人は人であり、干渉しようとは思わない。
と書きながらも、オーディオにおいて土門拳であろうとするのは、やはり傲慢であると私はいいたい。

その傲慢さが「オーディオは自己表現だから」に顕れているのではないか。
福田和也氏は写真を「自己認識に関わる豊饒な遊び」とされている。

自己表現とは書かれていない。
自己表現に関わる豊饒な遊びという視点での「木村伊兵衛か土門拳か」である。

「木村伊兵衛にとって、写真はもっと不如意なもの」とある。
音もそうである。
写真以上に音は不如意なもの(現象)であるから、
オーディオを使いこなすことは、
オーディオという機械のメカニズムを受け容れ、自らを合わせていくことが求められている。
私はそう考えている。

だからここで、使いこなしといっても、
オーディオを自己の支配下におき完全にコントロールしたい人は、
私とはまったく違うということになるわけだ。

音の良さということに関してもだ。

Date: 4月 5th, 2015
Cate: 音の良さ

音の良さとは(好みの音、嫌いな音・その4)

あばたもえくぼ、という。
惚れてしまうと、欠点まで好ましく見えてしまう、という意味である。
痘痕(あばた)が靨(えくぼ)に見えてしまうのだから、そうである。

だが時として、えくぼもあばたとなってしまうことだってあるだろう。
嫌いになってしまうことで、いままで好ましく思えていたことが欠点に思えてしまう。
同じようなことが音に対しての反応としてあるような気がする。

つまり好きな音に対して敏感であるのか、嫌いな音に対して敏感であるのか。
好きな音に対して敏感であれば、多少欠点があったとしても、さほど気にならなくなる。
けれど反対に嫌いな音に対して敏感でありすぎると、
その部分にのみ耳の意識が集中してしまい、良さもあったとしても、そこに意識がいかない、
その音全体も否定しまうことになるのではないか。

どちらがよくてどちらが悪いというわけではないが、
嫌いな音に対して過剰なくらい敏感であるために、
音のバランスを失ってしまった例を、よく知っている。

彼には嫌いな音がある。
それは嫌いな音ともいえるし、苦手な音でもある。
それがどんな音であるのかは書かないが、その種の音に対して彼の耳は過剰なまでに敏感だった。
その種の音が出ていると、音を聴くのも苦痛であったようだ。

彼が、嫌いな音・苦手な音を出さないために、
グラフィックイコライザーの力を借りて大胆に調整を行ってしまうのは、だから理解できないわけではない。

だが、それでも……、というおもいがある。

Date: 4月 3rd, 2015
Cate: 音の良さ

音の良さとは(好みの音、嫌いな音・その3)

音の好みがまったくない、という人はいるのだろうか。
好みとは、好きな音もあれば嫌いな音もある、ということで、
つまりは音の好みがまったくないということは、
嫌いな音・苦手な音もなければ、好きな音もないということになる。

音の好みが激しい・極端な人もいれば、さほどでもない人もいるけれど、
まったくないという人には、いまのところお目にかかったことがない。

すくなくともオーディオマニアを自認する人は、必ず好みの音というものがあるし、
音の好みをわかっているからこそオーディオマニアなのではないだろうか。

味覚も聴覚も、その領域を拡げていくことが大事である。
子供のころ苦手だった味も、大人になるにつれて苦手ではなくなり、おいしい、と感じるようになるように、
音に関しても、同じことはきっとある。
それがオーディオマニアとしての成長である、といえる。

私にしても、中学生のころからすれば、受け入れられる音の範囲は確実に拡がっている。
拡げてきたともいえる。

それであっても、どうしても受けつけられない音はある。
以前書いているように、ダメな音はやっぱりあって、これはもう死ぬまで受けつけないであろう。

ただ、この手の音は、音の輪郭線を強調しすぎるため、
エッジがたつ、とか、鮮明になった、とう表現する人がいるようだが、
冷静に聴けば、支配的な音色がかなり強く存在していて、
どう聴いても音の良さにつながるものではない、と思っている。

Date: 8月 10th, 2013
Cate: 音の良さ

音の良さとは(好みの音、嫌いな音・その2)

私の目の前で、かつては嫌いだったグリーンピースをおいしそうに頬張る元同僚を見ながら、
私が考えていたのは、やはりオーディオのこと、音のことだった。

人の感覚の中で、味覚がもっとも早い時期から好みが生まれてくるのではないだろうか。
私は、こういうことを専門的に勉強しているわけではないので、
あくまでも私時人の経験、それに周りの人たちを眺めて感じていることだけにすぎないのだが、
味覚と同時か、その次にくるのが嗅覚であり、
聴覚に関しては、つまり音の好みということに関して当人が目覚めるのは、最後になるのではないだろうか。
もしくは、食べ物の好き嫌いはあっても、音に関しては、意識していない、特にない、という人もいる気がする。

食事は基本的には一日三回、毎日摂る。
生れたばかりのころは母乳で育ち、離乳食を経て、
親と同じものを少しずつ食べるようになっていく。

どこまで真実なのかは私にはわからないけれど、
味覚で最初に目覚めるのは甘さを感じるところだと何かの本で読んだことがある。
だから小さいうちは、甘いものを欲するのだ、と。

子供の頃は好き嫌いがある。
好き嫌いが激しい子供もいる。
私も好き嫌いは激しい方だった。

だからといって、この時期に好きなものばかりを口にしていたら、
味覚の好き嫌いはひどく偏ってしまうのかもしれない。

親が適度に、うまく味の領域を広げるようにしてくれないと、いびつな味覚となってしまうのだろうか。

元同僚が頭を事故で打ち、それ以前は食べられなかったグリーンピースをおいしそうに食べ、
嫌いだったことすら忘れているのは、
味覚の記憶が、どの程度なのかはわからないけれどリセットされたと考えていいだろう。

Date: 8月 3rd, 2013
Cate: 音の良さ

音の良さとは(好みの音、嫌いな音・その1)

以前の仕事場の同僚が、バイクで交通事故を起した。
単独事故で、被害者はいなくて、彼だけを怪我を負った。
たいへんな怪我だったときいている。
家族が呼ばれたほどだ、と。

いま彼はぴんぴんしている。
元気である。
事故から二年後ぐらいにたまたま会う機会があった。
近くの中華店に入った。
どこにでもある町の中華屋さんといった感じであって、
彼はチャーハンを頼んでいた。

チャーハンにはグリンピースが入っていた。
事故以前の彼ならば、グリーンピースをレンゲでひとつひとつ取り除いていた。
とにかくグリーンピースが大嫌いだ、と彼はいっていたのに、
その日、彼はおいしそうにグリーンピースもご飯、ほかの具材とともに口に運んでいる。

グリーンピース、嫌いじゃなかったっけ? ときいた。
彼の返事は「そうだっけ?」だった。

私の記憶違いではなく、そのとき他の同僚も一緒で、
みんな「えっ?」という顔をしていた。
彼のグリーンピース嫌いは、そのくらい徹底したものだったから。

そのグリーンピースをおいしそうに食べている。
彼は事故の時、頭を強く打ち意識を失っていた。
本人も言っていたけれど、少し記憶がとんでいる、とのこと。

ということは事故後グリーンピースをおいしそうに食べているということは、
食べ物の好き嫌いは、記憶に強く影響されている、ともいえるわけだ。
記憶だけ、とはいえないのかもしれないが、それにしても彼のグリーンピースへの反応の違いは、
音の好みについても、考えさせられることであった。

Date: 7月 25th, 2013
Cate: 音の良さ

音の良さとは(その3)

私はオーディオを、完全なコントロール下におきたいわけではない、
支配したいわけではない。

それを心がけている。

ある人に、そのことについて話したことがある。
彼から返ってきたのは、「それじゃ、自分の音じゃないでしょ!」だった。
彼は、私とは違い、スピーカーから出てくる音、どんなにささいな音であっても、
すべての音をコントロールした音でなければならない、そうでなければ自分の音とはいえない、
そういうスタンスの人だということが、そのときわかった。

つづけて彼はいう。
「オーディオは自己表現だから」

自己表現だから、オーディオのシステムの自発性的な要素で鳴ってくる音は自分の音とはいえない。
そういうことだった。

その理屈がわからないわけではない。
彼の考え、つまり「オーディオは自己表現」に立てば、彼のいうことが正しい、といえなくもない。

だが私は「オーディオは自己表現」とは、彼ほど強くは思っていない。
自己表現であらねばならない(彼の口調だとそう感じられる)、そこからスタートした音と、
私の考えによってスタートした音とでは、
「音は人なり」の解釈に、大きな違いが生れてくる。

こんなことを含めての「音は人なり」ということにもなる。

Date: 7月 25th, 2013
Cate: 音の良さ

音の良さとは(その2)

少しでも良い音を求めて、時にはオーディオ機器を買い替えることもあるし、
細かな調整をやっていくこともある。

スピーカーの位置・向きをわずかに変えてみる、
スピーカーにレベルコントロールがあれば、ほんのわずか動かしてみる、
他にも細かなことはいくつもある。
ここに書き切れないほど、またうまく言葉でいいあらわせないような細かな多くの要素で音は変っていくのだから、
丹念に音を聴き、地道にやっていくことになる。

こんなことを年がら年中やっているわけではない。
やるときは、集中してやる。
いわば、それはオーケストラのリハーサルのような感じでやっている。

指揮者は楽器に直接ふれない演奏家である。
指揮者にとってのオーケストラが、オーディオマニアにとってのオーディオのシステムということになる。
オーディオのシステムの調整は、リハーサルそのものといっていいだろう。

徹底的にリハーサルを行う。
つまり、徹底してオーディオのシステムの調整を行う。
時には、ほかの人が気にしないようなところに執着しながらも、やっていくしかない。

そうやってオーケストラを鍛え上げるように、
オーディオのシステムを鍛え上げる。
そういう感覚が必要なのではなかろうか。

だからといって、本番で求めるのは、去勢された演奏(音)ではない。
高い演奏技術のうえに成り立つ自発性の高いものである。

Date: 7月 24th, 2013
Cate: 音の良さ

音の良さとは(その1)

音を聴く。
どこか誰かのリスニングルームで、その人の「音」を聴かせてもらう。

一枚目のディスクが鳴る。
一枚で終ることは、まずない。
二枚目、三枚目とディスクはつづいていく。

それまでまったく耳にしたことのないジャンルの音楽だとそうはいかないけれど、
よく聴くジャンルの音楽であれば、
それが初めて聴くディスクであったとしても、
三枚目あたりから、このディスクならこんなふうに鳴ってくるだろう、という予測ができるようになる。

三枚目あたりのディスクも初めてであったとしても、
途中まで聴いていれば、クラシックであれば曲そのものは知っているわけだから、
つづく箇所がどう鳴るのかは予測がつくものである。

予測のとおりの音が鳴ってきた。
そうかぁ……、とひとりおもっている。

予測した音が鳴ってくることは、悪いことではない。
ある程度、そのシステムが鳴っていることでもある。
どこかに大きな不備があれば、予測は外れることもあるからだ。

とはいえ予測のとおりの音が鳴ってきたら、それでいいのかといえば、そんなことはない。
むしろ、ここが「出発点」なのだから。

経験によって、予測は少しずつ精確になってくる。
だからといって、その予測が精確なことを自慢したいわけではない。
予測のとおりの音を求めているのでもない。
求めてきたわけでもない。

求めているのは、常に予測をこえる音である。