音の良さとは(好みの音、嫌いな音・その6)
帯域バランスを、誰が聴いてもはっきりとくずれているとわかるほどまでに、
グラフィックイコライザーをいじって、嫌いな音を無理にでも抑えていく。
そうやって、彼にとって、到底がまんできないたぐいの音を出さない(抑える)ことで、
その音は、彼にとっての良い音ということになるのか。
私が知っている知人の例では、そうなっていた。
あきらかにバランスが崩れてしまっていても、
彼の耳にはバランスよく聴こえているのかもしれない──。
仮にそうであったとしても、
そうやって得られた音は、音楽の表現力に大きな制約をつくりだしてしまっている。
そうなると、そんな音で聴きたくなる音楽は狭まっていく。
オーディオで音楽を聴く、ということは、
自分の音によって、聴く音楽が影響を受けることでもある。
だからこそ、システム(音)が変れば、聴く音楽も変ってくる、とは昔からいわれている。
けれど私が知っている音の場合は、違う。
システムが変っても、そうやって音を強引にいじってしまうために、
どんなスピーカーであっても、すぐさま彼の望む音になってしまう。
なにも、このことは私だけが感じていたわけでなく、
彼の音を何度も聴いている人も、まったく同じ印象をもっていた。
嫌いな音をできるかぎり排除していく方向での、いきつく音。
それを良い音と信じ込めれば、周りがとやかくいうことではない──、
そうわかっていても、それははっきりと間違った音でしかない。
間違った音が、良い音なわけはない。