Archive for 7月, 2013

Date: 7月 31st, 2013
Cate: Edward Benjamin Britten

BRITTEN THE PERFORMER(その1)

五味先生の「わがタンノイの歴史」にこうある。
     *
この応接間で聴いた Decola の、カーゾンの弾く『皇帝』のピアノの音の美しさを忘れないだろう。カーゾンごときはピアニストとしてしょせんは二流とわたくしは思っていたが、この音色できけるなら演奏なぞどうでもいいと思ったくらいである。
     *
この一節の影響が強くあって、カーゾンのピアノによるモーツァルトのピアノ協奏曲が、
名盤の誉れ高いことは知ってはいても、手を出すことはなかった。

このピア協奏曲でオーケストラを指揮しているのが、あのブリテンだということも知ってはいた。
作曲家であって、指揮者でもあるのか、その程度の認識だった。

CDが登場し、数年後、廉価盤も登場するようになった。
アナログ録音の名盤も、いきなり廉価盤として初CD化されていった。

オイゲン・ヨッフムのマタイ受難曲も廉価盤扱いだった。

ブリテン指揮によるモーツァルトの交響曲が、そうやって廉価盤でレコード店の棚に並んだ。
ブリテンのモーツァルトか、という軽い気持で、廉価盤ということもあいまって、手を伸ばした。
ジャケットのデザインも、いかにも廉価盤的だった。

期待もせずに聴こうとしていた。
こういうときに限って、素晴らしい音楽がスピーカーから鳴り響くことがある。
ブリテンのモーツァルトは素晴らしかった。

ブリテンという作曲家については、一通りの知識と、代表的な曲を少し聴いていただけで、
さほど高い関心を抱いていなかった。
けれど指揮者ブリテンに対しては、違った。

カーゾンとのピアノ協奏曲を聴いておけば良かった、
そうすれば、もっと早くブリテンの指揮者としての素晴らしさに気がついたのに……、とも思ったし、
でも、いまだからブリテンの良さに気づいたのかもしれない、とも思っていた。

Date: 7月 31st, 2013
Cate: ベートーヴェン

シフのベートーヴェン(その5)

アンドラーシュ・シフのCDをはじめて聴いた時のことが思い出されてきた。
その時受けた印象が、まるっきり同じである。

だからといってシフが変っていないわけではない。
約20年の歳月、私もそれだけ歳をとっているし、シフだって同じに歳をとっている。
20年前に鳴らしていたオーディオ機器は、なにひとついまはない。
まったく違うオーディオ機器で鳴らしての印象が同じだった。

たとえ同じオーディオ機器を持っていて、住んでいるところも同じだったとしても、
20年前の音と2004年の音がおなじなわけはない。

まわりの環境も、ほぼすべてが変っている。
変っていないものといえば、
デッカ時代のシフゴールドベルグ変奏曲のCDに刻まれているピット(データ)だけしかない。

そのデッカ時代のゴールドベルグ変奏曲のCDを、2004年に聴いたところで、
20年前と同じ印象を受けることは、まずない。
そういうもののはずだ。

にも関わらず、シフの20年ぶりのゴールドベルグ変奏曲の新録を聴いて、
20年前にはじめてシフの演奏を聴いた時と同じ印象を受けている──、
つまり変っていないものを聴いて変化に気付き、
変っているものをきいて、変っていない、と感じる。

このことが意味するところを考えると、
アンドラーシュ・シフの音楽家としての才能の豊かさとか素晴らしさ、といったことではなく、
シフというピアニストの特異性のようなものに気づく。

そして、それからシフのECMでの録音を集中的に聴くようになった。
20年前と同じことをくり返していた。

Date: 7月 30th, 2013
Cate: ベートーヴェン

シフのベートーヴェン(その4)

アンドラーシュ・シフのゴールドベルグ変奏曲のECM盤をもらったのは、
2004年の1月か、そのあたりだったと記憶している。

シフのゴールドベルグ変奏曲は20年ぶりの再録音である。
デッカでの旧録はスタジオ、ECMの新録はライヴである。

最初,そのことに気づかずにCDプレーヤーにディスクをセットした。
ピアノ・ソロだから、だいたい音量はこのくらいかな、という位置にレベルコントロールをセットした。
すぐに音が出てくるものとかまえていたら、肩透かしをくらった。
演奏が始まるまで(最初の一音が鳴り出すまで)に、すこしばかり時間がかかる。

どうしたのかな、と思っていると、音が鳴り出す。

ライヴ録音だということをジャケットを聴く前に読んでいたら、
どうしたのかな、と思うことはなかったわけだが、
身構えていたのに肩透かしをくらったことは、よかったのかもしれない。

とにかくシフの音は美しかった。
1980年代に、デッカの旧録を聴いた時のことが思い出されてきた。
あの時と、まったく同じだ、と思っていた。

もちろんまったく同じだ、といっても、完全に同じというわけではない。
でも、1980年代にまだ20代のときにシフの演奏を聴いて受けたものと同じものを、
2004年、40代になっていた私は、感じていた。

Date: 7月 30th, 2013
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(facebookにて・その12)

「オーディオ彷徨」は7月上旬に増刷されている。
5月30日に改訂版として出て、一ヵ月ほどでの増刷だから、売れていると見ていいだろう。

7月の増刷分では、問題の箇所は元通りになっている。
それがどの箇所なのかは、7月の増刷分とそれ以前の「オーディオ彷徨」とを読み比べてみればわかることだ。
だから、あえて、ここがこうなっているとは書かない。

不親切な、と思う人もいていい。
自分の目で確かめずに、私がここでその箇所を書いているのを読めば、それで充分という人がそうだろう。
そんな人にとっては、私が問題にしている箇所は、どうでもいいことなのかもしれない。
だから、あえて書かない。

どうしても、それがどこでどういうことなのかを知りたい人は、
すでに1977年に出た「オーディオ彷徨」を持っている人、
2013年5月30日に出た「オーディオ彷徨・改訂版」を持っている人も、
2013年7月に増刷された「オーディオ彷徨」を手にするはずだから。

一度でもいいから、「オーディオ彷徨」をしっかり読んでいる人であれば、
二冊を並べて比較しないでも、ここだ、とすぐにわかる。

そういう人は、私がなぜ、この書き換えをここで取り上げたのか、
その理由もわかっていただける、と思っている。

そして「オーディオ彷徨・改訂版」を担当者であるステレオサウンドのNさんも、
「どうでもいいこと」とは思われなかった人である。
Nさんが、1977年の「オーディオ彷徨」の書き換えをどうでもいいことと判断されたなら、
7月の増刷分は、そのままになっていたのだから。

Date: 7月 30th, 2013
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(facebookにて・その11)

6月5日の「岩崎千明と瀬川冬樹がいた時代」が終った翌日、
この書き換えに気がついたことをfacebookに書いた。

これについて、facebookグループのaudio sharingに参加されたばかりの、
ステレオサウンド関係者のNさんからのコメントがあった。

どの部分が書き換えられているのか、その子細については書かなかった。
だから岩崎先生の原稿、レアリテ、「オーディオ彷徨」と、
それぞれどういうふうに書かれているのか列記してほしい、とあった。

もっともなことだし、その三つを列記しなかったのは、
いずれ、このブログで書いていくつもりだったし、
このことにそれほど関心をもつ人もいないだろう、と勝手に思っていたからだった。

「オーディオ彷徨」の、その箇所、レアリテの、その箇所、
そして岩崎先生の原稿の、その箇所はスキャンして、Nさんへの返事とした。

そして、すぐにNさんからのコメントがあった。
そこには、増刷する訂正したいと思います、とあった。

これは二重に嬉しい驚きだった。
まずひとつは「オーディオ彷徨」の復刻版の売行きが好調だということ。
増刷する、と書かれるくらいだから、近々増刷の予定がある、ということである。

「オーディオ彷徨」が出た1977年と、2013年の現在とでは、
本の編集作業、印刷においても変化がある。
2013年の「オーディオ彷徨」はAdobeのInDesignによってなされている。
それにオンデマンド出版だと思う。少数発行に適しているから。

Date: 7月 30th, 2013
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(facebookにて・その10)

iPhoneの中にいれている「オーディオ彷徨」を開いて照らし合せる必要は、実はなかった。
それでも確認してみた。
この「一行」が書き換えられている。
それを確認した。

いくつものオーディオ雑誌に掲載された文章をあつめて一冊の本に仕上げる際には、
細部の手直しが加えられることはある。
だから書き換えられていること自体を頭から否定するわけではない。

たとえば五味先生の「オーディオ巡礼」。
森忠輝氏を訪問されたときの文章で、最後のところが削除があることに気がつく。
これなどは、オーディオ雑誌という性格、単行本という性格を考えれば、納得できなくはない。

でも、「オーディオ彷徨」の、その一行の書き換えは「なぜ?」という気持が強い。
意味は通じる。文章の流れがおかしくなっているわけでもない。
今回、片桐さんがレアリテを「岩崎千明と瀬川冬樹がいた時代」の会に持ってこられなければ、
おそらく誰も書き換えが行われていたとは気づかずに、そのままになっていたはず。

それにしても、なぜ、このような書き換えを、「オーディオ彷徨」の編集を担当した人は、
当時(1977年)行ったのだろうか。
「オーディオ彷徨」に載っている文章、レアリテに掲載された文章、岩崎先生の手書きの原稿、
なぜ「オーディオ彷徨」で、あのような書き換えがなされたのか、その真意が理解できなかった。

岩崎先生の書かれた(残された)文章を、ただ読み物として楽しむだけの人にとっては、
この店の書き換えは、私がこんなに問題にしていることが理解できない、となるだろう。
でも岩崎先生の文章を読み解こうとしている者にとっては、
そのオーディオ機器が岩崎先生にとってどういう意味をもつのか、どういう存在だったのか、
そのことを知りたいとおもう者にとっては、理解できない、よりも、許せない、という気持がわいてくる。

Date: 7月 30th, 2013
Cate: ベートーヴェン

シフのベートーヴェン(その3)

1980年代のある時期、アンドラーシュ・シフのCDを、
グレン・グールドよりも集中して聴いていた。

シフは1953年生れだから、グールドよりも21若い。
当然、その分だけ録音も新しい。
新しい録音による魅力も、シフのCDにはあったから、よけいに集中して聴いていたところもある。

グールドの演奏は、人によっては、受け入れらないという面があるようだ。
私にはそれはないのでなんともいえないけれど、
グールドについて否定的な人もいることは知っている。

シフの場合はどうだろう。
これも想像でしかないのだが、グールドを否定するような意味でシフで否定する人はいないような気もする。

だからシフの演奏はつまらない──、ということにはならない。
そんなレベルでの、シフの演奏ではない。
そうであったらシフの演奏に夢中になるわけがない。

素晴らしいピアニストだと思う。
なのに、ふと気がつくと、シフのCDをかけることがなくなっていた。
そうなるとシフの新譜にも関心が薄れていく。

実はシフがECMに移ったことも知らなかった。
「気に入ると思って」という言葉とともに、シフのゴールドベルグ変奏曲の新録のCDをもらったとき、
懐かしいな、というおもいだけだった。

Date: 7月 29th, 2013
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(facebookにて・その9)

6月5日の「岩崎千明と瀬川冬樹がいた時代」(四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記にて)に、
片桐さんが持ってこられたのは、岩崎先生の原稿と、それが掲載された雑誌、レアリテの1975年12月号だった。

こういう雑誌があったことも知らなかった。
正確に言えば思い出せなかったのだが。

この日「岩崎千明と瀬川冬樹がいた時代」に来てくださった方に、
レアリテと岩崎先生の原稿を見てもらうために順番にまわしていた。
なのでレアリテに載っている写真だけを見ていた。

いくつものオーディオ雑誌をこれまでみてきているけれど、
オーディオ雑誌では見ることできなかった表情の岩崎先生が写っていた。
この写真はスキャンして、facebookにて公開している。

この記事のタイトルは、いままで見たことのないものだった。
だからてっきり「オーディオ彷徨」に未収録の文章だと思い込んでしまった。

「岩崎千明と瀬川冬樹がいた時代」が終了して、電車での帰宅途中、
ひとりになってからレアリテをひっぱり出した。
「彼がその音楽に気づいた時」、
これがレアリテ12月号の岩崎先生の文章につけられていたタイトルだった。

読み始めた。
あれっ? と思った。最初の一行で気づく。
これは「オーディオ彷徨」で読んでいることに。

こういうとき「オーディオ彷徨」の電子書籍をつくって、iPhoneに入れていると便利である。
iPhoneをジーンズのポケットから取り出して、iBooksを起動して「オーディオ彷徨」を読む。
あの文章だと、記憶だけでわかっていたから、苦もなくそれが、
「仄かに輝く思い出の一瞬──我が内なるレディ・ディに捧ぐ」であるとわかった。

タイトルを変えていたんだ、
そのくらいの気持でレアリテに載っていた岩崎先生の文章を読み続けた。
最後のほうにきて、また、あれっ? と思った。

今度の「あれっ?」は最初の「あれっ?」とは違っていた。
そして、またiPhoneを取り出すことになった。

Date: 7月 29th, 2013
Cate: きく

舌読という言葉を知り、「きく」についておもう(その8)

そうやって書き写す行為は、転写である。
転写は、複写と似てはいてもまったく同じことをさしているわけではない。

複写はcopy、転写はtranscription。

この項を書いていて、転写(transcription)がキーワードとして浮んできた。

オーディオは、まさしくtranscriptionである。
そういえば1970年代に、Transcriptors(トランスクリプター)というアナログプレーヤーのメーカーが、
イギリスにあった。
Hydraulic Reference Turntable、Round Table、Saturn、Skeletonといったプレーヤー、
Vestigalといったトーンアームを開発していた。
どれも、かなり個性の強い製品だった。
使いこなしも難しい(癖のある)製品だった、ときいている。

一度使ってみたいプレーヤーではあるけれど、なかなかお目にかかる機会もない。

トランスクリプターの製品には興味を持っていたけれど、
これまでブランド名に、特別な関心をもったことはなかった。

けれど転写(transcription)という言葉がひっかかっているいま、
Transcriptors(トランスクリプター)という名前、なかなか面白いと思えてきた。

ここでは、これ以上トランスクリプターのプレーヤーについてはふれないが、
転写(transcription)と「きく」との関係について考えていくことになるはずだ。

Date: 7月 28th, 2013
Cate: きく

舌読という言葉を知り、「きく」についておもう(その7)

なぜ人はそうまでして本を「読む」のか。

私たちは印刷された本が書店に行けば買える時代に住んでいる。
絶版になった本でも図書館に行けば読むことができる。
図書館の規模によっては置いてない本でも、
より規模の大きな図書館、日本では最終的には国会図書館に行けば、たいていの本を読むことはできる。
それに一冊まるごとのコピーは無理でも、部分コピーは可能である。

さらには著作権の切れた作品に関しては、青空文庫に代表されるサイトで公開されているので、
作者の死後50年を経過した作品ならば、相当数読むことができる。

だが印刷技術が生れる前、
印刷が生れてからでもここまで普及するまでの時代に生きてきた人は、
本は貴重品であった、ときいている。

だからそういう本を借りてこれたら、書き写す。
一文字一文字を書き写す、という行為は、やってみるとわかる。
じつにしんどい。

私も一度、小林秀雄の「モオツァルト」を書き写したことがある。
原稿用紙を買ってきて、一文字一文字書き写していった。
これは、瀬川先生がそうされていたから、それを真似たわけだ。

自分で考えて文章を書くのとは違う。
書きあぐねることはないけれど、それだけにしんどい、と感じていた。

キーボードを使って文字を入力するよりも、ずっとしんどかった。
腕がだるくなってきて、途中でやめようかな、と思いもした。

「モオツァルト」は短い。
短い文章であっても、書き写すという作業をやってみると、
本を「読む」という行為が、ずっと以前はどういうもの・ことであったのか、
完全ではないものの想像がつく。

Date: 7月 28th, 2013
Cate: チューナー・デザイン

チューナー・デザイン考(パイオニア Exclusive F3・その7)

これまで自分でつかってきたアンプやスピーカーの数からしたら、
チューナーの数はほんのわずかでしかない。

高校生の時のトリオの普及型、それからマッキントッシュのMR71。
このあとはずっとチューナー不在の時期が続く。
もう30年近くになる。

Exclusive F3は私にとって三台目のチューナーである。

ステレオサウンドで働いていたとはいえチューナーと接する機会は、
他のオーディオ機器とくらべると圧倒的に少なかった。
これも数えるほどしかない。
友人、知人のリスニングルームでチューナーを見かけたのも、ほとんどない。

ここでチューナーについて書いているけれど、
これから先チューナーとのつきあいが急激に変化を迎えるとは思えない。

アキュフェーズのT104とExclusive F3を並べてみたい、とおもっていても、
なんとかして実現しよう、という情熱はあまりない、というのが正直なところ。

誰かがT104を持っているのであれば、
Exclusive F3を抱えてそこまで出向き、並べて置いてみたい、
そこまではする気はあってもだ。

おそらくT104の音を聴くことはないと思っている。
これまでも聴く機会はなかった。
だからT104の音については、ステレオサウンドに載った文章から判断・推測するしかない。

49号の新製品紹介で井上先生が、
59号のベストバイの中で瀬川先生が書かれているくらいである。

井上先生は「受信チェック時の音質も今回試聴したチューナーのなかでトップランクである。」と、
瀬川先生は「最近の同社の製品に共通の美しい滑らかな音質が魅力だ。」と書かれている。

おそらくT104の音は、Exclusive F3と同系統の音なのだと思えてくる。
43号に瀬川先生がExclusive F3について書かれていることが、そのままT104にもいえるのかもしれない。
「繊細で、ややウェットではあるが、汚れのない澄明な品位の高い音」、
だからこそ、よけいにT104が瀬川先生のチューナーのデザインに対する答でもあるし、
Exclusive F3のデザインへの要望でもあるとおもえてくるのである。

Date: 7月 27th, 2013
Cate: チューナー・デザイン

チューナー・デザイン考(パイオニア Exclusive F3・その6)

真空管ならばマランツのModel 10B、
ソリッドステートならはセクエラのModel 1がチューナーとしては別格だとは思っている。

使い切れないほどの資産がもしあったとしたら、どちらかは手もとに置いときたい、ぐらいには思うけれど、
現実にはそんな資産などないから、
それにそこまでチューナーに対する情熱もない私にとっては、
ヤマハのCT7000が、GKデザインによるヤマハの製品の傑作だと思うから、欲しい気持はある。

あと欲しいチューナーとして思いつくのは、ウーヘルのEG740という小型のモデルだ。
CR240というポータブルのカセットデッキがあった。
EG740はCR240と同寸法のラインナップとして、1980年代に発売になった。
いわゆる小型コンポーネントである。

電源部は外付けだから、実質的にはCR240よりも大きくはなるものの、
正面からみればフロントパネルはCR240とぴったりくる。

理想をいえばEG740の大きさで、セクエラに匹敵する音が出てくれればいいのだが、
技術の進歩がどれだけあっても、それは無理というものだろう。

そういえばと思い出すことがある。
黒田先生のリスニングルームである。

アポジーのDiva、チェロのEncoreにPerformanceの組合せ、
アナログプレーヤーはパイオニアのExclusive P3という、
小型のオーディオ機器とはいえないものの中に、
チューナーだけがテクニクスのコンサイスコンポのチューナー、ST-C01が置いてあった。

最初気がついたときは、あれっ? と思ったけれど、
EG740でいい、と思う私は、なんなとなく黒田先生の気持がわからないわけでもない。

そんな私だから、フルサイズのチューナーを二台、目の前に置きたいわけではない。
それでも、いまExclusive F3のとなりにアキュフェーズのT104を並べたいのは、
T104が瀬川先生のチューナーのデザインに対する答でもあるし、
Exclusive F3のデザインへの要望でもあるとおもえるからである。

Date: 7月 27th, 2013
Cate: チューナー・デザイン

チューナー・デザイン考(パイオニア Exclusive F3・その5)

瀬川先生が、パイオニアのExclusive F3の音が気に入られていることは、
ステレオサウンドを読んできた者としてわかっていた。

アキュフェーズのコントロールアンプ、C240が瀬川先生のデザインだときいたとき、
パワーアンプのP400もチューナーのT104も、そうなのだと思っていた。

でもこのふたつのことが私のなかで結びつくことはなかったまま、いままで来てしまった。

岩崎先生が使われていたExclusive F3が私のところに来て一週間。
こうやって毎日ブログを書いているとき、視線を少し上に向けると、
1mちょっと先に置いているExclusive F3が目に入る。

毎日しげしげと見ているわけではないが、
ふと次のフレーズを考えているとき、指が止ってしまったとき、
Macのディスプレイから目をそらしたときに見ているのは、この一週間は、Exclusive F3だった。

瀬川先生は、Exclusive F3のデザインのどこが不満だったのか、をおもっていた。

Exclusive F3だけ1975年の発売で、Exclusive C3、M4などは1974年である。
開発が始まったのは同時期なのかもしれない。
Exclusive F3だけが完成が遅れた、と考えることもできる。
とにかく発売時期の違いは、デザイナーの違いにもなったのかもしれない。

とはいえ同じExclusiveシリーズとして、
パイオニアとしてはデザインでの統一感を出そうとはしなかったのだろうか。
その結果がExclusive F3のデザインなのだろうか。

こんなことばかり思って、Exclusive F3を眺めていたわけではない。
ウッドケースの艶がなくなっているから、手入れをしなければ……。
どうやって手入れしよう……とか、まだパネルのあそこをクリーニングしなければ……、
そんなことも思っている。

そして、できればExclusive F3の横にアキュフェーズのT104を置いて、
しばらく眺めてみたいな、とも思っている。

Date: 7月 27th, 2013
Cate: きく

舌読という言葉を知り、「きく」についておもう(その6)

目は、見るための器官であるから、
本を目で読むことは、身体的に負担があることにはならない。
老眼になってくると本を離して読む必要があるとか、
加齢によって読みづらくなることはあるけれど、
目で本を読むことは、負担の少ない「読む」である。

点字を指先でなぞっていくことは、
指先への集中が要求されることだと思う。
最近ではエレベーターの階数表示、開く、閉じるのボタンなど、
点字にふれることが多い。日常風景になっている、ともいえる。

ときどき、そういう点字を指で判読しよう、と、
目をつむりゆっくり触ってみる。
エレベーターの中にある点字だから、数字である。
1とか2とか、一桁の数字であっても、いきなり点字を視覚情報なしに判読しようとすると、
こんなにも神経を集中させる必要があるのか、と思うし、
たったひとつの数字の判読だけでこれだけ大変だということは、
本を一冊、点字で読むことの大変さに、もしそうなったときに、果して読み通せるだろうか……、と。

馴れれば少しは違うのかもしれない。
でも点字を指先で読みとっていくことは、そうとうにしんどいことのはずだ。
長時間、いくつもの点字を指先でなぞっていく体験はまだない。
指先は、これだけの点字を一度になぞっていけるのだろうか。

指先で本を読むことは、目よりも負担の多い「読む」である。

舌読となると、その大変さは想像できない。
一冊の点字の本を読むのに、どれだけの時間がかかるのも私は知らない。
目で読むよりも時間がかかるだろうぐらいしか想像できない。

本を一冊読み終るまでの時間、指先以上に舌は耐えられるのだろうか。
舌読では舌から血が出ることもある、と知った。
それでも本を読み続ける、ということも。

どれだけ負担の多い「読む」なのだろうか。

Date: 7月 26th, 2013
Cate: ジャーナリズム,

賞からの離脱(その27)

頭をかすめることが多くなってきたことは、
オーディオについて、あれこれ思索することの楽しみを放棄している人が増えている気がする、ということだ。

これは世代には関係あるようで、実はないようにも思えてきた。
私と同じ時代、それよりも前の時代のステレオサウンドを読んできた人でも、
いつのまにか思索する楽しみから離れてきているのではないのか。

先日もそう感じたことがあった。
直接的なことではなかった。
あることについて訊ねられて、それについて答えた。
そして、なぜそうなのかについて説明しようとしたら、
それについてはまったく耳を貸そうとされない。

ただ答だけが、その人は欲しかったわけである。

なぜそうなるのかについては、多少とはいえ技術的なことを話さざるを得ない。
訊ねてきた人にとっては、そんな技術的な細かなことはどうでもよくて、
ただ答がわかれば、それで用事は済むわけだ。

それが効率的といえば効率的という考え方はできる。
とはいえ、答だけを知っていても……、と私は思う。

何がいいのか、何が正しいのか、
その答だけを知りたいから、お金を出して本を買う。
そういわれてしまうと、私が読みたいと思っているオーディオの本、
私がつくりたいと思っているオーディオの本は、面白くない、ということになっても不思議ではない。

答がすべて、答がすべてに優先する。
正しい、確実な答をはっきりと提示してほしい、という読者が多数になれば、
編集者はそういう本をつくっていくしかないのだろうか。

むしろ逆かもしれない。
そういう読者を増やしていく方が、本づくりは楽になる。